幕末剣豪強さ議論と雑談 (718レス)
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(1): 白馬青牛 ◆8mr41B7alChB 2012/11/09(金)02:10 AAS
>>333
 広島県備後三次系の長州移住子孫の三吉さんは、最強云々以前に、
槍じゃけぇ剣にゃ勝てるよ。強さは槍>薙刀>剣の順じゃけぇのう。
広島県も槍は、左分利流が流行ったんよ。
三原の倉橋誠太氏はネットでも出とったのう。
外部リンク:kotobank.jp
1845−1934 幕末-大正時代の槍術家。
弘化(こうか)2年生まれ。備後(びんご)(広島県)三原城主浅野氏の臣。
佐分利(さぶり)重武にまなび,佐分利流宗家をつぐ。明治10年西南戦争に
従軍し,功をたてた。昭和9年8月22日死去。90歳。名は重昭。
外部リンク[htm]:park1.aeonnet.ne.jp
倉橋誠太(佐分利流九代、信抜流十六代)
倉橋誠太は弘化二年三原に生まれた。三原藩には吾往館という道場が
あり、剣と槍の二棟から成っていた。倉橋はここで剣と槍を学び、
佐分利流槍術、信抜流居合、榊山流砲術をよくした。慶応四年正月十五日、
同志と共に脱藩し上京。勤皇志士として活動したが、後に三原へ帰る。
維新後、各流儀の指南役が三原の地を立ち去るにおよび、宗家を継承した。
その後、西南戦争に従軍したり陸軍戸山学校に入学したりするが、後には
三原の宮沖新開で樋門の番をしていたところ、吉永俊二に乞われ槍術、
居合の教授を行った。日清戦争の時、広島に大本営が置かれた際、
浅野候邸において旧臣による武技の天覧が行われ、槍術を以て出場
している。明治三十七年以降は京都の武徳会大会に毎年出場し
試合では無敗だった。常に甲冑着用して演武。大正十五年大日本武徳会
槍術範士となる。昭和九年八月二十二日没。九十歳。

吉永俊二(佐分利流十代、信抜流十七代)
吉永俊二は明治三十一年三原市の醤油醸造業の家に生まれた。家業の
かたわら、茶道、華道、書画、骨董などに没頭した。とりわけ武芸では
趣味を越え、倉橋誠太に師事し、宗家を継承した。昭和十三年武徳会
教士となる。昭和十四年本朝佐分利流槍術考を著す。道場を誠武無染舎と
名づけた。昭和三十五年没。六十三歳。
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