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【薔薇模様の壁紙】松田聖子 30【窓辺にカナリア】 (1001レス)
【薔薇模様の壁紙】松田聖子 30【窓辺にカナリア】 http://wc2014.5ch.net/test/read.cgi/natsumeloj/1384863525/
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1: 昔の名無しで出ています [] 2013/11/19(火) 21:18:45.28 ID:ouuEU/My ここは、主に80年代における松田聖子さんの活躍を語る懐古派用ファンスレです。 ↓最新の聖子さんの話題は本スレにてどうぞ♪ 【夢がさめて】松田聖子63【絶賛発売中!】 http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/musicjf/1383190133/ ■注意事項■ 聖子さんに関連しない話題の書き込みはご遠慮ください。 論理的で主観だけではない批判は構いませんが、 第三者を不快にするような暴言、 根拠無き誹謗中傷などの煽りレスに関しては、 スルー対応をお願い致します。 http://info.2ch.net/guide/adv.html 前スレ 【青い葡萄の実】松田聖子 29【唇を寄せる少女】 http://uni.2ch.net/test/read.cgi/natsumeloj/1380857013/ http://wc2014.5ch.net/test/read.cgi/natsumeloj/1384863525/1
2: 昔の名無しで出ています [sage] 2013/11/19(火) 21:27:29.67 ID:??? アサヒ芸能 2010年の連載「松田聖子を創った男たち」第一回より 新進の作曲家・小田裕一郎は、サーカスに提供した「アメリカン・フィーリング」で注目を浴びていた。 小田は、聖子のデビュー曲「裸足の季節」から「青い珊瑚礁」「風は秋色」のシングル3部作を手がけ、 アルバムも3作続けてプロデュースしている。 聖子が他のアイドルを一線を画す理由に「アルバムの完成度」が挙げられる。 ボツになった曲を集めたものがLPという慣例に逆らい、 組曲のように明確なテーマを持ったアルバム作りに終始した。 小田はボーカルレッスンをつけながら、聖子に合う曲を模索する。 「高音部が豊かな声量できちんと出るのはもちろん、低音部の発声も素晴らしかった。 低いパートって、ともすれば宝塚歌劇のような仰々しい歌い方になったりするけど、 彼女はハスキーで魅力的な声が出た」 そして「聖子節」の完成に取りかかる 「バイオリンにおける「スラー」という演奏スタイルがあって、 いくつかの音符をくくり、音と音を滑らかに繋げる、そんな歌い方をやらせてみた。 一つ一つの音に対し、両側から滑らせながら歌うという感覚」 桑田佳祐や矢沢永吉が「フェイク唱法」と呼ばれたが、 聖子の場合、歌詞がクリアに聞こえて、尚且つ洋学的になったのである。 小田は、2曲目の「青い珊瑚礁」で仕掛けを施す。 通常、Aメロ→Bメロ→サビと展開 する流れを無視し、冒頭にサビを置いたのだ。 あの「あ〜、私の恋は〜」の印象的なフレーズがそれだ。 ピンクレディーの「ペッパー警部」のようにデュエットでは存在しても、 ソロのアイドルで高音のサビ始まりは異例のことだった。 「さすがに彼女も最初は嫌がっていたね。 いきなり高音で始まるのは新人歌手としは不安もあっただろう。 でも、それができるのは松田聖子しかいないんだから」 冒険だった「青い珊瑚礁」は、デビュー曲の倍以上の60万枚を売り上げた。 http://wc2014.5ch.net/test/read.cgi/natsumeloj/1384863525/2
3: 昔の名無しで出ています [sage] 2013/11/19(火) 21:30:57.35 ID:??? アサヒ芸能 2010年の連載「松田聖子を創った男たち」第一回より 80年8月14日、TBSの人気番組「ザ・ベストテン」で、聖子の「青い珊瑚礁」が待望のランクインを果たす。 デビュー曲「裸足の季節」は注目曲を紹介する「スポットライト」には登場したが10位以内には届いていなかった。 実は聖子の登場まで、久米宏を筆頭とした「ザ・ベストテン」のクルーは、 山口百恵に認められたくて精力を傾けていたという。 「今夜の演出は素敵でしたわ」「来週はどうなるか楽しみです」 そんな”女神”の座も、百恵の引退に合わせて聖子に禅譲される。 放送が終わるとサブ(副調整室)を必ず訪れ、きちんとお礼を述べてから帰途につく。 1人、また1人と聖子の演出を希望するスタッフが増えていったという。 のちに「クリスマス・イヴ」や「ホームワーク」など、TBSの名作ドラマをいつくもプロデュースする遠藤環は、 当時、若手ディレクターとして「ザ・ベストテン」に関わっていた。 初登場から5週後、遠藤は「青い珊瑚礁」が初めて1位になった9月18日の担当ディレクターだった。 感動の場面を、最高に盛り上げるのは、どう演出すればいいか ・・・遠藤は、やはりデビューまでを支えた母親の存在だろうと思った。 「番組の女性デスクに福岡まで飛んでもらい、お母さんの手作りのお弁当を受け取り、そのまま東京に戻る。 中身よりも、聖子が小さい頃から親しんだお弁当箱こそ大事だった」 黒柳徹子から弁当箱を見せられた瞬間、聖子は瞳をうるませ、あまりにも有名な「お母さ〜ん!」の絶叫へとつながる。 作り手たちの意図に、これ以上ない反応を見せてくれた。 遠藤は中継後、聖子をタクシーで駅まで送っていったことがある。 真冬の寒さにも関わらず、聖子は運転手にこう告げた。 「喉に悪いので暖房を切ってください」 そんなプロ意識の高さは、聖子に次々と「伝説の扉」を開かせることになる http://wc2014.5ch.net/test/read.cgi/natsumeloj/1384863525/3
4: 昔の名無しで出ています [sage] 2013/11/19(火) 21:35:01.24 ID:??? アサヒ芸能 2010年の連載「松田聖子を創った男たち」第二回より 作曲家の平尾昌晃が初めて聖子と会ったのは79年のことだった。 聖子、いや本名の「蒲池法子」は久留米市から歌手になるため 平尾が主催する音楽学院の福岡校に通っていた。 平尾は当時、福岡にライブハウスを開いた関係で、月に一度はレッスンを見る機会があった。 そこに誰よりも早く来て、誰よりも遅くまでレッスンを受けていたのが聖子だったという 「僕の好きな西田佐知子やちあきなおみにも似た、ビロードがかかった声の艶があった。 当時の発声は荒っぽいけど、中高音の伸びは圧倒的だったね」 とにかく、人懐っこい性格と、歌手になる夢を父親に認めさせる固い意志が印象的だった。 そんな79年当時、街にはインベーダーゲームの嵐が吹き荒れていた。 夢中になっていた平尾は、レッスンが終わると聖子らを引き連れて近くのゲームセンターに駆け込む。 対戦する聖子は、やはりリズム感の賜物か、平尾が舌を巻くほどの上手だった。 そんなゲームの最中も、視線をそらさずに聖子は言う。 「先生、私は歌手になって必ず成功するから!」 歌手を「夢見る」子は多いが、自分が成功している姿を「イメージ」出てきている子は珍しい。 平尾は、間違いなくこの子はプロになれるだろうと思った。 そのため、時間の無駄遣いなど一切せず、目標へ一直線に向かう姿勢が好ましかった。 「レッスンではいろんなタイプの曲を歌わせてみた。 特に印象深いのは『ボーイハント』などのオールディーズね。 ものまねではなく、自分の曲として消化できている。 次々と課題曲を与えると、一度も拒否することなく、貪欲にこなしていましたね」 平尾がのちに1作だけ手がけた聖子ナンバーは、 3枚目のシングル「風は秋色」と両A面扱いだった「Eighteen」である。 それは、あの日の「ボーイハント」を彷彿とさせるオールドポップス調の逸品に仕上がっていた・・・ http://wc2014.5ch.net/test/read.cgi/natsumeloj/1384863525/4
5: 昔の名無しで出ています [sage] 2013/11/19(火) 21:37:19.55 ID:??? アサヒ芸能 2010年の連載「松田聖子を創った男たち」第二回より 「すごい声だね。これ、マイクいらんわ」 ソニーのスタジオにエンジニアの鈴木智雄の声が響く。 笑い話のようであるが、それほど聖子の声量には誰もがうなった。 同じ場に居合わせた作詞家の三浦徳子は、デビューから5曲続けて聖子のシングルを手がける。 初めて会った聖子は17歳で、例えるなら「14歳当時の浅田真央」のようだった。 清潔で天真爛漫、そして色白で頬だけ桜色をしていたのが印象的だった。 その姿に三浦は、作詞における聖子の基本カラーを「薄いピンク」にしようと決めた。 たとえば2曲目の「青い珊瑚礁」には「渚は恋のモスグリーン」という一節があるが、 これなどは聖子カラーのピンクを引き立たせる「補色」の効果を狙った。 また三浦は、聖子と同年6月にデビューした河合奈保子の「大きな森の小さいな家」も担当している。 ただし1曲のみに終わった。 「河合さんにはごめんなさいなんですけど、 実は2曲目の依頼を断ったんです。 私は作詞家になったばかりで、聖子さんの声にインスパイアされ、 この人おもしろいと思ったものですから」 河合奈保子も張りのある歌声に定評があるが、それでも聖子だけに専念したかった http://wc2014.5ch.net/test/read.cgi/natsumeloj/1384863525/5
6: 昔の名無しで出ています [sage] 2013/11/19(火) 21:42:18.99 ID:??? 何故「渚がモスグリーン」か分からんかったが、 補色だったんだね。 30年経ってやっと理解できた… (でも、何故補色???) http://wc2014.5ch.net/test/read.cgi/natsumeloj/1384863525/6
7: 昔の名無しで出ています [sage] 2013/11/19(火) 21:42:33.84 ID:??? アサヒ芸能 2010年の連載「松田聖子を創った男たち」第二回より それは作詞家だけでなく、作曲家の小田裕一郎も全精力を聖子に傾けた1人だ。 それが「裸足の季節」である。 単なる「アイドル歌謡」に終わらないよう、 サンバやサルサのリズムを取り入れ、珍しい打楽器もいくつか使った。 「あの曲は2番の終わりから再びサビが来るまでの間奏が24小節もある。 普通は8小節くらいだけど、それが新しさだとこだわった」 このデビュー曲だけでなく、聖子のレコーディングのほとんどが「一発録り」に近かった。 何ら手直しすることなく、また別々に録音したものをつなぎ合わせる必要も皆無だった。 聖子のデビュー曲は、CMでは歌声のみだったが、全国に「顔」を売る機会が訪れた。 それは平尾が司会を務めたNHKの「レッツゴーヤング」だった。 男女アイドルで構成する「サンデーズ」の一員に抜擢されたが、 歴代でも最大の人気を誇った年と平尾は言う。 「聖子ちゃん、そして田原俊彦がいてずば抜けていたよね。 番組では外国のポップスをサンデーズに歌わせることが多かったけど、 彼女が歌うとスタッフの誰もが『いいねぇ』って声をそろえた」 平尾はNHKホールの客席から、少しずつ女性ファンの声援が増えていったと感じた。 いわゆる「ブリっ子」の代表とされながら、 あの歌声の説得力には同性の支持も増えて当然なのだろうと思った。 作詞家の三浦は聖子の第一印象を浅田真央にたとえたが、 現在の姿はキム・ヨナに似てると言う・・・その共通項とは? 「物事の本質をどんどん解ってゆき、 核心部分を鷲づかみにしたあと、自由に自分を出せています」 これからの聖子にも「自由な線を描き続けてほしい」と願う。 http://wc2014.5ch.net/test/read.cgi/natsumeloj/1384863525/7
8: 昔の名無しで出ています [sage] 2013/11/19(火) 21:45:56.40 ID:??? アサヒ芸能 2010年の連載「松田聖子を創った男たち」第三回より 松田聖子がデビューした年、 空前のアイドルブームを築いたことから「黄金の80年組」と呼ばれた。 岩崎良美もその1人であり、堀越学園高校でも机を並べた友人である。 同じクラス、同期デビュー、同時期に「資生堂」のCMソング、 それから歌手の前にドラマでお披露目など2人には共通点が多い。 唯一、違うとしたら良美は「岩崎宏美の妹」であったことだが、 聖子はそれを口にすることなく良美と親しくなった。 「気さくで人懐っこくて、とにかく可愛くて楽しい子。 会った皆が好きになっちゃう感じでした」 平凡の撮影で食事の機会が与えられる。 いかにもアイドルらしく「いちごのショートケーキ」、 しかし聖子は半分も食べない。 「どうして残したの?」 「良美ね、私、これ全部食べたら後悔すると思うの」 すでに徹底したプロ意識だった。 http://wc2014.5ch.net/test/read.cgi/natsumeloj/1384863525/8
9: 昔の名無しで出ています [sage] 2013/11/19(火) 21:49:31.05 ID:??? アサヒ芸能 2010年の連載「松田聖子を創った男たち」第三回より 松村和子は80年4月「帰ってこいよ」でデビューする。 聖子とは生年月日で13日違いであり、「黄金の80年組」として新人賞を争う。 松村は、30年前の日々を思い返す 「同期の皆が良かったから相乗効果で頑張れたなって思いますね。 当時は親衛隊の声援の声援もすごくて『聖子〜!』『良美〜!てなるのに、 私のときは『・・・』だったからちょっと寂しい思いも味わいましたけど」 楽屋で見る聖子はイメージと違ってキャピキャピした部分がまったくなかった。 自分を客観視できる人だと思った。 そして大晦日の天王山、「日本レコード大賞」で雌雄を決する。 順に5人が持ち歌を披露するが、岩崎は聖子の受賞曲「青い珊瑚礁」を後ろで聞きながら、 この声の伸びは聖子にしか出せないと改めて思った。 「第22回日本レコード大賞、最優秀新人賞は『ハッとして!Good』を歌った田原俊彦!」 その瞬間、誰よりも喜んでいたのが聖子だったと岩崎の目には映った。 ただし、田原を残して4人が舞台袖に引っ込む間際、松村は「もうひとつの表情」を見た。 「今にも泣き出しそうなくらい、聖子ちゃんが悔しそうにしているのを見ましたね。 あの顔は今でも忘れられない」 そして松村も岩崎も今年、同時に30周年を迎える。 松村は聖子を「子供を産んでもアイドルを続けられる先駆者」と言い、 岩崎は「ずっと皆をドキドキさせる松田聖子というブランド」と評する 輪の中心には昔も今も、聖子がいた http://wc2014.5ch.net/test/read.cgi/natsumeloj/1384863525/9
10: 昔の名無しで出ています [sage] 2013/11/19(火) 21:51:48.77 ID:??? アサヒ芸能 2010年の連載「松田聖子を創った男たち」第5回より そんな聖子から依頼を受けた人物がもう一人いる。 77年に「てぃーんずぶるーす」でデビューした原田真二である。 「僕がNKHの番組に出たのを偶然見ていらして、 事務所から楽曲プロデュースとコンサート制作の依頼をされたんです。 失礼ながら歌謡曲の世界の方、って認識だったんですよ。 ところが、アメリカでのアルバム発売等を経て、 セルフプロデュースの実績に驚かされました」 以来、4年にわたって聖子と原田のコンビが実現することになる。 誰もが口にすることだが、やはり聖子の「天が授けた声の質」には原田も驚嘆する。 さらに「楽曲の良さ」と続き、役目を持って歌手になり、多くのファンを魅了する人だと認識を新たにした。 そして、2人を中心に、アルバムやツアーのディスカッションが始まる。 原田は、その場を「戦いだった」と回想る。 「僕はもちろん遠慮なく意見を言わせてもらったけど、 聖子さん自身も仕事に対してはすごく厳しい。 アルバム用の楽曲の方向性、ステージの作りや選曲など、とことん話し合いました」 http://wc2014.5ch.net/test/read.cgi/natsumeloj/1384863525/10
11: 昔の名無しで出ています [sage] 2013/11/19(火) 21:54:22.03 ID:??? アサヒ芸能 2010年の連載「松田聖子を創った男たち」第5回より ただし、2人のコンビネーションには別の関心も寄せられた。 女性誌を中心とした、2人の仲を取り沙汰する報道の量である。 たとえば、数人のスタッフを交えて海外のミーティングをする。 そこに居合わせた観光客が原田と聖子だけを狙って写真を撮り、 あたかも密会のように仕立て上げる。 聖子の仕事に対する姿勢を知る原田には、 歪んだ形で記事になることが許せなかった。 「かといって、噂が出たらプロデュースを降りるというのもおかしい。 契約の期間はきっちりと務めようと思いました」 自身もアーティストである原田は、 聖子のステージにもギターやコーラスで参加する。 また聖子の一連のヒット曲にもアレンジを施し、 トータルではロック志向を強めたステージに変えた。 原田は文字通り「ライブ感」を重視した。 ステージで不測の事態が起きても、 それを含めてライブだと楽しむようにする。 原田のギターに聖子のボーカルが檄しくからむ姿などは、 新しい扉を開かせた瞬間だろう。 そして、04年、原田は自身のアルバム制作に本腰を入れるため、 聖子との共同作業から退く。 徹底したプロ意識___最初から最後まで抱いた印象である。 http://wc2014.5ch.net/test/read.cgi/natsumeloj/1384863525/11
12: 昔の名無しで出ています [sage] 2013/11/19(火) 21:56:47.32 ID:??? アサヒ芸能 2010年の連載「松田聖子を創った男たち」第六回より 05年に「音楽・夢くらぶ」(NHK)で共演した渡辺真知子は、 真横で聖子の「大人かわいい」に触れている。 渡辺の代表曲「唇よ、熱く君を語れ」のデュエットで、 聖子は無邪気なままで楽しげだった。 「聖子さんとハモってると横から「ワァ〜イ!」って気配が伝わってくるの。 ああ、この歌を聴いていた頃の甘酸っぱさにタイムスリップしてるんだなって」 そして、渡辺も、聖子サイドに指名された一人だった 「ちょうど「ガラスの林檎」の前くらい。 路線を変えたい時期だったのか、ミディアムバラードでの注文でした。 残念ながら私の曲は採用されなかったけど、 そのあたりから彼女の歌唱は、前にも増して情感が伝わる素晴らしいものに変わっていきました」 「聖子の30年」は、渡辺にはこう映っている。 「女の子はずっと可愛くありたいを素直に出せた人。だから見ていて飽きない。 もちろん、物凄いパワーがないと、それを続けることはできませんよね」 願わくば、いつか聖子が歌う「迷い道」を聴いてみたいと、渡辺は微笑むのだ http://wc2014.5ch.net/test/read.cgi/natsumeloj/1384863525/12
13: 昔の名無しで出ています [sage] 2013/11/19(火) 22:02:27.41 ID:??? クネクネは歌わんでいいよ… http://wc2014.5ch.net/test/read.cgi/natsumeloj/1384863525/13
14: 昔の名無しで出ています [sage] 2013/11/19(火) 22:02:42.33 ID:??? アサヒ芸能 2010年の連載「松田聖子を創った男たち」第七回より 80年のデビュー曲「裸足の季節」や「風は秋色」、 またアルバムを含め13曲をアレンジしたのが編曲家・信田かずおである。 信田は聖子と初めて会った日のことを思い出す 「デビュー曲のオケを作っているスタジオに、学生カバンを下げてやって来たんですよ。 まだ歌入れでもないのに、スタジオに来る歌手って珍しいなと思った」 しかし、いざ歌わせてみるとそんな素朴さが一変する。 信田は車の排気量にたとえ「5000ccクラスの歌声」と評価した。 「無理したりガナったりせず、自然な歌い方で心地よい音色が出せる。 歌のキャパシティがとてつもなく広いんだと思った」 それならばーーーそれを生かすアレンジをと信田は思った。 信田は初アルバムの1曲目「〜南太平洋〜サンバの香り」を筆頭に、 アレンジには絶大な自信をうかがわせる。 「作曲の小田さんが従来の歌謡曲と違って欧米系の作りをしていた。 なので、僕のアレンジもTOTOとかボズ・スキャッグスなど、 当時の最先端の洋楽をイメージしています」 信田は「ヤマハ合歓音楽院研究室」でアレンジの勉強を重ねるが、 ここから船山基紀、萩田光雄、大村雅朗ら、当時のチャートを度巻する編曲家を輩出している。 「とにかくカッコいい音作りがやりたかった。 日本の歌に洋楽のテイストをガンガンと乗せていったし、 彼女のボーカリストとしての容量がさらに冒険させてくれた」 デビュー曲「裸足の季節」はCMに使われ、30万枚を売り上げる。 そして信田にも桜田淳子やサーカスなど、アレンジの仕事が激増したという。 やがて、あの日の「学生カバンの少女」は瞬時にアイドルを飛び越え、 アーティストの域になっていったと信田の目には映った。 http://wc2014.5ch.net/test/read.cgi/natsumeloj/1384863525/14
15: 昔の名無しで出ています [sage] 2013/11/19(火) 22:05:33.33 ID:??? アサヒ芸能 2010年の連載「松田聖子を創った男たち」第七回より 復帰作の作曲に指名されたのは、 当時驚異的なセールスを誇った「レベッカ」のリーダー土橋安騎夫である。 依頼を受けた土橋は、これまでのバンドの一員としてのみ作曲をしており、 自分がどこまでできるのかという思いがあった。 バンドのボーカルであるNOKKO以外に宛てて曲を作るのは未知のことだ。 「自分なりに彼女が歌った声の響きを想像し、綿密に作り上げました」 その意欲に反し、デモテープを聴いた担当ディレクターの返事は「NO!」であった。 「もっと土橋君らしいストレートな曲を!」 思いがけない返答に多少は悩みつつ、土橋は無心になり勢いで次の曲を作った。 完成作を聴いた土橋は思った。 「出来上がりは見事聖子さんの世界観に染まった素晴らしいロックンロールでした。 その後のレベッカの曲とともに自分の代表作ともなった『Straberry Time』は、 今でも自分にとって大事な一曲です」 今春、30周年を迎えた聖子に、土橋は尊敬の念を込めてエールを送る。 「常にアーティストとして、また女性として進むべき道をしっかり持った聖子さん。 これからの活動も大いに期待しています」 http://wc2014.5ch.net/test/read.cgi/natsumeloj/1384863525/15
16: 昔の名無しで出ています [sage] 2013/11/19(火) 22:08:08.35 ID:??? アサヒ芸能 2010年の連載「松田聖子を創った男たち」第八回より 丸山恵市は、聖子史に欠かすことのできない編曲家・大村雅朗と長く共同作業をこなしてきた。 当時の大村はアメリカンポップスに傾倒していた。 「2人で資料をたくさん集めて、どんなアレンジが聖子さんに合うのか研究した。 大村さんが重きを置いたのはアメリカ西海岸風サウンド。 さらに聖子さんには季節感を明確に表していくことが大事だろうということになりました」 奇しくも大村は聖子と同じ福岡の出身だ。福岡弁で交わされる2人だけの会話を幾度となく目撃している。 年齢は11歳違うが同郷のよしみからか「まあくん」「聖子ちゃん」と呼び合う仲だった。 大村は編曲・作曲合わせ、60曲以上を聖子に提供した。 大村自身、のちに小室哲哉や大江千里ら多くのアーティストに影響を与えた天才肌であるが、 そんな男にも聖子作品のハードルは高かったようだ。 「もう辞めたい・・・聖子ちゃんのアレンジ続けていくのは苦しい」 特に「夏の扉」のアレンジはアイディアに七転八倒した最たる例だった。 丸山は大村をこう励ました。 「冷静な目で見てやはり松田聖子には大村さんのアレンジだよ。 苦しいときもあるけど何とかしのいでやっていきましょうよ」 丸山の激励で、大村は再び聖子作品に前向きに取り組むようになったという。 丸山は、アメリカ進出をにらみコンサートをより本格化させたい聖子から指名を受けた。 88年から91年までツアーの音楽監督、91年に出した洋楽カバーアルバム「Eternal」では6曲のアレンジを手がける。 「あんなに小柄なのにステージに出た瞬間に大きく見える。 これが天性のオーラなんだと思いましたね」 http://wc2014.5ch.net/test/read.cgi/natsumeloj/1384863525/16
17: 昔の名無しで出ています [sage] 2013/11/19(火) 22:12:19.06 ID:??? 聖子は大村さんと結婚しても良かった。 http://wc2014.5ch.net/test/read.cgi/natsumeloj/1384863525/17
18: 昔の名無しで出ています [sage] 2013/11/19(火) 22:12:23.21 ID:??? アサヒ芸能 2010年の連載「松田聖子を創った男たち」第八回より 「マイケル・ジャクソンにクインシー・ジョーンズがいたようにー」 作詞家の三浦徳子は言う、 松田聖子に対して大村雅朗という優秀な編曲家の功績は大きかった、と。 三浦は今でも大好きな曲(SWEET MEMORIES)だと話す。 「あの曲は名作だし、今でも何かの曲を聴くと 大村君のアレンジならどうなるかな?と思うことがある」 映画「失楽園」や大河ドラマ「天地人」の音楽で知られる大島ミチルも 九州の先輩である大村に魅せられた1人だ。 「大村さんの音楽性はいつも暖かく優しさにあふれ、何よりもさりげないセンスがあり、 私は大村さんのような音楽家になりたいと高校生の頃、ずっと思っていました。 あの包み込むような音楽性が、聖子さんの可愛らしさにピタリとはまったのだと思います」 大村が病床に伏したのは96年のこと。 それから約1年の闘病生活を送り、 97年6月29日に肺不全で46歳の生涯を終える。 大村は死の直前、松本隆に遺作となる曲を託している。 大村の死から2年後に発表された「櫻の園」である。 当時、聖子は作詞・作曲からプロデュースまで手がけるようになっていたが、 この時ばかりは大村の遺志に応えるべく、1人のシンガーに戻った。 プロ意識の極めて高い聖子には珍しいことだが、 同曲のレコーディングでは号泣する姿を見せている。 大村の遺作を中心としたアルバム「永遠の少女」は、 作詞家もミキサーもディレクターも かつての聖子ソングのスタッフが参集した。 http://wc2014.5ch.net/test/read.cgi/natsumeloj/1384863525/18
19: 昔の名無しで出ています [sage] 2013/11/19(火) 22:14:52.01 ID:??? アサヒ芸能 2010年の連載「松田聖子を創った男たち」第九回より 聖子デビューの2年後、 ライバルと目されることになる中森明菜がデビューする。 明菜にも聖子同様、多くのアーティストが楽曲を提供している。 「少女A」「1/2の神話」「禁区」「十戒」で、初期のイメージを作ったのが作詞家・売野雅勇である。 売野にとって明菜はもっとも描きやすい歌手だった。 「それは松田聖子という圧倒的な存在がいたから。 彼女に対立概念として明菜ちゃんに詞を書けば良かった」 売野によれば、当時のアイドル歌手はほとんど聖子ファンばかりだったという。 小泉今日子、石川秀美、早見優、松本伊代らはそろって聖子ちゃんカットでデビューしている。 仮に彼女たちが本当にファンでなかったとしても、聖子の存在自体は少なからず意識していたはずだ。 聖子の中にある「少女性」を松本は見事に引き出して詞に描いた。 ならば明菜には逆に「不良性」を見出せないかと売野は考えた。 そして生まれたのが大ヒットとなった2枚目のシングル「少女A」だ。 ただ、明菜自身はツッパリ路線を決して消化できたわけではなく、 のちに暗に同曲を否定した。 明菜が「瑠璃色の地球」をカバーしたのは、 聖子の歌世界への素直な憧れだろう。 http://wc2014.5ch.net/test/read.cgi/natsumeloj/1384863525/19
20: 昔の名無しで出ています [sage] 2013/11/19(火) 22:19:29.24 ID:??? アサヒ芸能 2010年の連載「松田聖子を創った男たち」最終回より 松本が聖子に提供したのは、およそ音楽史に例を見ない138曲である。 一人の作詞家が一人の歌手に向けて書いた記録として、 この数字を越えるものは今後も現れないだろう。 いかに松本が聖子の歌声を愛し、 また聖子も松本の描く詩の世界観を受け入れていたか。 ある時期からアルバムのプロデューサーも兼ねるようになった松本は、 レコーディングスタジオにも顔を出すようになる。 デビュー当時から聖子は、どんな曲でも瞬時に吸収する抜群の聴力を持っていた。 自分の中で歌を完全に理解することが出来たため、 レコーディングに手間取らないことでも有名だった。 たとえば細野晴臣による「天国のキッス」は複雑な転調を重ねる難曲だが、 聖子はたやすく歌いこなした。 「レコーディングの時、スピーカーからあの声が流れ出すのが好きでね。 あの声で自分の詞を歌ってもらえるのは作り手冥利につきる」 松本はこう回想する。 松本は自分の中にある”理想の女性像”を詞に描いた。 詞の中の女性を少しずつ成長させながら聖子に歌わせてきた。 「SWEET MEMORIES」のヒロインは、 青春ドラマの主題歌になった「蒼いフォトグラフ」の主人公の後の姿であるというように。 その結実となったのが、88年5月に発表したアルバム「Citron」だった。 ここで「続・赤いスイートピー」を書いたことと、 新しい命が芽生える「抱いて・・・」を書いたことで 「聖子の成長をすべて描き切った」と松本は思った。 その後、道は分かれてしまうが、 松本にとっての聖子に対する「天才」という評価が揺らぐことない http://wc2014.5ch.net/test/read.cgi/natsumeloj/1384863525/20
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