【九州の星】メディアカフェ フリースペース (411レス)
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411: [sage] 2024/11/21(木) 19:12:49.65 ID:cF40nuJl0 磐井を反逆者ではなく、地域首長連合の盟主として捉える研究も進んでいる。 成城大の篠川賢名誉教授(日本古代史)は「王権に従属しながらも支配地域を持った独立性の高い存在だった」と強調する。 乱が起きた要因として、ヤマト王権側が各地の首長を「国造」に任命し、兵士の提供などを義務づける中央集権的な支配制度を導入しようとしたことを挙げる。 書紀によると、王権側は反乱の鎮圧後、境界を定めた。 これは、王権側が乱の前から、磐井の勢力範囲を限定しようとしていたことをうかがわせる記述だと篠川名誉教授はみている。 特別展は、歴史から消えた後の筑紫君一族の「その後」の動向についても焦点を当てている。 書紀は磐井の敗死後、子の葛子が博多湾沿岸にあった支配地「糟屋屯倉」を献上し、死罪を免れたことを伝える。 篠川名誉教授は「筑紫君は外交権を失ったものの、一族は滅亡しなかったことを示している。 葛子は筑紫国造に任じられ、一定の勢力を保ったまま、ヤマト王権の一端を担ったのではないか」と分析する。 実際に岩戸山古墳では6世紀前半〜7世紀前半頃の土器が出土しており、会場でも確認できる。 八女地域で作られ、筑後平野を流れる筑後川や熊本県北部の菊池川の流域に流通したもので、磐井の死後も地域独自の文化が維持されたことがうかがえる。 岩戸山古墳は一族の墓として約100年間使われ続けた。 同古墳を含む八女古墳群や、菊池川流域の古墳では、6世紀後半以降の石製表飾も確認されている。 歴史書から名が消えても、地域独自の文化や風習は根付き、受け継がれたようだ。 そのことを考古遺物から解き明かした意欲的な特別展と言えるだろう。12月8日まで。 http://mao.5ch.net/test/read.cgi/netspot/1130990765/411
磐井を反逆者ではなく地域首長連合の盟主として捉える研究も進んでいる 成城大の篠川賢名誉教授日本古代史は王権に従属しながらも支配地域を持った独立性の高い存在だったと強調する 乱が起きた要因としてヤマト王権側が各地の首長を国造に任命し兵士の提供などを義務づける中央集権的な支配制度を導入しようとしたことを挙げる 書紀によると王権側は反乱の鎮圧後境界を定めた これは王権側が乱の前から磐井の勢力範囲を限定しようとしていたことをうかがわせる記述だと篠川名誉教授はみている 特別展は歴史から消えた後の筑紫君一族のその後の動向についても焦点を当てている 書紀は磐井の敗死後子の葛子が博多湾沿岸にあった支配地糟屋屯倉を献上し死罪を免れたことを伝える 篠川名誉教授は筑紫君は外交権を失ったものの一族は滅亡しなかったことを示している 葛子は筑紫国造に任じられ一定の勢力を保ったままヤマト王権の一端を担ったのではないかと分析する 実際に岩戸山古墳では世紀前半世紀前半頃の土器が出土しており会場でも確認できる 八女地域で作られ筑後平野を流れる筑後川や熊本県北部の菊池川の流域に流通したもので磐井の死後も地域独自の文化が維持されたことがうかがえる 岩戸山古墳は一族の墓として約年間使われ続けた 同古墳を含む八女古墳群や菊池川流域の古墳では世紀後半以降の石製表飾も確認されている 歴史書から名が消えても地域独自の文化や風習は根付き受け継がれたようだ そのことを考古遺物から解き明かした意欲的な特別展と言えるだろう月日まで
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