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(ワッチョイ b2c1-1hA/)
2017/12/15(金)13:06
ID:LCBSyMh50(12/27)
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723: (ワッチョイ b2c1-1hA/) [] 2017/12/15(金) 13:06:31.57 ID:LCBSyMh50 地震と噴火で死者15,000人の「島原大変肥後迷惑」 藩主・深溝松平家の苦悩がツラい https://bushoojapan.com/tomorrow/2016/04/01/73083 ちなみに、このとき島原藩主だったのは松平忠恕(ただひろ)という人でした。 名字でわかる通り徳川家の縁戚なのですが、 雲仙岳の噴火以外でも行く先々で災害に遭い、 その度に幕府に借金をして立て直そうとした、ものすごくいい人です。 が、とどめにこんなデカい噴火に見舞われてしまったために、 心労で亡くなったといわれています。 大津波に城を捨てて逃げた藩主の末路 島原城編 http://best-times.jp/articles/-/4622 大津波発生の翌日、島原城主の松平忠恕(ただひろ)は、 領内の庄屋宅へと避難してしまう。 城を捨てることは武門の名折れであるとともに、 幕府から厳しい処分を下される危険も高かった。 そのため、藩内には城を放棄することへの反対論も根強く、 8日には川井次太夫という馬回役(藩内中級クラス)の武士が 島原城の門内で抗議の意志を表すために切腹… 19日、忠恕は、領内を視察したところ、惨状を目撃したことによって体調に異常をきたしてしまう。 翌日から病床につき、27日に没した。 享年51。 あまりの急死だったことから、 城を放棄したことへの責任を取って自害したとも噂されている… 忠恕が家督を継承後、 深溝松平家は島原藩から宇都宮藩への引越しで 約6万8500両の費用がかかって財政が困窮… 明和元年(1764年)に忠恕は百姓に増税を申し付けたため、 9月12日に籾摺騒動と称される農民一揆が起こった。 だが籾摺騒動と同年に大洪水が宇都宮を襲い、240戸が流出して約300人が死亡。 明和3年(1766年)6月18日にも大洪水のため230戸が流出、118人が死亡し田畑は著しく荒廃 安永2年(1773年)3月に城下の西にあった鍛冶屋から出火して41町が被害を受けて1295戸が焼失、 他にも寺院などが被害を受けて合計1813戸が焼失して45人の死者を出すなど天災続き 安永3年(1774年)、再び同じように入れ替わる形で島原藩に移封されるが 寛政4年(1792年)4月1日、普賢岳眉山が激震と共に大崩落を起こし、 島原城下の大半が埋没し、死者1万5千人とも言われる島原大変が発生…「悲運の藩主」と呼ばれている。 http://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/news4viptasu/1508694994/723
地震と噴火で死者人の島原大変肥後迷惑 藩主深溝松平家の苦悩がツラい ちなみにこのとき島原藩主だったのは松平忠恕ただひろという人でした 名字でわかる通り徳川家の縁戚なのですが 雲仙岳の噴火以外でも行く先で災害に遭い その度に幕府に借金をして立て直そうとしたものすごくいい人です がとどめにこんなデカい噴火に見舞われてしまったために 心労で亡くなったといわれています 大津波に城を捨てて逃げた藩主の末路 島原城編 大津波発生の翌日島原城主の松平忠恕ただひろは 領内の庄屋宅へと避難してしまう 城を捨てることは武門の名折れであるとともに 幕府から厳しい処分を下される危険も高かった そのため藩内には城を放棄することへの反対論も根強く 日には川井次太夫という馬回役藩内中級クラスの武士が 島原城の門内で抗議の意志を表すために切腹 日忠恕は領内を視察したところ惨状を目撃したことによって体調に異常をきたしてしまう 翌日から病床につき日に没した 享年 あまりの急死だったことから 城を放棄したことへの責任を取って自害したとも噂されている 忠恕が家督を継承後 深溝松平家は島原藩から宇都宮藩への引越しで 約万両の費用がかかって財政が困窮 明和元年年に忠恕は百姓に増税を申し付けたため 月日に籾摺騒動と称される農民一が起こった だが籾摺騒動と同年に大洪水が宇都宮を襲い戸が流出して約人が死亡 明和年年月日にも大洪水のため戸が流出人が死亡し田畑は著しく荒廃 安永年年月に城下の西にあった鍛冶屋から出火して町が被害を受けて戸が焼失 他にも寺院などが被害を受けて合計戸が焼失して人の死者を出すなど天災続き 安永年年再び同じように入れ替わる形で島原藩に移封されるが 寛政年年月日普賢岳眉山が激震と共に大崩落を起こし 島原城下の大半が埋没し死者万千人とも言われる島原大変が発生悲運の藩主と呼ばれている
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