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【新潟】部落解放同盟 傍観は差別 積極的に人権教育を (1001レス)
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名無しさん@0新周年
2014/06/11(水)23:21
ID:rmGKaQbv0(4/7)
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996: 名無しさん@0新周年 [sage] 2014/06/11(水) 23:21:12.67 ID:rmGKaQbv0 道場持ちの穢多(木下浩 新潟県部落史研究会) 越後高田藩高田城下 高田穢多町 二百軒中十軒の役人あり 役人のなかの二軒が道場持ち 高田藩家中でも指南をうけた 越後高田藩 正保2年(1645)、穢多身分の者に、直江津今町から塩荷を運ぶ信州人を取り締まらせる 越後高田藩 享保18年(1733)、穢多の職務を明確化した「覚」を発す 越後高田藩 寛保2年(1742)、穢多は腰に「西村町」と書いた札を下げて徘徊するよう命令 西村(現上越市)の歴史は、信越75万石を領した松平忠輝の入封とその町割に起源を見いだす。 忠輝は元和5年(1619)の高田築城に際し、その外郭に春日山時代以来の御城庭払を旧福島城より加賀街道の城下入口に移した(『穢多町由緒書』)。 西村の初見は17世紀半ばの塩の抜け荷の監視役である。地名西村は身分を含意したものか。 西村肩書は同時期領内三郡の検地帳類にも登場し、民籍と別扱いを見る。越後の大藩支配は越後騒動をもって終わる。 幕府は旧高田領に天和3年(1683)検地を実施。*穢多肩書が登場するのはこの際である。 旧高田領の西村はいずれも穢多身分の中核に据えられたと考えられる。 村上藩では寛永19年(1642)の年貢諸役割付帳に穢多屋敷が確認され、万治検地で*渡守、明暦の村鑑で非人の存在が確認できる。 佐渡は穢多身分がなく、賤民は非人のみ。ただし長吏役も担う。 18世紀に入ると越後は差別強化期となる。その端緒が享保7年(1722)の頚城質地騒動である。 首謀者処刑に動員された穢多に百姓の憎悪が募る。 http://peace.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1402415051/996
道場持ちの多木下浩 新潟県部落史研究会 越後高田藩高田城下 高田多町 二百軒中十軒の役人あり 役人のなかの二軒が道場持ち 高田藩家中でも指南をうけた 越後高田藩 正保年多身分の者に直江津今町から塩荷を運ぶ信州人を取り締まらせる 越後高田藩 享保年多の職務を明確化した覚を発す 越後高田藩 寛保年多は腰に西村町と書いた札を下げてするよう命令 西村現上越市の歴史は信越万石を領した松平忠輝の入封とその町割に起源を見いだす 忠輝は元和年の高田築城に際しその外郭に春日山時代以来の御城庭払を旧福島城より加賀街道の城下入口に移した多町由緒書 西村の初見は世紀半ばの塩の抜け荷の監視役である地名西村は身分を含意したものか 西村肩書は同時期領内三郡の検地帳類にも登場し民籍と別扱いを見る越後の大藩支配は越後騒動をもって終わる 幕府は旧高田領に天和年検地を実施多肩書が登場するのはこの際である 旧高田領の西村はいずれも多身分の中核に据えられたと考えられる 村上藩では寛永年の年貢諸役割付帳に多屋敷が確認され万治検地で渡守明暦の村鑑で非人の存在が確認できる 佐渡は多身分がなく民は非人のみただし長吏役も担う 世紀に入ると越後は差別強化期となるその端緒が享保年の頚城質地騒動である 首謀者処刑に動員された多に百姓の憎悪が募る
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