[過去ログ] 【厚労省】「小児用ファイザー製ワクチン」接種後に11歳女児死亡 死亡報告は初 ★3 [孤高の旅人★] (1002レス)
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426(3): 2022/05/13(金)23:00 ID:khTWlf2Z0(1) AAS
>>1
メロリンQの思想
れいわ新選組山本太郎代表、オウム真理教を正しいと言う陰謀論者兼レイシストの発言を紹介してしまい、そいつの本に帯文まで書いてしまう
note
山本太郎と『神との対話』|よしみん@ホームレスお父さん|note
「だけど何か違う」、そう感じたのが二十一歳。
ちょうどその頃、姉がヨーガを習い始めた。僕と同様、悩みが多くやんちゃだった姉なのに、ヨーガを深め、精神世界に興味を持つにつれ、驚いたことに、会うたびにまるで薄紙が剥がれていくように内面の輝きが増していくのが見てとれた。
姉とは気が合わず、よく衝突していた母が、そんな姉の変容を見て、「私もそうなりたい」とヨーガを習い始めた。母には膠原病という持病があったのだが、ヨーガを始めてからは徐々にその症状も安定し、どちらかというと、物質至上主義だった母が、姉の影響でいつしか精神世界へと⋯⋯。そして、母の内面もそれまで以上に輝きを増し、大家族の愛と絆が深まった。そして、これは効果がある、と僕もヨーガを習いに芝の増上寺に通うようになった。
生活・山本太郎代表が棄権 北朝鮮核実験抗議決議の参院採決 与野党30人が欠席 大半は改選組 産経
2016/1/8
省4
430: 2022/05/13(金)23:01 ID:8Tz3AOt10(1) AAS
>>426
れいわ新選組山本代表が紹介した「英紙デイリー・テレグラフ」の記事はスプートニクによるものだった
ocep5v
問題点
山本代表が紹介した記事は、山本代表が行った説明とは致命的に異なる点が2つある。
山本代表がスライドで表示したサイトは英テレグラフ紙とは全く関係のないニュースサイトである
山本代表が紹介した記事は、英テレグラフ紙ではなくロシアのスプートニク通信社によるものである
434(1): 2022/05/13(金)23:02 ID:lXHUFWv+0(1) AAS
>>426
オウムは反医療、怪しい治療↓
オウム真理教附属医院(オウムしんりきょうふぞくいいん、英語名Astral Hospital Institute<アストラル・ホスピタル・インスティテュート> 、通称AHI[1])は、東京都中野区[1]にあったオウム真理教の医療機関(診療所)である。
1990年にオウム真理教によって設立された医院。温熱療法やヨーガなど教団独自の治療法が行われていた。オウムの宣伝用新聞『契約の書』によれば、信者が「クモ膜下出血の後遺症から奇跡的に回復」「末期癌が完治」「肝炎・肝硬変が改善」したという宣伝が載っていた[2]。
48時間以上の収容を原則禁止する医療法第13条を無視し、頻繁に入院という名目で信者等を何ヶ月も監禁するなど非合法活動の場としても使われた[1]。薬剤師リンチ殺害事件では当医院所属の薬剤師が殺害された。1994年4月5日には宮崎県資産家拉致事件の被害者がここで監禁され、治療としてオウムの修行をやらされていた[3]。薬品(特に麻薬等)を合法的に購入するためには、医療法に基づく医療機関を開設する必要があり、そのために当該診療所を開設したともいわれている[4]。医院では5年間に21人が死亡したともいう[5][6]。
麻原彰晃逮捕の影響により、1995年10月31日に廃止された。
以下のような治療が行われていた[9]。
温熱療法
熱湯に浸る療法。教団の修行にも導入され多くの死者を出した。詳細は温熱療法 (オウム真理教)を参照。
ガージャ・カラニー
省6
444(4): 2022/05/13(金)23:05 ID:lDgJOtuq0(1) AAS
>>426
オウムは反米親露
上祐 Wikipedia
BC兵器開発
オウム真理教の兵器開発にも携わっており、生物兵器風船爆弾開発、ホスゲン爆弾計画、第7サティアンサリンプラント計画、亀戸異臭事件に関わっていた。
特に1993年6月〜7月の亀戸異臭事件では炭疽菌培養のまとめ役を担当した。1993年1月(亀戸異臭事件の前)に行われた以後のテロ活動に関する謀議では、参加はしていたものの肯定的でなかったことから麻原に叱責を受けたと語るが[4]、野田成人によると、どうせ失敗するのではと考える他の信者をよそに「絶対にこのプロジェクトは成功させるからな!」と張り切っていたという[18]。
ロシア支部へ
1992年よりロシア支部に派遣されている[19]。早川紀代秀曰くロシアでの上祐は「グルのようで、小麻原みたいになっていた」[20]。1994年以降は麻原に「日本にいると身に災いが及ぶ」と言われほとんどをロシア連邦で過ごしていたが、一時的に日本に戻った際に教団による薬物を使ったイニシエーションを受け、麻原への帰依を深めることとなった[4]。
地下鉄サリン事件後
1995年、地下鉄サリン事件が発生して間もなく、麻原から「広報活動をしてほしい」との電話が届き、日本へ帰国する。
省1
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