[過去ログ] 炎立つ 第三部 (987レス)
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946: 2015/02/16(月)01:01 ID:Jm1zkQ3L(1/2) AAS
八幡太郎の嫡流だよ。分家は除外
947: 2015/02/16(月)02:56 ID:tYxFTBw7(1) AAS
源義家の嫡流は途絶えた
鎌倉二代将軍頼家は暗殺、その男子3人も暗殺
頼家の弟で三代将軍実朝は子無しのまま暗殺
ここが途絶えて足利が一番嫡流に近いという扱いなんだろ?
頼朝の曽祖父の弟の子孫ということで
随分遠縁だがそこまで遡らないと人がいないくらい疑心暗鬼の身内潰しで消えていった
948: 2015/02/16(月)06:29 ID:Fpt4Kbco(1/3) AAS
吉見氏とかがいることはいるんだけどね。
949(1): 2015/02/16(月)07:17 ID:lQsDYZnG(2/2) AAS
河内源氏は義家の祖父頼信の裔。義家の活躍で
最も発展し武士の代表格となり子孫に頼朝や足利
尊氏が出て、征夷大将軍を出す家になった
ただもともとの家柄は満仲の三男である頼信より
長男の頼光(大江山の酒呑童子退治で有名)の系統
である摂津源氏の方が上。だからその孫である頼政
(源三位)は源氏の代表を自認しでかい顔をしていた
950(2): 2015/02/16(月)12:13 ID:0br0vSIG(1) AAS
結果的に頼朝が勝者になったから嫡流ってことになっただけだろ
もし石橋山で討ち取られていたら、今は木曽義仲みたいに伊豆頼朝とか呼ばれていたんじゃないの?
951(1): 2015/02/16(月)13:34 ID:LKVGOWvq(1) AAS
>>950
頼朝が佐殿のうちに死んでいたら伊豆頼朝と呼ばれていたかもしれない。
ただ、勝ち残ったから嫡流というわけではなく、先代本家の義朝に一番血筋が近い男子が嫡流になる。この点で頼朝義経の従兄弟で母親がはっきりしない義仲は、周りが源氏の嫡流と認めたかどうかわからない。実際すぐ滅ぼされたし政治的センスがあったとも思えない
頼朝が死に義経が生きてたら奥州藤原の勢力をバックに義経が征夷大将軍になっていたかもしれないが、すぐにとって代わられ義朝の9人の男子は全滅、先々代為義の直系も絶え、源氏の正当はどちらにしろおしまいだったのでは
義家の嫡孫為義の血統が滅びれば次に源本家に近いのが義家の生き残った男子のうち、最年長四男の義国の子孫である足利と新田。とくに鎌倉の有力御家人であった足利はこの時点で自他共に認める源氏の嫡流になっていた
952(1): 2015/02/16(月)20:41 ID:Fpt4Kbco(2/3) AAS
>>949
まあ清和源氏で最初に公卿になったのは、実は頼政だしな。
>>951
源氏将軍家断絶の段階で、世間が即座に足利氏を河内源氏の嫡流として認めたかは、微妙だよ。
鎌倉初期の幕府において、源氏一族のなかで最も高い家格で処遇されていたのは、
足利氏ではなく平賀氏・大内氏の系統と見る説もかなり有力だし。
953(1): 日曜8時の名無しさん 2015/02/16(月)22:04 ID:KlXnpMc2(1) AAS
>>952
サンクス
平賀氏については時政の娘と結婚した朝雅が牧の方事件に
連座して滅ぼされたのを草燃えるで見たような覚えがある
時政夫婦に将軍に担がれかかったのだから,相当な高位に
あったのは間違いないね
大内氏は平賀氏同様義光流かな。佐竹氏にしても義光流だよ
ね。この人はよく知らない
足利が幕府内でのしてきたのはいつからだろう
自分は頼朝と同年代の親戚で政子の妹をもらった義兼かなと
省1
954: 2015/02/16(月)23:21 ID:Jm1zkQ3L(2/2) AAS
嫁が頼朝の嫁と姉妹とか断然有利だろ
955(1): 2015/02/16(月)23:50 ID:Fpt4Kbco(3/3) AAS
>>953
平賀・大内氏の系統が頼朝に重用されたのは、父義朝時代から親密で、
平治の乱などでも義朝に協力的だったことが大きいと言われる。
頼朝は全般的な傾向として単なる血縁の親疎よりも、父親のときからの由緒みたいなのに、
かなり拘る傾向がある人物。
足利義兼に関しては、比較的早い段階で頼朝に帰順し、しかも母方の縁者ということから、
北条政子の妹を嫁がせてそこそこの処遇はしているが、頼朝の意識のなかで、
自分に従う源氏一族の席次のトップが義兼であったかといわれれば、そこは微妙ということかな。
あと平賀氏と同じ義光流でも佐竹氏や武田氏は頼朝から全く信用されていないし、
足利氏と同じ義国流における新田氏なども同様。
956(1): 2015/02/17(火)11:01 ID:7JOVDf2J(1/2) AAS
>>955
なるほど。そうなると鎌倉幕府成立後に頼家が生まれる前に頼朝が死んだら
義朝時代からよしみの深い平賀,大内氏に清和源氏の嫡流がいった可能性が
あるわけか。武田は確かに頼朝に警戒されていたようだし,北条,上杉と代
々姻戚を重ねた重臣足利がダークフォースといったところか。
まあ頼朝や尊氏をみても,源氏嫡流といっても最終的には武力と政治力がな
ければ覇権は握れないので,平賀将軍も大内将軍も北条の傀儡と化していた
と思うが
しかし,>>950のいう石橋山あたりで頼朝が討ち死にしていたらどうだった
ろう? 北条ほか坂東武士たちはかつぐ頭を失って士気喪失。反逆者として
省8
957(1): 2015/02/17(火)11:03 ID:U8BbY0vy(1/2) AAS
頼朝の落馬も暗殺っぽいし、頼朝系源家は全部北条氏に消されたんじゃないの
958(2): 2015/02/17(火)11:31 ID:7JOVDf2J(2/2) AAS
>>957
頼朝暗殺説は北条が黒幕という説は昔からあったね
政子が命じたのでは,という人もいる
頼家は明確に時政と義時の仕業。嫁さんの実家の比企一族ともども抹殺
永井路子説に従うなら実朝と公暁を殺ったのは三浦だ
その三浦を30年後の宝治合戦で滅ぼしたのは北条
頼朝と血がつながる摂関将軍頼経(4代)を連れてきたのは北条だが
源氏再興の意味はもちろんなく,傀儡として試しただけ。成人して幕政
に口出しするわ。宝治合戦で三浦に利用されるわで,北条にしてみれば
源家将軍と変わらないぐらい危険かつウザかったので赤痢にみせかけ
省1
959(2): 2015/02/17(火)18:21 ID:U8BbY0vy(2/2) AAS
でも、伊勢平氏は平貞盛の養子で北条氏のほうが実子だったんだよね
北条氏ってなんで当時地方豪族だったのかな?
平貞盛も地方豪族だけどね
960(1): 2015/02/17(火)19:48 ID:J5deCbRk(1) AAS
>>958
「北条時宗」で
渡辺謙が4代頼経・5代頼嗣を抹殺してたな
961: 2015/02/17(火)20:45 ID:lDDqnDFx(1) AAS
>>960
時頼は、経清・泰衡の転生後なのか。復讐したのか
962: 日曜8時の名無しさん 2015/02/17(火)20:50 ID:ihruBQKq(1/2) AAS
>>959
>伊勢平氏は平貞盛の養子で北条氏のほうが実子だったんだよね
そうなの?伊勢平氏は貞盛の四男維衡,北条は二男維将が祖で維衡が
貞盛の養子とは初耳。養子にしたのは甥や孫,弟の孫たちで,この
中には二男維将の子維時もいる。ちなみに貞盛の長男維叙も実は養子。
北条は中伊豆の土豪で,時政の父時方が伊豆守を受領し,伊豆に土着した
のが由来とされている。それまでは貞盛の二男の系統だから,のちに忠盛
清盛を出す維衡より家格は上で,平氏嫡流とみられていたようだ
時方の4代前には直方という人がいてこの人は八幡太郎義家の外祖父
にあたる。
963: 2015/02/17(火)21:09 ID:jukLE0pd(1) AAS
>>959
養子と言われるのはこの人だけど間違いらしい。貞盛の嫡流相模平氏。
外部リンク:weekpedia.myht.org
伊勢平氏の祖はこの人
外部リンク:ja.wikipedia.org
964(1): 2015/02/17(火)21:43 ID:trL5lRbp(1/3) AAS
>>956
鎌倉期の上杉なんて大した家ではないと思うが・・・。
鎌倉期の足利の発展に関しては、時政の外孫である義氏の働きが
大きいだろう。
義氏が和田合戦・承久の乱・宝治合戦などで北条側として活躍して、
承久の乱の恩賞で三河、宝治合戦の恩賞で相模の守護職を獲得している。
その一方、他の有力な源氏一族が没落していったこともあって、足利は
鎌倉後期には河内源氏嫡流のような位置付けになった。
あと頼朝挙兵後の平氏の急速な弱体化は、その翌年くらいから深刻になる
養和の大飢饉(被害の中心が平氏の勢力基盤だった畿内〜瀬戸内)の影響も
省7
965: 2015/02/17(火)21:46 ID:trL5lRbp(2/3) AAS
>>964訂正
× 宝治合戦の恩賞で相模の守護職を獲得している。
○ 宝治合戦の恩賞で上総の守護職を獲得している。
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