運動音痴の原因は発達障害アスペルガー症候群かも2 [転載禁止]©2ch.net (172レス)
1-

102: 2016/04/13(水)12:14 ID:k0nN14oq(4/7) AAS
体育の紅白試合もそれと同じようなもので、サッカーのルールやポジションなんてほとんど知らないのに、いきなり競技をさせられる。ウェイマンたちは経験則から戦略や攻め手を感じ取り連携を取るが、それが全く分からない私には動くことさえできない。
当たり前のように「ボールがどこに来るか」が分からないので、それは裏を返すと「ボールがどこに来ないか」も分からない、ということだ。つまり、突っ立っているだけで邪魔になる。
座学でいくと、九九もアルファベットも分からないのに数学や英語のテストを受けるような感覚である。冷や汗が止まらない。

柔道など事故(怪我)が起きやすいものはしっかりと基本の受け身から教えてくれるが、球技を中心に「知っていて当然」かのように始まる競技において基本を教わった記憶は私にはあまりない。
体育の先生も「スポーツは楽しくて当たり前」な環境で育った人が多いだろうから、むしろ練習や基礎より模擬試合の方が生徒も楽しめると思っているのだろう。こちとら模擬試合の方が苦痛なのに、
ここでも「“わからない”ことがわからない」という断絶が作用してしまう。
基本も教わらず、ただ惨めな公開処刑を体験する。それが、私にとっての「体育の授業」だった。

国語や算数といったいわゆる「五教科」「受験科目」には、基礎から教え、苦手な生徒をどうその教科に向き合わせるかといった方法論が深く議論されているイメージがある。私の実体験においても、例えば理解度によってクラスを分けて、
苦手な人にどう教えるかに腐心していた先生は多い記憶がある。しかし「体育」となると、途端にその性格が薄くなってはいかないだろうか。「スポーツは楽しくて当たり前」、そんな悪気のない前提で囲ってしまい、
「苦手な人」をどうそれに向き合わせるかという感覚に欠けてはいないだろうか。
もちろん、苦手な人に手を差し伸べる体育教師やイケメンウェイマンも世の中には沢山いるのだろうが、少なくとも私は不運にもあまりそのような人には出会えなかった。(すでにダメージが大きく気付けないパターンもあったかもしれない…)

※※※

最初に書いた文部科学省のホームページに、『体育の目的の具体的な内容−すべての子どもたちが身に付けるべきもの−』という項がある。
この中にも「『身体能力』に過度の重点を置くことは、逆に子どもたちの体育嫌いやスポーツ嫌いを助長することにつながりかねない」と書かれており、
私のような人間を生み出してしまう危険性については言及されている。

しかし、そもそもそれよりも上の段である序文にある「体育は他の教科・科目ではできない身体運動を通しての『経験』ができる教科・科目である。
例えば、『身体を動かす楽しさ』に関する経験、『競争、達成』に関する経験、集団活動の経験などをすることができる」という方向性が、
多くの「運動が苦手な人」に効果的に行われているのか、大きな疑問を抱いてしまう。「体育の授業」で「身体を動かす楽しさ」を感じた記憶は滅多にないし、
「競争、達成」なんて始めから負けレースでしかなかったし、「集団活動」についてはスクールカーストを意識させられるばかりだった。そこに「自分なりに頑張ってみよう」が受け入れられた経験は、ハッキリ言って無い。

私のような存在を含め、「体育の授業」が日本のスポーツ総人口をガリガリ削っているのではないか、という思いが拭えない。体を動かすこと自体は好きなのに、スポーツ、それも団体競技には果てしない苦手意識と嫌悪感がある。そして、そんな自分も嫌になってしまう。
私だって、本当はEXILEのようにかっこよく踊ってみたいのである。
1-
あと 70 レスあります
スレ情報 赤レス抽出 画像レス抽出 歴の未読スレ AAサムネイル

ぬこの手 ぬこTOP 0.003s