[過去ログ] 被差別部落にまつわる怖い話 27 (1002レス)
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101: (ワッチョイ f7b8-3X9e) 2018/02/16(金)06:40 ID:X0GQf3RX0(7/10) AAS
ゴミ収集をする番人
江戸期、京都の人々は、河川への投棄のほかに、ゴミの処分をどのようにしたのだろうか。
各町の出入り口に置かれた木戸であるが、そこに置かれたのが、番非人であった。
番非人については『京都の部落史』では「乞食、辻芸とならんで小屋下非人の重要な仕事が番人であった。
京都の町中は小屋頭ごとに担当の町が決っていて、小屋頭は町からは親方と呼ばれた。
親方は自分の配下の非人から信用のできる人物を選び出して、番人として町に送り出した」ということである。
町番人の仕事であるが、当初は夜番と乞食の追い払いが主なものであった。
やがて、様々な仕事を行なうようになり、その中に、町内の掃除やゴミ集めを行い、
「今出川口や二条口などの鴨河原や郊外の空き地など、洛中に設けられた7ヵ所のゴミ捨場に持っていって捨てた」という。
番人がゴミ収集の仕事をしていたことを伝える史料として『京都の部落史』には、次のような史料が収められている。
嘉永元年(1848年)6月28日、「道直しの土取り穴を、所々の番人の集めた塵埃でうめる」という史料である。
『高辻西洞院町文書』として遺された文書の中の史料であるが、高辻西洞院町では道普請を行なった際、
予め工面していた土だけでは間に合わず、町内に穴を掘り土を取って工事を行なったものの、
この穴をいつまでも放置しておくことも出来ず、番人達が集めた塵埃で埋めた。
ところが、「其当座隣家蝿多く出」とあるように、番人達が集めた塵埃は生ゴミを主としたものであったといえる。
悲田院配下の番人がゴミ収集に関わっていたことを知ることが出来る史料はこの他にも見られる。
文久元年(1861)7月の日付をもつ「京大黒町、番人親方へ手下番人の倍の出銭を行なう」では、
番人に対して支払う金銭の中に、「ごもく銭」として町衆より月20文、表借家より月16文、裏借家より月12文とある。
さらに、但し書きに「但し渡世柄ニより多分捨候方ハ別段心付遣し可申事」とある。
毎月、ゴミ収集費を住民が支払っていたこと、また、心付けを番人に出すこともあったことが窺える。
これらから、江戸期には、町内の番人がゴミ収集にあたり、京都市内のゴミ処理はなされていたといえる。
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