自決しろと言ったくせに自分は生き延びた日本兵 (212レス)
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98: 2024/03/09(土)23:18 ID:NvRu//Sm(1) AAS
>>96
【世界一卑屈な沖縄ゴキブリ】は沖縄県民を大虐殺した米軍を称賛。どこまで卑屈なのか???
ユダヤ人が『ヒトラー万歳!』『ナチス兵士は優しかった、人道的だった。ナチスの強制収容
のお陰でユダヤ人は生き残った』と言ってるのと同じだから、余りの卑屈さに笑うしかない(嘲笑
まあ徳田球一/瀬永亀次郎のような卑怯者は『米軍感謝決議』やって米軍にヘコヘコしてたもんなw
米軍に収容された沖縄県民は、収容所で栄養失調とマラリアでどんどん死んで行った。
これを『沖縄戦第二の悲劇』と言う。米軍はDDTやディート(虫よけ剤)を保有し、マラリア
に罹る米兵などいなかったのに、強制収容した沖縄県民を見殺し久志村から瀬嵩村(現
キャンプシュワブ)の米軍収容所に収容された一般県民の証言記録 【琉球新報1983年9月】
■■栄養失調とマラリアが次々と命を奪った 1日で20人も死ぬ
■(「戦禍を掘る」取材班)1983年9月19日琉球新報
「一つの屋敷にいっぱい人がいましたよ。5〜6世帯は入っていたんじゃないかな」と、
当時、瀬嵩にいた数少ない地元出身者の男性の一人、西平正蔵さん(62)は言う。6000人余の
避難民がいた。掘っ立て小屋が並びはじめ、海岸線近くまで小屋が建てられた。「あのころは雨、
風がしのげればよかったから」と至る所に"トリ小屋"がつくられた。「夜になるとフクギに頭を
向け、足は道に出したまま寝ている人が沢山いて、足がじゃまになり道を歩けないほどだった」。
食料もありミルクもあるのにどうして600人もの人が死んでいったのだろうか。西平さんは、
こう説明してくれた「一つは、全然食料がない7月ごろ亡くなった人が多かったこと。もう一つ
は食べ物が目の前にあっても病気で体が衰弱して食べられなかった人も多いと思う。また欲しく
ても体が受付けなかった人もいる。それほどマラリアと栄養失調が激しかった。近くに米軍の
病院もありました。病院というより病人の収容所といった感じでしたが、重い患者は宜野座に
運ばれました」。「1日20人ほど死んだって聞きましたよ」と話すのは瀬嵩で商店を経営して
いる池宮秀得さん(82)。池宮さんも当時、地元にいた一人。「いっぱい人がいたよ。えーと
ねー、那覇からは1100人、大里から700人、読谷から700人来たって覚えている。
死んだのはみんなで600人というのも聞いた」と語った。
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