[過去ログ] 【常駐荒らし】栗城ハンター(ワイエディ)【詐欺スパム】 (344レス)
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193: (ワッチョイ d60c-zh44 [175.177.5.11]) 2017/12/29(金)06:36 ID:99HwtZk10(15/95) AAS
極めて強力な関連性であることを示している。このような価値を
もつ「富士山」の構成資産は、山梨県と静岡県の二県にまたがっ
て分布している。これら一連の構成資産を世界文化遺産「富士山
」の総体として確実に保存し、確実に次世代へと継承するために
は、両県共通の考え方を基に、各構成資産全体を一つの資産とし
て包括的に保存管理していくための方法を整理していく必要があ
ることから、個別の構成資産についての保存管理計画に加え、構
成資産相互の関係性を保全し全体の価値を継承していくための包
括的な保存管理計画を策定しておくことが必要である。そのため
、山梨県・静岡県は、文化庁・環境省の指導・助言の下に関係市
省22
194: (ワッチョイ d60c-zh44 [175.177.5.11]) 2017/12/29(金)06:42 ID:99HwtZk10(16/95) AAS
管理計画検討部会と学術委員会)2007年11月29日平成1
9年第1回包括的保存管理計画検討部会・包括保存管理計画の必
要性・国内の世界遺産における包括的保存管理計画の事例200
7年12月26日平成19年第2回包括的保存管理計画検討部会
・目的と経緯・構成資産の概要・保存管理の包括的な基本方針2
008年3月17日平成19年度第2回学術委員会・包括
195: (ワッチョイ d60c-zh44 [175.177.5.11]) 2017/12/29(金)06:49 ID:99HwtZk10(17/95) AAS
管理計画検討部会の審議結果2008年6月19日平成20年度
第1回包括的保存管理計画検討部会−6−・包括的保存管理計画
の役割・構成要素と本質的価値の明確化2009年5月20日平
成21年度第1回包括的保存管理計画検討部会・各資産候補の概
要について・構成資産、緩衝地帯、保存管理区域について201
0年3月19日平成21年度第2回学術委員会・保存管理計画の
考え方について山梨県の経緯2007年8月31日平成19年第
1回山梨県保存管理計画検討部会・保存管理計画の事例2007
年12月9日現地調査2008年1月31日平成19年度第2回
山梨県保存管理計画検討部会・包括的保存管理計画検討部会の審
省22
196: (ワッチョイ d60c-zh44 [175.177.5.11]) 2017/12/29(金)06:56 ID:99HwtZk10(18/95) AAS
いて2008年2月21日平成19年度第3回山梨県・静岡県学
術委員会・各県保存管理計画検討部会の審議結果2008年7月
16日平成20年度第1回静岡県保存管理計画検討部会・包括的
保存管理計画検討部会の報告・静岡県保存管理計画について20
08年9月9日平成20年度静岡県保存管理計画検討部会第1回
庁内連絡会議・富士山の世界文化遺産登録推進の取組について・
静岡県保存管理計画の策定について2009年2月12日現地調
査2009年6月1日平成21年度第1回静岡県保存管理計画策
定協力者部会・富士山の世界文化遺産登録推進の取組について・
静岡県保存管理計画の策定について2009年6月17日平成2
省22
197: (ワッチョイ d60c-zh44 [175.177.5.11]) 2017/12/29(金)07:02 ID:99HwtZk10(19/95) AAS
林計画書平成18年4月策定F資産に影響する可能性がある個別
の開発計画企業立地促進法に基づく静岡県東部地域基本計画(静
岡県及び14市町)平成21年2月策定市町村森林整備計画平成
18年4月策定−18−(富士宮市・富士市・裾野市・御殿場市
・小山町)(2)計画の実施今回提出する富士山包括的保存管理
計画は、20年月から既に実施され機能されているものである。
−19−第2章構成資産の概要1構成資産の一覧世界遺産「富士
山」の構成資産の種別、位置、面積、緩衝地帯の面積、所在地に
ついては、以下の表に示すとおりである。表構成資産の一覧大種
別分類小分類構成資産世界遺産条約文化財保護法自然公園法所在
省22
198(1): (ワッチョイ d60c-zh44 [175.177.5.11]) 2017/12/29(金)07:15 ID:99HwtZk10(20/95) AAS
号にかけての富士山側を計画していたが、国際専門家から飛び地
の資産である、富士山本宮浅間大社や山宮浅間神社を緩衝地帯に
含めるべきだとの指摘があり、市道を境に緩衝地帯を設定した。
その際、富士山本宮浅間大社からの富士山の眺望を確保するため
199: (ワッチョイ d60c-zh44 [175.177.5.11]) 2017/12/29(金)07:21 ID:99HwtZk10(21/95) AAS
る。この範囲は、富士山周辺の主要な神社や景勝地から見た可視
領域が重なり合う範囲であるとともに、各登山道における山体の
神聖性に関する境界の一つである「馬返」の標高とほぼ一致する
。なお、「馬返」とは、乗馬登山が物理的にも、宗教的観点から
も不可能になる地点を示す。景観的には山体の傾斜角の変化率が
大きくなり「平野部」と「山体」の境界として認識され、稜線が
優美な曲線を描き、絵画などの対象とされることが多い範囲であ
る。写真上空から見た写真に資産範囲を線で示したもの(推薦原
案と同じもの)−21−−22−標高約2500m付近の森林限
界より上方は富士講信者には「焼山」と呼ばれ、神聖な地域ある
省22
200: (ワッチョイ d60c-zh44 [175.177.5.11]) 2017/12/29(金)07:27 ID:99HwtZk10(22/95) AAS
いう危険を伴う最大級の大行の道とされていた。富士登山3回以
上の経験を持ち、誓約書を御師に提出し、神への伺いをたてた上
でないと許可されないほど厳しいものであった。この御中道の巡
拝を無事終えると、その証である「御許し」を御師から受けるこ
とができた。1816年の資料では年間100人以上が御中道巡
りを行っているが、1977年の転落事故で通行止めとなり、現
在では一周することはできなくなっている。写真御中道の写真A
1山頂信仰遺跡(富士山本宮奥宮)富士山山頂部の火口壁沿いに
、いくつかの神社及び宗教関連施設が所在する。富士山への信仰
登山が開始されると、修験道の影響を受け山頂部において寺院の
省22
201: (ワッチョイ d60c-zh44 [175.177.5.11]) 2017/12/29(金)07:34 ID:99HwtZk10(23/95) AAS
2010年文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山と
して指定山頂の噴火口の周囲を一周し、頂上の各峰を巡る行為は
、古くから「お鉢巡り」と呼ばれ、現在も多くの人々に受け継が
れている。13世紀後半の資料には「いたゞきに八葉の嶺あり」
との記載があり、このころには山頂の峰々に信仰的意義を見出し
ていたことが伺える。16世紀前半には地元為政者が「八
202: (ワッチョイ d60c-zh44 [175.177.5.11]) 2017/12/29(金)07:41 ID:99HwtZk10(24/95) AAS
ルヽ也」との記述も見られ、後に盛んになるお鉢巡りの古態と思
われる習俗があったことが知られる。富士講講中の多くは、頂上
に着くと、時計回りに山頂を巡っていった。内院に賽銭を投じ、
御来光を礼拝し、途中にあるいくつかの仏像や石碑を拝みながら
、大日寺(現奥宮)の大日如来、最高峰の剣ヶ峰、釈迦割石、霊
泉とされた金明水などを巡礼した。写真お鉢めぐりの写真A2大
宮・村山口登山道富士山南西麓の浅間大社及び村山浅間神社を起
点とし、山頂大日岳に至る登山道である。12世紀前半、富士山
で修行した末代上人の開削した登山道が起源だとされ、14世紀
初め、僧の頼尊が修験者とその活動を組織化したことで、村山を
省22
203: (ワッチョイ d60c-zh44 [175.177.5.11]) 2017/12/29(金)07:47 ID:99HwtZk10(25/95) AAS
の道者坊の記録より、御縁年で2,000人前後、平年で数百名
程度と推測できる。1826年の記録ではその数が減少し、村山
の村落も衰退していたとの記述もあるが、1860年、初の外国
人登山となる英国公使オ−24−ールコックは大宮を経由して村
山に宿泊し、山頂をめざした。彼の記録では大鏡坊、中宮八幡堂
の存在や登山道の様子が確認できる。明治維新以降、女人登山の
解禁もあり、登山者は増加傾向を示すが、1889年、東海道線
の開通による御殿場口利用者の増加により衰退し、これへの対策
として1906年、村山を経由せず4km短縮された大宮新道(
カケスバタ口)が建設されたため、大宮から現六合目までの村山
省22
204: (ワッチョイ d60c-zh44 [175.177.5.11]) 2017/12/29(金)07:54 ID:99HwtZk10(26/95) AAS
当たる1800年に約5,400人、1840年代前半は年平均
約1,700人、続く1860年の御縁年には約3,600人で
あった。登拝者は神仏分離令後も継続していたが、1883年、
須山口二合八勺に接続する御殿場口登山道が開鑿された。また、
1889年に東海道本線が開通し、御殿場口の利便性の向上によ
り須山口からの登拝者や登山者が減少することとなった。191
2年には、登山道の一部が陸軍演習場となり使用不可能となった
ため、須山口からの登拝(登山)は衰退し現在に至っている。二
合八勺以下の登山道で当時の道が確認できる部分は一部のみであ
る。また、1999年、地元住民により須山口下山歩道の名でか
省22
205: (ワッチョイ d60c-zh44 [175.177.5.11]) 2017/12/29(金)08:00 ID:99HwtZk10(27/95) AAS
た。登拝者は関東地方の富士講関係者が多く、東北地方からの登
拝者も見られる。講によっては吉田口から登山し、砂道で下山に
適した須走口へ下山する形をとった。また、1831年、須走口
山頂部に宝経塔が作られたことにより、日蓮宗の信徒による登拝
も増加した。1889年の東海道線開通による御殿場口、および
1903年の中央線開通による吉田口の利便性の向上で、距離が
長い須走口は敬遠されるが、御殿場口の下山道として利用され続
けた。1909年より登山道の周囲に石垣を築き、191
206: (ワッチョイ d60c-zh44 [175.177.5.11]) 2017/12/29(金)08:07 ID:99HwtZk10(28/95) AAS
は、八合目まで馬による登山が可能になった。八合目以上は浅間
大社境内地という理由で馬の利用は行われなかった。また、19
23年に皇太子(昭和天皇)の登山に利用されている。1959
年、バス道路(現ふじあざみライン)の完成により、五合目以下
の登山道の利用は減少し、一部登山道としての確認ができない区
間がある。写真須走口登山道の写真A5吉田口登山道北口本宮冨
士浅間神社を起点とし、富士山頂を目指す道である。15世紀に
は、富士山への登拝が、修験者だけでなく、ごく一般の人々の間
にも広まっていた。吉田口は14世紀後半には参詣の道者のため
の宿坊もでき始め、大勢の人々が登るための設備が整うようにな
省22
207: (ワッチョイ d60c-zh44 [175.177.5.11]) 2017/12/29(金)08:12 ID:99HwtZk10(29/95) AAS
、吉田口登山道の起点に位置し、祭神として木花開花姫命、天津
彦彦火瓊瓊杵命、大山祇命を祀る神社である。富士山の遙拝所に
祀られていた浅間明神(富士山の荒ぶる神)を起源とし、148
0年には「富士山」の鳥居が建立され、16世紀半ばには浅間神
社の社殿が整っていたとされる。当神社は領主からの崇敬が厚く
、境内に現存する3つの社殿は、1561年、1594年、16
15年にそれぞれ当時の領主が寄進したものである。富士講との
つながりが強く、1730年には富士講の指導者である村上光清
の寄進によって境内の建造物群の修復工事が行われ、現在にみる
境内の景観の礎が形成された。北口本宮冨士浅間神社の支配権は
省22
208: (ワッチョイ d60c-zh44 [175.177.5.11]) 2017/12/29(金)08:19 ID:99HwtZk10(30/95) AAS
万葉集で?の海が詠われたほか、いくつかの文学作品ともゆかり
がある。写真西湖の写真A8精進湖富士山の火山活動により形成
された堰止湖で、富士山の北西に位置する。富士山周辺の湖を巡
って修−27−行する内八海巡りが行われたが、この精進湖にも
多くの富士講徒が訪れた。富士山北麓で最初の洋風ホテルはこの
精進湖畔に建てられ、多くの西洋人が訪れた。20世紀初頭には
、絵葉書に使われた富士山の写真はこの精進湖からのものがほと
んどだった。写真精進湖の写真A9本栖湖富士山の火山活動によ
り形成された堰止湖で、富士山の北西に位置する。富士山周辺の
湖を巡って修行する内八海巡りが行われたが、この精進湖にも多
省22
209: (ワッチョイ d60c-zh44 [175.177.5.11]) 2017/12/29(金)08:26 ID:99HwtZk10(31/95) AAS
現在の地に移転されたとされる。創建当時は富士山の噴火が盛ん
であり、これを畏れ鎮めることを信仰の目的としていた。朝廷も
浅間大神に他の山よりも高い神階を与えることで崇敬の念を示し
た。12世紀後半ごろには、浅間大神は本地垂迹説の影響を受け
大日如来の垂迹である「浅間大菩薩」と見なされるようになり、
12世紀頃より政治の実権を掌握した武士階級に戦勝の神
210: (ワッチョイ d60c-zh44 [175.177.5.11]) 2017/12/29(金)08:40 ID:99HwtZk10(32/95) AAS
信仰された。15世紀ごろ、登拝が盛んになるにつれて、浅間大
社は村山浅間神社とともに大宮・村山口登山道の起点となり、宿
坊が周辺に建設された。16世紀ごろ、浅間大社は湧玉池での水
垢離を重要な儀式と位置づけることによって、浅間大社を経由し
た登拝を喧伝した。同時期の絵図である絹本著色富士曼荼羅図に
は、浅間大社・湧玉池及び村山浅間神社を経由して登山する人々
の姿が描かれている。登拝の拡大に伴い、富士山中での諸権利が
構築されていく中で、浅間大社は徳川家康の庇護の下、1604
年現在の社殿が造営されるとともに、1609年山頂部の散銭取
得における優先権を得た。これを基に浅間大社は山頂部の管理・
省22
211: (ワッチョイ d60c-zh44 [175.177.5.11]) 2017/12/29(金)08:47 ID:99HwtZk10(33/95) AAS
おり、遥拝所の主軸は富士山方向を向いている。発掘調査では1
2〜15世紀にかけての神事に使用されたと推定される破砕され
た土器が遥拝所北側から多数出土し、当神社での宗教活動を裏付
けている。また、遅くとも1577年までには浅間大社との間で
「山宮御神幸」といわれる儀式が開始された。これは4月と11
月に神の宿った鉾を持ち、浅間大社から山宮浅間神社へ行き、神
事を行った後、翌日未明に浅間大社へ戻る行事である。行事の意
味として、現時点では神が4月に旧跡に戻るという解釈と、山に
いる神が4月に田の神として里へ降りるという解釈がある。この
行事は1874年まで行われていた。なお、「山宮御神幸」に使
省22
212: (ワッチョイ d60c-zh44 [175.177.5.11]) 2017/12/29(金)08:54 ID:99HwtZk10(34/95) AAS
を支える宿坊の存在が現存する大日如来の銘(1478)で確認
できる。1482年には修験道本山派の本寺である聖護院と関係
を持ち、その権威を高めた。16世紀中には十数軒あった道者坊
が村山三坊に統合され、その活動を資料で確認できる。坊に所属
する山伏は夏に「富士峯修行」を山中及び山頂で行った。また、
富士山への一般の登拝者も増加し、夜間に白装束をまとい、仏が
いるとされた山頂を目指す多くの人々の様子が「絹本著色富士曼
荼羅図」に描かれている。村山の山伏は、富士峰修行の際
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