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【常駐荒らし】栗城ハンター(ワイエディ)【詐欺スパム】 (344レス)
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203
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(ワッチョイ d60c-zh44
[175.177.5.11])
2017/12/29(金)07:47
ID:99HwtZk10(25/95)
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203: (ワッチョイ d60c-zh44 [175.177.5.11]) [sage] 2017/12/29(金) 07:47:34.75 ID:99HwtZk10 の道者坊の記録より、御縁年で2,000人前後、平年で数百名 程度と推測できる。1826年の記録ではその数が減少し、村山 の村落も衰退していたとの記述もあるが、1860年、初の外国 人登山となる英国公使オ−24−ールコックは大宮を経由して村 山に宿泊し、山頂をめざした。彼の記録では大鏡坊、中宮八幡堂 の存在や登山道の様子が確認できる。明治維新以降、女人登山の 解禁もあり、登山者は増加傾向を示すが、1889年、東海道線 の開通による御殿場口利用者の増加により衰退し、これへの対策 として1906年、村山を経由せず4km短縮された大宮新道( カケスバタ口)が建設されたため、大宮から現六合目までの村山 口登山道は登山道としての機能を失い、その歴史を閉じた。現在 は、林道の建設に雨水による侵食も加わり、一部を除き登山道跡 の推定は困難な状態であり、道標、地蔵・不動明王像、建物跡な どをある程度たどることができるのみである。写真大宮・村山口 登山道の写真A3須山口登山道富士山南東麓、須山浅間神社を起 点とし、山頂部浅間嶽(駒ケ嶽)に至る登山道である。その起源 は明確ではないが、1200年の資料には大宮・村山口、吉田口 、須山(珠山)口以外には登山道がないことが述べられている。 1486年の京都の僧による資料(廻国雑記)では、「すはま口 」の名が確認できる。登山道および山頂部銀明水は須山浅間神社 及び12軒の御師を中心とした須山村により管理されていた。た だし、銀明水の管理を巡り、須走村と争いになった際は浅間大社 の裁定を仰いでいる。登山道には宝永噴火前の状況を描いた絵図 で須山御胎内に附属する御胎内神社等の宗教施設と山室がみられ る。これらの施設及び登山道はその中腹より噴火した宝永噴火に より壊滅し、御縁年の1740年に復興したが永続せず、178 0年にようやく復興した。また、1880年代の記録では御室浅 間神社、中宮浅間社、御胎内等の宗教施設と4箇所の石室がある ことが確認できる。中宮浅間社や水呑浅間は村山修験の富士峯修 行の行場としても使用された。登拝者については詳しい研究が進 んでいないが、西日本・東日本両方からの登山者があったことが 、宿帳及び案内立札の立地から確認できる。登拝者数は御 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1514205594/203
の道者坊の記録より御縁年で2000人前後平年で数百名 程度と推測できる1826年の記録ではその数が減少し村山 の村落も衰退していたとの記述もあるが1860年初の外国 人登山となる英国公使オ24ールコックは大宮を経由して村 山に宿泊し山頂をめざした彼の記録では大鏡坊中宮八幡堂 の存在や登山道の様子が確認できる明治維新以降女人登山の 解禁もあり登山者は増加傾向を示すが1889年東海道線 の開通による御殿場口利用者の増加により衰退しこれへの対策 として1906年村山を経由せず4短縮された大宮新道 カケスバタ口が建設されたため大宮から現六合目までの村山 口登山道は登山道としての機能を失いその歴史を閉じた現在 は林道の建設に雨水による侵食も加わり一部を除き登山道跡 の推定は困難な状態であり道標地蔵不動明王像建物跡な どをある程度たどることができるのみである写真大宮村山口 登山道の写真3須山口登山道富士山南東麓須山浅間神社を起 点とし山頂部浅間駒ケに至る登山道であるその起源 は明確ではないが1200年の資料には大宮村山口吉田口 須山珠山口以外には登山道がないことが述べられている 1486年の京都の僧による資料廻国雑記ではすはま口 の名が確認できる登山道および山頂部銀明水は須山浅間神社 及び12軒の御師を中心とした須山村により管理されていたた だし銀明水の管理を巡り須走村と争いになった際は浅間大社 の裁定を仰いでいる登山道には宝永噴火前の状況を描いた絵図 で須山御胎内に附属する御胎内神社等の宗教施設と山室がみられ るこれらの施設及び登山道はその中腹より噴火した宝永噴火に より壊滅し御縁年の1740年に復興したが永続せず178 0年にようやく復興したまた1880年代の記録では御室浅 間神社中宮浅間社御胎内等の宗教施設と4箇所の石室がある ことが確認できる中宮浅間社や水呑浅間は村山修験の富士峯修 行の行場としても使用された登拝者については詳しい研究が進 んでいないが西日本東日本両方からの登山者があったことが 宿帳及び案内立札の立地から確認できる登拝者数は御
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