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【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)【ダメ工作員】 (353レス)
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)【ダメ工作員】 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515478893/
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75: 底名無し沼さん (ワッチョイ ef0c-8avC) [sage] 2018/01/10(水) 06:27:37.28 ID:He8C3ID40 「いただきに八葉の嶺あり」とある。その他多くの書物で「八葉」の記述が確認で きる。江戸時代江戸時代になると、徳川家康による庇護の下、本殿などの造営や内 院散銭取得における優先権を得たことを基に江戸幕府より八合目以上を寄進された 経緯で、現在富士山の八合目より上の部分は登山道・富士山測候所を除き浅間大社 の境内となっている。登山の大衆化と共に村山修験や富士講などの一派が形成され 、富士信仰を発展させていった。富士講の隆盛が見られた18世紀後半以降、新興 宗教として旧来の登山道では発展できなかったために吉田口を利用する道者が目立 つようになっていたと考えられ、18世紀後半以降では、他の登山口の合計と同程 度であったという。富士参詣の人々を「道(導)者」といい、例えば『妙法寺記』 の明応9年(1500年)の記録に「此年六月富士導者参事無限、関東乱ニヨリ須 走へ皆導者付也」とある。また、登山における案内者・先導者を「先達」といい、 先達の名が見える道者帳(『公文富士氏文書』、文中に「永禄6年」とあり)など が確認されている。明治以後慶応4年(1868年)に神仏分離令が出されると、 これら神仏習合の形態は大きく崩されることとなる。富士山中や村山における仏像 の取り壊しなどが進んだ。富士山興法寺は分離され、大日堂は人穴浅間神社となり 大棟梁権現社は廃されるなど改変が進んだ。北口本宮冨士浅間神社では仁王門や護 摩堂などが取り壊されることとなった。仏教的な名称なども改称され、「八葉」の 呼び名も変更された。1883年(明治16年)に御殿場口登山道が、1906年 (明治39年)に新大宮口が開削された。富士山は平成23年(2011年)2月 7日に国指定文化財である「史跡」に指定された。史跡としての富士山は複数の資 産から構成され「史跡富士山」として包括されている。指定範囲は静岡県は富士宮 市・裾野市・駿東郡小山町、山梨県は富士吉田市・南都留郡富士河口湖町・鳴沢村 である。このとき富士山八合目以上の山頂部や各社寺、登拝道(登山道)が指定さ れた。その後富士山本宮浅間大社社有地の一部、人穴富士講遺跡、各登山道が追加 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515478893/75
76: 底名無し沼さん (ワッチョイ ef0c-aKZ8) [sage] 2018/01/10(水) 06:28:06.58 ID:drxMNnZ10 する記述がある。諸国からが多献上された数百匹の中から白い 甲斐の烏駒(くろこま)を神馬であると見抜き、同年9月に太 子が試乗すると、馬は天高く飛び上がり東国へ赴き、富士山を 越えて信濃国まで至ると、3日を経て都へ帰還したという。天 智天皇2年663年役小角が県は富、流刑したされた伊豆大島 から毎晩密かに逃げ出し、富士山へ登ったという伝説が残る。 役小角は「富士山開山の祖」ともいわれる。この役小角の登山 はマルセル・クルツの『世界登頂年代記』に掲載されており、 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515478893/76
77: 底名無し沼さん (ワッチョイ ef0c-jocT) [sage] 2018/01/10(水) 06:33:22.05 ID:He8C3ID40 の高嶺を」(山部赤人『万葉集』)や「富士山は、駿河国に在り 。」「富士山は駿河の国の山で(省略)まっ白な砂の山である」 (都良香『富士山記』)、「駿河の国にあるなる山なむ」(『竹 取物語』)など広く見られるものである。しかし「なまよみの甲 斐の国うち寄する駿河の国とこちごちの」(「高橋虫麻呂」『万 葉集』)のように駿河国・甲斐国両国を跨ぐ山であるという共有 の目線で記された貴重な例もある。それより後期の時代、イエズ ス会のジョアン・ロドリゲスは自著『日本教会史』にて「富士山 は駿河国に帰属している」としているため、帰属は駿河国という 関係は継続されていたと考えられる。登山口は末代上人が開いた 登山道を起源とし、登山道が完成されたそれが最初の登山道と言 われる村山口である。これにより富士修験が成立したとされる。 次第に他の登山道も開削されてゆき、大宮・村山口、須山口、須 走口が存在してる。神仏習合は富士山も例外ではなかった。山頂 部は仏の世界と考えられるようになり、特別な意味を持つように なった。遺例としては正嘉3年(1259年)の紀年銘である木 造坐像が古いとされ、これは大日堂(村山)の旧本尊であった。 鎌倉時代の書物である『吾妻鏡』には神仏習合による「富士大菩 薩」や「浅間大菩薩」という呼称が確認されている。富士山頂の 8つの峯(八神峰)を「八葉」と呼ぶことも神仏習合に由来し、 文永年間(1264年−1275年)の『万葉集註釈』には「い ただきに八葉の嶺あり」とある。その他多くの書物で「八葉」の 記述が確認できる。江戸時代江戸時代になると、徳川家康による 庇護の下、本殿などの造営や内院散銭取得における優先権を得た ことを基に江戸幕府より八合目以上を寄進された経緯で、現在富 士山の八合目より上の部分は登山道・富士山測候所を除き浅間大 社の境内となっている。登山の大衆化と共に村山修験や富士講な どの一派が形成され、富士信仰を発展させていった。富士講の隆 盛が見られた18世紀後半以降、新興宗教として旧来の登山道で は発展できなかったために吉田口を利用する道者が目立つように なっていたと考えられ、18世紀後半以降では、他の登山口の合 計と同程度であったという。富士参詣の人々を「道(導)者」と http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515478893/77
78: 底名無し沼さん (ワッチョイ ef0c-8avC) [sage] 2018/01/10(水) 06:33:51.95 ID:He8C3ID40 指定された。登山史富士登山の伝承においては伝説的な部分が多く入り混じってお り、諸説存在する。富士山の登山史和暦西暦内容補足推古天皇6年598年平安時 代の甲斐の黒駒伝承には、聖徳太子が神馬に乗り富士山の上を越えたとする記述が ある。諸国からが多献上された数百匹の中から白い甲斐の烏駒(くろこま)を神馬 であると見抜き、同年9月に太子が試乗すると、馬は天高く飛び上がり東国へ赴き 、富士山を越えて信濃国まで至ると、3日を経て都へ帰還したという。天智天皇2 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515478893/78
79: 底名無し沼さん (ワッチョイ ef0c-aKZ8) [sage] 2018/01/10(水) 06:34:24.54 ID:drxMNnZ10 記録は改訂されたものの「世界初の登山」という記述がされて いた。貞観17年875年平安時代の学者である都良香が『富 士山記』の中で山頂火口のさまを記す。山頂には常に沸き立つ 火口湖があり、そのほとりに虎の姿に似た岩があるなど、実際 に見た者でなければ知りえない描写から、実際に登頂したか、 または登頂した者に取材したと考えられる。なおこの約10年 前には山頂噴火ではないが有史最大の貞観大噴火があった。久 安5年1149年『本朝世紀』には末代上人が数百回の登山を 繰りかえしたとある。回数は一致するものかは不明であるが、 登山を多く行った人物として知られる。江戸時代に入ると富士 講が盛んになり、多くの参拝者が富士登山(富士詣)をした。 特に江戸後期には講社が多数存在し、富士詣は地域社会や村落 共同体の代参講としての性格を持っていた。最盛期には吉田口 だけで百軒近くの宿坊(山小屋)があった。文政11年182 8年気圧計による高度測定の試みシーボルトの弟子である二宮 敬作が登頂し、気圧の変化により高度測定を行った。伊能忠敬 の測量では2603m−3732mとされていたが、この測定 では3794.5mと算出されている。天保3年1832年高 山たつが女性として初登頂。女人禁制が敷かれていた時代であ る。嘉永6年1852年松平宗秀(本庄宗秀)が近世大名とし て初登頂。富士宮市の有形文化財となっている、造り酒屋の主 人が記した「袖日記」という古記録に宮津藩主松平宗秀が富士 登山を行った記録がある。袖日記の6番によると、宗秀は江戸 と宮津を参勤交代で往復しているうちに富士山に登ろうと思い 始めたが、参勤交代の道程は幕府に指定されたルートであり、 これを逸脱したコースを通ったり、たとえ社寺参詣であっても 寄り道することは許されないため、富士に登ることを幕府に願 い出るも中々許可が出ず、3年を経て許可を得るも「馬返し」 と呼ばれる地点までであった。(馬返しというのは一合目より も下の場所であり、登山客はここで馬を下りて山に登るという 所)そこで宗秀は嘉永6年(1852)6月21日、幕府に内 緒で登山を決意し、明け方から出発して山を登り始め、昼過ぎ http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515478893/79
80: 底名無し沼さん (ワッチョイ ef0c-jocT) [sage] 2018/01/10(水) 06:40:21.22 ID:He8C3ID40 いい、例えば『妙法寺記』の明応9年(1500年)の記録に「 此年六月富士導者参事無限、関東乱ニヨリ須走へ皆導者付也」と ある。また、登山における案内者・先導者を「先達」といい、先 達の名が見える道者帳(『公文富士氏文書』、文中に「永禄6年 」とあり)などが確認されている。明治以後慶応4年(1868 年)に神仏分離令が出されると、これら神仏習合の形態は大きく 崩されることとなる。富士山中や村山における仏像の取り壊しな どが進んだ。富士山興法寺は分離され、大日堂は人穴浅間神社と なり大棟梁権現社は廃されるなど改変が進んだ。北口本宮冨士浅 間神社では仁王門や護摩堂などが取り壊されることとなった。仏 教的な名称なども改称され、「八葉」の呼び名も変更された。1 883年(明治16年)に御殿場口登山道が、1906年(明治 39年)に新大宮口が開削された。富士山は平成23年(201 1年)2月7日に国指定文化財である「史跡」に指定された。史 跡としての富士山は複数の資産から構成され「史跡富士山」とし て包括されている。指定範囲は静岡県は富士宮市・裾野市・駿東 郡小山町、山梨県は富士吉田市・南都留郡富士河口湖町・鳴沢村 である。このとき富士山八合目以上の山頂部や各社寺、登拝道( 登山道)が指定された。その後富士山本宮浅間大社社有地の一部 、人穴富士講遺跡、各登山道が追加指定された。登山史富士登山 の伝承においては伝説的な部分が多く入り混じっており、諸説存 在する。富士山の登山史和暦西暦内容補足推古天皇6年598年 平安時代の甲斐の黒駒伝承には、聖徳太子が神馬に乗り富士山の 上を越えたとする記述がある。諸国からが多献上された数百匹の 中から白い甲斐の烏駒(くろこま)を神馬であると見抜き、同年 9月に太子が試乗すると、馬は天高く飛び上がり東国へ赴き、富 士山を越えて信濃国まで至ると、3日を経て都へ帰還したという 。天智天皇2年663年役小角が県は富、流刑したされた伊豆大 島から毎晩密かに逃げ出し、富士山へ登ったという伝説が残る。 役小角は「富士山開山の祖」ともいわれる。この役小角の登山は マルセル・クルツの『世界登頂年代記』に掲載されており、記録 は改訂されたものの「世界初の登山」という記述がされていた。 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515478893/80
81: 底名無し沼さん (ワッチョイ ef0c-8avC) [sage] 2018/01/10(水) 06:40:52.40 ID:He8C3ID40 年663年役小角が県は富、流刑したされた伊豆大島から毎晩密かに逃げ出し、富 士山へ登ったという伝説が残る。役小角は「富士山開山の祖」ともいわれる。この 役小角の登山はマルセル・クルツの『世界登頂年代記』に掲載されており、記録は 改訂されたものの「世界初の登山」という記述がされていた。貞観17年875年 平安時代の学者である都良香が『富士山記』の中で山頂火口のさまを記す。山頂に は常に沸き立つ火口湖があり、そのほとりに虎の姿に似た岩があるなど、実際に見 た者でなければ知りえない描写から、実際に登頂したか、または登頂した者に取材 したと考えられる。なおこの約10年前には山頂噴火ではないが有史最大の貞観大 噴火があった。久安5年1149年『本朝世紀』には末代上人が数百回の登山を繰 りかえしたとある。回数は一致するものかは不明であるが、登山を多く行った人物 として知られる。江戸時代に入ると富士講が盛んになり、多くの参拝者が富士登山 (富士詣)をした。特に江戸後期には講社が多数存在し、富士詣は地域社会や村落 共同体の代参講としての性格を持っていた。最盛期には吉田口だけで百軒近くの宿 坊(山小屋)があった。文政11年1828年気圧計による高度測定の試みシーボ ルトの弟子である二宮敬作が登頂し、気圧の変化により高度測定を行った。伊能忠 敬の測量では2603m−3732mとされていたが、この測定では3794.5 mと算出されている。天保3年1832年高山たつが女性として初登頂。女人禁制 が敷かれていた時代である。嘉永6年1852年松平宗秀(本庄宗秀)が近世大名 として初登頂。富士宮市の有形文化財となっている、造り酒屋の主人が記した「袖 日記」という古記録に宮津藩主松平宗秀が富士登山を行った記録がある。袖日記の 6番によると、宗秀は江戸と宮津を参勤交代で往復しているうちに富士山に登ろう と思い始めたが、参勤交代の道程は幕府に指定されたルートであり、これを逸脱し たコースを通ったり、たとえ社寺参詣であっても寄り道することは許されないため 、富士に登ることを幕府に願い出るも中々許可が出ず、3年を経て許可を得るも「 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515478893/81
82: 底名無し沼さん (ワッチョイ ef0c-aKZ8) [sage] 2018/01/10(水) 06:41:23.87 ID:drxMNnZ10 には頂上に着いたという。宗秀の富士山登頂は、近世大名が富 士登山を行った唯一の記録となった。万延元年1860年英国 公使オールコックが外国人として初登頂。『古事類苑』にオー ルコックの登山についての記録(富士重本が寺社奉行所に提出 した届出)があり、「英人富士山ヲ測量スルニ就キ、大宮司ヨ リ届書寫…廿二日大雨にて、廿四日晝立、大宮小休、村山泊に 相成り、廿五日快晴致し、不士山六合目へ泊り、廿六日快晴頂 上いたし…」とある。オールコックは7月24日に大宮から村 山に入り登山を行い、26日に登頂した。明治4年1872年 女人禁制が解かれる。明治時代になると信仰登山は徐々に衰退 してゆき、代わって娯楽やスポーツとしても登られるようにな り、欧米の近代登山技術が取り入れられることになる。明治2 5年1892年英国人のウォルター・ウェストンが登頂。翌年 にも登頂した。その後本を出版し富士山などの日本の山々を世 界に紹介した。明治28年1895年野中到が冬季初登頂。2 月16日に御殿場口から単独で登頂。同年10月から12月ま で山頂で気象観測を行った。大正12年1923年皇太子裕仁 親王(後の昭和天皇)の登山7月26日の事、須走に赴いてか ら8合目まで乗馬にて登山後、8合目以上は徒歩にて登山を行 なった。奥宮を参拝し金剛棒に焼印などを行った後、御殿場口 より下山された。大正12年1923年秩父宮雍仁親王の登山 8月20日の夜に御殿場口から登山し、翌朝頂上に到着。奥宮 を参拝後、下山。昭和2年1927年中村テルが冬季女性初登 頂1月1日に御殿場口から登頂、男性2人と共に。昭和63年 1988年浩宮徳仁親王(当時)の登山。8月1日−2日の登 山で、須走口から八合目を往復した。天候の悪化で登頂は断念 される。平成20年2008年皇太子徳仁親王が登頂。8月7 日に富士宮口を出発後、御殿場口登山道に入り登頂。富士山を 巡る利権争い山役銭と内院散銭『冨嶽三十六景諸人登山』山麓 の各地域には各登山道があり、特に村山口と大宮口、須走口、 須山口が古来の登山道であり、その登山道を管理する地域の浅 間大社が山役銭を徴収していた。これらの地域は互いに山役銭 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515478893/82
83: 底名無し沼さん (ワッチョイ ef0c-jocT) [sage] 2018/01/10(水) 06:46:43.14 ID:He8C3ID40 貞観17年875年平安時代の学者である都良香が『富士山記』 の中で山頂火口のさまを記す。山頂には常に沸き立つ火口湖があ り、そのほとりに虎の姿に似た岩があるなど、実際に見た者でな ければ知りえない描写から、実際に登頂したか、または登頂した 者に取材したと考えられる。なおこの約10年前には山頂噴火で はないが有史最大の貞観大噴火があった。久安5年1149年『 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515478893/83
84: 底名無し沼さん (ワッチョイ ef0c-8avC) [sage] 2018/01/10(水) 06:47:13.48 ID:He8C3ID40 馬返し」と呼ばれる地点までであった。(馬返しというのは一合目よりも下の場所 であり、登山客はここで馬を下りて山に登るという所)そこで宗秀は嘉永6年(1 852)6月21日、幕府に内緒で登山を決意し、明け方から出発して山を登り始 め、昼過ぎには頂上に着いたという。宗秀の富士山登頂は、近世大名が富士登山を 行った唯一の記録となった。万延元年1860年英国公使オールコックが外国人と して初登頂。『古事類苑』にオールコックの登山についての記録(富士重本が寺社 奉行所に提出した届出)があり、「英人富士山ヲ測量スルニ就キ、大宮司ヨリ届書 寫…廿二日大雨にて、廿四日晝立、大宮小休、村山泊に相成り、廿五日快晴致し、 不士山六合目へ泊り、廿六日快晴頂上いたし…」とある。オールコックは7月24 日に大宮から村山に入り登山を行い、26日に登頂した。明治4年1872年女人 禁制が解かれる。明治時代になると信仰登山は徐々に衰退してゆき、代わって娯楽 やスポーツとしても登られるようになり、欧米の近代登山技術が取り入れられるこ とになる。明治25年1892年英国人のウォルター・ウェストンが登頂。翌年に も登頂した。その後本を出版し富士山などの日本の山々を世界に紹介した。明治2 8年1895年野中到が冬季初登頂。2月16日に御殿場口から単独で登頂。同年 10月から12月まで山頂で気象観測を行った。大正12年1923年皇太子裕仁 親王(後の昭和天皇)の登山7月26日の事、須走に赴いてから8合目まで乗馬に て登山後、8合目以上は徒歩にて登山を行なった。奥宮を参拝し金剛棒に焼印など を行った後、御殿場口より下山された。大正12年1923年秩父宮雍仁親王の登 山8月20日の夜に御殿場口から登山し、翌朝頂上に到着。奥宮を参拝後、下山。 昭和2年1927年中村テルが冬季女性初登頂1月1日に御殿場口から登頂、男性 2人と共に。昭和63年1988年浩宮徳仁親王(当時)の登山。8月1日−2日 の登山で、須走口から八合目を往復した。天候の悪化で登頂は断念される。平成2 0年2008年皇太子徳仁親王が登頂。8月7日に富士宮口を出発後、御殿場口登 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515478893/84
85: 底名無し沼さん (ワッチョイ ef0c-aKZ8) [sage] 2018/01/10(水) 06:47:43.91 ID:drxMNnZ10 などを巡り、争いを起こしている。特に内院散銭は相当額にな るため、争いの火種になりやすかった。例えば須走村への配分 だけでも1年で76両を越えたといい、一戸に約一両が配当さ れる計算になるという。内院散銭の権利は、大名などに与えら れた権利を根拠に主に3地域によって争われた。「村山」と「 須走」と「大宮」である。村山においては、1533年(天文 2年)に村山三坊の「辻之坊」が今川氏輝により内院散銭の取 得権を与えられている。須走は1577年(天正5年)に武田 氏により薬師堂(現在の久須志神社)の開帳日の内院散銭の取 得権が与えられている。大宮は1609年(慶長14年)に徳 川家康が内院散銭を浅間大社に寄進し、内院散銭の取得の優位 権を得ている。浅間大社の大宮司が村山より登る際は山役銭を 取られたので、村山を避け「須走」から登拝する慣例などもあ った。新規に出来た登山道である現富士吉田口は、登山道を管 理している「須走」に許可なく、浅間大社の大宮司富士信安な ど富士氏が自分たちに山役銭を支払えば、「須走」の登山道を 利用するにも関わらず勝手に山がけ(登山道を作り山小屋を建 てる)の許可を与えたことで論争となり、「河口」と「吉田」 は1810年に登山ルートや山役銭の徴収方法で論争を起こし 、「大宮」と「吉田」では薬師堂における役銭の配分で争って いる過去などがある。元禄の争論元禄16年(1703年)に 散銭や山小屋経営を巡り須走村が富士浅間神社本宮(浅間大社 )を訴えた争論が元禄の争論である。須走村側は東口本宮冨士 浅間神社の神主や御師らが、浅間大社の大宮司富士信安など富 士氏らを相手取り寺社奉行に訴え出た。訴えは三か条であった 。1つは浅間大社が吉田村の者に薬師嶽の小屋掛けを認めたこ とへの不服、2つ目は浅間大社側が造営した薬師堂の棟札に「 富士本宮が入仏を勤める」という旨の記述があることを、須走 の既得権を犯すものであるというもの、3つ目は内院の散銭取 得における2番拾いは須走側が得るという慣例となっていると し、それを浅間大社が取得しているという訴えである。これに 対し訴えられた浅間大社側は江戸に赴き、薬師嶽は須走村の地 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515478893/85
86: 底名無し沼さん (ワッチョイ ef0c-8avC) [sage] 2018/01/10(水) 06:53:07.47 ID:He8C3ID40 山道に入り登頂。富士山を巡る利権争い山役銭と内院散銭『冨嶽三十六景諸人登山 』山麓の各地域には各登山道があり、特に村山口と大宮口、須走口、須山口が古来 の登山道であり、その登山道を管理する地域の浅間大社が山役銭を徴収していた。 これらの地域は互いに山役銭などを巡り、争いを起こしている。特に内院散銭は相 当額になるため、争いの火種になりやすかった。例えば須走村への配分だけでも1 年で76両を越えたといい、一戸に約一両が配当される計算になるという。内院散 銭の権利は、大名などに与えられた権利を根拠に主に3地域によって争われた。「 村山」と「須走」と「大宮」である。村山においては、1533年(天文2年)に 村山三坊の「辻之坊」が今川氏輝により内院散銭の取得権を与えられている。須走 は1577年(天正5年)に武田氏により薬師堂(現在の久須志神社)の開帳日の 内院散銭の取得権が与えられている。大宮は1609年(慶長14年)に徳川家康 が内院散銭を浅間大社に寄進し、内院散銭の取得の優位権を得ている。浅間大社の 大宮司が村山より登る際は山役銭を取られたので、村山を避け「須走」から登拝す る慣例などもあった。新規に出来た登山道である現富士吉田口は、登山道を管理し ている「須走」に許可なく、浅間大社の大宮司富士信安など富士氏が自分たちに山 役銭を支払えば、「須走」の登山道を利用するにも関わらず勝手に山がけ(登山道 を作り山小屋を建てる)の許可を与えたことで論争となり、「河口」と「吉田」は 1810年に登山ルートや山役銭の徴収方法で論争を起こし、「大宮」と「吉田」 では薬師堂における役銭の配分で争っている過去などがある。元禄の争論元禄16 年(1703年)に散銭や山小屋経営を巡り須走村が富士浅間神社本宮(浅間大社 )を訴えた争論が元禄の争論である。須走村側は東口本宮冨士浅間神社の神主や御 師らが、浅間大社の大宮司富士信安など富士氏らを相手取り寺社奉行に訴え出た。 訴えは三か条であった。1つは浅間大社が吉田村の者に薬師嶽の小屋掛けを認めた ことへの不服、2つ目は浅間大社側が造営した薬師堂の棟札に「富士本宮が入仏を http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515478893/86
87: 底名無し沼さん (ワッチョイ ef0c-aKZ8) [sage] 2018/01/10(水) 06:53:34.87 ID:drxMNnZ10 内ではないこと、薬師堂の入仏については浅間大社側が造営し たものであるので権利は浅間大社にあること、散銭の2番拾い の慣例は根拠がないということを主張した。それらは第三者に 委ねる内済という扱いとなり、その内済にて「他の者に小屋掛 けさせないこと」「薬師堂の入仏は須走村が行うこと」「内院 散銭は一番拾いを大宮と須走で6:4で分け、2番拾いは須走 が得るものとする」という決定となり、以後これらは遵守され た。安永の争論安永元年(1772年)に、須走村が山頂の支 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515478893/87
88: 底名無し沼さん (ワッチョイ ef0c-jocT) [sage] 2018/01/10(水) 06:58:29.60 ID:He8C3ID40 に登頂した。明治4年1872年女人禁制が解かれる。明治時代 になると信仰登山は徐々に衰退してゆき、代わって娯楽やスポー ツとしても登られるようになり、欧米の近代登山技術が取り入れ られることになる。明治25年1892年英国人のウォルター・ ウェストンが登頂。翌年にも登頂した。その後本を出版し富士山 などの日本の山々を世界に紹介した。明治28年1895年野中 到が冬季初登頂。2月16日に御殿場口から単独で登頂。同年1 0月から12月まで山頂で気象観測を行った。大正12年192 3年皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の登山7月26日の事、須 走に赴いてから8合目まで乗馬にて登山後、8合目以上は徒歩に て登山を行なった。奥宮を参拝し金剛棒に焼印などを行った後、 御殿場口より下山された。大正12年1923年秩父宮雍仁親王 の登山8月20日の夜に御殿場口から登山し、翌朝頂上に到着。 奥宮を参拝後、下山。昭和2年1927年中村テルが冬季女性初 登頂1月1日に御殿場口から登頂、男性2人と共に。昭和63年 1988年浩宮徳仁親王(当時)の登山。8月1日−2日の登山 で、須走口から八合目を往復した。天候の悪化で登頂は断念され る。平成20年2008年皇太子徳仁親王が登頂。8月7日に富 士宮口を出発後、御殿場口登山道に入り登頂。富士山を巡る利権 争い山役銭と内院散銭『冨嶽三十六景諸人登山』山麓の各地域に は各登山道があり、特に村山口と大宮口、須走口、須山口が古来 の登山道であり、その登山道を管理する地域の浅間大社が山役銭 を徴収していた。これらの地域は互いに山役銭などを巡り、争い を起こしている。特に内院散銭は相当額になるため、争いの火種 になりやすかった。例えば須走村への配分だけでも1年で76両 を越えたといい、一戸に約一両が配当される計算になるという。 内院散銭の権利は、大名などに与えられた権利を根拠に主に3地 域によって争われた。「村山」と「須走」と「大宮」である。村 山においては、1533年(天文2年)に村山三坊の「辻之坊」 が今川氏輝により内院散銭の取得権を与えられている。須走は1 577年(天正5年)に武田氏により薬師堂(現在の久須志神社 )の開帳日の内院散銭の取得権が与えられている。大宮は160 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515478893/88
89: 底名無し沼さん (ワッチョイ ef0c-8avC) [sage] 2018/01/10(水) 06:59:01.69 ID:He8C3ID40 勤める」という旨の記述があることを、須走の既得権を犯すものであるというもの 、3つ目は内院の散銭取得における2番拾いは須走側が得るという慣例となってい るとし、それを浅間大社が取得しているという訴えである。これに対し訴えられた 浅間大社側は江戸に赴き、薬師嶽は須走村の地内ではないこと、薬師堂の入仏につ いては浅間大社側が造営したものであるので権利は浅間大社にあること、散銭の2 番拾いの慣例は根拠がないということを主張した。それらは第三者に委ねる内済と http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515478893/89
90: 底名無し沼さん (ワッチョイ ef0c-aKZ8) [sage] 2018/01/10(水) 06:59:34.04 ID:drxMNnZ10 配権は同村の支配にあるとして浅間大社を相手として訴えた争 論が安永の争論である。またこれをみた浅間大社側の富士民済 も反論を起こした。さらに吉田村と浅間大社とで支配地域を確 定する争論もあったため、ここに大宮・新規参入である吉田と 須走の争いの決着が望まれることとなり、勘定奉行なども関わ る大論争となった。安永8年(1779年)に持ち越されるこ ととなった。結論は徳川家康が富士山本宮浅間大社を信奉して いたという幕府側の配慮があり、勘定奉行・町奉行・寺社奉行 のいわゆる三奉行による裁許で、最終的に富士山の8合目より 上は、富士山本宮浅間大社持ちとすることが決定された。この 2者の争論を起因とする裁判により、これまで曖昧であった山 頂の支配権やその他権利の所在などが、江戸幕府により明確に 定められることとなった。富士山と眺望特別名勝としての富士 山富士山は昭和27年(1952年)10月7日に「名勝」に 指定され、同年11月22日に「特別名勝」に指定された。山 梨県側は富士吉田市・船津村(現・富士河口湖町)・鳴沢村・ 中野村(現・山中湖村)の範囲が指定された。静岡県側は御中 道に囲まれる地域全部および富士宮口登山道(富士宮市)と御 殿場口登山道(御殿場市)を挟む標高1,500m以上の地域 、またこれと重複しない一合目以上御中道に至る富士宮口登山 道および須走口登山道(小山町)が範囲となっている。富士山 の眺望ウィキメディア・コモンズには、各地点からの富士山の 眺望に関連するカテゴリがあります。富士山への良好な眺望が 得られる128景233地点を、国土交通省関東地方整備局が 関東の富士見百景として、2005年(平成17年)に選定し た。羽田空港から西に向かう国内便などでは富士山の上空を通 過する。その際、機長が富士山を案内するアナウンスをするこ とが多い。また、新年のご来光を見るための遊覧飛行便も運行 される。富士山の眺望の最遠は2013年現在、和歌山県那智 勝浦町である。那智勝浦の色川富士見峠(妙法山とは別)は、 富士山頂からの距離は322.9キロで、一番遠く最も西にあ るとされる。また、眺望の北限は2017年1月16日に福島 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515478893/90
91: 底名無し沼さん (ワッチョイ ef0c-jocT) [sage] 2018/01/10(水) 07:04:35.42 ID:He8C3ID40 9年(慶長14年)に徳川家康が内院散銭を浅間大社に寄進し、 内院散銭の取得の優位権を得ている。浅間大社の大宮司が村山よ り登る際は山役銭を取られたので、村山を避け「須走」から登拝 する慣例などもあった。新規に出来た登山道である現富士吉田口 は、登山道を管理している「須走」に許可なく、浅間大社の大宮 司富士信安など富士氏が自分たちに山役銭を支払えば、「須走」 の登山道を利用するにも関わらず勝手に山がけ(登山道を作り山 小屋を建てる)の許可を与えたことで論争となり、「河口」と「 吉田」は1810年に登山ルートや山役銭の徴収方法で論争を起 こし、「大宮」と「吉田」では薬師堂における役銭の配分で争っ ている過去などがある。元禄の争論元禄16年(1703年)に 散銭や山小屋経営を巡り須走村が富士浅間神社本宮(浅間大社) を訴えた争論が元禄の争論である。須走村側は東口本宮冨士浅間 神社の神主や御師らが、浅間大社の大宮司富士信安など富士氏ら を相手取り寺社奉行に訴え出た。訴えは三か条であった。1つは 浅間大社が吉田村の者に薬師嶽の小屋掛けを認めたことへの不服 、2つ目は浅間大社側が造営した薬師堂の棟札に「富士本宮が入 仏を勤める」という旨の記述があることを、須走の既得権を犯す ものであるというもの、3つ目は内院の散銭取得における2番拾 いは須走側が得るという慣例となっているとし、それを浅間大社 が取得しているという訴えである。これに対し訴えられた浅間大 社側は江戸に赴き、薬師嶽は須走村の地内ではないこと、薬師堂 の入仏については浅間大社側が造営したものであるので権利は浅 間大社にあること、散銭の2番拾いの慣例は根拠がないというこ とを主張した。それらは第三者に委ねる内済という扱いとなり、 その内済にて「他の者に小屋掛けさせないこと」「薬師堂の入仏 は須走村が行うこと」「内院散銭は一番拾いを大宮と須走で6: 4で分け、2番拾いは須走が得るものとする」という決定となり 、以後これらは遵守された。安永の争論安永元年(1772年) に、須走村が山頂の支配権は同村の支配にあるとして浅間大社を 相手として訴えた争論が安永の争論である。またこれをみた浅間 大社側の富士民済も反論を起こした。さらに吉田村と浅間大社と http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515478893/91
92: 底名無し沼さん (ワッチョイ ef0c-8avC) [sage] 2018/01/10(水) 07:05:04.38 ID:He8C3ID40 いう扱いとなり、その内済にて「他の者に小屋掛けさせないこと」「薬師堂の入仏 は須走村が行うこと」「内院散銭は一番拾いを大宮と須走で6:4で分け、2番拾 いは須走が得るものとする」という決定となり、以後これらは遵守された。安永の 争論安永元年(1772年)に、須走村が山頂の支配権は同村の支配にあるとして 浅間大社を相手として訴えた争論が安永の争論である。またこれをみた浅間大社側 の富士民済も反論を起こした。さらに吉田村と浅間大社とで支配地域を確定する争 論もあったため、ここに大宮・新規参入である吉田と須走の争いの決着が望まれる こととなり、勘定奉行なども関わる大論争となった。安永8年(1779年)に持 ち越されることとなった。結論は徳川家康が富士山本宮浅間大社を信奉していたと いう幕府側の配慮があり、勘定奉行・町奉行・寺社奉行のいわゆる三奉行による裁 許で、最終的に富士山の8合目より上は、富士山本宮浅間大社持ちとすることが決 定された。この2者の争論を起因とする裁判により、これまで曖昧であった山頂の 支配権やその他権利の所在などが、江戸幕府により明確に定められることとなった 。富士山と眺望特別名勝としての富士山富士山は昭和27年(1952年)10月 7日に「名勝」に指定され、同年11月22日に「特別名勝」に指定された。山梨 県側は富士吉田市・船津村(現・富士河口湖町)・鳴沢村・中野村(現・山中湖村 )の範囲が指定された。静岡県側は御中道に囲まれる地域全部および富士宮口登山 道(富士宮市)と御殿場口登山道(御殿場市)を挟む標高1,500m以上の地域 、またこれと重複しない一合目以上御中道に至る富士宮口登山道および須走口登山 道(小山町)が範囲となっている。富士山の眺望ウィキメディア・コモンズには、 各地点からの富士山の眺望に関連するカテゴリがあります。富士山への良好な眺望 が得られる128景233地点を、国土交通省関東地方整備局が関東の富士見百景 として、2005年(平成17年)に選定した。羽田空港から西に向かう国内便な どでは富士山の上空を通過する。その際、機長が富士山を案内するアナウンスをす http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515478893/92
93: 底名無し沼さん (ワッチョイ ef0c-jocT) [sage] 2018/01/10(水) 07:11:07.64 ID:He8C3ID40 で支配地域を確定する争論もあったため、ここに大宮・新規参入 である吉田と須走の争いの決着が望まれることとなり、勘定奉行 なども関わる大論争となった。安永8年(1779年)に持ち越 されることとなった。結論は徳川家康が富士山本宮浅間大社を信 奉していたという幕府側の配慮があり、勘定奉行・町奉行・寺社 奉行のいわゆる三奉行による裁許で、最終的に富士山の8合目よ り上は、富士山本宮浅間大社持ちとすることが決定された。この 2者の争論を起因とする裁判により、これまで曖昧であった山頂 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515478893/93
94: 底名無し沼さん (ワッチョイ ef0c-8avC) [sage] 2018/01/10(水) 07:11:38.94 ID:He8C3ID40 ることが多い。また、新年のご来光を見るための遊覧飛行便も運行される。富士山 の眺望の最遠は2013年現在、和歌山県那智勝浦町である。那智勝浦の色川富士 見峠(妙法山とは別)は、富士山頂からの距離は322.9キロで、一番遠く最も 西にあるとされる。また、眺望の北限は2017年1月16日に福島県川俣町と飯 舘村にまたがる花塚山(標高919m)と日本地図センターにより認定された(富 士山からは308kmの距離にある)。南東方向に約271Km離れた八丈島の三 原山からも眺望される。富士山の見える都道府県は、理論上可能とされていた京都 府から2014年に撮影に成功したことにより、20都道府県となった。様々な表 情の富士山富士山の表情は、見る場所・角度・季節・時間によって様々に変化する 。富士と名が付く、いくつかの姿がある。画像富士山の姿解説赤富士夏の朝、露出 した山肌が朝焼けにより赤くなった姿。葛飾北斎をはじめとした画家が「赤富士」 を描いた絵画を残した。紅富士雪化粧した富士山が朝日や夕日で紅色に染まる姿。 「モルゲンロート」(ドイツ語Morgenrot)が用いられる場合がある。逆 さ富士波立ちが少ない水面に映る逆さの富士山の光景。D五千円券の裏の図案に、 本栖湖の逆さ富士が使用された。竜ヶ岳(山梨県)から望む日の出時のダイヤモン ド富士(2015年12月5日撮影)ダイヤモンド富士太陽が昇った時又は沈む時 、太陽が富士山の頂上と重なり、富士山の頂上付近がダイヤモンドのように光る現 象。富士山が見える西又は東の場所から、年に2回見ることができる。影富士朝日 や夕日で富士山の山容の影が周囲に映し出される風景。富士山登山時に山の上部か ら、雲海の上に見られる場合がある。笠雲笠雲とレンズ雲を伴う。富士山の頂上に 傘をかぶせた雲がある風景。その際は、次第に麓では曇りまたは雨になることが多 い。「表富士」と「裏富士」『不二三十六景甲斐夢山裏富士』現在も富士山の山小 屋や登山道の道標として「表口」や「裏口」という表現がみられ、一般的に静岡県 から見た富士山を表富士、山梨県からの姿を裏富士として認知されているが、これ http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515478893/94
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