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【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)【ダメ工作員】 (353レス)
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(ワッチョイ ef0c-aKZ8)
2018/01/10(水)06:34
ID:drxMNnZ10(11/104)
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79: (ワッチョイ ef0c-aKZ8) [sage] 2018/01/10(水) 06:34:24.54 ID:drxMNnZ10 記録は改訂されたものの「世界初の登山」という記述がされて いた。貞観17年875年平安時代の学者である都良香が『富 士山記』の中で山頂火口のさまを記す。山頂には常に沸き立つ 火口湖があり、そのほとりに虎の姿に似た岩があるなど、実際 に見た者でなければ知りえない描写から、実際に登頂したか、 または登頂した者に取材したと考えられる。なおこの約10年 前には山頂噴火ではないが有史最大の貞観大噴火があった。久 安5年1149年『本朝世紀』には末代上人が数百回の登山を 繰りかえしたとある。回数は一致するものかは不明であるが、 登山を多く行った人物として知られる。江戸時代に入ると富士 講が盛んになり、多くの参拝者が富士登山(富士詣)をした。 特に江戸後期には講社が多数存在し、富士詣は地域社会や村落 共同体の代参講としての性格を持っていた。最盛期には吉田口 だけで百軒近くの宿坊(山小屋)があった。文政11年182 8年気圧計による高度測定の試みシーボルトの弟子である二宮 敬作が登頂し、気圧の変化により高度測定を行った。伊能忠敬 の測量では2603m−3732mとされていたが、この測定 では3794.5mと算出されている。天保3年1832年高 山たつが女性として初登頂。女人禁制が敷かれていた時代であ る。嘉永6年1852年松平宗秀(本庄宗秀)が近世大名とし て初登頂。富士宮市の有形文化財となっている、造り酒屋の主 人が記した「袖日記」という古記録に宮津藩主松平宗秀が富士 登山を行った記録がある。袖日記の6番によると、宗秀は江戸 と宮津を参勤交代で往復しているうちに富士山に登ろうと思い 始めたが、参勤交代の道程は幕府に指定されたルートであり、 これを逸脱したコースを通ったり、たとえ社寺参詣であっても 寄り道することは許されないため、富士に登ることを幕府に願 い出るも中々許可が出ず、3年を経て許可を得るも「馬返し」 と呼ばれる地点までであった。(馬返しというのは一合目より も下の場所であり、登山客はここで馬を下りて山に登るという 所)そこで宗秀は嘉永6年(1852)6月21日、幕府に内 緒で登山を決意し、明け方から出発して山を登り始め、昼過ぎ http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515478893/79
記録は改訂されたものの世界初の登山という記述がされて いた貞観17年875年平安時代の学者である都良香が富 士山記の中で山頂火口のさまを記す山頂には常に沸き立つ 火口湖がありそのほとりに虎の姿に似た岩があるなど実際 に見た者でなければ知りえない描写から実際に登頂したか または登頂した者に取材したと考えられるなおこの約10年 前には山頂噴火ではないが有史最大の貞観大噴火があった久 安5年1149年本朝世紀には末代上人が数百回の登山を 繰りかえしたとある回数は一致するものかは不明であるが 登山を多く行った人物として知られる江戸時代に入ると富士 講が盛んになり多くの参拝者が富士登山富士詣をした 特に江戸後期には講社が多数存在し富士詣は地域社会や村落 共同体の代参講としての性格を持っていた最盛期には吉田口 だけで百軒近くの宿坊山小屋があった文政11年182 8年気圧計による高度測定の試みシーボルトの弟子である二宮 敬作が登頂し気圧の変化により高度測定を行った伊能忠敬 の測量では26033732とされていたがこの測定 では37945と算出されている天保3年1832年高 山たつが女性として初登頂女人禁制が敷かれていた時代であ る嘉永6年1852年松平宗秀本庄宗秀が近世大名とし て初登頂富士宮市の有形文化財となっている造り酒屋の主 人が記した袖日記という古記録に宮津藩主松平宗秀が富士 登山を行った記録がある袖日記の6番によると宗秀は江戸 と宮津を参勤交代で往復しているうちに富士山に登ろうと思い 始めたが参勤交代の道程は幕府に指定されたルートであり これを逸脱したコースを通ったりたとえ社寺参詣であっても 寄り道することは許されないため富士に登ることを幕府に願 い出るも中許可が出ず3年を経て許可を得るも馬返し と呼ばれる地点までであった馬返しというのは一合目より も下の場所であり登山客はここで馬を下りて山に登るという 所そこで宗秀は嘉永6年18526月21日幕府に内 緒で登山を決意し明け方から出発して山を登り始め昼過ぎ
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