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【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)6【ダメ工作員】 (335レス)
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)6【ダメ工作員】 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/
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115: 底名無し沼さん (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) [sage] 2018/01/12(金) 02:26:30.92 ID:ncJKes9f0 に覆われ壊滅したが、江戸幕府の支援を受け、翌年の登拝期までには復興を完了し 、多くの登拝者を集めた。18世紀半ばには800名前後に減少したとの資料があ るが、18世紀後半、相模の大山石尊や関本の道了尊とセットにされた参詣の流行 で登拝者数は増加し、年平均約1万人、1800年の御縁年に23,700人とピ ークを迎えた。登拝者は関東地方の富士講関係者が多く、東北地方からの登拝者も 見られる。講によっては吉田口から登山し、砂道で下山に適した須走口へ下山する 形をとった。また、1831年、須走口山頂部に宝経塔が作られたことにより、日 蓮宗の信徒による登拝も増加した。1889年の東海道線開通による御殿場口、お よび1903年の中央線開通による吉田口の利便性の向上で、距離が長い須走口は 敬遠されるが、御殿場口の下山道として利用され続けた。1909年より登山道の 周囲に石垣を築き、1916年には、八合目まで馬による登山が可能になった。八 合目以上は浅間大社境内地という理由で馬の利用は行われなかった。また、192 3年に皇太子(昭和天皇)の登山に利用されている。1959年、バス道路(現ふ じあざみライン)の完成により、五合目以下の登山道の利用は減少し、一部登山道 としての確認ができない区間がある。写真須走口登山道の写真A5吉田口登山道北 口本宮冨士浅間神社を起点とし、富士山頂を目指す道である。15世紀には、富士 山への登拝が、修験者だけでなく、ごく一般の人々の間にも広まっていた。吉田口 は14世紀後半には参詣の道者のための宿坊もでき始め、大勢の人々が登るための 設備が整うようになった。16世紀から17世紀、長谷川角行が吉田口を利用して 修行を行い、18世紀前半には富士講隆盛の礎を築いた食行身禄は、入定(宗教的 自殺)にあたって信者の登山本道をこの吉田口と定めた。このため、富士講の信者 が次第に増加した18世紀後半以降は、年間数万人を数える富士講の道者が登拝し たとされる。1964年に富士山有料道路が開通した後は、ほとんどの登山者が新 五合目(小御岳)を起点として登るようになったため、五合目以下の道を利 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/115
116: 底名無し沼さん (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) [sage] 2018/01/12(金) 02:32:28.27 ID:ncJKes9f0 現在の地に移転されたとされる。創建当時は富士山の噴火が盛ん であり、これを畏れ鎮めることを信仰の目的としていた。朝廷も 浅間大神に他の山よりも高い神階を与えることで崇敬の念を示し た。12世紀後半ごろには、浅間大神は本地垂迹説の影響を受け 大日如来の垂迹である「浅間大菩薩」と見なされるようになり、 12世紀頃より政治の実権を掌握した武士階級に戦勝の神 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/116
117: 底名無し沼さん (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) [sage] 2018/01/12(金) 02:32:53.15 ID:ncJKes9f0 登山者は激減したが、六合目以上については、現在残る登山道の中で最も多くの道 者(外の登山口の合計と同程度)が吉田口登山道を上って山頂を目指している。し かも、古道としては唯一徒歩で麓から頂上まで登れる重要な道である。写真吉田口 登山道の写真表法的保護、修理・整備の経緯1924年所在地が史蹟名勝天然紀念 物保存法の下に名勝に仮指定1936年所在地が国立公園法の下に(富士箱根)国 立公園に指定1952年所在地が文化財保護法の下に名勝、ついで特別名勝に指定 1978年「特別名勝富士山保存管理計画」策定(1999年、2006年改訂) 1996年歴史の道整備活用事業により馬返〜1合目区間を発掘調査・整備199 9年「特別名勝富士山保存管理計画」を改訂2006年「特別名勝富士山保存管理 計画」を改訂2011年文化財保護法の下に他の文化財とともに登山道の一部を史 跡富士山として指定−26−2011年「史跡富士山保存管理計画」を策定(予定 )A6北口本宮冨士浅間神社富士山北麓、吉田口登山道の起点に位置し、祭神とし て木花開花姫命、天津彦彦火瓊瓊杵命、大山祇命を祀る神社である。富士山の遙拝 所に祀られていた浅間明神(富士山の荒ぶる神)を起源とし、1480年には「富 士山」の鳥居が建立され、16世紀半ばには浅間神社の社殿が整っていたとされる 。当神社は領主からの崇敬が厚く、境内に現存する3つの社殿は、1561年、1 594年、1615年にそれぞれ当時の領主が寄進したものである。富士講とのつ ながりが強く、1730年には富士講の指導者である村上光清の寄進によって境内 の建造物群の修復工事が行われ、現在にみる境内の景観の礎が形成された。北口本 宮冨士浅間神社の支配権は外川家、小佐野家などの吉田の御師に所属しており、神 社の管理も御師団の中から選ばれた者に委ねられていた。社殿の背後に登山門があ り、この神社を起点として富士山頂まで吉田口登山道が伸びている。富士講や吉田 御師と密接な関係を持ちながら発展した神社である。写真北口本宮冨士浅間神社の 写真(本殿、西宮本殿、東宮本殿)表法的保護、修理・整備の経緯1907 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/117
118: 底名無し沼さん (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) [sage] 2018/01/12(金) 02:33:10.70 ID:nhLYBjhR0 された「湖畔の春」という写真は有名である。この写真は、1 984年に採用された5千円札及び2004年に採用された千 円札の図柄として使用された。山体の裾野が湖まで広がり一体 の景観を構成している本栖湖からの展望は、「湖畔の春」に撮 影された富士山とほぼ同じ姿のまま現在も残している。写真本 栖湖の写真表法的保護、修理・整備の経緯(A7・A8・A9 )1936年所在地が国立公園法の下に(富士箱根)国立公園 に指定1988年「山梨県富士五湖の静穏の保全に関する条例 」を制定2006年自然公園法の下に本栖湖の湖面全域での動 力船の使用が規制される2011年文化財保護法の下に名勝に 指定(予定)2011年「名勝富士五湖保存管理計画」を策定 (予定)(2)信仰B1富士山本宮浅間大社富士山の南西麓に 位置する神社であり、この神社とともに発展してきた富士宮市 の中央部に所在する。富士山の神とされる木花之佐久夜毘売命 を主祭神とし、現在全国に約1300社ある浅間神社の総本宮 とされている。境内には登拝の際に水垢離場として使用された 湧玉池がある。浅間大社は7世紀ごろ、富士山により近い遥拝 所であった山宮浅間神社から現在の地に移転されたとされる。 創建当時は富士山の噴火が盛んであり、これを畏れ鎮めること を信仰の目的としていた。朝廷も浅間大神に他の山よりも高い 神階を与えることで崇敬の念を示した。12世紀後半ごろには 、浅間大神は本地垂迹説の影響を受け大日如来の垂迹である「 浅間大菩薩」と見なされるようになり、12世紀頃より政治の 実権を掌握した武士階級に戦勝の神として信仰された。15世 紀ごろ、登拝が盛んになるにつれて、浅間大社は村山浅間神社 とともに大宮・村山口登山道の起点となり、宿坊が周辺に建設 された。16世紀ごろ、浅間大社は湧玉池での水垢離を重要な 儀式と位置づけることによって、浅間大社を経由した登拝を喧 伝した。同時期の絵図である絹本著色富士曼荼羅図には、浅間 大社・湧玉池及び村山浅間神社を経由して登山する人々の姿が 描かれている。登拝の拡大に伴い、富士山中での諸権利が構築 されていく中で、浅間大社は徳川家康の庇護の下、16 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/118
119: 底名無し沼さん (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) [sage] 2018/01/12(金) 02:39:15.18 ID:ncJKes9f0 信仰された。15世紀ごろ、登拝が盛んになるにつれて、浅間大 社は村山浅間神社とともに大宮・村山口登山道の起点となり、宿 坊が周辺に建設された。16世紀ごろ、浅間大社は湧玉池での水 垢離を重要な儀式と位置づけることによって、浅間大社を経由し た登拝を喧伝した。同時期の絵図である絹本著色富士曼荼羅図に は、浅間大社・湧玉池及び村山浅間神社を経由して登山する人々 の姿が描かれている。登拝の拡大に伴い、富士山中での諸権利が 構築されていく中で、浅間大社は徳川家康の庇護の下、1604 年現在の社殿が造営されるとともに、1609年山頂部の散銭取 得における優先権を得た。これを基に浅間大社は山頂部の管理・ 支配を行うようになった。ただし、大宮・村山口登山道と頂上部 の大日堂周辺は−28−村山浅間神社が支配し、廃仏毀釈以降、 村山浅間神社の衰退と1906年の村山浅間神社を経由しない登 山道の開削などにより、浅間大社には多くの参拝者が訪れた。ま た、明治政府の政策により、一時国有地とされていた八合目以上 の土地は1974年の最高裁判決に基づき、2004年浅間大社 に譲渡(返還)された。写真本殿・拝殿+富士山表法的保護、修 理・整備の経緯1907年本殿が古社寺保存法の下に特別保護建 造物に指定1925年本殿・拝殿・楼門等の補修1929年本殿 は国宝保存法制定に伴い国宝に名称変更1934年楼門の修理1 936年袖廊・廻廊を附した1950年本殿は文化財保護法制定 に伴い重要文化財に名称変更1952年本殿の屋根の修理等が行 われた1970年本殿の屋根の修理等が行われた1988年本殿 の屋根の修理等が行われた1996年富士宮市教育委員会が調査 を行った2002年富士宮市教育委員会が調査を行った2005 年本殿の屋根の修理等が行われた2008年財団法人静岡県埋蔵 文化財調査研究所により境内の発掘調査が行われ、その成果に基 づき2010年に「史跡富士山保存管理計画」を策定2010年 文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定湧 玉池は富士山本宮浅間神社境内に所在する面積約2,500uの 池である。池は約1万年前に噴出した万野溶岩流の末端から湧き 出す一日平均14万?(2008年)の水を源としている http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/119
120: 底名無し沼さん (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) [sage] 2018/01/12(金) 02:39:58.31 ID:nhLYBjhR0 現在の社殿が造営されるとともに、1609年山頂部の散銭取 得における優先権を得た。これを基に浅間大社は山頂部の管理 ・支配を行うようになった。ただし、大宮・村山口登山道と頂 上部の大日堂周辺は−28−村山浅間神社が支配し、廃仏毀釈 以降、村山浅間神社の衰退と1906年の村山浅間神社を経由 しない登山道の開削などにより、浅間大社には多くの参拝者が 訪れた。また、明治政府の政策により、一時国有地とされてい た八合目以上の土地は1974年の最高裁判決に基づき http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/120
121: 底名無し沼さん (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) [sage] 2018/01/12(金) 02:46:33.03 ID:ncJKes9f0 のメカニズムは、富士山の標高1000m前後ないしそれ以上の 高所の降水が地下にしみ込み、何層もある溶岩層の間にはさまれ て充満し、それが押し出されるようにして末端から湧出したもの である。浅間大社の位置は、富士山の噴火を湧水によって鎮める 考えや、富士山を聖なる水源の山として崇める考え方から、豊富 な湧水量を持つ湧玉池のほとりに置かれたとされる。この湧水に は灌漑用水としての役割もあり、浅間大社境内の神田の宮では水 徳の神・農業神としての浅間大神に感謝する祭礼が行われている 。池の名前の由来には、地底から玉が湧き出るように湧水してい るためという説や湧く霊たま(神霊)との説等があり、わく玉の 名は10世紀後半の地元支配者による和歌に見られ、湧玉池の名 称は1670年作成の「社頭古絵図」に見られる。湧玉池は浅間 大社に参拝し、富士山をめざす登拝者が身を清める場として使用 された。その様子は「絹本著色富士曼荼羅図」や「富士浅間曼荼 羅図」、17世紀初頭の登山記で確認できる。この絵図では現在 の形状に近い湧玉池が描かれ、水垢離する人々やそのための施設 が見られる。登拝者の水垢離は1920〜30年代まで行われ、 現在では山開きの恒例行事に形を変えて継承されている。また、 湧水は聖なる水として現在でも利用する人が多い。湧玉池および 周辺には様々な宗教に係わる施設があるが、特に池の南端にある 「神幸橋」は、御神幸道の基点であり、現在でも1691年に作 られた石碑がたもとに残されている。−29−写真沸玉池の写真 B2山宮浅間神社浅間大社の北北東約5kmに位置し、木花之佐 久夜毘売命を主祭神とする神社である。その起源は「富士本宮社 記」によれば、山足の地に祀られていた浅間大神を、神話上の英 雄である日本武尊が大神の神威により難を逃れた謝礼に山宮に祀 ったこととされ、これが802年に再び遷され浅間大社となった とする。具体的な創建年代は不詳だが、文献上での初見は155 1年である。神社は神事の際に使用する籠屋以外の建物施設を持 たず、拝殿・本殿等が位置すべき場所には石列でいくつかに区分 された遥拝所が設置されるのみという特異な形態を示している。 この形態は古代からの富士山祭祀の形を止めていると推定 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/121
122: 底名無し沼さん (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) [sage] 2018/01/12(金) 02:46:59.91 ID:ncJKes9f0 5年に本栖湖北西岸の峠道から撮影された「湖畔の春」という写真は有名である。 この写真は、1984年に採用された5千円札及び2004年に採用された千円札 の図柄として使用された。山体の裾野が湖まで広がり一体の景観を構成している本 栖湖からの展望は、「湖畔の春」に撮影された富士山とほぼ同じ姿のまま現在も残 している。写真本栖湖の写真表法的保護、修理・整備の経緯(A7・A8・A9) 1936年所在地が国立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指定1988 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/122
123: 底名無し沼さん (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) [sage] 2018/01/12(金) 02:53:40.86 ID:ncJKes9f0 おり、遥拝所の主軸は富士山方向を向いている。発掘調査では1 2〜15世紀にかけての神事に使用されたと推定される破砕され た土器が遥拝所北側から多数出土し、当神社での宗教活動を裏付 けている。また、遅くとも1577年までには浅間大社との間で 「山宮御神幸」といわれる儀式が開始された。これは4月と11 月に神の宿った鉾を持ち、浅間大社から山宮浅間神社へ行き、神 事を行った後、翌日未明に浅間大社へ戻る行事である。行事の意 味として、現時点では神が4月に旧跡に戻るという解釈と、山に いる神が4月に田の神として里へ降りるという解釈がある。この 行事は1874年まで行われていた。なお、「山宮御神幸」に使 用される経路を御神幸道と称し、浅間大社湧玉池横より発し、約 600m東へ向かった後、ほぼ直角に曲がり直線状に北上して山 宮浅間神社に至る。道の出発点及び途中には1691年に置かれ た距離を示す石碑が少なくとも四箇所残っている。写真山宮浅間 神社の写真B3村山浅間神社山宮浅間神社の南東約4km、富士 山南麓に張り出した標高約500mのバルコニー状地形に位置し 、木花開花姫命を主祭神とする神社である。神社と一体化した範 囲には、現在別の宗教法人となった大日堂・水垢離場・護摩壇な どが存在している。これらは1868年の神仏分離令までは一体 のものであり、富士山興法寺(村山興法寺)と呼ばれていた。な お、周辺には興法寺の維持・運営にあたっていた道者坊の村山三 坊(池西坊・大鏡坊・辻之坊の三箇所)の跡が発掘調査によって 確認されている。その起源は、1149年の記録に見える修行僧 末代上人による富士山頂への大日寺の建立にあるとされる。末代 上人が富士山中又は村山の地に興法寺を建立したとの記録も残さ れている。これらの記録等から、12世紀中ごろに村山周辺にお いて修験道または密教系の宗教活動が行われていたと推測できる 。1259年には、現存する大日如来が寄進されたことを仏像の 銘で確認できる。末代以後、その流れを汲み富士山で修行する人 々が現れ、村山が富士山修験道(富士行)の拠点となったと考え られる。14世紀初めには僧の頼尊が修験者とその活動を組織化 し、興法寺を再興したとされる。15世紀に入ると興法寺 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/123
124: 底名無し沼さん (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) [sage] 2018/01/12(金) 02:54:04.69 ID:ncJKes9f0 梨県富士五湖の静穏の保全に関する条例」を制定2006年自然公園法の下に本栖 湖の湖面全域での動力船の使用が規制される2011年文化財保護法の下に名勝に 指定(予定)2011年「名勝富士五湖保存管理計画」を策定(予定)(2)信仰 B1富士山本宮浅間大社富士山の南西麓に位置する神社であり、この神社とともに 発展してきた富士宮市の中央部に所在する。富士山の神とされる木花之佐久夜毘売 命を主祭神とし、現在全国に約1300社ある浅間神社の総本宮とされている。境 内には登拝の際に水垢離場として使用された湧玉池がある。浅間大社は7世紀ごろ 、富士山により近い遥拝所であった山宮浅間神社から現在の地に移転されたとされ る。創建当時は富士山の噴火が盛んであり、これを畏れ鎮めることを信仰の目的と していた。朝廷も浅間大神に他の山よりも高い神階を与えることで崇敬の念を示し た。12世紀後半ごろには、浅間大神は本地垂迹説の影響を受け大日如来の垂迹で ある「浅間大菩薩」と見なされるようになり、12世紀頃より政治の実権を掌握し た武士階級に戦勝の神として信仰された。15世紀ごろ、登拝が盛んになるにつれ て、浅間大社は村山浅間神社とともに大宮・村山口登山道の起点となり、宿坊が周 辺に建設された。16世紀ごろ、浅間大社は湧玉池での水垢離を重要な儀式と位置 づけることによって、浅間大社を経由した登拝を喧伝した。同時期の絵図である絹 本著色富士曼荼羅図には、浅間大社・湧玉池及び村山浅間神社を経由して登山する 人々の姿が描かれている。登拝の拡大に伴い、富士山中での諸権利が構築されてい く中で、浅間大社は徳川家康の庇護の下、1604年現在の社殿が造営されるとと もに、1609年山頂部の散銭取得における優先権を得た。これを基に浅間大社は 山頂部の管理・支配を行うようになった。ただし、大宮・村山口登山道と頂上部の 大日堂周辺は−28−村山浅間神社が支配し、廃仏毀釈以降、村山浅間神社の衰退 と1906年の村山浅間神社を経由しない登山道の開削などにより、浅間大社には 多くの参拝者が訪れた。また、明治政府の政策により、一時国有地とされて http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/124
125: 底名無し沼さん (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) [sage] 2018/01/12(金) 02:54:22.13 ID:nhLYBjhR0 る。この絵図では現在の形状に近い湧玉池が描かれ、水垢離す る人々やそのための施設が見られる。登拝者の水垢離は192 0〜30年代まで行われ、現在では山開きの恒例行事に形を変 えて継承されている。また、湧水は聖なる水として現在でも利 用する人が多い。湧玉池および周辺には様々な宗教に係わる施 設があるが、特に池の南端にある「神幸橋」は、御神幸道の基 点であり、現在でも1691年に作られた石碑がたもとに残さ れている。−29−写真沸玉池の写真B2山宮浅間神社浅間大 社の北北東約5kmに位置し、木花之佐久夜毘売命を主祭神と する神社である。その起源は「富士本宮社記」によれば、山足 の地に祀られていた浅間大神を、神話上の英雄である日本武尊 が大神の神威により難を逃れた謝礼に山宮に祀ったこととされ 、これが802年に再び遷され浅間大社となったとする。具体 的な創建年代は不詳だが、文献上での初見は1551年である 。神社は神事の際に使用する籠屋以外の建物施設を持たず、拝 殿・本殿等が位置すべき場所には石列でいくつかに区分された 遥拝所が設置されるのみという特異な形態を示している。この 形態は古代からの富士山祭祀の形を止めていると推定されてお り、遥拝所の主軸は富士山方向を向いている。発掘調査では1 2〜15世紀にかけての神事に使用されたと推定される破砕さ れた土器が遥拝所北側から多数出土し、当神社での宗教活動を 裏付けている。また、遅くとも1577年までには浅間大社と の間で「山宮御神幸」といわれる儀式が開始された。これは4 月と11月に神の宿った鉾を持ち、浅間大社から山宮浅間神社 へ行き、神事を行った後、翌日未明に浅間大社へ戻る行事であ る。行事の意味として、現時点では神が4月に旧跡に戻るとい う解釈と、山にいる神が4月に田の神として里へ降りるという 解釈がある。この行事は1874年まで行われていた。なお、 「山宮御神幸」に使用される経路を御神幸道と称し、浅間大社 湧玉池横より発し、約600m東へ向かった後、ほぼ直角に曲 がり直線状に北上して山宮浅間神社に至る。道の出発点及び途 中には1691年に置かれた距離を示す石碑が少なくと http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/125
126: 底名無し沼さん (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) [sage] 2018/01/12(金) 03:00:32.21 ID:ncJKes9f0 を支える宿坊の存在が現存する大日如来の銘(1478)で確認 できる。1482年には修験道本山派の本寺である聖護院と関係 を持ち、その権威を高めた。16世紀中には十数軒あった道者坊 が村山三坊に統合され、その活動を資料で確認できる。坊に所属 する山伏は夏に「富士峯修行」を山中及び山頂で行った。また、 富士山への一般の登拝者も増加し、夜間に白装束をまとい、仏が いるとされた山頂を目指す多くの人々の様子が「絹本著色富士曼 荼羅図」に描かれている。村山の山伏は、富士峰修行の際 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/126
127: 底名無し沼さん (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) [sage] 2018/01/12(金) 03:00:59.20 ID:ncJKes9f0 合目以上の土地は1974年の最高裁判決に基づき、2004年浅間大社に譲渡( 返還)された。写真本殿・拝殿+富士山表法的保護、修理・整備の経緯1907年 本殿が古社寺保存法の下に特別保護建造物に指定1925年本殿・拝殿・楼門等の 補修1929年本殿は国宝保存法制定に伴い国宝に名称変更1934年楼門の修理 1936年袖廊・廻廊を附した1950年本殿は文化財保護法制定に伴い重要文化 財に名称変更1952年本殿の屋根の修理等が行われた1970年本殿の屋根の修 理等が行われた1988年本殿の屋根の修理等が行われた1996年富士宮市教育 委員会が調査を行った2002年富士宮市教育委員会が調査を行った2005年本 殿の屋根の修理等が行われた2008年財団法人静岡県埋蔵文化財調査研究所によ り境内の発掘調査が行われ、その成果に基づき2010年に「史跡富士山保存管理 計画」を策定2010年文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として 指定湧玉池は富士山本宮浅間神社境内に所在する面積約2,500uの池である。 池は約1万年前に噴出した万野溶岩流の末端から湧き出す一日平均14万?(20 08年)の水を源としている。湧水のメカニズムは、富士山の標高1000m前後 ないしそれ以上の高所の降水が地下にしみ込み、何層もある溶岩層の間にはさまれ て充満し、それが押し出されるようにして末端から湧出したものである。浅間大社 の位置は、富士山の噴火を湧水によって鎮める考えや、富士山を聖なる水源の山と して崇める考え方から、豊富な湧水量を持つ湧玉池のほとりに置かれたとされる。 この湧水には灌漑用水としての役割もあり、浅間大社境内の神田の宮では水徳の神 ・農業神としての浅間大神に感謝する祭礼が行われている。池の名前の由来には、 地底から玉が湧き出るように湧水しているためという説や湧く霊たま(神霊)との 説等があり、わく玉の名は10世紀後半の地元支配者による和歌に見られ、湧玉池 の名称は1670年作成の「社頭古絵図」に見られる。湧玉池は浅間大社に参拝し 、富士山をめざす登拝者が身を清める場として使用された。その様子は「絹 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/127
128: 底名無し沼さん (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) [sage] 2018/01/12(金) 03:01:17.73 ID:nhLYBjhR0 所残っている。写真山宮浅間神社の写真B3村山浅間神社山宮 浅間神社の南東約4km、富士山南麓に張り出した標高約50 0mのバルコニー状地形に位置し、木花開花姫命を主祭神とす る神社である。神社と一体化した範囲には、現在別の宗教法人 となった大日堂・水垢離場・護摩壇などが存在している。これ らは1868年の神仏分離令までは一体のものであり、富士山 興法寺(村山興法寺)と呼ばれていた。なお、周辺には興法寺 の維持・運営にあたっていた道者坊の村山三坊(池西坊・大鏡 坊・辻之坊の三箇所)の跡が発掘調査によって確認されている 。その起源は、1149年の記録に見える修行僧末代上人によ る富士山頂への大日寺の建立にあるとされる。末代上人が富士 山中又は村山の地に興法寺を建立したとの記録も残されている 。これらの記録等から、12世紀中ごろに村山周辺において修 験道または密教系の宗教活動が行われていたと推測できる。1 259年には、現存する大日如来が寄進されたことを仏像の銘 で確認できる。末代以後、その流れを汲み富士山で修行する人 々が現れ、村山が富士山修験道(富士行)の拠点となったと考 えられる。14世紀初めには僧の頼尊が修験者とその活動を組 織化し、興法寺を再興したとされる。15世紀に入ると興法寺 とそれを支える宿坊の存在が現存する大日如来の銘(1478 )で確認できる。1482年には修験道本山派の本寺である聖 護院と関係を持ち、その権威を高めた。16世紀中には十数軒 あった道者坊が村山三坊に統合され、その活動を資料で確認で きる。坊に所属する山伏は夏に「富士峯修行」を山中及び山頂 で行った。また、富士山への一般の登拝者も増加し、夜間に白 装束をまとい、仏がいるとされた山頂を目指す多くの人々の様 子が「絹本著色富士曼荼羅図」に描かれている。村山の山伏は 、富士峰修行の際に東麓、南麓の村を年一回巡回し加持祈祷等 を行った。また18世紀、富士講の隆盛に対抗し西日本の一般 登拝者中の有力者に対して「先達」の免許を発行し組織化を図 ると−30−ともに、登拝が困難な人々に対しては川辺で垢離 を取り、祈ることで登拝と同等の利益があるとする「富 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/128
129: 底名無し沼さん (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) [sage] 2018/01/12(金) 03:07:44.82 ID:ncJKes9f0 、南麓の村を年一回巡回し加持祈祷等を行った。また18世紀、 富士講の隆盛に対抗し西日本の一般登拝者中の有力者に対して「 先達」の免許を発行し組織化を図ると−30−ともに、登拝が困 難な人々に対しては川辺で垢離を取り、祈ることで登拝と同等の 利益があるとする「富士垢離」の手法を広めている。加えて富士 山を航海の目印とする伊豆半島の漁業者に対しては航海安全と大 漁の祈願を行った。興法寺の勢力は地元支配者である今川氏の支 援を受けていた16世紀前半が最も強かったが、それ以降衰退し つつも聖護院の力を背景に一定の権威をもち、登山道及びその頂 上部の大日堂周辺を支配した。社殿については、1697年徳川 幕府により修復され、現在の大日堂は建築様式や部材の状況から 19世紀半ばに建立されたと推定される。また、浅間神社は19 13年改築されたものを基本としている。1868年、神仏分離 令により浅間神社と興法寺(大日堂)は分離され、山伏は還俗し 、1906年の登山道の変化にも伴い両者とも衰微した。ただし 、富士峰修行と加持祈祷は1940年代まで継続された。現在は 1970年代より活発になった地域住民による伝統復活のための 活動が見られ、水垢離等の行事が行われている。また、村山浅間 神社の影響を受けた地域のうち、滋賀県甲賀市、三重県南伊勢町 等では現在でも富士垢離の行事が継続されている。写真村山浅間 神社の写真B−4須山浅間神社富士山の南東麓、須山口登山道の 入り口に位置し、木花開花姫命を主祭神とする神社である。その 起源は1598年作の社伝旧記によると110年、日本武尊が蝦 夷征伐の際、この地を訪れ浅間神社を創起し、さらに552年有 力豪族の蘇我稲目が再興したとある。記録上神社の存在が確認で きるのは1524年で修築時の棟札による。また、市天然記念物 である境内の杉は、樹齢500年以上と推定されており、遅くと もこの時期までに須山浅間神社が現在の地に存在したと推測でき る。現在の社殿は1823年の再建である。1707年の宝永噴 火により登山道も含め大きな被害を受けたが、1780年に登山 道が再興され、1800年の御縁年には約5,400人の登拝者 があった。須山浅間神社は12軒の御師とともに当時の須 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/129
130: 底名無し沼さん (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) [sage] 2018/01/12(金) 03:08:12.68 ID:ncJKes9f0 富士曼荼羅図」や「富士浅間曼荼羅図」、17世紀初頭の登山記で確認できる。こ の絵図では現在の形状に近い湧玉池が描かれ、水垢離する人々やそのための施設が 見られる。登拝者の水垢離は1920〜30年代まで行われ、現在では山開きの恒 例行事に形を変えて継承されている。また、湧水は聖なる水として現在でも利用す る人が多い。湧玉池および周辺には様々な宗教に係わる施設があるが、特に池の南 端にある「神幸橋」は、御神幸道の基点であり、現在でも1691年に作られた石 碑がたもとに残されている。−29−写真沸玉池の写真B2山宮浅間神社浅間大社 の北北東約5kmに位置し、木花之佐久夜毘売命を主祭神とする神社である。その 起源は「富士本宮社記」によれば、山足の地に祀られていた浅間大神を、神話上の 英雄である日本武尊が大神の神威により難を逃れた謝礼に山宮に祀ったこととされ 、これが802年に再び遷され浅間大社となったとする。具体的な創建年代は不詳 だが、文献上での初見は1551年である。神社は神事の際に使用する籠屋以外の 建物施設を持たず、拝殿・本殿等が位置すべき場所には石列でいくつかに区分され た遥拝所が設置されるのみという特異な形態を示している。この形態は古代からの 富士山祭祀の形を止めていると推定されており、遥拝所の主軸は富士山方向を向い ている。発掘調査では12〜15世紀にかけての神事に使用されたと推定される破 砕された土器が遥拝所北側から多数出土し、当神社での宗教活動を裏付けている。 また、遅くとも1577年までには浅間大社との間で「山宮御神幸」といわれる儀 式が開始された。これは4月と11月に神の宿った鉾を持ち、浅間大社から山宮浅 間神社へ行き、神事を行った後、翌日未明に浅間大社へ戻る行事である。行事の意 味として、現時点では神が4月に旧跡に戻るという解釈と、山にいる神が4月に田 の神として里へ降りるという解釈がある。この行事は1874年まで行われていた 。なお、「山宮御神幸」に使用される経路を御神幸道と称し、浅間大社湧玉池横よ り発し、約600m東へ向かった後、ほぼ直角に曲がり直線状に北上して山 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/130
131: 底名無し沼さん (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) [sage] 2018/01/12(金) 03:08:30.23 ID:nhLYBjhR0 」の手法を広めている。加えて富士山を航海の目印とする伊豆 半島の漁業者に対しては航海安全と大漁の祈願を行った。興法 寺の勢力は地元支配者である今川氏の支援を受けていた16世 紀前半が最も強かったが、それ以降衰退しつつも聖護院の力を 背景に一定の権威をもち、登山道及びその頂上部の大日堂周辺 を支配した。社殿については、1697年徳川幕府により修復 され、現在の大日堂は建築様式や部材の状況から19世紀半ば に建立されたと推定される。また、浅間神社は1913 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/131
132: 底名無し沼さん (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) [sage] 2018/01/12(金) 03:14:42.23 ID:ncJKes9f0 中心的存在であり、村全体で須山口登山道と山頂部銀明水を管理 した。また、京都吉田家より神道裁許状を得たり、朝廷・公家に 銀明水を献上したりする等して権威を高めているが、山頂部で発 生した問題については、浅間大社の判断を仰いでいる。須山浅間 神社は村山三坊とも関わりを持ち、1940年頃まで境内で富士 峯修行の一環としての祈祷が行われていた。1883年、御殿場 口登山道が開設され、1899年の東海道本線開通による御殿場 口利便性の向上は須山口からの登拝者や登山者を奪い、加えて1 912年登山道の一部が陸軍演習場となり使用不可能となったた め、須山口は衰退した。しかし、その後都市化の影響を余り受け なかったため、須山浅間神社周辺は日本的伝統に基づく村落景観 を保っている部分が多い。写真須山浅間神社の写真B5冨士浅間 神社富士山東麓、須走口登山道の起点に位置し、木花開花姫命を 主祭神とする神社である。境内西側には鎌倉往還が通り、神社周 辺は古来、交通の要衝であった。社伝では802年、噴火の鎮火 祈願のために祭事を行い、翌年噴火が収まったことから、807 年に祭事の跡地であるとされる現在の地にお礼のために社殿を造 営したとされる。その他の文書で確実に存在が確認できるのは、 1571年のものである。16世紀には地元支配者である武田氏 の保護を受け、山頂部の散銭取得権の一部を得ている。17世紀 以降、須走浅間神社は当時の須走村の御師などと共に須走口登山 道を支配し、山頂部薬師嶽(現−31−久須志岳)の薬師堂開帳 の権利及び山頂部の散銭取得権の一部を得ていた。これら山頂部 の権利については八合目以上の支配権を主張する富士山本宮浅間 大社と争いになり、須走村は1703年と1772年の2回、幕 府に裁定を求めている。この結果、これらの権利は幕府によって 認められた。また、冨士浅間神社神主や御師は須山の場合と同じ く、京都吉田家より神道裁許状を得て権威を高めている。社殿は 、記録の残っている範囲では1662年、地元領主である沼津城 主大久保氏や小田原藩主稲葉氏などの援助によって修造が行われ た。しかし1707年の宝永噴火では3m以上の降砂に埋もれ崩 壊したため、1718年に再建された。この後もこの際の http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/132
133: 底名無し沼さん (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) [sage] 2018/01/12(金) 03:15:08.78 ID:ncJKes9f0 神社に至る。道の出発点及び途中には1691年に置かれた距離を示す石碑が少な くとも四箇所残っている。写真山宮浅間神社の写真B3村山浅間神社山宮浅間神社 の南東約4km、富士山南麓に張り出した標高約500mのバルコニー状地形に位 置し、木花開花姫命を主祭神とする神社である。神社と一体化した範囲には、現在 別の宗教法人となった大日堂・水垢離場・護摩壇などが存在している。これらは1 868年の神仏分離令までは一体のものであり、富士山興法寺(村山興法寺 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/133
134: 底名無し沼さん (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) [sage] 2018/01/12(金) 03:15:23.53 ID:nhLYBjhR0 されたものを基本としている。1868年、神仏分離令により 浅間神社と興法寺(大日堂)は分離され、山伏は還俗し、19 06年の登山道の変化にも伴い両者とも衰微した。ただし、富 士峰修行と加持祈祷は1940年代まで継続された。現在は1 970年代より活発になった地域住民による伝統復活のための 活動が見られ、水垢離等の行事が行われている。また、村山浅 間神社の影響を受けた地域のうち、滋賀県甲賀市、三重県南伊 勢町等では現在でも富士垢離の行事が継続されている。写真村 山浅間神社の写真B−4須山浅間神社富士山の南東麓、須山口 登山道の入り口に位置し、木花開花姫命を主祭神とする神社で ある。その起源は1598年作の社伝旧記によると110年、 日本武尊が蝦夷征伐の際、この地を訪れ浅間神社を創起し、さ らに552年有力豪族の蘇我稲目が再興したとある。記録上神 社の存在が確認できるのは1524年で修築時の棟札による。 また、市天然記念物である境内の杉は、樹齢500年以上と推 定されており、遅くともこの時期までに須山浅間神社が現在の 地に存在したと推測できる。現在の社殿は1823年の再建で ある。1707年の宝永噴火により登山道も含め大きな被害を 受けたが、1780年に登山道が再興され、1800年の御縁 年には約5,400人の登拝者があった。須山浅間神社は12 軒の御師とともに当時の須山村の中心的存在であり、村全体で 須山口登山道と山頂部銀明水を管理した。また、京都吉田家よ り神道裁許状を得たり、朝廷・公家に銀明水を献上したりする 等して権威を高めているが、山頂部で発生した問題については 、浅間大社の判断を仰いでいる。須山浅間神社は村山三坊とも 関わりを持ち、1940年頃まで境内で富士峯修行の一環とし ての祈祷が行われていた。1883年、御殿場口登山道が開設 され、1899年の東海道本線開通による御殿場口利便性の向 上は須山口からの登拝者や登山者を奪い、加えて1912年登 山道の一部が陸軍演習場となり使用不可能となったため、須山 口は衰退した。しかし、その後都市化の影響を余り受けなかっ たため、須山浅間神社周辺は日本的伝統に基づく村落景 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/134
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