[過去ログ] 【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)6【ダメ工作員】 (335レス)
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116: (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金)02:32 ID:ncJKes9f0(45/190) AAS
現在の地に移転されたとされる。創建当時は富士山の噴火が盛ん
であり、これを畏れ鎮めることを信仰の目的としていた。朝廷も
浅間大神に他の山よりも高い神階を与えることで崇敬の念を示し
た。12世紀後半ごろには、浅間大神は本地垂迹説の影響を受け
大日如来の垂迹である「浅間大菩薩」と見なされるようになり、
12世紀頃より政治の実権を掌握した武士階級に戦勝の神
117: (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金)02:32 ID:ncJKes9f0(46/190) AAS
登山者は激減したが、六合目以上については、現在残る登山道の中で最も多くの道
者(外の登山口の合計と同程度)が吉田口登山道を上って山頂を目指している。し
かも、古道としては唯一徒歩で麓から頂上まで登れる重要な道である。写真吉田口
登山道の写真表法的保護、修理・整備の経緯1924年所在地が史蹟名勝天然紀念
物保存法の下に名勝に仮指定1936年所在地が国立公園法の下に(富士箱根)国
立公園に指定1952年所在地が文化財保護法の下に名勝、ついで特別名勝に指定
1978年「特別名勝富士山保存管理計画」策定(1999年、2006年改訂)
1996年歴史の道整備活用事業により馬返〜1合目区間を発掘調査・整備199
9年「特別名勝富士山保存管理計画」を改訂2006年「特別名勝富士山保存管理
計画」を改訂2011年文化財保護法の下に他の文化財とともに登山道の一部を史
省14
118: (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) 2018/01/12(金)02:33 ID:nhLYBjhR0(23/96) AAS
された「湖畔の春」という写真は有名である。この写真は、1
984年に採用された5千円札及び2004年に採用された千
円札の図柄として使用された。山体の裾野が湖まで広がり一体
の景観を構成している本栖湖からの展望は、「湖畔の春」に撮
影された富士山とほぼ同じ姿のまま現在も残している。写真本
栖湖の写真表法的保護、修理・整備の経緯(A7・A8・A9
)1936年所在地が国立公園法の下に(富士箱根)国立公園
に指定1988年「山梨県富士五湖の静穏の保全に関する条例
」を制定2006年自然公園法の下に本栖湖の湖面全域での動
力船の使用が規制される2011年文化財保護法の下に名勝に
省22
119: (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金)02:39 ID:ncJKes9f0(47/190) AAS
信仰された。15世紀ごろ、登拝が盛んになるにつれて、浅間大
社は村山浅間神社とともに大宮・村山口登山道の起点となり、宿
坊が周辺に建設された。16世紀ごろ、浅間大社は湧玉池での水
垢離を重要な儀式と位置づけることによって、浅間大社を経由し
た登拝を喧伝した。同時期の絵図である絹本著色富士曼荼羅図に
は、浅間大社・湧玉池及び村山浅間神社を経由して登山する人々
の姿が描かれている。登拝の拡大に伴い、富士山中での諸権利が
構築されていく中で、浅間大社は徳川家康の庇護の下、1604
年現在の社殿が造営されるとともに、1609年山頂部の散銭取
得における優先権を得た。これを基に浅間大社は山頂部の管理・
省22
120: (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) 2018/01/12(金)02:39 ID:nhLYBjhR0(24/96) AAS
現在の社殿が造営されるとともに、1609年山頂部の散銭取
得における優先権を得た。これを基に浅間大社は山頂部の管理
・支配を行うようになった。ただし、大宮・村山口登山道と頂
上部の大日堂周辺は−28−村山浅間神社が支配し、廃仏毀釈
以降、村山浅間神社の衰退と1906年の村山浅間神社を経由
しない登山道の開削などにより、浅間大社には多くの参拝者が
訪れた。また、明治政府の政策により、一時国有地とされてい
た八合目以上の土地は1974年の最高裁判決に基づき
121: (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金)02:46 ID:ncJKes9f0(48/190) AAS
のメカニズムは、富士山の標高1000m前後ないしそれ以上の
高所の降水が地下にしみ込み、何層もある溶岩層の間にはさまれ
て充満し、それが押し出されるようにして末端から湧出したもの
である。浅間大社の位置は、富士山の噴火を湧水によって鎮める
考えや、富士山を聖なる水源の山として崇める考え方から、豊富
な湧水量を持つ湧玉池のほとりに置かれたとされる。この湧水に
は灌漑用水としての役割もあり、浅間大社境内の神田の宮では水
徳の神・農業神としての浅間大神に感謝する祭礼が行われている
。池の名前の由来には、地底から玉が湧き出るように湧水してい
るためという説や湧く霊たま(神霊)との説等があり、わく玉の
省22
122: (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金)02:46 ID:ncJKes9f0(49/190) AAS
5年に本栖湖北西岸の峠道から撮影された「湖畔の春」という写真は有名である。
この写真は、1984年に採用された5千円札及び2004年に採用された千円札
の図柄として使用された。山体の裾野が湖まで広がり一体の景観を構成している本
栖湖からの展望は、「湖畔の春」に撮影された富士山とほぼ同じ姿のまま現在も残
している。写真本栖湖の写真表法的保護、修理・整備の経緯(A7・A8・A9)
1936年所在地が国立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指定1988
123: (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金)02:53 ID:ncJKes9f0(50/190) AAS
おり、遥拝所の主軸は富士山方向を向いている。発掘調査では1
2〜15世紀にかけての神事に使用されたと推定される破砕され
た土器が遥拝所北側から多数出土し、当神社での宗教活動を裏付
けている。また、遅くとも1577年までには浅間大社との間で
「山宮御神幸」といわれる儀式が開始された。これは4月と11
月に神の宿った鉾を持ち、浅間大社から山宮浅間神社へ行き、神
事を行った後、翌日未明に浅間大社へ戻る行事である。行事の意
味として、現時点では神が4月に旧跡に戻るという解釈と、山に
いる神が4月に田の神として里へ降りるという解釈がある。この
行事は1874年まで行われていた。なお、「山宮御神幸」に使
省22
124: (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金)02:54 ID:ncJKes9f0(51/190) AAS
梨県富士五湖の静穏の保全に関する条例」を制定2006年自然公園法の下に本栖
湖の湖面全域での動力船の使用が規制される2011年文化財保護法の下に名勝に
指定(予定)2011年「名勝富士五湖保存管理計画」を策定(予定)(2)信仰
B1富士山本宮浅間大社富士山の南西麓に位置する神社であり、この神社とともに
発展してきた富士宮市の中央部に所在する。富士山の神とされる木花之佐久夜毘売
命を主祭神とし、現在全国に約1300社ある浅間神社の総本宮とされている。境
内には登拝の際に水垢離場として使用された湧玉池がある。浅間大社は7世紀ごろ
、富士山により近い遥拝所であった山宮浅間神社から現在の地に移転されたとされ
る。創建当時は富士山の噴火が盛んであり、これを畏れ鎮めることを信仰の目的と
していた。朝廷も浅間大神に他の山よりも高い神階を与えることで崇敬の念を示し
省14
125: (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) 2018/01/12(金)02:54 ID:nhLYBjhR0(25/96) AAS
る。この絵図では現在の形状に近い湧玉池が描かれ、水垢離す
る人々やそのための施設が見られる。登拝者の水垢離は192
0〜30年代まで行われ、現在では山開きの恒例行事に形を変
えて継承されている。また、湧水は聖なる水として現在でも利
用する人が多い。湧玉池および周辺には様々な宗教に係わる施
設があるが、特に池の南端にある「神幸橋」は、御神幸道の基
点であり、現在でも1691年に作られた石碑がたもとに残さ
れている。−29−写真沸玉池の写真B2山宮浅間神社浅間大
社の北北東約5kmに位置し、木花之佐久夜毘売命を主祭神と
する神社である。その起源は「富士本宮社記」によれば、山足
省22
126: (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金)03:00 ID:ncJKes9f0(52/190) AAS
を支える宿坊の存在が現存する大日如来の銘(1478)で確認
できる。1482年には修験道本山派の本寺である聖護院と関係
を持ち、その権威を高めた。16世紀中には十数軒あった道者坊
が村山三坊に統合され、その活動を資料で確認できる。坊に所属
する山伏は夏に「富士峯修行」を山中及び山頂で行った。また、
富士山への一般の登拝者も増加し、夜間に白装束をまとい、仏が
いるとされた山頂を目指す多くの人々の様子が「絹本著色富士曼
荼羅図」に描かれている。村山の山伏は、富士峰修行の際
127: (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金)03:00 ID:ncJKes9f0(53/190) AAS
合目以上の土地は1974年の最高裁判決に基づき、2004年浅間大社に譲渡(
返還)された。写真本殿・拝殿+富士山表法的保護、修理・整備の経緯1907年
本殿が古社寺保存法の下に特別保護建造物に指定1925年本殿・拝殿・楼門等の
補修1929年本殿は国宝保存法制定に伴い国宝に名称変更1934年楼門の修理
1936年袖廊・廻廊を附した1950年本殿は文化財保護法制定に伴い重要文化
財に名称変更1952年本殿の屋根の修理等が行われた1970年本殿の屋根の修
理等が行われた1988年本殿の屋根の修理等が行われた1996年富士宮市教育
委員会が調査を行った2002年富士宮市教育委員会が調査を行った2005年本
殿の屋根の修理等が行われた2008年財団法人静岡県埋蔵文化財調査研究所によ
り境内の発掘調査が行われ、その成果に基づき2010年に「史跡富士山保存管理
省14
128: (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) 2018/01/12(金)03:01 ID:nhLYBjhR0(26/96) AAS
所残っている。写真山宮浅間神社の写真B3村山浅間神社山宮
浅間神社の南東約4km、富士山南麓に張り出した標高約50
0mのバルコニー状地形に位置し、木花開花姫命を主祭神とす
る神社である。神社と一体化した範囲には、現在別の宗教法人
となった大日堂・水垢離場・護摩壇などが存在している。これ
らは1868年の神仏分離令までは一体のものであり、富士山
興法寺(村山興法寺)と呼ばれていた。なお、周辺には興法寺
の維持・運営にあたっていた道者坊の村山三坊(池西坊・大鏡
坊・辻之坊の三箇所)の跡が発掘調査によって確認されている
。その起源は、1149年の記録に見える修行僧末代上人によ
省22
129: (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金)03:07 ID:ncJKes9f0(54/190) AAS
、南麓の村を年一回巡回し加持祈祷等を行った。また18世紀、
富士講の隆盛に対抗し西日本の一般登拝者中の有力者に対して「
先達」の免許を発行し組織化を図ると−30−ともに、登拝が困
難な人々に対しては川辺で垢離を取り、祈ることで登拝と同等の
利益があるとする「富士垢離」の手法を広めている。加えて富士
山を航海の目印とする伊豆半島の漁業者に対しては航海安全と大
漁の祈願を行った。興法寺の勢力は地元支配者である今川氏の支
援を受けていた16世紀前半が最も強かったが、それ以降衰退し
つつも聖護院の力を背景に一定の権威をもち、登山道及びその頂
上部の大日堂周辺を支配した。社殿については、1697年徳川
省22
130: (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金)03:08 ID:ncJKes9f0(55/190) AAS
富士曼荼羅図」や「富士浅間曼荼羅図」、17世紀初頭の登山記で確認できる。こ
の絵図では現在の形状に近い湧玉池が描かれ、水垢離する人々やそのための施設が
見られる。登拝者の水垢離は1920〜30年代まで行われ、現在では山開きの恒
例行事に形を変えて継承されている。また、湧水は聖なる水として現在でも利用す
る人が多い。湧玉池および周辺には様々な宗教に係わる施設があるが、特に池の南
端にある「神幸橋」は、御神幸道の基点であり、現在でも1691年に作られた石
碑がたもとに残されている。−29−写真沸玉池の写真B2山宮浅間神社浅間大社
の北北東約5kmに位置し、木花之佐久夜毘売命を主祭神とする神社である。その
起源は「富士本宮社記」によれば、山足の地に祀られていた浅間大神を、神話上の
英雄である日本武尊が大神の神威により難を逃れた謝礼に山宮に祀ったこととされ
省14
131: (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) 2018/01/12(金)03:08 ID:nhLYBjhR0(27/96) AAS
」の手法を広めている。加えて富士山を航海の目印とする伊豆
半島の漁業者に対しては航海安全と大漁の祈願を行った。興法
寺の勢力は地元支配者である今川氏の支援を受けていた16世
紀前半が最も強かったが、それ以降衰退しつつも聖護院の力を
背景に一定の権威をもち、登山道及びその頂上部の大日堂周辺
を支配した。社殿については、1697年徳川幕府により修復
され、現在の大日堂は建築様式や部材の状況から19世紀半ば
に建立されたと推定される。また、浅間神社は1913
132: (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金)03:14 ID:ncJKes9f0(56/190) AAS
中心的存在であり、村全体で須山口登山道と山頂部銀明水を管理
した。また、京都吉田家より神道裁許状を得たり、朝廷・公家に
銀明水を献上したりする等して権威を高めているが、山頂部で発
生した問題については、浅間大社の判断を仰いでいる。須山浅間
神社は村山三坊とも関わりを持ち、1940年頃まで境内で富士
峯修行の一環としての祈祷が行われていた。1883年、御殿場
口登山道が開設され、1899年の東海道本線開通による御殿場
口利便性の向上は須山口からの登拝者や登山者を奪い、加えて1
912年登山道の一部が陸軍演習場となり使用不可能となったた
め、須山口は衰退した。しかし、その後都市化の影響を余り受け
省22
133: (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金)03:15 ID:ncJKes9f0(57/190) AAS
神社に至る。道の出発点及び途中には1691年に置かれた距離を示す石碑が少な
くとも四箇所残っている。写真山宮浅間神社の写真B3村山浅間神社山宮浅間神社
の南東約4km、富士山南麓に張り出した標高約500mのバルコニー状地形に位
置し、木花開花姫命を主祭神とする神社である。神社と一体化した範囲には、現在
別の宗教法人となった大日堂・水垢離場・護摩壇などが存在している。これらは1
868年の神仏分離令までは一体のものであり、富士山興法寺(村山興法寺
134: (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) 2018/01/12(金)03:15 ID:nhLYBjhR0(28/96) AAS
されたものを基本としている。1868年、神仏分離令により
浅間神社と興法寺(大日堂)は分離され、山伏は還俗し、19
06年の登山道の変化にも伴い両者とも衰微した。ただし、富
士峰修行と加持祈祷は1940年代まで継続された。現在は1
970年代より活発になった地域住民による伝統復活のための
活動が見られ、水垢離等の行事が行われている。また、村山浅
間神社の影響を受けた地域のうち、滋賀県甲賀市、三重県南伊
勢町等では現在でも富士垢離の行事が継続されている。写真村
山浅間神社の写真B−4須山浅間神社富士山の南東麓、須山口
登山道の入り口に位置し、木花開花姫命を主祭神とする神社で
省22
135: (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金)03:21 ID:ncJKes9f0(58/190) AAS
使用し、2009年の修理も含め何回かの修理がおこなわれてい
る。境内には水路があり、水垢離に利用された。18世紀末から
19世紀初頭にかけて富士講が隆盛を迎えると須走口にも関東か
らの登拝者が登山又は下山の際立ち寄った。その数は1800年
の御縁年の際に約27,300名であった。同時期から20世紀
前半まで富士講信者は境内に登山回数等の記念碑を約80基造営
した。また、神社には神社神官や御師が発行した木版印刷による
神影や神符の版木が保管されている。写真冨士浅間神社の写真B
6河口浅間神社古くから富士山に関わる祭祀は南麓の浅間神社(
山宮浅間神社か?)が執り行っていたが、864年〜866年に
省22
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