[過去ログ] 【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)6【ダメ工作員】 (335レス)
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87: (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金)01:26 ID:ncJKes9f0(25/190) AAS
る。この範囲は、富士山周辺の主要な神社や景勝地から見た可視
領域が重なり合う範囲であるとともに、各登山道における山体の
神聖性に関する境界の一つである「馬返」の標高とほぼ一致する
。なお、「馬返」とは、乗馬登山が物理的にも、宗教的観点から
も不可能になる地点を示す。景観的には山体の傾斜角の変化率が
大きくなり「平野部」と「山体」の境界として認識され、稜線が
優美な曲線を描き、絵画などの対象とされることが多い範囲であ
る。写真上空から見た写真に資産範囲を線で示したもの(推薦原
案と同じもの)−21−−22−標高約2500m付近の森林限
界より上方は富士講信者には「焼山」と呼ばれ、神聖な地域ある
いは死後世界である「他界」と考えられていた。また、登山道ご
とに標高は異なるが、1779年以降、浅間大社の境内地とされ
てきた八合目以上はより強い神聖性を持つとされる。理由は八合
目の標高とほぼ一致する噴火口である「内院」の底部に浅間大神
が鎮座するとの信仰に基づく。富士山頂へ向かい、登山の歴史の
中で開鑿された登山道が、現在の4本の登山道の起源となってい
る。また、ほぼ森林限界に沿い、富士山山体を一周する「御中道
」が15〜16世紀ごろ富士講の祖とされる長谷川角行によって
開かれたとされ、その後「大沢崩れ」という危険箇所を通るため
、富士講信者により修行の道として利用された。表法的保護、修
理・整備の経緯1924年史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝
に仮指定1936年国立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指
定1952年文化財保護法の下に名勝、ついで特別名勝に指定1
969年国が大沢崩れに対する砂防事業に着手(継続中)199
6年国・県が台風による森林の風倒被害に対する対策に着手(継
続中)「御中道」は、標高2,300m付近から2,800m付
近の山腹を通り、富士山の中腹部を時計回りに一周する約25k
mの道である。「御中道巡り」は、修験道の祖とされる役行者が
始めたと伝えられ、16世紀後半、富士講の基礎を築いた長谷川
角行が行ったことが記録されている。古くは定まった道もなく巡
ったとされ、富士講が盛んになった江戸時代後期には一定の道が
整備された。富士山信仰の上では、山体西側の大沢崩れを
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