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【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)6【ダメ工作員】 (335レス)
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)6【ダメ工作員】 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/
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93: 底名無し沼さん (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) [sage] 2018/01/12(金) 01:40:51.37 ID:ncJKes9f0 2010年文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山と して指定山頂の噴火口の周囲を一周し、頂上の各峰を巡る行為は 、古くから「お鉢巡り」と呼ばれ、現在も多くの人々に受け継が れている。13世紀後半の資料には「いたゞきに八葉の嶺あり」 との記載があり、このころには山頂の峰々に信仰的意義を見出し ていたことが伺える。16世紀前半には地元為政者が「八 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/93
94: 底名無し沼さん (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) [sage] 2018/01/12(金) 01:41:17.06 ID:ncJKes9f0 しさと崇高さを基盤として、日本人の自然に対する信仰のあり方や、日本独自の芸 術文化を育んだ名山でもある。富士山は山岳に対する信仰の在り方や芸術活動など を通じ、時代を超えて一国の文化の諸相と極めて深い関連性を示し、生きた文化的 伝統の物証であるのみならず、人間と自然との良好で継続的な関係を示す景観の傑 出した類型として、世界的にも類例を見ない顕著な普遍的価値を持つ山である。世 界文化遺産としての富士山とは、富士山山体の内、標高約1500m以上の範囲で ある。この範囲は、富士山周辺の主要な神社や景勝地から見た可視領域が重なり合 う範囲であるとともに、各登山道における山体の神聖性に関する境界の一つである 「馬返」の標高とほぼ一致する。なお、「馬返」とは、乗馬登山が物理的にも、宗 教的観点からも不可能になる地点を示す。景観的には山体の傾斜角の変化率が大き くなり「平野部」と「山体」の境界として認識され、稜線が優美な曲線を描き、絵 画などの対象とされることが多い範囲である。写真上空から見た写真に資産範囲を 線で示したもの(推薦原案と同じもの)−21−−22−標高約2500m付近の 森林限界より上方は富士講信者には「焼山」と呼ばれ、神聖な地域あるいは死後世 界である「他界」と考えられていた。また、登山道ごとに標高は異なるが、177 9年以降、浅間大社の境内地とされてきた八合目以上はより強い神聖性を持つとさ れる。理由は八合目の標高とほぼ一致する噴火口である「内院」の底部に浅間大神 が鎮座するとの信仰に基づく。富士山頂へ向かい、登山の歴史の中で開鑿された登 山道が、現在の4本の登山道の起源となっている。また、ほぼ森林限界に沿い、富 士山山体を一周する「御中道」が15〜16世紀ごろ富士講の祖とされる長谷川角 行によって開かれたとされ、その後「大沢崩れ」という危険箇所を通るため、富士 講信者により修行の道として利用された。表法的保護、修理・整備の経緯1924 年史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝に仮指定1936年国立公園法の下に(富 士箱根)国立公園に指定1952年文化財保護法の下に名勝、ついで特別名 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/94
95: 底名無し沼さん (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) [sage] 2018/01/12(金) 01:41:32.72 ID:nhLYBjhR0 様子は19世紀中ごろの絵図によって確認できる。1874年 、山頂の仏教的施設及び仏像は廃仏毀釈の影響によって撤去さ れ、ピークの名称も変更され、寺院は神社に改変された。しか し、山頂部に対する信仰自体は変化することなく、上記の行為 は現代の−23−登山者の多くが行っており、これらを通じて 富士信仰の核心が現代に受け継がれている。写真奥宮の写真表 法的保護、修理・整備の経緯1924年所在地が史蹟名勝天然 紀念物保存法の下に名勝に仮指定1936年所在地が国立公園 法の下に(富士箱根)国立公園に指定1952年所在地が文化 財保護法の下に名勝、ついで特別名勝に指定2008年財団法 人静岡県埋蔵文化財調査研究所により現地調査が行われ、その 成果に基づき2010年に「史跡富士山保存管理計画」が策定 された2010年文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡 富士山として指定山頂の噴火口の周囲を一周し、頂上の各峰を 巡る行為は、古くから「お鉢巡り」と呼ばれ、現在も多くの人 々に受け継がれている。13世紀後半の資料には「いたゞきに 八葉の嶺あり」との記載があり、このころには山頂の峰々に信 仰的意義を見出していたことが伺える。16世紀前半には地元 為政者が「八要メサルヽ也」との記述も見られ、後に盛んにな るお鉢巡りの古態と思われる習俗があったことが知られる。富 士講講中の多くは、頂上に着くと、時計回りに山頂を巡ってい った。内院に賽銭を投じ、御来光を礼拝し、途中にあるいくつ かの仏像や石碑を拝みながら、大日寺(現奥宮)の大日如来、 最高峰の剣ヶ峰、釈迦割石、霊泉とされた金明水などを巡礼し た。写真お鉢めぐりの写真A2大宮・村山口登山道富士山南西 麓の浅間大社及び村山浅間神社を起点とし、山頂大日岳に至る 登山道である。12世紀前半、富士山で修行した末代上人の開 削した登山道が起源だとされ、14世紀初め、僧の頼尊が修験 者とその活動を組織化したことで、村山を基点とする登山が行 われていたことが推測できる。15世紀に入ると村山での宿坊 の存在が確認でき、同世紀前半には、地元支配者である今川氏 により発心門等の施設が寄進されたとの記録がある。今 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/95
96: 底名無し沼さん (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) [sage] 2018/01/12(金) 01:46:54.99 ID:ncJKes9f0 ルヽ也」との記述も見られ、後に盛んになるお鉢巡りの古態と思 われる習俗があったことが知られる。富士講講中の多くは、頂上 に着くと、時計回りに山頂を巡っていった。内院に賽銭を投じ、 御来光を礼拝し、途中にあるいくつかの仏像や石碑を拝みながら 、大日寺(現奥宮)の大日如来、最高峰の剣ヶ峰、釈迦割石、霊 泉とされた金明水などを巡礼した。写真お鉢めぐりの写真A2大 宮・村山口登山道富士山南西麓の浅間大社及び村山浅間神社を起 点とし、山頂大日岳に至る登山道である。12世紀前半、富士山 で修行した末代上人の開削した登山道が起源だとされ、14世紀 初め、僧の頼尊が修験者とその活動を組織化したことで、村山を 基点とする登山が行われていたことが推測できる。15世紀に入 ると村山での宿坊の存在が確認でき、同世紀前半には、地元支配 者である今川氏により発心門等の施設が寄進されたとの記録があ る。今川氏は1552年、村山を神聖な地と定め、村山三坊には 山役銭の徴収権を与えている。この権利は19世紀後半まで継続 し、浅間大社が登山道の管理に関わることはなかった。一方、1 6世紀ごろ、浅間大社は湧玉池での水垢離を重要な儀式と位置づ けることによって、浅間大社を経由した登拝を喧伝した。浅間大 社には16世紀前半に30余りの道者坊があったことが伝えられ 、同時期の絵図である「絹本著色富士曼荼羅図」には浅間大社・ 湧玉池及び村山浅間神社を経由して登山する人々の姿が描かれて いる。道者坊はその後統合され、19世紀前半には5坊となった 。また、1600年頃以降、地元支配者により、大宮を経て村山 口登山道を利用することが求められた。登山道中の宗教施設は、 17世紀初頭までに建設され、石室などの施設は主に17世紀後 半、興法寺から許可を受けた先達により建設されたが、1707 年の宝永噴火で登山道と共にことごとく破壊された。これらは再 建されたが、その復興は須走口より遅かった。主要な宗教施設と しては発心門、中宮八幡堂、室大日などがあった。登拝者は興法 寺の檀所や浅間大社の道者場としていた静岡県西部地方を含む西 日本の人々が多かった。なお、1532年以降不連続であるが、 登拝者の記録が残され、その数は18世紀後半から19世 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/96
97: 底名無し沼さん (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) [sage] 2018/01/12(金) 01:47:22.48 ID:ncJKes9f0 定1969年国が大沢崩れに対する砂防事業に着手(継続中)1996年国・県が 台風による森林の風倒被害に対する対策に着手(継続中)「御中道」は、標高2, 300m付近から2,800m付近の山腹を通り、富士山の中腹部を時計回りに一 周する約25kmの道である。「御中道巡り」は、修験道の祖とされる役行者が始 めたと伝えられ、16世紀後半、富士講の基礎を築いた長谷川角行が行ったことが 記録されている。古くは定まった道もなく巡ったとされ、富士講が盛んになった江 戸時代後期には一定の道が整備された。富士山信仰の上では、山体西側の大沢崩れ を渡るという危険を伴う最大級の大行の道とされていた。富士登山3回以上の経験 を持ち、誓約書を御師に提出し、神への伺いをたてた上でないと許可されないほど 厳しいものであった。この御中道の巡拝を無事終えると、その証である「御許し」 を御師から受けることができた。1816年の資料では年間100人以上が御中道 巡りを行っているが、1977年の転落事故で通行止めとなり、現在では一周する ことはできなくなっている。写真御中道の写真A1山頂信仰遺跡(富士山本宮奥宮 )富士山山頂部の火口壁沿いに、いくつかの神社及び宗教関連施設が所在する。富 士山への信仰登山が開始されると、修験道の影響を受け山頂部において寺院の造営 や仏像等の奉納がおこなわれるとともに、山頂部での宗教行為が体系化されていっ た。登拝者は山頂周辺において「御来光」を拝み、内院と呼称される噴火口に鎮座 すると言われる神仏を拝した。また、火口壁にいくつかあるピークを仏教の曼荼羅 における仏の世界に擬して巡拝する「お鉢めぐり(八葉めぐり)」と呼ばれる行為 を行なうことが一般的であった。山頂の宗教的施設は、12世紀中ごろ、修行僧末 代により建立された大日寺(大日堂)が最初とされ、その後、経典・懸仏・仏像等 の山頂部への奉納・埋納や内院への散銭が行われた。また、遅くとも17世紀には 、大宮・村山口山頂部に大日堂が、吉田・須走口山頂部に薬師堂が造営された。こ の様子は19世紀中ごろの絵図によって確認できる。1874年、山頂の仏 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/97
98: 底名無し沼さん (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) [sage] 2018/01/12(金) 01:47:39.02 ID:nhLYBjhR0 1552年、村山を神聖な地と定め、村山三坊には山役銭の徴 収権を与えている。この権利は19世紀後半まで継続し、浅間 大社が登山道の管理に関わることはなかった。一方、16世紀 ごろ、浅間大社は湧玉池での水垢離を重要な儀式と位置づける ことによって、浅間大社を経由した登拝を喧伝した。浅間大社 には16世紀前半に30余りの道者坊があったことが伝えられ 、同時期の絵図である「絹本著色富士曼荼羅図」には浅間大社 ・湧玉池及び村山浅間神社を経由して登山する人々の姿 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/98
99: 底名無し沼さん (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) [sage] 2018/01/12(金) 01:52:54.04 ID:ncJKes9f0 の道者坊の記録より、御縁年で2,000人前後、平年で数百名 程度と推測できる。1826年の記録ではその数が減少し、村山 の村落も衰退していたとの記述もあるが、1860年、初の外国 人登山となる英国公使オ−24−ールコックは大宮を経由して村 山に宿泊し、山頂をめざした。彼の記録では大鏡坊、中宮八幡堂 の存在や登山道の様子が確認できる。明治維新以降、女人登山の 解禁もあり、登山者は増加傾向を示すが、1889年、東海道線 の開通による御殿場口利用者の増加により衰退し、これへの対策 として1906年、村山を経由せず4km短縮された大宮新道( カケスバタ口)が建設されたため、大宮から現六合目までの村山 口登山道は登山道としての機能を失い、その歴史を閉じた。現在 は、林道の建設に雨水による侵食も加わり、一部を除き登山道跡 の推定は困難な状態であり、道標、地蔵・不動明王像、建物跡な どをある程度たどることができるのみである。写真大宮・村山口 登山道の写真A3須山口登山道富士山南東麓、須山浅間神社を起 点とし、山頂部浅間嶽(駒ケ嶽)に至る登山道である。その起源 は明確ではないが、1200年の資料には大宮・村山口、吉田口 、須山(珠山)口以外には登山道がないことが述べられている。 1486年の京都の僧による資料(廻国雑記)では、「すはま口 」の名が確認できる。登山道および山頂部銀明水は須山浅間神社 及び12軒の御師を中心とした須山村により管理されていた。た だし、銀明水の管理を巡り、須走村と争いになった際は浅間大社 の裁定を仰いでいる。登山道には宝永噴火前の状況を描いた絵図 で須山御胎内に附属する御胎内神社等の宗教施設と山室がみられ る。これらの施設及び登山道はその中腹より噴火した宝永噴火に より壊滅し、御縁年の1740年に復興したが永続せず、178 0年にようやく復興した。また、1880年代の記録では御室浅 間神社、中宮浅間社、御胎内等の宗教施設と4箇所の石室がある ことが確認できる。中宮浅間社や水呑浅間は村山修験の富士峯修 行の行場としても使用された。登拝者については詳しい研究が進 んでいないが、西日本・東日本両方からの登山者があったことが 、宿帳及び案内立札の立地から確認できる。登拝者数は御 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/99
100: 底名無し沼さん (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) [sage] 2018/01/12(金) 01:53:18.74 ID:ncJKes9f0 設及び仏像は廃仏毀釈の影響によって撤去され、ピークの名称も変更され、寺院は 神社に改変された。しかし、山頂部に対する信仰自体は変化することなく、上記の 行為は現代の−23−登山者の多くが行っており、これらを通じて富士信仰の核心 が現代に受け継がれている。写真奥宮の写真表法的保護、修理・整備の経緯192 4年所在地が史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝に仮指定1936年所在地が国 立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指定1952年所在地が文化財保護 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/100
101: 底名無し沼さん (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) [sage] 2018/01/12(金) 01:53:34.37 ID:nhLYBjhR0 れている。道者坊はその後統合され、19世紀前半には5坊と なった。また、1600年頃以降、地元支配者により、大宮を 経て村山口登山道を利用することが求められた。登山道中の宗 教施設は、17世紀初頭までに建設され、石室などの施設は主 に17世紀後半、興法寺から許可を受けた先達により建設され たが、1707年の宝永噴火で登山道と共にことごとく破壊さ れた。これらは再建されたが、その復興は須走口より遅かった 。主要な宗教施設としては発心門、中宮八幡堂、室大日などが あった。登拝者は興法寺の檀所や浅間大社の道者場としていた 静岡県西部地方を含む西日本の人々が多かった。なお、153 2年以降不連続であるが、登拝者の記録が残され、その数は1 8世紀後半から19世紀初頭の道者坊の記録より、御縁年で2 ,000人前後、平年で数百名程度と推測できる。1826年 の記録ではその数が減少し、村山の村落も衰退していたとの記 述もあるが、1860年、初の外国人登山となる英国公使オ− 24−ールコックは大宮を経由して村山に宿泊し、山頂をめざ した。彼の記録では大鏡坊、中宮八幡堂の存在や登山道の様子 が確認できる。明治維新以降、女人登山の解禁もあり、登山者 は増加傾向を示すが、1889年、東海道線の開通による御殿 場口利用者の増加により衰退し、これへの対策として1906 年、村山を経由せず4km短縮された大宮新道(カケスバタ口 )が建設されたため、大宮から現六合目までの村山口登山道は 登山道としての機能を失い、その歴史を閉じた。現在は、林道 の建設に雨水による侵食も加わり、一部を除き登山道跡の推定 は困難な状態であり、道標、地蔵・不動明王像、建物跡などを ある程度たどることができるのみである。写真大宮・村山口登 山道の写真A3須山口登山道富士山南東麓、須山浅間神社を起 点とし、山頂部浅間嶽(駒ケ嶽)に至る登山道である。その起 源は明確ではないが、1200年の資料には大宮・村山口、吉 田口、須山(珠山)口以外には登山道がないことが述べられて いる。1486年の京都の僧による資料(廻国雑記)では、「 すはま口」の名が確認できる。登山道および山頂部銀明 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/101
102: 底名無し沼さん (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) [sage] 2018/01/12(金) 01:59:16.16 ID:ncJKes9f0 当たる1800年に約5,400人、1840年代前半は年平均 約1,700人、続く1860年の御縁年には約3,600人で あった。登拝者は神仏分離令後も継続していたが、1883年、 須山口二合八勺に接続する御殿場口登山道が開鑿された。また、 1889年に東海道本線が開通し、御殿場口の利便性の向上によ り須山口からの登拝者や登山者が減少することとなった。191 2年には、登山道の一部が陸軍演習場となり使用不可能となった ため、須山口からの登拝(登山)は衰退し現在に至っている。二 合八勺以下の登山道で当時の道が確認できる部分は一部のみであ る。また、1999年、地元住民により須山口下山歩道の名でか つての登山道の一部が復興された。写真須山口登山道の写真A4 須走口登山道富士山東麓の冨士浅間神社を起点とし、八合目で吉 田口登山道と合流して山頂久須志岳に至る登山道である。その起 源は明確ではないが、六合目からは1384年の銘のある掛仏が 出土している。文献からは「勝山記」の1500年6月の項に、 関東地方での戦乱を避け、吉田口を利用すべき登拝者が須走口に 集中したことが確認できる。遅くとも17世紀までに、冨士浅間 神社及び須走村が登山道山頂部までを支配し、薬師嶽(現久須志 岳)における石室建設の独占、薬師堂の開帳・入仏などを行った 。また、内院および薬師堂の散銭取得権も浅間大社に次ぐ権利を 有していた。冨士浅間神社及び須走村は、1703年と1772 年の2回幕府に訴え、これらの権利について八合目以上の支配権 を主張する浅間大社と争い、正式に権利を認められた。−25− 登山道の施設は1683年の資料等で詳細が確認でき、大日堂、 御室浅間神社、古御岳神社等の宗教施設と共に、小屋・石室が山 頂部まで設置されている。1707年の宝永噴火では、これらの 施設及び麓の浅間神社、須走村は約3mの降砂に覆われ壊滅した が、江戸幕府の支援を受け、翌年の登拝期までには復興を完了し 、多くの登拝者を集めた。18世紀半ばには800名前後に減少 したとの資料があるが、18世紀後半、相模の大山石尊や関本の 道了尊とセットにされた参詣の流行で登拝者数は増加し、年平均 約1万人、1800年の御縁年に23,700人とピーク http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/102
103: 底名無し沼さん (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) [sage] 2018/01/12(金) 01:59:40.98 ID:ncJKes9f0 に名勝、ついで特別名勝に指定2008年財団法人静岡県埋蔵文化財調査研究所に より現地調査が行われ、その成果に基づき2010年に「史跡富士山保存管理計画 」が策定された2010年文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山とし て指定山頂の噴火口の周囲を一周し、頂上の各峰を巡る行為は、古くから「お鉢巡 り」と呼ばれ、現在も多くの人々に受け継がれている。13世紀後半の資料には「 いたゞきに八葉の嶺あり」との記載があり、このころには山頂の峰々に信仰的意義 を見出していたことが伺える。16世紀前半には地元為政者が「八要メサルヽ也」 との記述も見られ、後に盛んになるお鉢巡りの古態と思われる習俗があったことが 知られる。富士講講中の多くは、頂上に着くと、時計回りに山頂を巡っていった。 内院に賽銭を投じ、御来光を礼拝し、途中にあるいくつかの仏像や石碑を拝みなが ら、大日寺(現奥宮)の大日如来、最高峰の剣ヶ峰、釈迦割石、霊泉とされた金明 水などを巡礼した。写真お鉢めぐりの写真A2大宮・村山口登山道富士山南西麓の 浅間大社及び村山浅間神社を起点とし、山頂大日岳に至る登山道である。12世紀 前半、富士山で修行した末代上人の開削した登山道が起源だとされ、14世紀初め 、僧の頼尊が修験者とその活動を組織化したことで、村山を基点とする登山が行わ れていたことが推測できる。15世紀に入ると村山での宿坊の存在が確認でき、同 世紀前半には、地元支配者である今川氏により発心門等の施設が寄進されたとの記 録がある。今川氏は1552年、村山を神聖な地と定め、村山三坊には山役銭の徴 収権を与えている。この権利は19世紀後半まで継続し、浅間大社が登山道の管理 に関わることはなかった。一方、16世紀ごろ、浅間大社は湧玉池での水垢離を重 要な儀式と位置づけることによって、浅間大社を経由した登拝を喧伝した。浅間大 社には16世紀前半に30余りの道者坊があったことが伝えられ、同時期の絵図で ある「絹本著色富士曼荼羅図」には浅間大社・湧玉池及び村山浅間神社を経由して 登山する人々の姿が描かれている。道者坊はその後統合され、19世紀前半 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/103
104: 底名無し沼さん (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) [sage] 2018/01/12(金) 01:59:57.85 ID:nhLYBjhR0 山浅間神社及び12軒の御師を中心とした須山村により管理さ れていた。ただし、銀明水の管理を巡り、須走村と争いになっ た際は浅間大社の裁定を仰いでいる。登山道には宝永噴火前の 状況を描いた絵図で須山御胎内に附属する御胎内神社等の宗教 施設と山室がみられる。これらの施設及び登山道はその中腹よ り噴火した宝永噴火により壊滅し、御縁年の1740年に復興 したが永続せず、1780年にようやく復興した。また、18 80年代の記録では御室浅間神社、中宮浅間社、御胎内等の宗 教施設と4箇所の石室があることが確認できる。中宮浅間社や 水呑浅間は村山修験の富士峯修行の行場としても使用された。 登拝者については詳しい研究が進んでいないが、西日本・東日 本両方からの登山者があったことが、宿帳及び案内立札の立地 から確認できる。登拝者数は御縁年に当たる1800年に約5 ,400人、1840年代前半は年平均約1,700人、続く 1860年の御縁年には約3,600人であった。登拝者は神 仏分離令後も継続していたが、1883年、須山口二合八勺に 接続する御殿場口登山道が開鑿された。また、1889年に東 海道本線が開通し、御殿場口の利便性の向上により須山口から の登拝者や登山者が減少することとなった。1912年には、 登山道の一部が陸軍演習場となり使用不可能となったため、須 山口からの登拝(登山)は衰退し現在に至っている。二合八勺 以下の登山道で当時の道が確認できる部分は一部のみである。 また、1999年、地元住民により須山口下山歩道の名でかつ ての登山道の一部が復興された。写真須山口登山道の写真A4 須走口登山道富士山東麓の冨士浅間神社を起点とし、八合目で 吉田口登山道と合流して山頂久須志岳に至る登山道である。そ の起源は明確ではないが、六合目からは1384年の銘のある 掛仏が出土している。文献からは「勝山記」の1500年6月 の項に、関東地方での戦乱を避け、吉田口を利用すべき登拝者 が須走口に集中したことが確認できる。遅くとも17世紀まで に、冨士浅間神社及び須走村が登山道山頂部までを支配し、薬 師嶽(現久須志岳)における石室建設の独占、薬師堂の http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/104
105: 底名無し沼さん (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) [sage] 2018/01/12(金) 02:06:06.86 ID:ncJKes9f0 た。登拝者は関東地方の富士講関係者が多く、東北地方からの登 拝者も見られる。講によっては吉田口から登山し、砂道で下山に 適した須走口へ下山する形をとった。また、1831年、須走口 山頂部に宝経塔が作られたことにより、日蓮宗の信徒による登拝 も増加した。1889年の東海道線開通による御殿場口、および 1903年の中央線開通による吉田口の利便性の向上で、距離が 長い須走口は敬遠されるが、御殿場口の下山道として利用され続 けた。1909年より登山道の周囲に石垣を築き、191 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/105
106: 底名無し沼さん (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) [sage] 2018/01/12(金) 02:06:30.78 ID:ncJKes9f0 坊となった。また、1600年頃以降、地元支配者により、大宮を経て村山口登山 道を利用することが求められた。登山道中の宗教施設は、17世紀初頭までに建設 され、石室などの施設は主に17世紀後半、興法寺から許可を受けた先達により建 設されたが、1707年の宝永噴火で登山道と共にことごとく破壊された。これら は再建されたが、その復興は須走口より遅かった。主要な宗教施設としては発心門 、中宮八幡堂、室大日などがあった。登拝者は興法寺の檀所や浅間大社の道者場と していた静岡県西部地方を含む西日本の人々が多かった。なお、1532年以降不 連続であるが、登拝者の記録が残され、その数は18世紀後半から19世紀初頭の 道者坊の記録より、御縁年で2,000人前後、平年で数百名程度と推測できる。 1826年の記録ではその数が減少し、村山の村落も衰退していたとの記述もある が、1860年、初の外国人登山となる英国公使オ−24−ールコックは大宮を経 由して村山に宿泊し、山頂をめざした。彼の記録では大鏡坊、中宮八幡堂の存在や 登山道の様子が確認できる。明治維新以降、女人登山の解禁もあり、登山者は増加 傾向を示すが、1889年、東海道線の開通による御殿場口利用者の増加により衰 退し、これへの対策として1906年、村山を経由せず4km短縮された大宮新道 (カケスバタ口)が建設されたため、大宮から現六合目までの村山口登山道は登山 道としての機能を失い、その歴史を閉じた。現在は、林道の建設に雨水による侵食 も加わり、一部を除き登山道跡の推定は困難な状態であり、道標、地蔵・不動明王 像、建物跡などをある程度たどることができるのみである。写真大宮・村山口登山 道の写真A3須山口登山道富士山南東麓、須山浅間神社を起点とし、山頂部浅間嶽 (駒ケ嶽)に至る登山道である。その起源は明確ではないが、1200年の資料に は大宮・村山口、吉田口、須山(珠山)口以外には登山道がないことが述べられて いる。1486年の京都の僧による資料(廻国雑記)では、「すはま口」の名が確 認できる。登山道および山頂部銀明水は須山浅間神社及び12軒の御師を中 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/106
107: 底名無し沼さん (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) [sage] 2018/01/12(金) 02:06:47.28 ID:nhLYBjhR0 入仏などを行った。また、内院および薬師堂の散銭取得権も浅 間大社に次ぐ権利を有していた。冨士浅間神社及び須走村は、 1703年と1772年の2回幕府に訴え、これらの権利につ いて八合目以上の支配権を主張する浅間大社と争い、正式に権 利を認められた。−25−登山道の施設は1683年の資料等 で詳細が確認でき、大日堂、御室浅間神社、古御岳神社等の宗 教施設と共に、小屋・石室が山頂部まで設置されている。17 07年の宝永噴火では、これらの施設及び麓の浅間神社、須走 村は約3mの降砂に覆われ壊滅したが、江戸幕府の支援を受け 、翌年の登拝期までには復興を完了し、多くの登拝者を集めた 。18世紀半ばには800名前後に減少したとの資料があるが 、18世紀後半、相模の大山石尊や関本の道了尊とセットにさ れた参詣の流行で登拝者数は増加し、年平均約1万人、180 0年の御縁年に23,700人とピークを迎えた。登拝者は関 東地方の富士講関係者が多く、東北地方からの登拝者も見られ る。講によっては吉田口から登山し、砂道で下山に適した須走 口へ下山する形をとった。また、1831年、須走口山頂部に 宝経塔が作られたことにより、日蓮宗の信徒による登拝も増加 した。1889年の東海道線開通による御殿場口、および19 03年の中央線開通による吉田口の利便性の向上で、距離が長 い須走口は敬遠されるが、御殿場口の下山道として利用され続 けた。1909年より登山道の周囲に石垣を築き、1916年 には、八合目まで馬による登山が可能になった。八合目以上は 浅間大社境内地という理由で馬の利用は行われなかった。また 、1923年に皇太子(昭和天皇)の登山に利用されている。 1959年、バス道路(現ふじあざみライン)の完成により、 五合目以下の登山道の利用は減少し、一部登山道としての確認 ができない区間がある。写真須走口登山道の写真A5吉田口登 山道北口本宮冨士浅間神社を起点とし、富士山頂を目指す道で ある。15世紀には、富士山への登拝が、修験者だけでなく、 ごく一般の人々の間にも広まっていた。吉田口は14世紀後半 には参詣の道者のための宿坊もでき始め、大勢の人々が http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/107
108: 底名無し沼さん (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) [sage] 2018/01/12(金) 02:12:57.39 ID:ncJKes9f0 は、八合目まで馬による登山が可能になった。八合目以上は浅間 大社境内地という理由で馬の利用は行われなかった。また、19 23年に皇太子(昭和天皇)の登山に利用されている。1959 年、バス道路(現ふじあざみライン)の完成により、五合目以下 の登山道の利用は減少し、一部登山道としての確認ができない区 間がある。写真須走口登山道の写真A5吉田口登山道北口本宮冨 士浅間神社を起点とし、富士山頂を目指す道である。15世紀に は、富士山への登拝が、修験者だけでなく、ごく一般の人々の間 にも広まっていた。吉田口は14世紀後半には参詣の道者のため の宿坊もでき始め、大勢の人々が登るための設備が整うようにな った。16世紀から17世紀、長谷川角行が吉田口を利用して修 行を行い、18世紀前半には富士講隆盛の礎を築いた食行身禄は 、入定(宗教的自殺)にあたって信者の登山本道をこの吉田口と 定めた。このため、富士講の信者が次第に増加した18世紀後半 以降は、年間数万人を数える富士講の道者が登拝したとされる。 1964年に富士山有料道路が開通した後は、ほとんどの登山者 が新五合目(小御岳)を起点として登るようになったため、五合 目以下の道を利用する登山者は激減したが、六合目以上について は、現在残る登山道の中で最も多くの道者(外の登山口の合計と 同程度)が吉田口登山道を上って山頂を目指している。しかも、 古道としては唯一徒歩で麓から頂上まで登れる重要な道である。 写真吉田口登山道の写真表法的保護、修理・整備の経緯1924 年所在地が史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝に仮指定193 6年所在地が国立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指定19 52年所在地が文化財保護法の下に名勝、ついで特別名勝に指定 1978年「特別名勝富士山保存管理計画」策定(1999年、 2006年改訂)1996年歴史の道整備活用事業により馬返〜 1合目区間を発掘調査・整備1999年「特別名勝富士山保存管 理計画」を改訂2006年「特別名勝富士山保存管理計画」を改 訂2011年文化財保護法の下に他の文化財とともに登山道の一 部を史跡富士山として指定−26−2011年「史跡富士山保存 管理計画」を策定(予定)A6北口本宮冨士浅間神社富士 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/108
109: 底名無し沼さん (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) [sage] 2018/01/12(金) 02:13:24.97 ID:ncJKes9f0 た須山村により管理されていた。ただし、銀明水の管理を巡り、須走村と争いにな った際は浅間大社の裁定を仰いでいる。登山道には宝永噴火前の状況を描いた絵図 で須山御胎内に附属する御胎内神社等の宗教施設と山室がみられる。これらの施設 及び登山道はその中腹より噴火した宝永噴火により壊滅し、御縁年の1740年に 復興したが永続せず、1780年にようやく復興した。また、1880年代の記録 では御室浅間神社、中宮浅間社、御胎内等の宗教施設と4箇所の石室があることが 確認できる。中宮浅間社や水呑浅間は村山修験の富士峯修行の行場としても使用さ れた。登拝者については詳しい研究が進んでいないが、西日本・東日本両方からの 登山者があったことが、宿帳及び案内立札の立地から確認できる。登拝者数は御縁 年に当たる1800年に約5,400人、1840年代前半は年平均約1,700 人、続く1860年の御縁年には約3,600人であった。登拝者は神仏分離令後 も継続していたが、1883年、須山口二合八勺に接続する御殿場口登山道が開鑿 された。また、1889年に東海道本線が開通し、御殿場口の利便性の向上により 須山口からの登拝者や登山者が減少することとなった。1912年には、登山道の 一部が陸軍演習場となり使用不可能となったため、須山口からの登拝(登山)は衰 退し現在に至っている。二合八勺以下の登山道で当時の道が確認できる部分は一部 のみである。また、1999年、地元住民により須山口下山歩道の名でかつての登 山道の一部が復興された。写真須山口登山道の写真A4須走口登山道富士山東麓の 冨士浅間神社を起点とし、八合目で吉田口登山道と合流して山頂久須志岳に至る登 山道である。その起源は明確ではないが、六合目からは1384年の銘のある掛仏 が出土している。文献からは「勝山記」の1500年6月の項に、関東地方での戦 乱を避け、吉田口を利用すべき登拝者が須走口に集中したことが確認できる。遅く とも17世紀までに、冨士浅間神社及び須走村が登山道山頂部までを支配し、薬師 嶽(現久須志岳)における石室建設の独占、薬師堂の開帳・入仏などを行っ http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/109
110: 底名無し沼さん (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) [sage] 2018/01/12(金) 02:13:41.71 ID:nhLYBjhR0 めの設備が整うようになった。16世紀から17世紀、長谷川 角行が吉田口を利用して修行を行い、18世紀前半には富士講 隆盛の礎を築いた食行身禄は、入定(宗教的自殺)にあたって 信者の登山本道をこの吉田口と定めた。このため、富士講の信 者が次第に増加した18世紀後半以降は、年間数万人を数える 富士講の道者が登拝したとされる。1964年に富士山有料道 路が開通した後は、ほとんどの登山者が新五合目(小御岳)を 起点として登るようになったため、五合目以下の道を利 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/110
111: 底名無し沼さん (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) [sage] 2018/01/12(金) 02:19:41.80 ID:ncJKes9f0 、吉田口登山道の起点に位置し、祭神として木花開花姫命、天津 彦彦火瓊瓊杵命、大山祇命を祀る神社である。富士山の遙拝所に 祀られていた浅間明神(富士山の荒ぶる神)を起源とし、148 0年には「富士山」の鳥居が建立され、16世紀半ばには浅間神 社の社殿が整っていたとされる。当神社は領主からの崇敬が厚く 、境内に現存する3つの社殿は、1561年、1594年、16 15年にそれぞれ当時の領主が寄進したものである。富士講との つながりが強く、1730年には富士講の指導者である村上光清 の寄進によって境内の建造物群の修復工事が行われ、現在にみる 境内の景観の礎が形成された。北口本宮冨士浅間神社の支配権は 外川家、小佐野家などの吉田の御師に所属しており、神社の管理 も御師団の中から選ばれた者に委ねられていた。社殿の背後に登 山門があり、この神社を起点として富士山頂まで吉田口登山道が 伸びている。富士講や吉田御師と密接な関係を持ちながら発展し た神社である。写真北口本宮冨士浅間神社の写真(本殿、西宮本 殿、東宮本殿)表法的保護、修理・整備の経緯1907年古社寺 保存法の下に東宮本殿が特別保護建造物の指定1952年所在地 が文化財保護法の下に名勝、ついで特別名勝に指定1952年東 宮本殿・解体修理工事を行う1953年文化財保護法の下に本殿 、西宮本殿が重要文化財の指定1962年西宮本殿・解体修理工 事を行う(〜64年)1978年「特別名勝富士山保存管理計画 」を策定1973年本殿・部分解体修理工事を行う(〜74年) 1981年東宮本殿・部分修理工事を行う(〜82年)1997 年東宮本殿・部分修理工事を行う2008年本殿・屋根の葺替え 修理工事を行う(〜09年)2010年「重要文化財北口本宮冨 士浅間神社保存活用計画」を策定2011年文化財保護法の下に 他の文化財とともに史跡富士山として指定(予定)2011年「 史跡富士山保存管理計画」を策定(予定)A7西湖富士山の火山 活動により形成された堰止湖で、富士山の北北西に位置する。富 士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが行われたが、この西 湖にも多くの富士講徒が訪れた。西湖と精進湖はかつて「?の海 (せのうみ)」と呼ばれる一つの湖だったが、日本最古の http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/111
112: 底名無し沼さん (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) [sage] 2018/01/12(金) 02:20:05.47 ID:ncJKes9f0 た、内院および薬師堂の散銭取得権も浅間大社に次ぐ権利を有していた。冨士浅間 神社及び須走村は、1703年と1772年の2回幕府に訴え、これらの権利につ いて八合目以上の支配権を主張する浅間大社と争い、正式に権利を認められた。− 25−登山道の施設は1683年の資料等で詳細が確認でき、大日堂、御室浅間神 社、古御岳神社等の宗教施設と共に、小屋・石室が山頂部まで設置されている。1 707年の宝永噴火では、これらの施設及び麓の浅間神社、須走村は約3m http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/112
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