[過去ログ]
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)21【ダメ工作員】 (378レス)
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)21【ダメ工作員】 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/
上
下
前
次
1-
新
通常表示
512バイト分割
レス栞
このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています。
次スレ検索
歴削→次スレ
栞削→次スレ
過去ログメニュー
157: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-slG6) [sage] 2018/02/16(金) 00:39:58 ID:jABd19d80 神社)A6北口本宮冨士浅間神社B8御師住宅B6河口浅間神 社B7冨士御室浅間神社(写真複数、地図挿入)(改頁)霊地 ・巡礼地となエムゾネった風穴・溶岩樹型・湧水地・湖沼18世紀 後半から爆発的に流行した富士講の信者は、山頂を目指して富 士山に登るだけでなく、いわばオプショナル・ツアーのごとく 周辺の風穴や湧水地などを巡り、巡礼や修行を行っていた。富 士講の開祖とされる長エムゾネ谷川角行は、人穴(富士講遺跡)で 修行をし、富士五湖を始めとした八つの湖沼や白糸ノ滝で水行 を行った。後の富士講徒はこれらの地へ参詣し、開祖に倣って 修行を行う者もいた。また、長谷川角行の八海修行になぞらえ 「富士御手洗(みてらし)元八エムゾネ湖」と唱えられた忍野八海 や、彼が北麓の洞穴で浅間明神を祀ったことにちなんで整備さ れた船津胎内樹型や吉田胎内樹型など、特定の富士講にとって の霊場・巡礼地となっている資産もある。B9山中湖B10河 口湖A7西湖A8精進湖A9本栖湖B1エムゾネ1忍野八海B12 船津胎内樹型B13吉田胎内樹型B14人穴富士講遺跡B15 白糸ノ滝(写真複数、地図挿入)(改頁)A.富士山(富士山 体)説明富士山には、山頂部に点在する宗教関連施設を始め、 信仰登山の支援施設として機能してきた登山道やエムゾネ山小屋と いった宿泊施設、信仰の証として建てられた石碑などが存在す る。推薦範囲は、周辺の浅間神社や展望地点から見た可視領域 が重なり合う範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重が9最も 高い。また推薦範囲は、山体の神聖性の境界の一つであるエムゾネ 「馬返」以上に該当する標高1500m以上の区域でもあり、 その中でも、他界(死後世界)と考えられた森林限界より上方 、富士山本宮浅間大社の境内地とされた八合目(登山道を10 区間に分割した目安の一つ。登山道ごとに異なり標高約320 0〜エムゾネ3375m)以上と、山頂に近づくほどより強い http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/157
158: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-slG6) [sage] 2018/02/16(金) 00:46:48 ID:jABd19d80 性を持つと認識されてきた。八合目以上は、1779年以降、 富士山本宮浅間大社の境内地とされたが、この理由は八合目の 標高とほぼ一致する噴火口(「内院」と呼び宗教的に意義付け られている)エムゾネの底部に浅間大神が鎮座するとの信仰に基づ く。標高約2500m付近の森林限界より上方は富士講信者( 富士山信仰の集団の一つ)には「焼山」と呼ばれ、神聖な地域 ないし他界(死後世界)と考えられていた。ほぼこの境域 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/158
159: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-slG6) [sage] 2018/02/16(金) 00:53:12 ID:jABd19d80 い、富士山体を一周すエムゾネる「御中道」が15〜16世紀ごろ に富士講の祖とされる長谷川角行によって開かれたとされ(1 561年及び1580年とされる)、その後「大沢崩れ」とい う危険箇所を通るため富士講信者により修行の道として利用さ れた。構成資産範囲内には、山エムゾネ頂信仰遺跡や登山道といっ た、富士山の顕著な普遍的価値を語る上で重要な役割を担う、 次のような構成要素が存在する。A1.山頂信仰遺跡富士山山 頂部には、火口壁に沿っていくつかの神社など、宗教関連施設 が所在する。富士山への信仰登山が開始エムゾネされると、修験道 の影響を受け山頂部において寺院の造営や仏像等の奉納がおこ なわれるとともに、山頂部での宗教行為が体系化されていった 。道者は山頂周辺において「御来迎(仏の来迎と見なされたブ ロッケン現象)」(のち「御来光(日の出)」)エムゾネを拝み、 内院(噴火口)に鎮座するとされる神仏(大日如来が本地仏と された浅間大神ないし浅間大菩薩)を拝し、火口壁にいくつか あるピークを仏教の曼荼羅における仏の世界に擬して巡拝する 「お鉢めぐり(八葉めぐり)」と呼ばれる行為を行なうこエムゾネ とが一般的であった。山頂の宗教的施設は、12世紀中ごろ修 行僧末代により建立された施設(後の大日堂)が最初とされ、 その後、経典(12世紀末〜13世紀前半と推定されるものが 最古)・懸仏(1482年の銘のあるものが最古)・仏像等( 13エムゾネ02年の銘があるものが最古)の山頂部への奉納・埋 納や内院への散銭が行われた。また、遅くとも17世紀には、 大宮・村山口山頂部に大日堂(現在は富士山本宮奥宮が所在) が、吉田・須走口山頂部に薬師堂(現在の久須志神社)が造営 された。18エムゾネ74年、山頂の仏教的施設及び仏像は廃仏毀 釈の影響によって撤去され、ピークの名称も変更され、寺院は 神社に改変された。しかし、山頂部に対する信仰自体は変 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/159
160: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-slG6) [sage] 2018/02/16(金) 01:00:01 ID:jABd19d80 ることなく、上記の行為は現代の登山者の多くが行っており、 これらを通じて富士信エムゾネ仰の核心が現代に受け継がれている 。A2.大宮・村山口登山道富士山南西麓の浅間大社を起点と し、村山浅間神社を経て山頂南側に至る登山道である。12世 紀前半から中ごろの、修行僧末代の活動により、富士山南麓に おける登山が本格的に開始されエムゾネたとされ、14世紀初めに は修験者による組織的登山が始まったとされる。15世紀以降 19世紀後半まで、「村山三坊」と呼ばれた3軒の有力宿坊が 村山浅間神社(興法寺)と登山道の管理を行うとともに所属の 修験者が登山道等を利用して修行を行っエムゾネた。また、一般人 の信仰登山(以下これを行う者を「道者」と言う。)も開始さ れ、その様子は16世紀の作とされる「絹本著色富士曼荼羅図 」に描かれている。道者の数は18世紀後半から19世紀初頭 の宿坊(大鏡坊のみ)の記録より、御縁年で2,エムゾネ000人 前後、平年で数百名程度と推測できる。また1860年、初の 外国人登山を行った英国公使オールコックがこの登山道を利用 した。101889年、鉄道(東海道線)の開通による御殿場 口利用者の増加により衰退し、これへの対策として190エムゾネ 6年、村山を経由しない新道が建設されたため、大宮から現在 の六合目(標高2600m)までは登山道としての機能を失っ た。この区間は一部除き登山道跡の推定は困難な状態である。 現在は1970年に標高2400m地点まで開通した自動車道 を利エムゾネ用しての登山が行われている。(推薦範囲は六合目以 上である。)A3.須山口登山道富士山南東麓、須山浅間神社 を起点とし、山頂南東部に至る登山道である。その起源は明確 ではないが、文字資料の中で1486年にその存在が確認でき る。登山道おエムゾネよび山頂部銀明水は須山浅間神社及びその所 在地の須山村(現裾野市須山)により管理されていた。ま http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/160
161: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-slG6) [sage] 2018/02/16(金) 01:06:15 ID:jABd19d80 登山道のいくつかの宗教施設は村山の修験者の行場(参拝所) としても使用された。道者については詳しい研究が進んでいな いが、1800年(御エムゾネ縁年:富士山出現伝説に由来する6 0年に1回の記念の年)に約5,400人、1840年代前半 は年平均約1,700人、1860年(御縁年)は約3,60 0人であった。1883年、須山口二合八勺(標高2050m )に接続する御殿場口登山道がエムゾネ開削され、1889年、東 海道本線開通による御殿場口利便性の向上は須山口よりの道者 を奪い、さらに1912年、一部が陸軍演習場となり使用不可 能となったため、須山口からの登拝(登山)は衰退し現在に至 っている。二合八勺以下の登山道で当時エムゾネの道が確認できる 部分は一部のみである。(資産範囲は現在「御殿場口」の名称 で使用されている二合八勺以上の部分及び遊歩道として整備さ れた旧須山口の一部である)A4.須走口登山道富士山東麓の 冨士浅間神社を起点とし、八合目で吉田口登山道エムゾネと合流し 山頂東部に至る登山道である。その起源は明確ではないが、六 合目からは1384年の銘のある掛仏が出土しており、文字資 料では1500年にその存在を確認できる。登山道は遅くとも 17世紀までに、冨士浅間神社及びその所在地の須走村がエムゾネ 登山道の山頂部までを支配し、散銭取得権の一部などを得てい た。山頂部の権利については富士山本宮浅間大社と争いになり 、須走村は18世紀(1703年と1772年)、幕府に裁定 を求め、権利は幕府によって認められた。1707年の宝永噴 火のエムゾネ際、これらの施設及び冨士浅間神社、須走村は噴砂に 覆われ壊滅したが、江戸幕府の支援を受け翌年には復興を完了 し、多くの道者を集めた。18世紀後半、他の霊場とセットに された参詣の流行で道者数は年平均約1万人、1800年の御 縁年に23,エムゾネ700人とピークを迎えた。1959年 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/161
162: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-slG6) [sage] 2018/02/16(金) 01:13:48 ID:jABd19d80 ス道路の完成により、新五合目(標高約2000m)以下の登 山道の利用はほとんどなくなり、一部道としての確認ができな い区間がある。(推薦範囲は現在も利用されている新五合目以 上である。)A5.吉エムゾネ田口登山道北口本宮冨士浅間神社を 起点とし、富士山頂東部を目指す道である。15世紀には、富 士山への登拝が、修験者だけでなく、ごく一般の人々の間にも 広まっていた。吉田口は14世紀後半には参詣の道者のた http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/162
163: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-slG6) [sage] 2018/02/16(金) 01:21:10 ID:jABd19d80 宿坊もでき始め、大勢の人々がエムゾネ登るための設備が整うよう になった。16世紀から17世紀、長谷川角行が吉田口を利用 して修行を行い、18世紀前半には富士講隆盛の礎を築いた食 行身禄は、入定(宗教的自殺)にあたって信者の登山本道をこ の吉田口と定めた。このため、富士講のエムゾネ信者が次第に増加 した18世紀後半以降は、最も多くの道者(他の登山口の合計 と同程度)が吉田口登山道を登って山頂を目指している。しか も、古道としては唯一徒歩で麓から頂上まで登れる重要な道で ある。(推薦範囲は登山道全体である。)11法エムゾネ的保護、 修理・整備の経緯1924年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下 に名勝に仮指定された。1936年に国立公園法の下に(富士 箱根)国立公園に指定された。1952年に文化財保護法の下 に名勝、ついで特別名勝に指定された。1969年に国がエムゾネ 大沢崩れに対する砂防事業に着手(継続中)。1996年に国 ・県が台風による森林の風倒被害に対する対策に着手(継続中 )。文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として 指定される予定。A6.北口本宮冨士浅間神社説明富士山の遥 拝所エムゾネに祀られていた浅間明神(富士山の荒ぶる神)を起源 とし、1480年には「富士山」の鳥居が建立され、16世紀 半ばには浅間神社の社殿が整っていたとされる。その後、15 61年に現在の東宮本殿、1594年に西宮本殿、1615年 には本殿が建エムゾネ立された。富士講とのつながりが強く、17 30年代に富士講の指導者である村上光清の寄進によって境内 の建造物群の修復工事が行われ、現在にみる境内の景観の礎が 形成された。本殿は、一間社入母屋造・檜皮葺の本殿に唐破風 付向背をつけた形式でエムゾネ、正面と側面に挿肘木の腰組をもっ て支える擬宝珠高欄付の切目縁をめぐらしている。東宮本殿・ 西宮本殿はともに桧皮葺・一間社流造である。3本殿とも http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/163
164: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-slG6) [sage] 2018/02/16(金) 01:27:48 ID:jABd19d80 部に漆塗り、極彩色をほどこし、彫刻・金具を配して、それぞ れの時代の装飾的特色がよく表エムゾネされている。北口本宮冨士 浅間神社の支配権は外川家、小佐野家などの吉田の御師に所属 しており、神社の管理も御師団の中から選ばれた者に委ねられ ていた。社殿の背後には登山門があり、この神社を起点として 富士山頂まで吉田口登山道が伸びているエムゾネ。富士講や吉田御 師と密接な関係を持ちながら発展した神社である。法的保護、 修理・整備の経緯1907年に東宮本殿が古社寺保存法の下に 特別保護建造物に指定された。1929年の国宝保存法制定に 伴い、本殿は国宝とされた。1950年の文化財エムゾネ保護法制 定に伴い、東宮本殿は重要文化財とされた。1953年に本殿 及び西宮本殿が文化財保護法の下に重要文化財に指定された。 1952年に東宮本殿の解体修理工事が行われた。1962〜 63年に西宮本殿の解体修理工事が行われた。1973〜エムゾネ 74年に本殿、西宮本殿及び幣殿の部分修理工事が行われた。 1981〜82年に東宮本殿の部分修理工事が行われた。19 97年に本殿の部分修理工事が行われた。文化財保護法の下に 他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定。A7. 西湖エムゾネA8.精進湖A9.本栖湖説明富士山の火山活動によ って形成された堰止湖である。富士山周辺の湖を巡って修行す る内八海巡りが多くの富士講徒によって行われたが、長谷川角 行の水行からいつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられ たのが、後述エムゾネの山中湖及び河口湖とこの3湖である。また 、景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。12特 に本栖湖は、日本の紙幣の図柄として何度も使用された写真の 撮影地点であり、重要な展望地点(viewpoint)であ る。富士山は、プロ・エムゾネアマ問わず多くの写真家に愛され、 撮影されてきた。なかでも、生涯にわたり富士山を追い続 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/164
165: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-slG6) [sage] 2018/02/16(金) 01:42:42 ID:jABd19d80 持つ湧玉池のほとりに置かれたとする説が有力である。なお湧 玉池は、浅間大社内に所在する富士山の湧水を起源とする池で ある。16世紀前後、湧玉池は浅間大社により道者が身を清め る場と位置づけられたとされ、エムゾネ同時期の絵図や旅行記でそ の様子が確認できる。この水垢離は1920〜30年代まで行 われた。現在でも湧水を聖なる水として利用する人が多くいる 。法的保護、修理・整備の経緯1907年に本殿が古社寺 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/165
166: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-slG6) [sage] 2018/02/16(金) 01:49:09 ID:jABd19d80 法の下に特別保護建造物に指定された。エムゾネ1923〜26年 に本殿・拝殿・楼門等の補修が行われた。1929年の国宝保 存法制定に伴い、本殿は国宝とされた。1933〜34年に楼 門の修理を行った。1936年に袖廊・廻廊を附した。195 0年の文化財保護法制定に伴い、本殿は重要文化エムゾネ財とされ た。1951〜52年、1970年、1988年に本殿の屋根 の修理等が行われた。1969〜70年に本殿の屋根の修理等 が行われた。1987〜88年に本殿の屋根の修理等が行われ た(部分補修)。2005年に本殿の屋根の修理等が行わエムゾネ れた。13文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山 として指定される予定。B2.山宮浅間神社説明富士山本宮浅 間大社の社伝によれば、浅間大社の前身とされ、拝殿・本殿等 が位置すべき場所に石列でいくつかに区分された遥拝所が設置 されエムゾネるのみという特異な形態は古代からの富士山祭祀の形 を止めていると推定されている。この遥拝所の主軸は富士山方 向を向いている。具体的な創建年代は不詳だが、発掘調査では 神事に使用されたと推定される12〜15世紀の土器が出土し 、文献上ではエムゾネ1551年にその存在が確認できる。また、 遅くとも1577年までには浅間大社との間で「山宮御神幸」 といわれる儀式が開始された。これは4月と11月に神の宿っ た鉾を持ち、浅間大社と山宮浅間神社を往復する行事である。 現時点では神が4月にエムゾネ旧跡に戻るという解釈と、山にいる 神が4月に田の神として里へ降りるという解釈がある。この行 事は1874年まで行われていた。なお、「山宮御神幸」に使 用される経路を御神幸道という。道には1691年に置かれた 距離を示す石碑が少なくとも四エムゾネ箇所残っているが、正確な 道筋は現在確認されていない。法的保護、修理・整備の経緯1 985年に富士宮市の史跡に指定される。文化財保護法の http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/166
167: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-slG6) [sage] 2018/02/16(金) 01:55:27 ID:jABd19d80 他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定。B3. 村山浅間神社説明12世紀前半から中ごエムゾネろの修行僧末代の 活動が創建の起源とされており、1868年の神仏分離令まで は神仏習合の宗教施設として興法寺(富士山興法寺または村山 興法寺)と呼ばれていた(資産範囲には浅間神社と寺院である 大日堂が含まれる)。富士山における修験道の中エムゾネ心地であ り、14世紀初めには、その活動が組織化された。15〜16 世紀には一般の道者の登拝も増加し、その様子が16世紀の制 作とされる「絹本著色富士曼荼羅図」に描かれている。186 8年、神仏分離令により浅間神社と大日堂は分離され、1エムゾネ 906年の登山道の変化にも伴い両者とも衰微した。ただし、 修験者の活動は1940年代まで継続された。また、村山の修 験者の影響を受けた地域では現在でもその宗教行事が継続され ている。法的保護、修理・整備の経緯2001年から2003 年にエムゾネかけて富士宮市教育委員会により発掘を含む調査が行 われた。文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山と して指定される予定。B4.須山浅間神社説明須山口登山道の 起点として遅くとも1524年には存在していた神社である。 1707年、エムゾネ宝永噴火により社殿は登山道も含め大きな被 害を受け、現在の社殿は1823年に再建されたものである。 神社は村山浅間神社(興法寺)の修験者とも関わりを持ち、1 940年頃まで境内で修行の一環としての祈祷が行われていた 。法的保護、修理・整エムゾネ備の経緯文化財保護法の下に他の文 化財とともに史跡富士山として指定される予定。14B5.富 士浅間神社(須走浅間神社)説明社伝では807年に社殿を造 営したとされ、須走口登山道の起点となった神社である。16 世紀には地元支配者(武田氏)エムゾネの保護を受け、山頂部の散 銭取得権の一部を得ている。社殿は1707年の宝永噴火 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/167
168: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-slG6) [sage] 2018/02/16(金) 02:01:48 ID:jABd19d80 壊し1718年に再建された。この後もこの際の部材を使用し 、2009年の修理も含め何回かの修理がおこなわれている。 神社には富士講道者が多く立ち寄り、2エムゾネ0世紀前半を中心 に登拝回数の達成(33回がひとつの区切り)等の記念碑を約 80基造営した。法的保護、修理・整備の経緯2006年に社 殿が小山町の有形文化財となる。2009年に本殿・参道の修 理が行われた。文化財保護法の下に他の文化財とエムゾネともに史 跡富士山として指定される予定。B6.河口浅間神社説明古く から富士山に関わる祭祀は南麓の浅間神社が執り行っていたが 、864〜866年に北麓で起こった噴火を契機に、北麓にも 浅間神社が建てられることとなった。それが、富士山を望エムゾネ む河口湖の北岸にあり、溶岩の届かなかった河口浅間神社であ る可能性が高い。浅間神社を中心とした河口の地は、甲府盆地 から続く官道の宿駅という役割に加え、富士登拝が大衆化した 中世後半から御師集落として発展を遂げた。しかし、江戸にお けるエムゾネ富士講の大流行と、それに伴う吉田御師の隆盛により 、河口の御師集落としての機能は、19世紀以降衰退してしま った。ただし、河口浅間神社は、現在も富士山と密接に結びつ いた宗教行事を行っており、歴史的背景と相俟って、富士山信 仰を語る上でエムゾネ欠かすことのできない資産である。法的保護 、修理・整備の経緯文化財保護法の下に他の文化財とともに史 跡富士山として指定される予定。B7.冨士御室浅間神社説明 冨士御室浅間神社は、8世紀初めに吉田口登山道二合目に祭場 をしつらえたのが最初エムゾネとされ、富士山中に祀られた最初の 神社であるとする文献もある。富士修験の信仰拠点は南西の村 山であるが、北面の二合目、御室浅間神社が鎮座する御室の地 にも山内の信仰拠点として役行者堂が整備されたようである。 山中という厳しい条件の下に所エムゾネ在するためたびたび破 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/168
169: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-slG6) [sage] 2018/02/16(金) 02:09:10 ID:jABd19d80 、1189、1275、1475、1525年と加修され、1 564には地元領主による大修理が行われている。現在の本殿 は1612年建立と認められ、その後も1698年、1867 年に修復が行われていた。1973−7エムゾネ4年には里宮の地 にそのままの形で移設された。里宮は、二合目の本宮(もとみ や)が冬季の参拝に苦渋するために河口湖畔に建てられたとさ れる。修験や登拝といった様々な富士信仰の拠点として位 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/169
170: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-slG6) [sage] 2018/02/16(金) 02:16:35 ID:jABd19d80 けられる二合目の本宮と、土地の産土神としてのエムゾネ里宮が一 体となって機能してきた神社である。法的保護、修理・整備の 経緯1973〜74年に吉田口登山道二合目にあった本殿が里 宮の地に移築された。151985年に移築された二合目本殿 が文化財保護法の下に重要文化財に指定された。文化財保エムゾネ 護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予 定。B8.御師住宅説明御師は、道者に宿や食事を始め登拝の ための一切の世話をするとともに、登拝の指導や祈祷を行うこ とを業とした。富士山御師として代表的なのは、吉田口登山道 の起エムゾネ点である北口本宮冨士浅間神社の北西に、北東方向の 傾斜面に沿って大規模な集落を形成した吉田の御師である。御 師屋敷の多くは短冊状をなし、表通りに面して引き込み路を設 け、敷地を流れる水路の奥に住宅兼宿坊の建物が建っている。 玄関から奥へエムゾネ客室が続き、最奥部には神殿が設けられてい る。1768年に建てられ最古の部類に数えられる旧外川家住 宅や、格式的な構えが確立した頃に建てられ富士講最盛期の御 師住宅の典型例とされる小佐野家住宅が代表的である。186 1年に新築された小佐エムゾネ野家住宅同様、富士講の流行に伴い 増加する宿泊者に対応するため、旧外川家住宅では1860年 代に離座敷が増築された。法的保護、修理・整備の経緯197 6年に小佐野家住宅が文化財保護法の下に重要文化財に指定さ れた。1979年に小佐野家住エムゾネ宅の屋根の修理等が行われ た。1996〜98年に小佐野家住宅の腐敗修理等が行われた 。旧外川家住宅が文化財保護法の下に重要文化財に指定される 予定。B9.山中湖B10.河口湖説明富士山の火山活動によ って形成された堰止湖である。富士山周エムゾネ辺の湖を巡って修 行する内八海巡りが多くの富士講徒によって行われたが、長谷 川角行の水行からいつの時代も変わらず巡拝の対象として http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/170
171: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-slG6) [sage] 2018/02/16(金) 02:23:02 ID:jABd19d80 られたのが前述の3つの湖とこの山中湖及び河口湖である。こ の巡礼行為について、具体的に湖沼のどこで修行エムゾネや巡礼が 執り行われたか、またどのルートを辿って各湖を巡ったかは、 定まっていなかった(少なくとも、明らかになっていない)も のの、人々の信仰心を駆り立てた湖沼の水そのものを核心とし て、周辺地域も含めた範囲が文化財とされている。また、エムゾネ 景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。法的保護 、修理・整備の経緯文化財保護法の下に名勝として指定される 予定。B11.忍野八海説明富士山の伏流水による八つの湧水 地で、それぞれに八大竜王を祀る富士信仰に関わる巡拝地であ ったエムゾネ。富士登山を目指す行者たちはこの水で穢れを祓った 。長谷川角行が行った富士八海修行になぞらえ「富士御手洗( みてらし)元八湖」と唱えられた古跡の霊場と伝えられ、18 43年に富士講道者によって再興されたとされる。法的保護、 修理・整備のエムゾネ経緯1934年に史蹟名勝天然紀念物保存法 の下に天然紀念物に指定された。16B12.船津胎内樹型説 明1617年長谷川角行が富士登拝の際、北麓に洞穴(船津胎 内樹型指定範囲内に点在する小規模な溶岩樹型のひとつと考え られる)を発見し、浅エムゾネ間明神を祀った。1673年には富 士講道者によって現船津胎内樹型が発見され、浅間明神が遷宮 された。富士登拝の際に、樹型に入って身を清める風習があり 、洞穴内外の地形空間に宗教的な意義付けが行われるとともに 、奥には富士講にとっての富士エムゾネ山の祭神である木花開耶姫 などが祀られている。法的保護、修理・整備の経緯1929年 に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に天然紀念物に指定された。 B13.吉田胎内樹型説明1892年に富士道者によって整備 された「お胎内」である。富士講講徒はエムゾネ、昼までに御師の 家に着き、夕方まで胎内巡りをし、翌朝富士山に登山した http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/171
172: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-slG6) [sage] 2018/02/16(金) 02:30:38 ID:jABd19d80 穴については、古くから冨士山北口御師団が管理している。法 的保護、修理・整備の経緯1929年に史蹟名勝天然紀念物保 存法の下に天然紀念物に指定された。B14.人エムゾネ穴富士講 遺跡説明富士講の開祖長谷川(藤原)角行が修行したとされる 溶岩洞窟の人穴と富士講信者による約230基の碑塔群が残る 遺跡である。「吾妻鏡」では人穴探検の様子が描かれ、「浅間 大菩薩の御在所」とみられていたとされている。この内容エムゾネ は遅くとも1603年までに、浅間大菩薩の霊験譚として説話 化され、その存在が広く知られていた。富士講関連の文書によ れば人穴は16世紀から17世紀にかけ、長谷川角行が修行に より浅間大菩薩(富士講では仙元大日神とする)の啓示を得た 場でエムゾネあり、入滅した場だとしている。また、角行は人穴を 「浄土(浄土門)」と述べ、これらの結果人穴には熱心な富士 講信者が参詣し、修行を行う者も見られた。また、信者は人穴 への分骨埋葬などを望み、墓碑、供養碑、記念碑などを建立し た。1942エムゾネ年付近が軍用地となり、人穴の浅間神社や周 辺の住民は一時移転した。1954年神社は現在地に復興され たが、冨士講自体が衰退したことで参詣者はみられるものの1 964年以降碑塔の建設は行われていない。法的保護、修理・ 整備の経緯1999年エムゾネに富士宮市の史跡となる。文化財保 護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予 定。B15.白糸ノ滝説明富士山の湧水を起源とする数百の流 れを持つ滝である。滝の名前は湧水(日平均15〜16万〜) の噴出が数百条の白糸が垂れてエムゾネいるように見えることをそ の起源とする。17白糸ノ滝は富士講関連の文書によれば長谷 川角行が人穴での修行と合わせて水行を行った地とされ、富士 講を中心とした人々の巡礼・修行の場となった。また、景勝地 としても有名であり、和歌・絵画の題材エムゾネにもなってい http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/172
173: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-slG6) [sage] 2018/02/16(金) 02:38:05 ID:jABd19d80 法的保護、修理・整備の経緯1936年に史蹟名勝天然紀念物 保存法の下に名勝及び天然紀念物に指定された。C.三保松原 説明三保松原は、万葉集以降和歌の題材となり、謡曲「羽衣」 の舞台となった。15〜16世紀以降富士山を描エムゾネく際の典 型的な構図に含まれる景勝地として数多く描かれ、歌川広重等 の作品をはじめ海外にも広く知られている(又は海外に影響を 与えた)芸術作品の視点場、又は舞台となった場所のひと http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/173
174: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-slG6) [sage] 2018/02/16(金) 02:44:23 ID:jABd19d80 ある。法的保護、修理・整備の経緯1922年に史蹟名勝エムゾネ 天然紀念物保存法の下に名勝に指定された。18b)歴史と発 展山容の形成富士山の原型は、40〜10万年前、周辺の火山 とともに活動をはじめ、先小御岳火山が形成された。その後こ れを覆うように標高約2500mの小御岳火山が形成された。 さらエムゾネに約10万年前、そのふもとに古富士火山が誕生し、 爆発的噴火、火山礫・火山灰の噴出、山体崩壊を繰り返し、小 御岳火山をほぼ山体に納める形で3000mを超える火山に成 長した。約1万年前には大量の溶岩を噴出する形で現在の富士 山(新富士火エムゾネ山)が成長を始め、古富士山を覆いつくし、 約5600〜3500年前に現在の規模となった。繰り返され た溶岩の流出によって何層にもわたる溶岩層が形成され、その 先端部には山体への降水を起源とする湧水が各溶岩層の隙間よ り湧出する形で各所にエムゾネ形成された。富士山北麓においては これらの湧水や降水が北側の山地との間の低地にたまり、湖や 湿地が形成された。また、溶岩層の中には数多くの風穴、溶岩 樹型が形成された。山頂からの噴火は2200年前の噴火を最 後に起こっていないが、歴史時エムゾネ代になっても北西〜南東方 向に連なる側火山からの噴火を続け、1200年前から後には 少なくとも800〜802年、864〜866年、937年、 999年、1033年、1083年、1435〜1436年、 1511年、1707年の九つの時期のエムゾネ噴火が確認されて いる。神々しい山容と「鎮爆」このような噴火や溶岩の流出を 繰り返す富士山は恐ろしくかつ神秘的な山と考えられたために 、古くから遥拝の対象であったが、日本における古代国家の統 治システムがほぼ整った8世紀後半以降は、繰りエムゾネ返す噴火 を鎮めるため、富士山そのものあるいは富士山に鎮座する神を 浅間神として祀るようにもなり、各地に遥拝所としての浅 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/174
175: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-slG6) [sage] 2018/02/16(金) 02:50:48 ID:jABd19d80 社が建立され、国家の宗教政策の一端に位置づけられるように なった。また、富士山の神々しく秀麗な姿と周辺の自然環エムゾネ 境が芸術の対象とされるようになり、日本最古の歌集である『 万葉集』(8世紀半ば)や日本最古の物語とされる『竹取物語 』(9世紀後半)をはじめとして、数多くの和歌・物語など文 学の題材となったほか、現存最古となる『聖徳太子絵伝』(1 1世エムゾネ紀制作)をはじめ、数多くの絵画作品の題材として取 り上げられるようになった(表参照)。特に12世紀後半以降 、日本の政治的中心が京都から鎌倉に移動し、この二つの都市 を結び富士山南麓を通る街道の交通量が増加したことで、富士 山の情報は多エムゾネくの人に記録され、広く知られるようになっ た。修験道―日本古来の山岳信仰と外来宗教の習合―また、1 2世紀頃より噴火活動が沈静化したことで富士山は日本古来の 山岳信仰と密教・道教(神仙思想)が習合した「修験道」の道 場ともなり、修験者がエムゾネ山中に分け入り、霊力を獲得するた めに修行する山へと変化していった。当時一般的であった神仏 習合思想(本地垂迹説)により、山頂部は仏の世界(又は仏が 神の形となって現れる場所)として認識され、山頂部に至るこ とが重要な意味を持つようになエムゾネった。この結果15〜16 世紀には登拝する山として一般に広く知られ、修験者に引率さ れた武家・庶民等による信仰登山が盛んになった。登山口の設 置はいずれも室町時代のことで、14世紀から15世紀後半に 開かれたとされている。このころには参エムゾネ詣の道者のための 宿坊もでき始め、大勢の登山者が登るための設備が整い始めた 。登拝の大衆化―富士講―17世紀前半、約150年にわたる 日本国内での戦乱状態が終了し、江戸幕府の下で治安が安定し 経19済的な発展もあってより多くの人が富士山エムゾネを目指す ようになった。このような中で18世紀後半、16世紀に http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/175
176: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-slG6) [sage] 2018/02/16(金) 02:56:57 ID:jABd19d80 山体や周辺の風穴などで修行し、宗教的覚醒を得た長谷川角行 から始まったとされる富士信仰が江戸(現在の東京)を中心に 「富士講」と呼ばれる信仰集団を形成して大いに盛んになエムゾネ り、より多くの人々が登拝するようになった。富士講や他の登 拝者(合わせて「道者」という。)は原則として固定的・継続 的関係を持った「御師(宿坊を経営する神職)」の家や宿坊に 宿泊し、祈祷や宗教的指導を受け、湧水で水垢離をとり、浅間 神社エムゾネに参拝した後、頂上を目指した。登山道には茶屋や山 小屋が建てられ、多くの登拝者の活動を支える施設が体系的に 整備されたのもこの頃である。また、富士講においては長谷川 角行ら指導者の言動にならって周辺の風穴や湖沼・滝なども修 行の地とされエムゾネ、ここにおいて富士山と周辺の宗教施設・霊 地・巡礼地は庶民の信仰の場として定着し、山の結界が開放さ れる二ヶ月間に年平均1万〜2万人の人々が信仰を目的とした 登山を行うようになった。芸術作品の多様化とジャポニスム芸 術面においても、とりエムゾネわけ江戸時代(17〜19世紀半ば )には、文学、絵画、工芸、庭園等のモチーフとして多岐にわ たって取り上げられ、三保松原と富士山を描いた絵画など多様 な表現が追究されるようになった。(表参照)特に、葛飾北斎 の「冨嶽三十六景」に代表されエムゾネる浮世絵の数々は、西洋の 画家たちに文化的衝撃を与えた。19世紀後半には「ジャポニ スム」という芸術上の画期的な転機を惹き起こし、印象派の作 品に影響を与えるとともに、その富士山を含んだ構図は海外に おいて日本のイメージの一つとされてきエムゾネたのである。日本 を訪れた外国人が富士山からインスピレーションを得て記述し た紀行文の中でも、富士山のアイコン的側面を綴ったものが多 い。近世以前も富士山は日本一有名な山であったが、19世紀 後半の開国によって日本が近代国家としての体制エムゾネを整 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/176
上
下
前
次
1-
新
書
関
写
板
覧
索
設
栞
歴
あと 202 レスあります
スレ情報
赤レス抽出
画像レス抽出
歴の未読スレ
AAサムネイル
Google検索
Wikipedia
ぬこの手
ぬこTOP
0.227s*