[過去ログ]
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)21【ダメ工作員】 (378レス)
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)21【ダメ工作員】 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/
上
下
前
次
1-
新
通常表示
512バイト分割
レス栞
このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています。
次スレ検索
歴削→次スレ
栞削→次スレ
過去ログメニュー
254: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-slG6) [sage] 2018/02/16(金) 11:56:01 ID:jABd19d80 観光計画(環境省・山梨県・静岡県・各エムゾネ市町村)整備計画 等図包括的保存管理計画の体系2計画策定の経緯富士山包括的 保存管理計画は、構成資産に係る個別の保存管理計画を基礎と し、世界遺産の推薦に当たって必要とされる保存管理及び整備 に係る理念・基本方針とその具体的内容についてエムゾネ明示する ため、学術研究者等により構成される山梨県・静岡県学術委員 会及び二県学術委員による審議を経て策定されたものである。 学識経験者等により構成する各県学術委員会のもとに、保存管 理計画の原案を検討する保存管理計画検討部会を設置したエムゾネ 。原案を検討するにあたり、県庁内の関係部署との連携や共通 認識を得るため、それぞれ「山梨県保存管理計画検討プロジェ クトチーム」(表)及び「静岡県保存管理計画検討庁内連絡会 議」(表)を設置し、連携・確認を行った。また、富士山の効 果的エムゾネかつ確実な保存管理を行うためには、地元関係者など 幅広い方々の協力・助言が不可欠であることから、関係自治体 ・地域住民・観光関係者・神社関係者などで構成する「山梨県 保存管理計画策定協力者会議」及び「静岡県保存管理計画協力 者部会」を設エムゾネ置し、連携を図った。さらに、二県学術委員 会のもとに設置した「包括的保存管理計画検討部会」における 検討とあわせ、文化庁の指導・助言の下、201■年■月に策 定した。(1)各県における検討の経緯両県の経緯(包括的保 存管理計画検討部会とエムゾネ学術委員会)2007年11月29 日平成19年第1回包括的保存管理計画検討部会・包括保存管 理計画の必要性・国内の世界遺産における包括的保存管理計画 の事例2007年12月26日平成19年第2回包括的保存管 理計画検討部会・目的と経緯・エムゾネ構成資産の概要・保存管理 の包括的な基本方針2008年3月17日平成19年度第2回 学術委員会・包括的保存管理計画検討部会の審議結果20 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/254
255: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-slG6) [sage] 2018/02/16(金) 12:03:21 ID:jABd19d80 年6月19日平成20年度第1回包括的保存管理計画検討部会 −6−・包括的保存管理計画の役割・構エムゾネ成要素と本質的価 値の明確化2009年5月20日平成21年度第1回包括的保 存管理計画検討部会・各資産候補の概要について・構成資産、 緩衝地帯、保存管理区域について2010年3月19日平成2 1年度第2回学術委員会・保存管理計画の考え方エムゾネについて 山梨県の経緯2007年8月31日平成19年第1回山梨県保 存管理計画検討部会・保存管理計画の事例2007年12月9 日現地調査2008年1月31日平成19年度第2回山梨県保 存管理計画検討部会・包括的保存管理計画検討部会の審議エムゾネ 結果・山梨県保存管理計画の基本方針2008年2月21日平 成19年度第3回山梨県・静岡県学術委員会・各県保存管理計 画検討部会の審議結果2008年4月16、17日現地調査2 008年5月1日平成20年度山梨県保存管理計画策定ワーキ ングエムゾネ・山梨県保存管理計画の策定について2008年6月 10日現地調査2008年6月30日現地調査2008年7月 22日平成20年度第1回山梨県保存管理計画検討部会・構成 要素と本質的価値の明確化・保存管理の方法と考え方2009 年4月24日エムゾネ平成21年度第1回山梨県保存管理計画策定 協力者会議・富士山の世界文化遺産登録の現状について・山梨 県保存管理計画策定協力者会議について2009年6月19日 平成21年度第1回山梨県保存管理計画検討部会・各資産候補 の概要について・構成エムゾネ資産、緩衝地帯、保存管理区域につ いて2009年8月26日平成21年度山梨県保存管理計画策 定ワーキング・富士山世界文化遺産登録への取組状況について ・山梨県保存管理計画の策定について2010年3月16日平 成21年度第3回山梨県・静岡エムゾネ県学術委員会・保存管理計 画の考え方について2010年6月30日平成22年度第 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/255
256: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-slG6) [sage] 2018/02/16(金) 12:09:56 ID:jABd19d80 山梨県保存管理計画検討部会静岡県の経緯2007年7月5日 平成19年度第1回静岡県保存管理計画検討部会・保存管理計 画について−7−2008年1月23日エムゾネ現地調査2008 年1月30日平成19年度第2回静岡県保存管理計画検討部会 ・包括的保存管理計画検討部会の審議結果・静岡県保存管理計 画について2008年2月21日平成19年度第3回山梨県・ 静岡県学術委員会・各県保存管理計画検討部会のエムゾネ審議 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/256
257: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-slG6) [sage] 2018/02/16(金) 12:16:21 ID:jABd19d80 2008年7月16日平成20年度第1回静岡県保存管理計画 検討部会・包括的保存管理計画検討部会の報告・静岡県保存管 理計画について2008年9月9日平成20年度静岡県保存管 理計画検討部会第1回庁内連絡会議・富士山の世界文化遺エムゾネ 産登録推進の取組について・静岡県保存管理計画の策定につい て2009年2月12日現地調査2009年6月1日平成21 年度第1回静岡県保存管理計画策定協力者部会・富士山の世界 文化遺産登録推進の取組について・静岡県保存管理計画の策定 につエムゾネいて2009年6月17日平成21年度第1回静岡県 保存管理計画検討部会・静岡県保存管理計画の策定について・ 富士山の緩衝地帯に関する考え方2009年7月13日平成2 1年度静岡県保存管理計画検討部会第1回庁内連絡会議200 9年10月2エムゾネ9日平成21年度静岡県保存管理計画検討部 会第2回庁内連絡会議2009年11月25日平成21年度第 2回静岡県保存管理計画策定協力者部会2010年1月29日 平成21年度第3回静岡県保存管理計画策定協力者部会201 0年3月16日平成2エムゾネ1年度第3回山梨県・静岡県学術委 員会・保存管理計画の考え方について2010年6月30日平 成22年度第1回静岡県保存管理計画検討部会(2)学術委員 会・保存管理計画検討部会組織学術委員会及び保存管理計画検 討部会の組織は図に示すとおりエムゾネである。また、その構成は 表〜のとおりである。(1)行政計画との関連・連携構成資産 及び緩衝地帯を有する山梨県・静岡県及び関係市町村では、ま ちづくり、観光、防災などに関する各種計画を策定し、実施し ている。これらの計画は、包括的保存管エムゾネ理計画と密接に関 連し、日常的に連携を図りつつ実施されている。表包括的保存 管理計画に関連する計画(山梨県)計画名称策定年等?資産に 影響する可能性がある個別の開発計画大規模集客施設等の http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/257
258: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-slG6) [sage] 2018/02/16(金) 12:23:20 ID:jABd19d80 に関する方針(山梨県)2010年1月ゴルフ場エムゾネ造成に事 業に関する今後の取扱いについて(山梨県)1993年10月 −17−明神峠自然環境保全地域保全計画昭和50年策定静岡 県森林共生基本計画平成19年3月策定富士地域森林計画書平 成18年4月策定?資産に影響する可能性がある個別の開エムゾネ 発計画企業立地促進法に基づく静岡県東部地域基本計画(静岡 県及び14市町)平成21年2月策定市町村森林整備計画平成 18年4月策定−18−(富士宮市・富士市・裾野市・御殿場 市・小山町)(2)計画の実施今回提出する富士山包括的保存 管理エムゾネ計画は、20年月から既に実施され機能されているも のである。−19−第2章構成資産の概要1構成資産の一覧世 界遺産「富士山」の構成資産の種別、位置、面積、緩衝地帯の 面積、所在地については、以下の表に示すとおりである。表構 成資産の一覧エムゾネ大種別分類小分類構成資産世界遺産条約文化 財保護法自然公園法所在地位置資産面積(ha)緩衝地帯面積 (ha)A富士山(山体)(御中道含む)遺跡特別名勝史跡山 頂信仰遺跡(奥宮、お鉢巡り)遺跡特別名勝史跡A2大宮・村 山口登山道遺跡特別名エムゾネ勝史跡A3須山口登山道遺跡特別名 勝史跡A4須走口登山道遺跡特別名勝史跡A5吉田口登山道遺 跡特別名勝史跡静岡県(富士宮市、裾野市、御殿場市、小山町 )山梨県(富士吉田市、身延町、鳴沢村、富士河口湖町)県境 未確定地″A6北口本宮冨士浅エムゾネ間神社遺跡建造物記念工作 物特別名勝史跡重要文化財A7西湖遺跡名勝A8精進湖遺跡名 勝A9本栖湖遺跡名勝BB1富士山本宮浅間大社遺跡建造物記 念工作物重文静岡県富士宮市B14人穴富士講遺跡遺跡市史跡 静岡県富士宮市NEB15白糸ノ滝遺跡エムゾネ名勝・天然記念物 静岡県富士宮市NEC三保松原文化的景観遺跡静岡県静岡市N E2資産及び緩衝地帯等の範囲「富士山」の顕著な普遍的 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/258
259: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-slG6) [sage] 2018/02/16(金) 12:30:39 ID:jABd19d80 を表す構成資産の保護を確実にし、各構成資産における富士山 体への良好な眺望を保証するために、個々の構成エムゾネ資産の周 囲に必要十分な範囲の緩衝地帯を設定する。さらに、個々の構 成資産間の関係を良好に保ち、富士山の景観の一体性・連続性 を保証するために、緩衝地帯を含め、広く保全管理区域を設定 する。構成資産の位置及びその周辺地域である緩衝地帯、エムゾネ 保全管理区域の範囲については、図に示すとおりである。図「 富士山」の範囲(構成資産・緩衝地帯)富士山山体の範囲につ いては、現在特別名勝富士山に指定されている区域だけでなく 、その周辺部にあたる標高約1,500m付近までとした。こ の範エムゾネ囲において、特別名勝の区域は文化財保護法で保護さ れ、特別名勝指定地外から標高1,500mの区域については 自然公園法と森林法で保護されている。緩衝地帯との境につい ては林班により線引きを行い、県道などの人工物の改修工事等 への影響が軽エムゾネ減するよう配慮した。そして本栖湖、精進湖 、西湖までを富士山の山体として考え、範囲付けしたことは、 展望地点から山頂までを連続して保護するための措置である。 緩衝地帯の範囲については、当初国道469号から県道72号 にかけての富士山側をエムゾネ計画していたが、国際専門家から飛 び地の資産である、富士山本宮浅間大社や山宮浅間神社を緩衝 地帯に含めるべきだとの指摘があり、市道を境に緩衝地帯を設 定した。その際、富士山本宮浅間大社からの富士山の眺望を確 保するため、富士山に向かってエムゾネ約36度の広がりで設定し た。この範囲については、文化財保護法以外の法律を適用し、 自然公園法、森林法、景観法で保護されている。保全管理区域 の範囲については、三保松原から富士山を眺望する際、その阻 害要因を軽減させるために、溶岩が流出エムゾネした範囲を基本と して設定した。そのため、静岡県側においては、裾野市、 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/259
260: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-slG6) [sage] 2018/02/16(金) 15:03:17 ID:jABd19d80 。また、登山道ごとに標高は異なるが、1779年以降、エムゾネ 浅間大社の境内地とされてきた八合目以上はより強い神聖性を 持つとされる。理由は八合目の標高とほぼ一致する噴火口であ る「内院」の底部に浅間大神が鎮座するとの信仰に基づく。富 士山頂へ向かい、登山の歴史の中で開鑿された登山道が、現在 の4エムゾネ本の登山道の起源となっている。また、ほぼ森林限界 に沿い、富士山山体を一周する「御中道」が15〜16世紀ご ろ富士講の祖とされる長谷川角行によって開かれたとされ、そ の後「大沢崩れ」という危険箇所を通るため、富士講信者によ り修行の道とエムゾネして利用された。表法的保護、修理・整備の 経緯1924年史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝に仮指定 1936年国立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指定19 52年文化財保護法の下に名勝、ついで特別名勝に指定196 9年国が大沢崩れに対エムゾネする砂防事業に着手(継続中)19 96年国・県が台風による森林の風倒被害に対する対策に着手 (継続中)「御中道」は、標高2,300m付近から2,80 0m付近の山腹を通り、富士山の中腹部を時計回りに一周する 約25kmの道である。「御中エムゾネ道巡り」は、修験道の祖と される役行者が始めたと伝えられ、16世紀後半、富士講の基 礎を築いた長谷川角行が行ったことが記録されている。古くは 定まった道もなく巡ったとされ、富士講が盛んになった江戸時 代後期には一定の道が整備された。富士エムゾネ山信仰の上では、 山体西側の大沢崩れを渡るという危険を伴う最大級の大行の道 とされていた。富士登山3回以上の経験を持ち、誓約書を御師 に提出し、神への伺いをたてた上でないと許可されないほど厳 しいものであった。この御中道の巡拝を無事終えエムゾネると、そ の証である「御許し」を御師から受けることができた。181 6年の資料では年間100人以上が御中道巡りを行ってい http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/260
261: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-slG6) [sage] 2018/02/16(金) 15:11:06 ID:jABd19d80 、1977年の転落事故で通行止めとなり、現在では一周する ことはできなくなっている。写真御中道の写真A1山頂信エムゾネ 仰遺跡(富士山本宮奥宮)富士山山頂部の火口壁沿いに、いく つかの神社及び宗教関連施設が所在する。富士山への信仰登山 が開始されると、修験道の影響を受け山頂部において寺院の造 営や仏像等の奉納がおこなわれるとともに、山頂部での宗教行 為がエムゾネ体系化されていった。登拝者は山頂周辺において「御 来光」を拝み、内院と呼称される噴火口に鎮座すると言われる 神仏を拝した。また、火口壁にいくつかあるピークを仏教の曼 荼羅における仏の世界に擬して巡拝する「お鉢めぐり(八葉め ぐり)」と呼エムゾネばれる行為を行なうことが一般的であった。 山頂の宗教的施設は、12世紀中ごろ、修行僧末代により建立 された大日寺(大日堂)が最初とされ、その後、経典・懸仏・ 仏像等の山頂部への奉納・埋納や内院への散銭が行われた。ま た、遅くとも17世紀エムゾネには、大宮・村山口山頂部に大日堂 が、吉田・須走口山頂部に薬師堂が造営された。この様子は1 9世紀中ごろの絵図によって確認できる。1874年、山頂の 仏教的施設及び仏像は廃仏毀釈の影響によって撤去され、ピー クの名称も変更され、寺院は神エムゾネ社に改変された。しかし、 山頂部に対する信仰自体は変化することなく、上記の行為は現 代の−23−登山者の多くが行っており、これらを通じて富士 信仰の核心が現代に受け継がれている。写真奥宮の写真表法的 保護、修理・整備の経緯1924年所在エムゾネ地が史蹟名勝天然 紀念物保存法の下に名勝に仮指定1936年所在地が国立公園 法の下に(富士箱根)国立公園に指定1952年所在地が文化 財保護法の下に名勝、ついで特別名勝に指定2008年財団法 人静岡県埋蔵文化財調査研究所により現地調査がエムゾネ行われ、 その成果に基づき2010年に「史跡富士山保存管理計画 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/261
262: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-slG6) [sage] 2018/02/16(金) 15:18:06 ID:jABd19d80 策定された2010年文化財保護法の下に他の文化財とともに 史跡富士山として指定山頂の噴火口の周囲を一周し、頂上の各 峰を巡る行為は、古くから「お鉢巡り」と呼ばれ、現在もエムゾネ 多くの人々に受け継がれている。13世紀後半の資料には「い たゞきに八葉の嶺あり」との記載があり、このころには山頂の 峰々に信仰的意義を見出していたことが伺える。16世紀前半 には地元為政者が「八要メサルヽ也」との記述も見られ、 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/262
263: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-slG6) [sage] 2018/02/16(金) 15:25:07 ID:jABd19d80 盛んエムゾネになるお鉢巡りの古態と思われる習俗があったことが 知られる。富士講講中の多くは、頂上に着くと、時計回りに山 頂を巡っていった。内院に賽銭を投じ、御来光を礼拝し、途中 にあるいくつかの仏像や石碑を拝みながら、大日寺(現奥宮) の大日如来、エムゾネ最高峰の剣ヶ峰、釈迦割石、霊泉とされた金 明水などを巡礼した。写真お鉢めぐりの写真A2大宮・村山口 登山道富士山南西麓の浅間大社及び村山浅間神社を起点とし、 山頂大日岳に至る登山道である。12世紀前半、富士山で修行 した末代上人の開削しエムゾネた登山道が起源だとされ、14世紀 初め、僧の頼尊が修験者とその活動を組織化したことで、村山 を基点とする登山が行われていたことが推測できる。15世紀 に入ると村山での宿坊の存在が確認でき、同世紀前半には、地 元支配者である今川氏により発エムゾネ心門等の施設が寄進された との記録がある。今川氏は1552年、村山を神聖な地と定め 、村山三坊には山役銭の徴収権を与えている。この権利は19 世紀後半まで継続し、浅間大社が登山道の管理に関わることは なかった。一方、16世紀ごろ、浅間大エムゾネ社は湧玉池での水 垢離を重要な儀式と位置づけることによって、浅間大社を経由 した登拝を喧伝した。浅間大社には16世紀前半に30余りの 道者坊があったことが伝えられ、同時期の絵図である「絹本著 色富士曼荼羅図」には浅間大社・湧玉池及び村山エムゾネ浅間神社 を経由して登山する人々の姿が描かれている。道者坊はその後 統合され、19世紀前半には5坊となった。また、1600年 頃以降、地元支配者により、大宮を経て村山口登山道を利用す ることが求められた。登山道中の宗教施設は、17世紀初エムゾネ 頭までに建設され、石室などの施設は主に17世紀後半、興法 寺から許可を受けた先達により建設されたが、1707年の宝 永噴火で登山道と共にことごとく破壊された。これらは再 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/263
264: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-slG6) [sage] 2018/02/16(金) 15:32:48 ID:jABd19d80 れたが、その復興は須走口より遅かった。主要な宗教施設とし てはエムゾネ発心門、中宮八幡堂、室大日などがあった。登拝者は 興法寺の檀所や浅間大社の道者場としていた静岡県西部地方を 含む西日本の人々が多かった。なお、1532年以降不連続で あるが、登拝者の記録が残され、その数は18世紀後半から1 9世紀初頭のエムゾネ道者坊の記録より、御縁年で2,000人前 後、平年で数百名程度と推測できる。1826年の記録ではそ の数が減少し、村山の村落も衰退していたとの記述もあるが、 1860年、初の外国人登山となる英国公使オ−24−ールコ ックは大宮を経由してエムゾネ村山に宿泊し、山頂をめざした。彼 の記録では大鏡坊、中宮八幡堂の存在や登山道の様子が確認で きる。明治維新以降、女人登山の解禁もあり、登山者は増加傾 向を示すが、1889年、東海道線の開通による御殿場口利用 者の増加により衰退し、これへエムゾネの対策として1906年、 村山を経由せず4km短縮された大宮新道(カケスバタ口)が 建設されたため、大宮から現六合目までの村山口登山道は登山 道としての機能を失い、その歴史を閉じた。現在は、林道の建 設に雨水による侵食も加わり、一部を除エムゾネき登山道跡の推定 は困難な状態であり、道標、地蔵・不動明王像、建物跡などを ある程度たどることができるのみである。写真大宮・村山口登 山道の写真A3須山口登山道富士山南東麓、須山浅間神社を起 点とし、山頂部浅間嶽(駒ケ嶽)に至る登山道でエムゾネある。そ の起源は明確ではないが、1200年の資料には大宮・村山口 、吉田口、須山(珠山)口以外には登山道がないことが述べら れている。1486年の京都の僧による資料(廻国雑記)では 、「すはま口」の名が確認できる。登山道および山頂部銀エムゾネ 明水は須山浅間神社及び12軒の御師を中心とした須山村によ り管理されていた。ただし、銀明水の管理を巡り、須走村 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/264
265: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-slG6) [sage] 2018/02/16(金) 15:45:25 ID:jABd19d80 とが確認できる。遅くとも17世紀までに、冨士浅間神社及び 須走村が登山道山頂部までを支配し、薬師嶽(現久須志岳)に おける石室建設の独占、薬師堂の開帳・入仏などを行った。ま た、エムゾネ内院および薬師堂の散銭取得権も浅間大社に次ぐ権利 を有していた。冨士浅間神社及び須走村は、1703年と17 72年の2回幕府に訴え、これらの権利について八合目以上の 支配権を主張する浅間大社と争い、正式に権利を認められ http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/265
266: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-slG6) [sage] 2018/02/16(金) 15:51:25 ID:jABd19d80 −25−登山エムゾネ道の施設は1683年の資料等で詳細が確認 でき、大日堂、御室浅間神社、古御岳神社等の宗教施設と共に 、小屋・石室が山頂部まで設置されている。1707年の宝永 噴火では、これらの施設及び麓の浅間神社、須走村は約3mの 降砂に覆われ壊滅したエムゾネが、江戸幕府の支援を受け、翌年の 登拝期までには復興を完了し、多くの登拝者を集めた。18世 紀半ばには800名前後に減少したとの資料があるが、18世 紀後半、相模の大山石尊や関本の道了尊とセットにされた参詣 の流行で登拝者数は増加し、年エムゾネ平均約1万人、1800年 の御縁年に23,700人とピークを迎えた。登拝者は関東地 方の富士講関係者が多く、東北地方からの登拝者も見られる。 講によっては吉田口から登山し、砂道で下山に適した須走口へ 下山する形をとった。また、1831年エムゾネ、須走口山頂部に 宝経塔が作られたことにより、日蓮宗の信徒による登拝も増加 した。1889年の東海道線開通による御殿場口、および19 03年の中央線開通による吉田口の利便性の向上で、距離が長 い須走口は敬遠されるが、御殿場口の下山道としエムゾネて利用さ れ続けた。1909年より登山道の周囲に石垣を築き、191 6年には、八合目まで馬による登山が可能になった。八合目以 上は浅間大社境内地という理由で馬の利用は行われなかった。 また、1923年に皇太子(昭和天皇)の登山に利用されエムゾネ ている。1959年、バス道路(現ふじあざみライン)の完成 により、五合目以下の登山道の利用は減少し、一部登山道とし ての確認ができない区間がある。写真須走口登山道の写真A5 吉田口登山道北口本宮冨士浅間神社を起点とし、富士山頂を目 指すエムゾネ道である。15世紀には、富士山への登拝が、修験者 だけでなく、ごく一般の人々の間にも広まっていた。吉田口は 14世紀後半には参詣の道者のための宿坊もでき始め、大 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/266
267: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-slG6) [sage] 2018/02/16(金) 15:57:41 ID:jABd19d80 人々が登るための設備が整うようになった。16世紀から17 世紀、長谷川エムゾネ角行が吉田口を利用して修行を行い、18世 紀前半には富士講隆盛の礎を築いた食行身禄は、入定(宗教的 自殺)にあたって信者の登山本道をこの吉田口と定めた。この ため、富士講の信者が次第に増加した18世紀後半以降は、年 間数万人を数える富士エムゾネ講の道者が登拝したとされる。19 64年に富士山有料道路が開通した後は、ほとんどの登山者が 新五合目(小御岳)を起点として登るようになったため、五合 目以下の道を利用する登山者は激減したが、六合目以上につい ては、現在残る登山道の中で最エムゾネも多くの道者(外の登山口 の合計と同程度)が吉田口登山道を上って山頂を目指している 。しかも、古道としては唯一徒歩で麓から頂上まで登れる重要 な道である。写真吉田口登山道の写真表法的保護、修理・整備 の経緯1924年所在地が史蹟名勝天然エムゾネ紀念物保存法の下 に名勝に仮指定1936年所在地が国立公園法の下に(富士箱 根)国立公園に指定1952年所在地が文化財保護法の下に名 勝、ついで特別名勝に指定1978年「特別名勝富士山保存管 理計画」策定(1999年、2006年改訂)1エムゾネ996年 歴史の道整備活用事業により馬返〜1合目区間を発掘調査・整 備1999年「特別名勝富士山保存管理計画」を改訂2006 年「特別名勝富士山保存管理計画」を改訂2011年文化財保 護法の下に他の文化財とともに登山道の一部を史跡富士山エムゾネ として指定−26−2011年「史跡富士山保存管理計画」を 策定(予定)A6北口本宮冨士浅間神社富士山北麓、吉田口登 山道の起点に位置し、祭神として木花開花姫命、天津彦彦火瓊 瓊杵命、大山祇命を祀る神社である。富士山の遙拝所に祀られ ていエムゾネた浅間明神(富士山の荒ぶる神)を起源とし、148 0年には「富士山」の鳥居が建立され、16世紀半ばには http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/267
268: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-slG6) [sage] 2018/02/16(金) 16:04:46 ID:jABd19d80 神社の社殿が整っていたとされる。当神社は領主からの崇敬が 厚く、境内に現存する3つの社殿は、1561年、1594年 、1615年エムゾネにそれぞれ当時の領主が寄進したものである 。富士講とのつながりが強く、1730年には富士講の指導者 である村上光清の寄進によって境内の建造物群の修復工事が行 われ、現在にみる境内の景観の礎が形成された。北口本宮冨士 浅間神社の支配権は外エムゾネ川家、小佐野家などの吉田の御師に 所属しており、神社の管理も御師団の中から選ばれた者に委ね られていた。社殿の背後に登山門があり、この神社を起点とし て富士山頂まで吉田口登山道が伸びている。富士講や吉田御師 と密接な関係を持ちながら発展エムゾネした神社である。写真北口 本宮冨士浅間神社の写真(本殿、西宮本殿、東宮本殿)表法的 保護、修理・整備の経緯1907年古社寺保存法の下に東宮本 殿が特別保護建造物の指定1952年所在地が文化財保護法の 下に名勝、ついで特別名勝に指定195エムゾネ2年東宮本殿・解 体修理工事を行う1953年文化財保護法の下に本殿、西宮本 殿が重要文化財の指定1962年西宮本殿・解体修理工事を行 う(〜64年)1978年「特別名勝富士山保存管理計画」を 策定1973年本殿・部分解体修理工事を行う(エムゾネ〜74年 )1981年東宮本殿・部分修理工事を行う(〜82年)19 97年東宮本殿・部分修理工事を行う2008年本殿・屋根の 葺替え修理工事を行う(〜09年)2010年「重要文化財北 口本宮冨士浅間神社保存活用計画」を策定2011年文化エムゾネ 財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定(予 定)2011年「史跡富士山保存管理計画」を策定(予定)A 7西湖富士山の火山活動により形成された堰止湖で、富士山の 北北西に位置する。富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡 りがエムゾネ行われたが、この西湖にも多くの富士講徒が訪れ http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/268
269: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-slG6) [sage] 2018/02/16(金) 16:11:50 ID:jABd19d80 西湖と精進湖はかつて「〜の海(せのうみ)」と呼ばれる一つ の湖だったが、日本最古の歌集・万葉集で〜の海が詠われたほ か、いくつかの文学作品ともゆかりがある。写真西湖の写真A 8精進湖富士エムゾネ山の火山活動により形成された堰止湖で、富 士山の北西に位置する。富士山周辺の湖を巡って修−27−行 する内八海巡りが行われたが、この精進湖にも多くの富士講徒 が訪れた。富士山北麓で最初の洋風ホテルはこの精進湖畔 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/269
270: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-slG6) [sage] 2018/02/16(金) 16:18:13 ID:jABd19d80 てられ、多くの西洋人エムゾネが訪れた。20世紀初頭には、絵葉 書に使われた富士山の写真はこの精進湖からのものがほとんど だった。写真精進湖の写真A9本栖湖富士山の火山活動により 形成された堰止湖で、富士山の北西に位置する。富士山周辺の 湖を巡って修行する内八海巡りエムゾネが行われたが、この精進湖 にも多くの富士講徒が訪れた。本栖湖は、日本の紙幣の図柄と して何度も使用された写真の撮影地点であり、重要な展望地点 (viewpoint)である。富士山は、プロ・アマを問わ ず多くの写真家に愛され、撮影されてきエムゾネた。なかでも、生 涯にわたり富士山を追い続けた岡田紅陽によって、1935年 に本栖湖北西岸の峠道から撮影された「湖畔の春」という写真 は有名である。この写真は、1984年に採用された5千円札 及び2004年に採用された千円札の図柄としてエムゾネ使用され た。山体の裾野が湖まで広がり一体の景観を構成している本栖 湖からの展望は、「湖畔の春」に撮影された富士山とほぼ同じ 姿のまま現在も残している。写真本栖湖の写真表法的保護、修 理・整備の経緯(A7・A8・A9)1936年所在地がエムゾネ 国立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指定1988年「山 梨県富士五湖の静穏の保全に関する条例」を制定2006年自 然公園法の下に本栖湖の湖面全域での動力船の使用が規制され る2011年文化財保護法の下に名勝に指定(予定)2011 年「エムゾネ名勝富士五湖保存管理計画」を策定(予定)(2)信 仰B1富士山本宮浅間大社富士山の南西麓に位置する神社であ り、この神社とともに発展してきた富士宮市の中央部に所在す る。富士山の神とされる木花之佐久夜毘売命を主祭神とし、現 在全国に約1エムゾネ300社ある浅間神社の総本宮とされている 。境内には登拝の際に水垢離場として使用された湧玉池がある 。浅間大社は7世紀ごろ、富士山により近い遥拝所であっ http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/270
271: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-slG6) [sage] 2018/02/16(金) 16:24:38 ID:jABd19d80 宮浅間神社から現在の地に移転されたとされる。創建当時は富 士山の噴火が盛んであエムゾネり、これを畏れ鎮めることを信仰の 目的としていた。朝廷も浅間大神に他の山よりも高い神階を与 えることで崇敬の念を示した。12世紀後半ごろには、浅間大 神は本地垂迹説の影響を受け大日如来の垂迹である「浅間大菩 薩」と見なされるようになり、エムゾネ12世紀頃より政治の実権 を掌握した武士階級に戦勝の神として信仰された。15世紀ご ろ、登拝が盛んになるにつれて、浅間大社は村山浅間神社とと もに大宮・村山口登山道の起点となり、宿坊が周辺に建設され た。16世紀ごろ、浅間大社は湧玉池でエムゾネの水垢離を重要な 儀式と位置づけることによって、浅間大社を経由した登拝を喧 伝した。同時期の絵図である絹本著色富士曼荼羅図には、浅間 大社・湧玉池及び村山浅間神社を経由して登山する人々の姿が 描かれている。登拝の拡大に伴い、富士山中でのエムゾネ諸権利が 構築されていく中で、浅間大社は徳川家康の庇護の下、160 4年現在の社殿が造営されるとともに、1609年山頂部の散 銭取得における優先権を得た。これを基に浅間大社は山頂部の 管理・支配を行うようになった。ただし、大宮・村山口登エムゾネ 山道と頂上部の大日堂周辺は−28−村山浅間神社が支配し、 廃仏毀釈以降、村山浅間神社の衰退と1906年の村山浅間神 社を経由しない登山道の開削などにより、浅間大社には多くの 参拝者が訪れた。また、明治政府の政策により、一時国有地と されエムゾネていた八合目以上の土地は1974年の最高裁判決に 基づき、2004年浅間大社に譲渡(返還)された。写真本殿 ・拝殿+富士山表法的保護、修理・整備の経緯1907年本殿 が古社寺保存法の下に特別保護建造物に指定1925年本殿・ 拝殿・楼門等エムゾネの補修1929年本殿は国宝保存法制定に伴 い国宝に名称変更1934年楼門の修理1936年袖廊・ http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/271
272: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-slG6) [sage] 2018/02/16(金) 16:31:56 ID:jABd19d80 を附した1950年本殿は文化財保護法制定に伴い重要文化財 に名称変更1952年本殿の屋根の修理等が行われた1970 年本殿の屋根の修理等エムゾネが行われた1988年本殿の屋根の 修理等が行われた1996年富士宮市教育委員会が調査を行っ た2002年富士宮市教育委員会が調査を行った2005年本 殿の屋根の修理等が行われた2008年財団法人静岡県埋蔵文 化財調査研究所により境内の発エムゾネ掘調査が行われ、その成果 に基づき2010年に「史跡富士山保存管理計画」を策定20 10年文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山とし て指定湧玉池は富士山本宮浅間神社境内に所在する面積約2, 500?の池である。池は約1万年前にエムゾネ噴出した万野溶岩 流の末端から湧き出す一日平均14万〜(2008年)の水を 源としている。湧水のメカニズムは、富士山の標高1000m 前後ないしそれ以上の高所の降水が地下にしみ込み、何層もあ る溶岩層の間にはさまれて充満し、それが押し出エムゾネされるよ うにして末端から湧出したものである。浅間大社の位置は、富 士山の噴火を湧水によって鎮める考えや、富士山を聖なる水源 の山として崇める考え方から、豊富な湧水量を持つ湧玉池のほ とりに置かれたとされる。この湧水には灌漑用水としてのエムゾネ 役割もあり、浅間大社境内の神田の宮では水徳の神・農業神と しての浅間大神に感謝する祭礼が行われている。池の名前の由 来には、地底から玉が湧き出るように湧水しているためという 説や湧く霊たま(神霊)との説等があり、わく玉の名は10世 紀後エムゾネ半の地元支配者による和歌に見られ、湧玉池の名称は 1670年作成の「社頭古絵図」に見られる。湧玉池は浅間大 社に参拝し、富士山をめざす登拝者が身を清める場として使用 された。その様子は「絹本著色富士曼荼羅図」や「富士浅間曼 荼羅図」、1エムゾネ7世紀初頭の登山記で確認できる。この http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/272
273: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-slG6) [sage] 2018/02/16(金) 16:38:45 ID:jABd19d80 では現在の形状に近い湧玉池が描かれ、水垢離する人々やその ための施設が見られる。登拝者の水垢離は1920〜30年代 まで行われ、現在では山開きの恒例行事に形を変えて継承され ている。また、湧水はエムゾネ聖なる水として現在でも利用する人 が多い。湧玉池および周辺には様々な宗教に係わる施設がある が、特に池の南端にある「神幸橋」は、御神幸道の基点であり 、現在でも1691年に作られた石碑がたもとに残されて http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/273
上
下
前
次
1-
新
書
関
写
板
覧
索
設
栞
歴
あと 105 レスあります
スレ情報
赤レス抽出
画像レス抽出
歴の未読スレ
AAサムネイル
Google検索
Wikipedia
ぬこの手
ぬこTOP
0.006s