[過去ログ] 【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)29【ダメ工作員】 (373レス)
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93: (ワッチョイ 460c-i6Og) 2018/02/09(金)19:53 ID:2LIMvxdg0(36/72) AAS
呼び、富士山の範囲とみなす地域もあった。景観的には山体の傾
斜角の変化率が大きくなり「平野部」と「山体」の境界として認
識され、稜線が優美な曲線を描き絵画などの対象とされることが
多い範囲である。2)資産の構成推薦資産は、日本エムゾネ列島の
ほぼ中央に位置する富士山体と、周辺の浅間神社や御師住宅、霊
地・巡礼地である風穴・溶岩樹型・湖沼、芸術作品の視点場(又
は舞台)となった地点から構成される。富士山体の中には山頂信
仰遺跡や登山道などの重要な要素が含まれている。こエムゾネれら
の構成資産が一体となった推薦資産「富士山」は、山に対する固
有の文化的伝統を表す物証であり、山と人間との精神的な関係を
省18
94: (ワッチョイ 460c-i6Og) 2018/02/09(金)20:00 ID:2LIMvxdg0(37/72) AAS
エムゾネ鑑賞の側面における比重が最も高い。特に本栖湖や三保松
原は、何度も紙幣の図柄に採用された写真の撮影地や富士山を描
く典型的な構図に含まれる景勝地であり、主要な展望を供する展
望地点である。また推薦範囲は、山体の神聖性の境界の一つであ
るエムゾネ「馬返」以上に該当する標高1500m以上の区域でも
あり、その中でも、他界(死後世界)と考えられた森林限界より
上方、富士山本宮浅間大社の境内地とされた八合目(登山道を1
0区間に分割した目安の一つ。登山道ごとに異なり標高約320
0〜エムゾネ3375m)以上と、山頂に近づくほどより強い神聖
性を持つと認識されてきた。A富士山(富士山体)A1山頂信仰
省18
95: (ワッチョイ 460c-i6Og) 2018/02/09(金)20:06 ID:2LIMvxdg0(38/72) AAS
浅間神社(後のエムゾネ富士山本宮浅間大社)が、9世紀後半には
北麓にも噴火を鎮めるための神社が祭祀された。11世紀後半の
噴火を最後に火山活動が休止期に入ると、富士山を舞台とする修
験の活動が活発化し始め、修験者の拠点が後に村山浅間神社や冨
士御室浅間神社へエムゾネと発展していった。登拝の大衆化に伴っ
て、須山浅間神社や富士浅間神社(須走浅間神社)8など、登山
口の起点にも浅間神社が建立されるようになる。なかでも、
96: (ワッチョイ 460c-i6Og) 2018/02/09(金)20:13 ID:2LIMvxdg0(39/72) AAS
本宮冨士浅間神社は、江戸を中心に流行した富士講によって大い
に利用された吉田口エムゾネ登山道の起点であったが、その北には
、富士講徒の案内し、宿泊の世話や祈祷を行った御師の住宅が今
も残されている。B1富士山本宮浅間大社B2山宮浅間神社B3
村山浅間神社B4須山浅間神社B5富士浅間神社(須走浅間神社
)A6北口本宮冨士浅エムゾネ間神社B8御師住宅B6河口浅間神
社B7冨士御室浅間神社(写真複数、地図挿入)(改頁)霊地・
巡礼地となった風穴・溶岩樹型・湧水地・湖沼18世紀後半から
爆発的に流行した富士講の信者は、山頂を目指して富士山に登る
だけでなく、いわばオプエムゾネショナル・ツアーのごとく周辺の
省18
97: (ワッチョイ 460c-i6Og) 2018/02/09(金)20:20 ID:2LIMvxdg0(40/72) AAS
上の区域でもあり、その中でも、他界(死後世界)と考えられた
森林限界より上方、富士山本宮浅間エムゾネ大社の境内地とされた
八合目(登山道を10区間に分割した目安の一つ。登山道ごとに
異なり標高約3200〜3375m)以上と、山頂に近づくほど
より強い神聖性を持つと認識されてきた。八合目以上は、177
9年以降、富士山本宮浅間大社の境内エムゾネ地とされたが、この
理由は八合目の標高とほぼ一致する噴火口(「内院」と呼び宗教
的に意義付けられている)の底部に浅間大神が鎮座するとの信仰
に基づく。標高約2500m付近の森林限界より上方は富士講信
者(富士山信仰の集団の一つ)には「焼エムゾネ山」と呼ばれ、神
省18
98: (ワッチョイ 460c-i6Og) 2018/02/09(金)20:33 ID:2LIMvxdg0(41/72) AAS
を経由しない新道が建設されたため、大宮から現在の六合目(標
高2600m)までは登山道としての機能を失った。この区間は
一エムゾネ部除き登山道跡の推定は困難な状態である。現在は19
70年に標高2400m地点まで開通した自動車道を利用しての
登山が行われている。(推薦範囲は六合目以上である。)A3.
須山口登山道富士山南東麓、須山浅間神社を起点とし、山頂南東
部にエムゾネ至る登山道である。その起源は明確ではないが、
99: (ワッチョイ 460c-i6Og) 2018/02/09(金)20:40 ID:2LIMvxdg0(42/72) AAS
資料の中で1486年にその存在が確認できる。登山道および山
頂部銀明水は須山浅間神社及びその所在地の須山村(現裾野市須
山)により管理されていた。また、登山道のいくつかの宗教施設
は村山エムゾネの修験者の行場(参拝所)としても使用された。道
者については詳しい研究が進んでいないが、1800年(御縁年
:富士山出現伝説に由来する60年に1回の記念の年)に約5,
400人、1840年代前半は年平均約1,700人、1860
年(御縁エムゾネ年)は約3,600人であった。1883年、須
山口二合八勺(標高2050m)に接続する御殿場口登山道が開
削され、1889年、東海道本線開通による御殿場口利便性の向
省18
100: (アウアウウー Saa5-1YF5) 2018/02/09(金)20:41 ID:hZkLKBLFa(1) AAS
鍛えてるかな
101: (ワッチョイ 460c-i6Og) 2018/02/09(金)20:48 ID:2LIMvxdg0(43/72) AAS
れた参詣の流行で道者数は年平均約1万人、1800年の御縁年
に23,700人とピークを迎えた。1959年、バス道路の完
成により、新五合目(標高約2000m)以下の登山道の利用は
ほとんどなくなり、一エムゾネ部道としての確認ができない区間が
ある。(推薦範囲は現在も利用されている新五合目以上である。
)A5.吉田口登山道北口本宮冨士浅間神社を起点とし、富士山
頂東部を目指す道である。15世紀には、富士山への登拝が、修
験者だけでなく、ごく一エムゾネ般の人々の間にも広まっていた。
吉田口は14世紀後半には参詣の道者のための宿坊もでき始め、
大勢の人々が登るための設備が整うようになった。16世紀から
省18
102: (ワッチョイ 460c-i6Og) 2018/02/09(金)20:54 ID:2LIMvxdg0(44/72) AAS
その後、1561年に現在の東宮本殿、1594年に西宮本殿、
1615年には本殿が建立された。富士講とのつながりが強く、
1730年代に富士講の指導者である村上光清の寄進によって境
内の建造物群の修復工事が行われ、現エムゾネ在にみる境内の景観
の礎が形成された。本殿は、一間社入母屋造・檜皮葺の本殿に唐
破風付向背をつけた形式で、正面と側面に挿肘木の腰組をもって
支える擬宝珠高欄付の切目縁をめぐらしている。東宮本殿・西宮
本殿はともに桧皮葺・一間社流造であるエムゾネ。3本殿とも、各
部に漆塗り、極彩色をほどこし、彫刻・金具を配して、それぞれ
の時代の装飾的特色がよく表されている。北口本宮冨士浅間神社
省18
103: (ワッチョイ 460c-i6Og) 2018/02/09(金)21:00 ID:2LIMvxdg0(45/72) AAS
よって行われたが、長谷川角行の水行からいつの時代も変わらず
巡拝の対象として数えられたのが、後述の山中湖及び河口湖とこ
の3湖である。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆか
りが深い。12特に本栖湖は、日本の紙幣の図柄としエムゾネて何
度も使用された写真の撮影地点であり、重要な展望地点(vie
wpoint)である。富士山は、プロ・アマ問わず多くの写真
家に愛され、撮影されてきた。なかでも、生涯にわたり富士
104: (ワッチョイ 460c-i6Og) 2018/02/09(金)21:07 ID:2LIMvxdg0(46/72) AAS
追い続けた岡田紅陽によって、1935年に本栖湖北西エムゾネ岸
の峠道から撮影された「湖畔の春」という写真は有名である。こ
の写真は、1984年に採用された五千円札及び2004年に採
用された千円札の図柄として使用された。山体の裾野が湖まで広
がり一体の景観を構成している本栖湖からの展望は、「湖エムゾネ
畔の春」に撮影された富士山とほぼ同じ姿のまま現在も残してい
る。法的保護、修理・整備の経緯文化財保護法の下に名勝として
指定される予定。B1.富士山本宮浅間大社説明社記によれば8
06年に、富士山により近い遥拝所であった山宮浅間神社かエムゾ
ネら現在の地に移転されたことを起源とする神社で、古くから富
省18
105: (ワッチョイ 460c-i6Og) 2018/02/09(金)21:14 ID:2LIMvxdg0(47/72) AAS
る説が有力である。なお湧玉池は、浅間大社内に所在する富士山
の湧水エムゾネを起源とする池である。16世紀前後、湧玉池は浅
間大社により道者が身を清める場と位置づけられたとされ、同時
期の絵図や旅行記でその様子が確認できる。この水垢離は192
0〜30年代まで行われた。現在でも湧水を聖なる水として利用
する人がエムゾネ多くいる。法的保護、修理・整備の経緯1907
年に本殿が古社寺保存法の下に特別保護建造物に指定された。1
923〜26年に本殿・拝殿・楼門等の補修が行われた。192
9年の国宝保存法制定に伴い、本殿は国宝とされた。1933〜
34年に楼エムゾネ門の修理を行った。1936年に袖廊・廻廊を
省18
106: (ワッチョイ 460c-i6Og) 2018/02/09(金)21:21 ID:2LIMvxdg0(48/72) AAS
して里へ降りるという解釈がある。この行事は1874年まで行
われていた。なお、「エムゾネ山宮御神幸」に使用される経路を御
神幸道という。道には1691年に置かれた距離を示す石碑が少
なくとも四箇所残っているが、正確な道筋は現在確認されていな
い。法的保護、修理・整備の経緯1985年に富士宮市の史跡に
指定される。文化財保護エムゾネ法の下に他の文化財とともに史跡
富士山として指定される予定。B3.村山浅間神社説明12世紀
前半から中ごろの修行僧末代の活動が創建の起源とされており、
1868年の神仏分離令までは神仏習合の宗教施設として興法寺
(富士山興法寺または村山エムゾネ興法寺)と呼ばれていた(資産
省18
107: (ワッチョイ 460c-i6Og) 2018/02/09(金)21:28 ID:2LIMvxdg0(49/72) AAS
とともに史跡富士山として指定される予定。14B5.富士浅間
神社(須走浅間神社)説明社伝では8エムゾネ07年に社殿を造営
したとされ、須走口登山道の起点となった神社である。16世紀
には地元支配者(武田氏)の保護を受け、山頂部の散銭取得権の
一部を得ている。社殿は1707年の宝永噴火で崩壊し1718
年に再建された。この後もこの際の部材エムゾネを使用し、200
9年の修理も含め何回かの修理がおこなわれている。神社に
108: (ワッチョイ 460c-i6Og) 2018/02/09(金)21:34 ID:2LIMvxdg0(50/72) AAS
士講道者が多く立ち寄り、20世紀前半を中心に登拝回数の達成
(33回がひとつの区切り)等の記念碑を約80基造営した。法
的保護、修理・整備の経緯2006年に社エムゾネ殿が小山町の有
形文化財となる。2009年に本殿・参道の修理が行われた。文
化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定され
る予定。B6.河口浅間神社説明古くから富士山に関わる祭祀は
南麓の浅間神社が執り行っていたが、864エムゾネ〜866年に
北麓で起こった噴火を契機に、北麓にも浅間神社が建てられるこ
ととなった。それが、富士山を望む河口湖の北岸にあり、溶岩の
届かなかった河口浅間神社である可能性が高い。浅間神社を中心
省18
109: (ワッチョイ 460c-i6Og) 2018/02/09(金)21:41 ID:2LIMvxdg0(51/72) AAS
67年に修復が行われていた。1973−74年には里宮の地に
そのままの形で移設された。里宮は、二合目の本宮(もとみや)
が冬季の参拝に苦渋するために河口湖畔に建てられたとさエムゾネ
れる。修験や登拝といった様々な富士信仰の拠点として位置づけ
られる二合目の本宮と、土地の産土神としての里宮が一体となっ
て機能してきた神社である。法的保護、修理・整備の経緯197
3〜74年に吉田口登山道二合目にあった本殿が里宮の地にエムゾ
ネ移築された。151985年に移築された二合目本殿が文化財
保護法の下に重要文化財に指定された。文化財保護法の下に他の
文化財とともに史跡富士山として指定される予定。B8.御師住
省18
110: (ワッチョイ 460c-i6Og) 2018/02/09(金)21:47 ID:2LIMvxdg0(52/72) AAS
士山の火山活動によって形成された堰止湖である。富士山周辺の
湖を巡って修行する内八海巡りが多くの富士講徒によって行われ
たが、長谷川角行の水行からいつの時代も変わらず巡拝の対象と
して数えエムゾネられたのが前述の3つの湖とこの山中湖及び河口
湖である。この巡礼行為について、具体的に湖沼のどこで修行や
巡礼が執り行われたか、またどのルートを辿って各湖を巡ったか
は、定まっていなかった(少なくとも、明らかになっていない)
ものの、人エムゾネ々の信仰心を駆り立てた湖沼の水そのものを核
心として、周辺地域も含めた範囲が文化財とされている。また、
景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。法的保護、
省18
111: (ワッチョイ 460c-i6Og) 2018/02/09(金)21:53 ID:2LIMvxdg0(53/72) AAS
1892年に富士道者によって整備された「お胎内」である。富
士講講徒は、昼までに御師の家に着き、夕方まで胎内巡りをし、
翌朝富士山に登山した。本穴については、古くから冨士山北口御
師団が管理している。法エムゾネ的保護、修理・整備の経緯192
9年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に天然紀念物に指定された
。B14.人穴富士講遺跡説明富士講の開祖長谷川(藤原)角行
が修行したとされる溶岩洞窟の人穴と富士講信者による約2
112: (ワッチョイ 460c-i6Og) 2018/02/09(金)22:01 ID:2LIMvxdg0(54/72) AAS
基の碑塔群が残る遺跡であエムゾネる。「吾妻鏡」では人穴探検の
様子が描かれ、「浅間大菩薩の御在所」とみられていたとされて
いる。この内容は遅くとも1603年までに、浅間大菩薩の霊験
譚として説話化され、その存在が広く知られていた。富士講関連
の文書によれば人穴は16世エムゾネ紀から17世紀にかけ、長谷
川角行が修行により浅間大菩薩(富士講では仙元大日神とする)
の啓示を得た場であり、入滅した場だとしている。また、角行は
人穴を「浄土(浄土門)」と述べ、これらの結果人穴には熱心な
富士講信者が参詣し、修行を行エムゾネう者も見られた。また、信
者は人穴への分骨埋葬などを望み、墓碑、供養碑、記念碑などを
省18
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