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【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)29【ダメ工作員】 (373レス)
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)29【ダメ工作員】 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516706396/
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193: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-i6Og) [sage] 2018/02/10(土) 06:56:52.67 ID:ShIwyzqc0 〜のとおりである。(1)行政計画との関連・連携構成資産及び 緩衝地帯を有する山梨県・静岡県及び関係市町村エムゾネでは、ま ちづくり、観光、防災などに関する各種計画を策定し、実施して いる。これらの計画は、包括的保存管理計画と密接に関連し、日 常的に連携を図りつつ実施されている。表包括的保存管理計画に 関連する計画(山梨県)計画名称策定年等F資産にエムゾネ影響す る可能性がある個別の開発計画大規模集客施設等の立地に関する 方針(山梨県)
2010年1月ゴルフ場造成に事業に関する今後 の取扱いについて(山梨県)1993年10月−17−明神峠自 然環境保全地域保全計画昭和50年策定静岡県森林共エムゾネ生基 本計画平成19年3月策定富士地域森林計画書平成18年4月策 定F資産に影響する可能性がある個別の開発計画企業立地促進法 に基づく静岡県東部地域基本計画(静岡県及び14市町)平成2 1年2月策定市町村森林整備計画平成18年4月策定−エムゾネ1 8−(富士宮市・富士市・裾野市・御殿場市・小山町)(2)計 画の実施今回提出する富士山包括的保存管理計画は、20年月
か ら既に実施され機能されているものである。−19−第2章構成 資産の概要1構成資産の一覧世界遺産「富士山」の構成資エムゾネ 産の種別、位置、面積、緩衝地帯の面積、所在地については、以 下の表に示すとおりである。表構成資産の一覧大種別分類小分類 構成資産世界遺産条約文化財保護法自然公園法所在地位置資産面 積(ha)緩衝地帯面積(ha)A富士山(山体)(御中道エムゾ ネ含む)遺跡特別名勝史跡山頂信仰遺跡(奥宮、お鉢巡り)遺跡 特別名勝史跡A2大宮・村山口登山道遺跡特別名勝史跡A3須山 口登山道遺跡特別名勝史跡A4須走口登山
道遺跡特別名勝史跡A 5吉田口登山道遺跡特別名勝史跡静岡県(富士宮市、裾野市、エム ゾネ御殿場市、小山町)山梨県(富士吉田市、身延町、鳴沢村、 富士河口湖町)県境未確定地″A6北口本宮冨士浅間神社遺 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516706396/193
194: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-i6Og) [sage] 2018/02/10(土) 07:02:32.60 ID:ShIwyzqc0 造物記念工作物特別名勝史跡重要文化財A7西湖遺跡名勝A8精 進湖遺跡名勝A9本栖湖遺跡名勝BB1富士山本宮浅間大社遺跡 エムゾネ建造物記念工作物重文静岡県富士宮市B14人穴富士講遺 跡遺跡市史跡静岡県富士宮市NEB15白糸ノ滝遺跡名勝・天然 記念物静岡県富士宮市NEC三保松原文化的景観遺跡静岡県静岡 市NE2資産及び緩衝地帯等の範囲「富士山」の顕著な普遍的価 値エムゾネを表す構成資産の保護を確実にし、各構成資産における 富士山体への良
好な眺望を保証するために、個々の構成資産の周 囲に必要十分な範囲の緩衝地帯を設定する。さらに、個々の構成 資産間の関係を良好に保ち、富士山の景観の一体性・連続性を保 証すエムゾネるために、緩衝地帯を含め、広く保全管理区域を設定 する。構成資産の位置及びその周辺地域である緩衝地帯、保全管 理区域の範囲については、図に示すとおりである。図「富士山」 の範囲(構成資産・緩衝地帯)富士山山体の範囲については、現 在特別エムゾネ名勝富士山に指定されている区域だけでなく、その 周辺部にあたる標高約1,500m付近までとした。この範囲
に おいて、特別名勝の区域は文化財保護法で保護され、特別名勝指 定地外から標高1,500mの区域については自然公園法と森林 法で保護エムゾネされている。緩衝地帯との境については林班によ り線引きを行い、県道などの人工物の改修工事等への影響が軽減 するよう配慮した。そして本栖湖、精進湖、西湖までを富士山の 山体として考え、範囲付けしたことは、展望地点から山頂までを 連続して保エムゾネ護するための措置である。緩衝地帯の範囲につ いては、当初国道469号から県道72号にかけての富士山側を 計画していたが、国際専門家から飛び地の
資産である、富士山本 宮浅間大社や山宮浅間神社を緩衝地帯に含めるべきだとの指摘が あり、市道をエムゾネ境に緩衝地帯を設定した。その際、富士山本 宮浅間大社からの富士山の眺望を確保するため、富士山に向 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516706396/194
195: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-i6Og) [sage] 2018/02/10(土) 07:08:56.95 ID:ShIwyzqc0 て約36度の広がりで設定した。この範囲については、文化財保 護法以外の法律を適用し、自然公園法、森林法、景観法で保護さ れている。保全エムゾネ管理区域の範囲については、三保松原から 富士山を眺望する際、その阻害要因を軽減させるために、溶岩が 流出した範囲を基本として設定した。そのため、静岡県側におい ては、裾野市、御殿場市、小山町に流出している溶岩流の範囲に ついては、保全管エムゾネ理区域とはしていない。なお、保全管理 区域についても
、森林法と景観法で保護されている。富士山山体 の東に位置する、演習場(北富士演習場・東富士演習場)につい ては、従前より大規模開発が予定されていないことから、緩衝地 帯同様に資産を緩衝エムゾネすることが可能な区域であると言える 。3構成資産の概要構成資産及び保存管理状況の概要については 、以下に記すとおりである。構成資産の詳細については、推薦書 本文にて説明を行っている。保存管理状況等の詳細については、 構成資産毎に策定されエムゾネている個別の保存管理計画等におい て、それぞれ具体的内容を含めた説明を行っている。なお、p
1 8,19表のA〜Cは次のように分類し、整理したものである。 A富士山山体及び登山道B信仰に関わるものC富士山の眺望に関 わるもの(1)富士山山エムゾネ体及び登山道A富士山標高377 6mを測る富士山は、日本を代表し、象徴する日本最高峰の秀麗 な独立火山である。その自然的な美しさと崇高さを基盤として、 日本人の自然に対する信仰のあり方や、日本独自の芸術文化を育 んだ名山でもある。富士山エムゾネは山岳に対する信仰の在り方や 芸術活動などを通じ、時代を超えて一国の文化の諸相と極めて深 い関連性を示し、生きた文化的伝統の物証
であるのみならず、人 間と自然との良好で継続的な関係を示す景観の傑出した類型とし て、世界的にも類例を見ないエムゾネ顕著な普遍的価値を持つ山で ある。世界文化遺産としての富士山とは、富士山山体の内、 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516706396/195
196: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-i6Og) [sage] 2018/02/10(土) 07:15:44.59 ID:ShIwyzqc0 約1500m以上の範囲である。この範囲は、富士山周辺の主要 な神社や景勝地から見た可視領域が重なり合う範囲であるととも に、各登山道における山体の神エムゾネ聖性に関する境界の一つで ある「馬返」の標高とほぼ一致する。なお、「馬返」とは、乗馬 登山が物理的にも、宗教的観点からも不可能になる地点を示す。 景観的には山体の傾斜角の変化率が大きくなり「平野部」と「山 体」の境界として認識され、稜線エムゾネが優美な曲線を描き http://matsuri.5ch
.net/test/read.cgi/out/1516706396/196
197: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-i6Og) [sage] 2018/02/10(土) 07:22:10.76 ID:ShIwyzqc0 画などの対象とされることが多い範囲である。写真上空から見た 写真に資産範囲を線で示したもの(推薦原案と同じもの)−21 −−22−標高約2500m付近の森林限界より上方は富士講信 者には「焼山」と呼ばれ、神聖な地エムゾネ域あるいは死後世界で ある「他界」と考えられていた。また、登山道ごとに標高は異な るが、1779年以降、浅間大社の境内地とされてきた八合目以 上はより強い神聖性を持つとされる。理由は八合目の標高とほぼ 一致する噴火口
である「内院」の底部エムゾネに浅間大神が鎮座す るとの信仰に基づく。富士山頂へ向かい、登山の歴史の中で開鑿 された登山道が、現在の4本の登山道の起源となっている。また 、ほぼ森林限界に沿い、富士山山体を一周する「御中道」が15 〜16世紀ごろ富士講の祖とされる長谷エムゾネ川角行によって開 かれたとされ、その後「大沢崩れ」という危険箇所を通るため、 富士講信者により修行の道として利用された。表法的保護、修理 ・整備の経緯1924年史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝に 仮指定1936年国立公園法の下に(富士エムゾネ箱根)国立公
園 に指定1952年文化財保護法の下に名勝、ついで特別名勝に指 定1969年国が大沢崩れに対する砂防事業に着手(継続中)1 996年国・県が台風による森林の風倒被害に対する対策に着手 (継続中)「御中道」は、標高2,300mエムゾネ付近から2, 800m付近の山腹を通り、富士山の中腹部を時計回りに一周す る約25kmの道である。「御中道巡り」は、修験道の祖とされ る役行者が始めたと伝えられ、16世紀後半、富士講の基礎を築 いた長谷川角行が行ったことが記録されているエムゾネ。古くは定 まった道もなく巡ったとされ、富士講が盛
んになった江戸時代後 期には一定の道が整備された。富士山信仰の上では、山体西側の 大沢崩れを渡るという危険を伴う最大級の大行の道とされていた 。富士登山3回以上の経験を持ち、誓約書を御師エムゾネに提 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516706396/197
198: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-i6Og) [sage] 2018/02/10(土) 07:27:53.58 ID:ShIwyzqc0 、神への伺いをたてた上でないと許可されないほど厳しいもので あった。この御中道の巡拝を無事終えると、その証である「御許 し」を御師から受けることができた。1816年の資料では年間 100人以上が御中道巡りを行っているが、197エムゾネ7年の 転落事故で通行止めとなり、現在では一周することはできなくな っている。写真御中道の写真A1山頂信仰遺跡(富士山本宮奥宮 )富士山山頂部の火口壁沿いに、いくつかの神社及び宗教関連施 設が所在する。
富士山への信仰登山が開始されると、エムゾネ修験 道の影響を受け山頂部において寺院の造営や仏像等の奉納がおこ なわれるとともに、山頂部での宗教行為が体系化されていった。 登拝者は山頂周辺において「御来光」を拝み、内院と呼称される 噴火口に鎮座すると言われる神仏を拝した。また、火口エムゾネ壁 にいくつかあるピークを仏教の曼荼羅における仏の世界に擬して 巡拝する「お鉢めぐり(八葉めぐり)」と呼ばれる行為を行なう ことが一般的であった。山頂の宗教的施設は、12世紀中ごろ、 修行僧末代により建立された大日寺(大日堂)が最初とさエムゾ
ネ れ、その後、経典・懸仏・仏像等の山頂部への奉納・埋納や内院 への散銭が行われた。また、遅くとも17世紀には、大宮・村山 口山頂部に大日堂が、吉田・須走口山頂部に薬師堂が造営された 。この様子は19世紀中ごろの絵図によって確認できる。1エムゾ ネ874年、山頂の仏教的施設及び仏像は廃仏毀釈の影響によっ て撤去され、ピークの名称も変更され、寺院は神社に改変された 。しかし、山頂部に対する信仰自体は変化することなく、上記の 行為は現代の−23−登山者の多くが行っており、これらを通エム ゾネじて富士信仰の核心が現代に受け継がれ
ている。写真奥宮の 写真表法的保護、修理・整備の経緯1924年所在地が史蹟名勝 天然紀念物保存法の下に名勝に仮指定1936年所在地が国立公 園法の下に(富士箱根)国立公園に指定1952年所在地が http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516706396/198
199: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-i6Og) [sage] 2018/02/10(土) 07:33:30.35 ID:ShIwyzqc0 エムゾネ財保護法の下に名勝、ついで特別名勝に指定2008年財 団法人静岡県埋蔵文化財調査研究所により現地調査が行われ、そ の成果に基づき2010年に「史跡富士山保存管理計画」が策定 された2010年文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富 士エムゾネ山として指定山頂の噴火口の周囲を一周し、頂上の各峰 を巡る行為は、古くから「お鉢巡り」と呼ばれ、現在も多くの人 々に受け継がれている。13世紀後半の資料には「いたゞきに八 葉の嶺あり」と
の記載があり、このころには山頂の峰々に信仰的 意義エムゾネを見出していたことが伺える。16世紀前半には地元 為政者が「八要メサルヽ也」との記述も見られ、後に盛んになる お鉢巡りの古態と思われる習俗があったことが知られる。富士講 講中の多くは、頂上に着くと、時計回りに山頂を巡っていった。 内院にエムゾネ賽銭を投じ、御来光を礼拝し、途中にあるいくつか の仏像や石碑を拝みながら、大日寺(現奥宮)の大日如来、最高 峰の剣ヶ峰、釈迦割石、霊泉とされた金明水などを巡礼した。写 真お鉢めぐりの写真A2大宮・村山口登山道富士山南西麓の浅
間 大社及びエムゾネ村山浅間神社を起点とし、山頂大日岳に至る登山 道である。12世紀前半、富士山で修行した末代上人の開削した 登山道が起源だとされ、14世紀初め、僧の頼尊が修験者とその 活動を組織化したことで、村山を基点とする登山が行われていた ことが推測エムゾネできる。15世紀に入ると村山での宿坊の存在 が確認でき、同世紀前半には、地元支配者である今川氏により発 心門等の施設が寄進されたとの記録がある。今川氏は1552年 、村山を神聖な地と定め、村山三坊には山役銭の徴収権を与えて いる。この権エムゾネ利は19世紀後半まで継
続し、浅間大社が登 山道の管理に関わることはなかった。一方、16世紀ごろ、浅間 大社は湧玉池での水垢離を重要な儀式と位置づけることによって 、浅間大社を経由した登拝を喧伝した。浅間大社には16世 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516706396/199
200: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-i6Og) [sage] 2018/02/10(土) 07:39:43.61 ID:ShIwyzqc0 半に30余りのエムゾネ道者坊があったことが伝えられ、同時期の 絵図である「絹本著色富士曼荼羅図」には浅間大社・湧玉池及び 村山浅間神社を経由して登山する人々の姿が描かれている。道者 坊はその後統合され、19世紀前半には5坊となった。また、1 600年頃以降、エムゾネ地元支配者により、大宮を経て村山口登 山道を利用することが求められた。登山道中の宗教施設は、17 世紀初頭までに建設され、石室などの施設は主に17世紀後 http://matsuri.5ch
.net/test/read.cgi/out/1516706396/200
201: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-i6Og) [sage] 2018/02/10(土) 07:45:44.07 ID:ShIwyzqc0 興法寺から許可を受けた先達により建設されたが、1707年の 宝永噴火で登山道とエムゾネ共にことごとく破壊された。これらは 再建されたが、その復興は須走口より遅かった。主要な宗教施設 としては発心門、中宮八幡堂、室大日などがあった。登拝者は興 法寺の檀所や浅間大社の道者場としていた静岡県西部地方を含む 西日本の人々が多かっエムゾネた。なお、1532年以降不連続で あるが、登拝者の記録が残され、その数は18世紀後半から19 世紀初頭の道者
坊の記録より、御縁年で2,000人前後、平年 で数百名程度と推測できる。1826年の記録ではその数が減少 し、村山の村落も衰退しエムゾネていたとの記述もあるが、186 0年、初の外国人登山となる英国公使オ−24−ールコックは大 宮を経由して村山に宿泊し、山頂をめざした。彼の記録では大鏡 坊、中宮八幡堂の存在や登山道の様子が確認できる。明治維新以 降、女人登山の解禁もありエムゾネ、登山者は増加傾向を示すが、 1889年、東海道線の開通による御殿場口利用者の増加により 衰退し、これへの対策として1906年、村山を経由せず4k
m 短縮された大宮新道(カケスバタ口)が建設されたため、大宮か ら現六合目までの村山口登山エムゾネ道は登山道としての機能を失 い、その歴史を閉じた。現在は、林道の建設に雨水による侵食も 加わり、一部を除き登山道跡の推定は困難な状態であり、道標、 地蔵・不動明王像、建物跡などをある程度たどることができるの みである。写真大宮・村山口登エムゾネ山道の写真A3須山口登山 道富士山南東麓、須山浅間神社を起点とし、山頂部浅間嶽(駒ケ 嶽)に至る登山道である。その起源は明確ではないが、1200 年の資料には大宮・村山口、吉田口、須山
(珠山)口以外には登 山道がないことが述べられているエムゾネ。1486年の京都の僧 による資料(廻国雑記)では、「すはま口」の名が確認できる。 登山道および山頂部銀明水は須山浅間神社及び12軒の御師 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516706396/201
202: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-i6Og) [sage] 2018/02/10(土) 07:52:02.34 ID:ShIwyzqc0 心とした須山村により管理されていた。ただし、銀明水の管理を 巡り、須走村と争いになった際は浅エムゾネ間大社の裁定を仰いで いる。登山道には宝永噴火前の状況を描いた絵図で須山御胎内に 附属する御胎内神社等の宗教施設と山室がみられる。これらの施 設及び登山道はその中腹より噴火した宝永噴火により壊滅し、御 縁年の1740年に復興したが永続せエムゾネず、1780年によ うやく復興した。また、1880年代の記録では御室浅間神社、 中宮浅間社、御
胎内等の宗教施設と4箇所の石室があることが確 認できる。中宮浅間社や水呑浅間は村山修験の富士峯修行の行場 としても使用された。登拝者についてはエムゾネ詳しい研究が進ん でいないが、西日本・東日本両方からの登山者があったことが、 宿帳及び案内立札の立地から確認できる。登拝者数は御縁年に当 たる1800年に約5,400人、1840年代前半は年平均約 1,700人、続く1860年の御縁年にエムゾネは約3,600 人であった。登拝者は神仏分離令後も継続していたが、1883 年、須山口二合八勺に接続する御殿場口登山道が開鑿された。
ま た、1889年に東海道本線が開通し、御殿場口の利便性の向上 により須山口からの登拝者や登山者が減少すエムゾネることとなっ た。1912年には、登山道の一部が陸軍演習場となり使用不可 能となったため、須山口からの登拝(登山)は衰退し現在に至っ ている。二合八勺以下の登山道で当時の道が確認できる部分は一 部のみである。また、1999年、地元住民にエムゾネより須山口 下山歩道の名でかつての登山道の一部が復興された。写真須山口 登山道の写真A4須走口登山道富士山東麓の冨士浅間神社を起点 とし、八合目で吉田口登山道と合流して山
頂久須志岳に至る登山 道である。その起源は明確ではないが、六合目かエムゾネらは13 84年の銘のある掛仏が出土している。文献からは「勝山記」の 1500年6月の項に、関東地方での戦乱を避け、吉田口を http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516706396/202
203: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-i6Og) [sage] 2018/02/10(土) 07:58:21.56 ID:ShIwyzqc0 すべき登拝者が須走口に集中したことが確認できる。遅くとも1 7世紀までに、冨士浅間神社及び須走村が登山道山エムゾネ頂部ま でを支配し、薬師嶽(現久須志岳)における石室建設の独占、薬 師堂の開帳・入仏などを行った。また、内院および薬師堂の散銭 取得権も浅間大社に次ぐ権利を有していた。冨士浅間神社及び須 走村は、1703年と1772年の2回幕府に訴え、エムゾネこれ らの権利について八合目以上の支配権を主張する浅間大社と争い 、正式に権利を
認められた。−25−登山道の施設は1683年 の資料等で詳細が確認でき、大日堂、御室浅間神社、古御岳神社 等の宗教施設と共に、小屋・石室が山頂部まで設置されエムゾネて いる。1707年の宝永噴火では、これらの施設及び麓の浅間神 社、須走村は約3mの降砂に覆われ壊滅したが、江戸幕府の支援 を受け、翌年の登拝期までには復興を完了し、多くの登拝者を集 めた。18世紀半ばには800名前後に減少したとの資料エムゾネ があるが、18世紀後半、相模の大山石尊や関本の道了尊とセッ トにされた参詣の流行で登拝者数は増加し、年平均約1万人、
1 800年の御縁年に23,700人とピークを迎えた。登拝者は 関東地方の富士講関係者が多く、東北地方からの登拝者も見エムゾ ネられる。講によっては吉田口から登山し、砂道で下山に適した 須走口へ下山する形をとった。また、1831年、須走口山頂部 に宝経塔が作られたことにより、日蓮宗の信徒による登拝も増加 した。1889年の東海道線開通による御殿場口、および19エム ゾネ03年の中央線開通による吉田口の利便性の向上で、距離が 長い須走口は敬遠されるが、御殿場口の下山道として利用され続 けた。1909年より登山道の周囲に石垣
を築き、1916年に は、八合目まで馬による登山が可能になった。八合目以上は浅間 エムゾネ大社境内地という理由で馬の利用は行われなかった。また 、1923年に皇太子(昭和天皇)の登山に利用されている http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516706396/203
204: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-i6Og) [sage] 2018/02/10(土) 08:04:24.56 ID:ShIwyzqc0 959年、バス道路(現ふじあざみライン)の完成により、五合 目以下の登山道の利用は減少し、一部登山道としての確認ができ なエムゾネい区間がある。写真須走口登山道の写真A5吉田口登山 道北口本宮冨士浅間神社を起点とし、富士山頂を目指す道である 。15世紀には、富士山への登拝が、修験者だけでなく、ごく一 般の人々の間にも広まっていた。吉田口は14世紀後半には参詣 の道エムゾネ者のための宿坊もでき始め、大勢の人々が登るた http://matsuri.5ch
.net/test/read.cgi/out/1516706396/204
205: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-i6Og) [sage] 2018/02/10(土) 08:10:44.91 ID:ShIwyzqc0 設備が整うようになった。16世紀から17世紀、長谷川角行が 吉田口を利用して修行を行い、18世紀前半には富士講隆盛の礎 を築いた食行身禄は、入定(宗教的自殺)にあたって信者の登山 本道をエムゾネこの吉田口と定めた。このため、富士講の信者が次 第に増加した18世紀後半以降は、年間数万人を数える富士講の 道者が登拝したとされる。1964年に富士山有料道路が開通し た後は、ほとんどの登山者が新五合目(小御岳)を起点として登 るようにエムゾネ
なったため、五合目以下の道を利用する登山者は 激減したが、六合目以上については、現在残る登山道の中で最も 多くの道者(外の登山口の合計と同程度)が吉田口登山道を上っ て山頂を目指している。しかも、古道としては唯一徒歩で麓から 頂上まで登エムゾネれる重要な道である。写真吉田口登山道の写真 表法的保護、修理・整備の経緯1924年所在地が史蹟名勝天然 紀念物保存法の下に名勝に仮指定1936年所在地が国立公園法 の下に(富士箱根)国立公園に指定1952年所在地が文化財保 護法の下に名エムゾネ勝、ついで特別名勝に指定1978年「特
別 名勝富士山保存管理計画」策定(1999年、2006年改訂) 1996年歴史の道整備活用事業により馬返〜1合目区間を発掘 調査・整備1999年「特別名勝富士山保存管理計画」を改訂2 006年「特別エムゾネ名勝富士山保存管理計画」を改訂2011 年文化財保護法の下に他の文化財とともに登山道の一部を史跡富 士山として指定−26−2011年「史跡富士山保存管理計画」 を策定(予定)A6北口本宮冨士浅間神社富士山北麓、吉田口登 山道の起点に位置エムゾネし、祭神として木花開花姫命、天津彦彦 火瓊瓊杵命、大山祇命を祀る神社である。
富士山の遙拝所に祀ら れていた浅間明神(富士山の荒ぶる神)を起源とし、1480年 には「富士山」の鳥居が建立され、16世紀半ばには浅間神社の 社殿が整っていたとエムゾネされる。当神社は領主からの崇敬 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516706396/205
206: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-i6Og) [sage] 2018/02/10(土) 08:17:15.59 ID:ShIwyzqc0 く、境内に現存する3つの社殿は、1561年、1594年、1 615年にそれぞれ当時の領主が寄進したものである。富士講と のつながりが強く、1730年には富士講の指導者である村上光 清の寄進によって境内エムゾネの建造物群の修復工事が行われ、現 在にみる境内の景観の礎が形成された。北口本宮冨士浅間神社の 支配権は外川家、小佐野家などの吉田の御師に所属しており、神 社の管理も御師団の中から選ばれた者に委ねられていた。社殿の 背後に登山門が
あり、こエムゾネの神社を起点として富士山頂まで 吉田口登山道が伸びている。富士講や吉田御師と密接な関係を持 ちながら発展した神社である。写真北口本宮冨士浅間神社の写真 (本殿、西宮本殿、東宮本殿)表法的保護、修理・整備の経緯1 907年古社寺保存法の下エムゾネに東宮本殿が特別保護建造物の 指定1952年所在地が文化財保護法の下に名勝、ついで特別名 勝に指定1952年東宮本殿・解体修理工事を行う1953年文 化財保護法の下に本殿、西宮本殿が重要文化財の指定1962年 西宮本殿・解体修理工事を行エムゾネう(〜64年)1978年
「 特別名勝富士山保存管理計画」を策定1973年本殿・部分解体 修理工事を行う(〜74年)1981年東宮本殿・部分修理工事 を行う(〜82年)1997年東宮本殿・部分修理工事を行う2 008年本殿・屋根の葺替え修エムゾネ理工事を行う(〜09年) 2010年「重要文化財北口本宮冨士浅間神社保存活用計画」を 策定2011年文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士 山として指定(予定)2011年「史跡富士山保存管理計画」を 策定(予定)A7西湖富士山の火エムゾネ山活動により形成された 堰止湖で、富士山の北北西に位置する。富
士山周辺の湖を巡って 修行する内八海巡りが行われたが、この西湖にも多くの富士講徒 が訪れた。西湖と精進湖はかつて「〜の海(せのうみ)」と呼ば れる一つの湖だったが、日本最古のエムゾネ歌集・万葉集で〜 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516706396/206
207: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-i6Og) [sage] 2018/02/10(土) 08:23:30.98 ID:ShIwyzqc0 が詠われたほか、いくつかの文学作品ともゆかりがある。写真西 湖の写真A8精進湖富士山の火山活動により形成された堰止湖で 、富士山の北西に位置する。富士山周辺の湖を巡って修−27− 行する内八海巡りが行われたが、このエムゾネ精進湖にも多くの富 士講徒が訪れた。富士山北麓で最初の洋風ホテルはこの精進湖畔 に建てられ、多くの西洋人が訪れた。20世紀初頭には、絵葉書 に使われた富士山の写真はこの精進湖からのものがほとんどだっ た。写真精進湖
の写真A9本栖湖富士山エムゾネの火山活動により 形成された堰止湖で、富士山の北西に位置する。富士山周辺の湖 を巡って修行する内八海巡りが行われたが、この精進湖にも多く の富士講徒が訪れた。本栖湖は、日本の紙幣の図柄として何度も 使用された写真の撮影地点であり、重要なエムゾネ展望地点(vi ewpoint)である。富士山は、プロ・アマを問わず多くの 写真家に愛され、撮影されてきた。なかでも、生涯にわたり富士 山を追い続けた岡田紅陽によって、1935年に本栖湖北西岸の 峠道から撮影された「湖畔の春」という写真エムゾネは有名であ
る 。この写真は、1984年に採用された5千円札及び2004年 に採用された千円札の図柄として使用された。山体の裾野が湖ま で広がり一体の景観を構成している本栖湖からの展望は、「湖畔 の春」に撮影された富士山とほぼ同じ姿のままエムゾネ現在も残し ている。写真本栖湖の写真表法的保護、修理・整備の経緯(A7 ・A8・A9)1936年所在地が国立公園法の下に(富士箱根 )国立公園に指定1988年「山梨県富士五湖の静穏の保全に関 する条例」を制定2006年自然公園法の下に本エムゾネ栖湖の湖 面全域での動力船の使用が規制される20
11年文化財保護法の 下に名勝に指定(予定)2011年「名勝富士五湖保存管理計画 」を策定(予定)(2)信仰B1富士山本宮浅間大社富士山の南 西麓に位置する神社であり、この神社とともに発展エムゾネし http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516706396/207
208: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-i6Og) [sage] 2018/02/10(土) 08:29:26.95 ID:ShIwyzqc0 た富士宮市の中央部に所在する。富士山の神とされる木花之佐久 夜毘売命を主祭神とし、現在全国に約1300社ある浅間神社の 総本宮とされている。境内には登拝の際に水垢離場として使用さ れた湧玉池がある。浅間大社は7世紀ごろ、富士山にエムゾネより 近い遥拝所であった山宮浅間神社から現在の地に移転されたとさ れる。創建当時は富士山の噴火が盛んであり、これを畏れ鎮める ことを信仰の目的としていた。朝廷も浅間大神に他の山より http://matsuri.5c
h.net/test/read.cgi/out/1516706396/208
209: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-i6Og) [sage] 2018/02/10(土) 08:35:45.32 ID:ShIwyzqc0 い神階を与えることで崇敬の念を示した。12世紀後半エムゾネご ろには、浅間大神は本地垂迹説の影響を受け大日如来の垂迹であ る「浅間大菩薩」と見なされるようになり、12世紀頃より政治 の実権を掌握した武士階級に戦勝の神として信仰された。15世 紀ごろ、登拝が盛んになるにつれて、浅間大社は村山浅間エムゾネ 神社とともに大宮・村山口登山道の起点となり、宿坊が周辺に建 設された。16世紀ごろ、浅間大社は湧玉池での水垢離を重要な 儀式と位置づけ
ることによって、浅間大社を経由した登拝を喧伝 した。同時期の絵図である絹本著色富士曼荼羅図には、浅間エムゾ ネ大社・湧玉池及び村山浅間神社を経由して登山する人々の姿が 描かれている。登拝の拡大に伴い、富士山中での諸権利が構築さ れていく中で、浅間大社は徳川家康の庇護の下、1604年現在 の社殿が造営されるとともに、1609年山頂部の散銭取得にエム ゾネおける優先権を得た。これを基に浅間大社は山頂部の管理・ 支配を行うようになった。ただし、大宮・村山口登山道と頂上部 の大日堂周辺は−28−村山浅間神社が支配し、廃仏毀釈以降
、 村山浅間神社の衰退と1906年の村山浅間神社を経由しない登 エムゾネ山道の開削などにより、浅間大社には多くの参拝者が訪れ た。また、明治政府の政策により、一時国有地とされていた八合 目以上の土地は1974年の最高裁判決に基づき、2004年浅 間大社に譲渡(返還)された。写真本殿・拝殿+富士山表法的保 護エムゾネ、修理・整備の経緯1907年本殿が古社寺保存法の下 に特別保護建造物に指定1925年本殿・拝殿・楼門等の補修1 929年本殿は国宝保存法制定に伴い国宝に名称変更1934年 楼門の修理1936年袖廊・廻廊を附した
1950年本殿は文化 財保エムゾネ護法制定に伴い重要文化財に名称変更1952年本殿 の屋根の修理等が行われた1970年本殿の屋根の修理等が行わ れた1988年本殿の屋根の修理等が行われた1996年富 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516706396/209
210: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-i6Og) [sage] 2018/02/10(土) 08:41:15.23 ID:ShIwyzqc0 市教育委員会が調査を行った2002年富士宮市教育委員会が調 査を行エムゾネった2005年本殿の屋根の修理等が行われた20 08年財団法人静岡県埋蔵文化財調査研究所により境内の発掘調 査が行われ、その成果に基づき2010年に「史跡富士山保存管 理計画」を策定2010年文化財保護法の下に他の文化財ととも に史跡富エムゾネ士山として指定湧玉池は富士山本宮浅間神社境内 に所在する面積約2,500uの池である。池は約1万年前に噴 出した万野溶岩
流の末端から湧き出す一日平均14万〜(200 8年)の水を源としている。湧水のメカニズムは、富士山の標高 1000mエムゾネ前後ないしそれ以上の高所の降水が地下にしみ 込み、何層もある溶岩層の間にはさまれて充満し、それが押し出 されるようにして末端から湧出したものである。浅間大社の位置 は、富士山の噴火を湧水によって鎮める考えや、富士山を聖なる 水源の山としエムゾネて崇める考え方から、豊富な湧水量を持つ湧 玉池のほとりに置かれたとされる。この湧水には灌漑用水として の役割もあり、浅間大社境内の神田の宮では水徳の神・農業神
と しての浅間大神に感謝する祭礼が行われている。池の名前の由来 には、地底からエムゾネ玉が湧き出るように湧水しているためとい う説や湧く霊たま(神霊)との説等があり、わく玉の名は10世 紀後半の地元支配者による和歌に見られ、湧玉池の名称は167 0年作成の「社頭古絵図」に見られる。湧玉池は浅間大社に参拝 し、富士山をめざエムゾネす登拝者が身を清める場として使用され た。その様子は「絹本著色富士曼荼羅図」や「富士浅間曼荼羅図 」、17世紀初頭の登山記で確認できる。この絵図では現在の形 状に近い湧玉池が描かれ、水垢離する人々
やそのための施設が見 られる。登拝者の水エムゾネ垢離は1920〜30年代まで行われ 、現在では山開きの恒例行事に形を変えて継承されている。また 、湧水は聖なる水として現在でも利用する人が多い。湧玉池 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516706396/210
211: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-i6Og) [sage] 2018/02/10(土) 08:47:23.43 ID:ShIwyzqc0 び周辺には様々な宗教に係わる施設があるが、特に池の南端にあ る「神幸橋」は、御神エムゾネ幸道の基点であり、現在でも169 1年に作られた石碑がたもとに残されている。−29−写真沸玉 池の写真B2山宮浅間神社浅間大社の北北東約5kmに位置し、 木花之佐久夜毘売命を主祭神とする神社である。その起源は「富 士本宮社記」によれば、エムゾネ山足の地に祀られていた浅間大神 を、神話上の英雄である日本武尊が大神の神威により難を逃れた 謝礼に山宮に祀
ったこととされ、これが802年に再び遷され浅 間大社となったとする。具体的な創建年代は不詳だが、文献上で の初見は1551年であるエムゾネ。神社は神事の際に使用する籠 屋以外の建物施設を持たず、拝殿・本殿等が位置すべき場所には 石列でいくつかに区分された遥拝所が設置されるのみという特異 な形態を示している。この形態は古代からの富士山祭祀の形を止 めていると推定されており、エムゾネ遥拝所の主軸は富士山方向を 向いている。発掘調査では12〜15世紀にかけての神事に使用 されたと推定される破砕された土器が遥拝所北側から多数出土
し 、当神社での宗教活動を裏付けている。また、遅くとも1577 年までには浅間大社との間で「エムゾネ山宮御神幸」といわれる儀 式が開始された。これは4月と11月に神の宿った鉾を持ち、浅 間大社から山宮浅間神社へ行き、神事を行った後、翌日未明に浅 間大社へ戻る行事である。行事の意味として、現時点では神が4 月に旧跡に戻るという解釈と、山エムゾネにいる神が4月に田の神 として里へ降りるという解釈がある。この行事は1874年まで 行われていた。なお、「山宮御神幸」に使用される経路を御神幸 道と称し、浅間大社湧玉池横より発し、約
600m東へ向かった 後、ほぼ直角に曲がり直線状に北上エムゾネして山宮浅間神社に至 る。道の出発点及び途中には1691年に置かれた距離を示す石 碑が少なくとも四箇所残っている。写真山宮浅間神社の写真 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516706396/211
212: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-i6Og) [sage] 2018/02/10(土) 08:54:15.08 ID:ShIwyzqc0 村山浅間神社山宮浅間神社の南東約4km、富士山南麓に張り出 した標高約500mのバルコニー状地エムゾネ形に位置し、木花開 花姫命を主祭神とする神社である。神社と一体化した範囲には、 現在別の宗教法人となった大日堂・水垢離場・護摩壇などが存在 している。これらは1868年の神仏分離令までは一体のもので あり、富士山興法寺(村山興法寺)と呼エムゾネばれていた。なお 、周辺には興法寺の維持・運営にあたっていた道者坊の村山 http://matsuri.5ch
.net/test/read.cgi/out/1516706396/212
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