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【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)30【ダメ工作員】 (326レス)
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)30【ダメ工作員】 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/
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258: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 08:18:13.93 ID:2LIMvxdg0 いになった際は浅間大社の裁定を仰いでいる。登山道には宝永 噴火前の状況を描いた絵図で須山御胎内に附属する御胎内神社 等のエムゾネ宗教施設と山室がみられる。これらの施設及び登山道 はその中腹より噴火した宝永噴火により壊滅し、御縁年の17 40年に復興したが永続せず、1780年にようやく復興した 。また、1880年代の記録では御室浅間神社、中宮浅間社、 御胎内等の宗エムゾネ教施設と4箇所の石室があることが確認でき る。中宮浅間社や水呑浅間は村山修験の富士峯修行の行場とし ても使用された。登拝者については詳しい研究が進んでいない が、西日本・東日本両方からの登山者があったことが、宿帳及 び案内立札の立地からエムゾネ確認できる。登拝者数は御縁年に当 たる1800年に約5,400人、1840年代前半は年平均 約1,700人、続く1860年の御縁年には約3,600人 であった。登拝者は神仏分離令後も継続していたが、1883 年、須山口二合八勺に接続するエムゾネ御殿場口登山道が開鑿され た。また、1889年に東海道本線が開通し、御殿場口の利便 性の向上により須山口からの登拝者や登山者が減少することと なった。1912年には、登山道の一部が陸軍演習場となり使 用不可能となったため、須山口からの登エムゾネ拝(登山)は衰退 し現在に至っている。二合八勺以下の登山道で当時の道が確認 できる部分は一部のみである。また、1999年、地元住民に より須山口下山歩道の名でかつての登山道の一部が復興された 。写真須山口登山道の写真A4須走口登山道富士エムゾネ山東麓の 冨士浅間神社を起点とし、八合目で吉田口登山道と合流して山 頂久須志岳に至る登山道である。その起源は明確ではないが、 六合目からは1384年の銘のある掛仏が出土している。文献 からは「勝山記」の1500年6月の項に、関東地方でのエムゾネ 戦乱を避け、吉田口を利用すべき登拝者が須走口に集中した http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/258
259: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 08:23:52.76 ID:2LIMvxdg0 とが確認できる。遅くとも17世紀までに、冨士浅間神社及び 須走村が登山道山頂部までを支配し、薬師嶽(現久須志岳)に おける石室建設の独占、薬師堂の開帳・入仏などを行った。ま た、エムゾネ内院および薬師堂の散銭取得権も浅間大社に次ぐ権利 を有していた。冨士浅間神社及び須走村は、1703年と17 72年の2回幕府に訴え、これらの権利について八合目以上の 支配権を主張する浅間大社と争い、正式に権利を認められた http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/259
260: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 08:30:03.03 ID:2LIMvxdg0 −25−登山エムゾネ道の施設は1683年の資料等で詳細が確認 でき、大日堂、御室浅間神社、古御岳神社等の宗教施設と共に 、小屋・石室が山頂部まで設置されている。1707年の宝永 噴火では、これらの施設及び麓の浅間神社、須走村は約3mの 降砂に覆われ壊滅したエムゾネが、江戸幕府の支援を受け、翌年の 登拝期までには復興を完了し、多くの登拝者を集めた。18世 紀半ばには800名前後に減少したとの資料があるが、18世 紀後半、相模の大山石尊や関本の道了尊とセットにされた参詣 の流行で登拝者数は増加し、年エムゾネ平均約1万人、1800年 の御縁年に23,700人とピークを迎えた。登拝者は関東地 方の富士講関係者が多く、東北地方からの登拝者も見られる。 講によっては吉田口から登山し、砂道で下山に適した須走口へ 下山する形をとった。また、1831年エムゾネ、須走口山頂部に 宝経塔が作られたことにより、日蓮宗の信徒による登拝も増加 した。1889年の東海道線開通による御殿場口、および19 03年の中央線開通による吉田口の利便性の向上で、距離が長 い須走口は敬遠されるが、御殿場口の下山道としエムゾネて利用さ れ続けた。1909年より登山道の周囲に石垣を築き、191 6年には、八合目まで馬による登山が可能になった。八合目以 上は浅間大社境内地という理由で馬の利用は行われなかった。 また、1923年に皇太子(昭和天皇)の登山に利用されエムゾネ ている。1959年、バス道路(現ふじあざみライン)の完成 により、五合目以下の登山道の利用は減少し、一部登山道とし ての確認ができない区間がある。写真須走口登山道の写真A5 吉田口登山道北口本宮冨士浅間神社を起点とし、富士山頂を目 指すエムゾネ道である。15世紀には、富士山への登拝が、修験者 だけでなく、ごく一般の人々の間にも広まっていた。吉田口は 14世紀後半には参詣の道者のための宿坊もでき始め、大勢 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/260
261: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 08:36:26.25 ID:2LIMvxdg0 人々が登るための設備が整うようになった。16世紀から17 世紀、長谷川エムゾネ角行が吉田口を利用して修行を行い、18世 紀前半には富士講隆盛の礎を築いた食行身禄は、入定(宗教的 自殺)にあたって信者の登山本道をこの吉田口と定めた。この ため、富士講の信者が次第に増加した18世紀後半以降は、年 間数万人を数える富士エムゾネ講の道者が登拝したとされる。19 64年に富士山有料道路が開通した後は、ほとんどの登山者が 新五合目(小御岳)を起点として登るようになったため、五合 目以下の道を利用する登山者は激減したが、六合目以上につい ては、現在残る登山道の中で最エムゾネも多くの道者(外の登山口 の合計と同程度)が吉田口登山道を上って山頂を目指している 。しかも、古道としては唯一徒歩で麓から頂上まで登れる重要 な道である。写真吉田口登山道の写真表法的保護、修理・整備 の経緯1924年所在地が史蹟名勝天然エムゾネ紀念物保存法の下 に名勝に仮指定1936年所在地が国立公園法の下に(富士箱 根)国立公園に指定1952年所在地が文化財保護法の下に名 勝、ついで特別名勝に指定1978年「特別名勝富士山保存管 理計画」策定(1999年、2006年改訂)1エムゾネ996年 歴史の道整備活用事業により馬返〜1合目区間を発掘調査・整 備1999年「特別名勝富士山保存管理計画」を改訂2006 年「特別名勝富士山保存管理計画」を改訂2011年文化財保 護法の下に他の文化財とともに登山道の一部を史跡富士山エムゾネ として指定−26−2011年「史跡富士山保存管理計画」を 策定(予定)A6北口本宮冨士浅間神社富士山北麓、吉田口登 山道の起点に位置し、祭神として木花開花姫命、天津彦彦火瓊 瓊杵命、大山祇命を祀る神社である。富士山の遙拝所に祀られ ていエムゾネた浅間明神(富士山の荒ぶる神)を起源とし、148 0年には「富士山」の鳥居が建立され、16世紀半ばには浅 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/261
262: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 08:42:42.47 ID:2LIMvxdg0 神社の社殿が整っていたとされる。当神社は領主からの崇敬が 厚く、境内に現存する3つの社殿は、1561年、1594年 、1615年エムゾネにそれぞれ当時の領主が寄進したものである 。富士講とのつながりが強く、1730年には富士講の指導者 である村上光清の寄進によって境内の建造物群の修復工事が行 われ、現在にみる境内の景観の礎が形成された。北口本宮冨士 浅間神社の支配権は外エムゾネ川家、小佐野家などの吉田の御師に 所属しており、神社の管理も御師団の中から選ばれた者に委ね られていた。社殿の背後に登山門があり、この神社を起点とし て富士山頂まで吉田口登山道が伸びている。富士講や吉田御師 と密接な関係を持ちながら発展エムゾネした神社である。写真北口 本宮冨士浅間神社の写真(本殿、西宮本殿、東宮本殿)表法的 保護、修理・整備の経緯1907年古社寺保存法の下に東宮本 殿が特別保護建造物の指定1952年所在地が文化財保護法の 下に名勝、ついで特別名勝に指定195エムゾネ2年東宮本殿・解 体修理工事を行う1953年文化財保護法の下に本殿、西宮本 殿が重要文化財の指定1962年西宮本殿・解体修理工事を行 う(〜64年)1978年「特別名勝富士山保存管理計画」を 策定1973年本殿・部分解体修理工事を行う(エムゾネ〜74年 )1981年東宮本殿・部分修理工事を行う(〜82年)19 97年東宮本殿・部分修理工事を行う2008年本殿・屋根の 葺替え修理工事を行う(〜09年)2010年「重要文化財北 口本宮冨士浅間神社保存活用計画」を策定2011年文化エムゾネ 財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定(予 定)2011年「史跡富士山保存管理計画」を策定(予定)A 7西湖富士山の火山活動により形成された堰止湖で、富士山の 北北西に位置する。富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡 りがエムゾネ行われたが、この西湖にも多くの富士講徒が訪れた http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/262
263: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 08:48:36.57 ID:2LIMvxdg0 西湖と精進湖はかつて「〜の海(せのうみ)」と呼ばれる一つ の湖だったが、日本最古の歌集・万葉集で〜の海が詠われたほ か、いくつかの文学作品ともゆかりがある。写真西湖の写真A 8精進湖富士エムゾネ山の火山活動により形成された堰止湖で、富 士山の北西に位置する。富士山周辺の湖を巡って修−27−行 する内八海巡りが行われたが、この精進湖にも多くの富士講徒 が訪れた。富士山北麓で最初の洋風ホテルはこの精進湖畔に http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/263
264: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 08:55:10.21 ID:2LIMvxdg0 てられ、多くの西洋人エムゾネが訪れた。20世紀初頭には、絵葉 書に使われた富士山の写真はこの精進湖からのものがほとんど だった。写真精進湖の写真A9本栖湖富士山の火山活動により 形成された堰止湖で、富士山の北西に位置する。富士山周辺の 湖を巡って修行する内八海巡りエムゾネが行われたが、この精進湖 にも多くの富士講徒が訪れた。本栖湖は、日本の紙幣の図柄と して何度も使用された写真の撮影地点であり、重要な展望地点 (viewpoint)である。富士山は、プロ・アマを問わ ず多くの写真家に愛され、撮影されてきエムゾネた。なかでも、生 涯にわたり富士山を追い続けた岡田紅陽によって、1935年 に本栖湖北西岸の峠道から撮影された「湖畔の春」という写真 は有名である。この写真は、1984年に採用された5千円札 及び2004年に採用された千円札の図柄としてエムゾネ使用され た。山体の裾野が湖まで広がり一体の景観を構成している本栖 湖からの展望は、「湖畔の春」に撮影された富士山とほぼ同じ 姿のまま現在も残している。写真本栖湖の写真表法的保護、修 理・整備の経緯(A7・A8・A9)1936年所在地がエムゾネ 国立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指定1988年「山 梨県富士五湖の静穏の保全に関する条例」を制定2006年自 然公園法の下に本栖湖の湖面全域での動力船の使用が規制され る2011年文化財保護法の下に名勝に指定(予定)2011 年「エムゾネ名勝富士五湖保存管理計画」を策定(予定)(2)信 仰B1富士山本宮浅間大社富士山の南西麓に位置する神社であ り、この神社とともに発展してきた富士宮市の中央部に所在す る。富士山の神とされる木花之佐久夜毘売命を主祭神とし、現 在全国に約1エムゾネ300社ある浅間神社の総本宮とされている 。境内には登拝の際に水垢離場として使用された湧玉池がある 。浅間大社は7世紀ごろ、富士山により近い遥拝所であった http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/264
265: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 09:01:26.51 ID:2LIMvxdg0 宮浅間神社から現在の地に移転されたとされる。創建当時は富 士山の噴火が盛んであエムゾネり、これを畏れ鎮めることを信仰の 目的としていた。朝廷も浅間大神に他の山よりも高い神階を与 えることで崇敬の念を示した。12世紀後半ごろには、浅間大 神は本地垂迹説の影響を受け大日如来の垂迹である「浅間大菩 薩」と見なされるようになり、エムゾネ12世紀頃より政治の実権 を掌握した武士階級に戦勝の神として信仰された。15世紀ご ろ、登拝が盛んになるにつれて、浅間大社は村山浅間神社とと もに大宮・村山口登山道の起点となり、宿坊が周辺に建設され た。16世紀ごろ、浅間大社は湧玉池でエムゾネの水垢離を重要な 儀式と位置づけることによって、浅間大社を経由した登拝を喧 伝した。同時期の絵図である絹本著色富士曼荼羅図には、浅間 大社・湧玉池及び村山浅間神社を経由して登山する人々の姿が 描かれている。登拝の拡大に伴い、富士山中でのエムゾネ諸権利が 構築されていく中で、浅間大社は徳川家康の庇護の下、160 4年現在の社殿が造営されるとともに、1609年山頂部の散 銭取得における優先権を得た。これを基に浅間大社は山頂部の 管理・支配を行うようになった。ただし、大宮・村山口登エムゾネ 山道と頂上部の大日堂周辺は−28−村山浅間神社が支配し、 廃仏毀釈以降、村山浅間神社の衰退と1906年の村山浅間神 社を経由しない登山道の開削などにより、浅間大社には多くの 参拝者が訪れた。また、明治政府の政策により、一時国有地と されエムゾネていた八合目以上の土地は1974年の最高裁判決に 基づき、2004年浅間大社に譲渡(返還)された。写真本殿 ・拝殿+富士山表法的保護、修理・整備の経緯1907年本殿 が古社寺保存法の下に特別保護建造物に指定1925年本殿・ 拝殿・楼門等エムゾネの補修1929年本殿は国宝保存法制定に伴 い国宝に名称変更1934年楼門の修理1936年袖廊・廻 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/265
266: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 09:07:33.65 ID:2LIMvxdg0 を附した1950年本殿は文化財保護法制定に伴い重要文化財 に名称変更1952年本殿の屋根の修理等が行われた1970 年本殿の屋根の修理等エムゾネが行われた1988年本殿の屋根の 修理等が行われた1996年富士宮市教育委員会が調査を行っ た2002年富士宮市教育委員会が調査を行った2005年本 殿の屋根の修理等が行われた2008年財団法人静岡県埋蔵文 化財調査研究所により境内の発エムゾネ掘調査が行われ、その成果 に基づき2010年に「史跡富士山保存管理計画」を策定20 10年文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山とし て指定湧玉池は富士山本宮浅間神社境内に所在する面積約2, 500uの池である。池は約1万年前にエムゾネ噴出した万野溶岩 流の末端から湧き出す一日平均14万〜(2008年)の水を 源としている。湧水のメカニズムは、富士山の標高1000m 前後ないしそれ以上の高所の降水が地下にしみ込み、何層もあ る溶岩層の間にはさまれて充満し、それが押し出エムゾネされるよ うにして末端から湧出したものである。浅間大社の位置は、富 士山の噴火を湧水によって鎮める考えや、富士山を聖なる水源 の山として崇める考え方から、豊富な湧水量を持つ湧玉池のほ とりに置かれたとされる。この湧水には灌漑用水としてのエムゾネ 役割もあり、浅間大社境内の神田の宮では水徳の神・農業神と しての浅間大神に感謝する祭礼が行われている。池の名前の由 来には、地底から玉が湧き出るように湧水しているためという 説や湧く霊たま(神霊)との説等があり、わく玉の名は10世 紀後エムゾネ半の地元支配者による和歌に見られ、湧玉池の名称は 1670年作成の「社頭古絵図」に見られる。湧玉池は浅間大 社に参拝し、富士山をめざす登拝者が身を清める場として使用 された。その様子は「絹本著色富士曼荼羅図」や「富士浅間曼 荼羅図」、1エムゾネ7世紀初頭の登山記で確認できる。この絵 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/266
267: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 09:14:30.44 ID:2LIMvxdg0 では現在の形状に近い湧玉池が描かれ、水垢離する人々やその ための施設が見られる。登拝者の水垢離は1920〜30年代 まで行われ、現在では山開きの恒例行事に形を変えて継承され ている。また、湧水はエムゾネ聖なる水として現在でも利用する人 が多い。湧玉池および周辺には様々な宗教に係わる施設がある が、特に池の南端にある「神幸橋」は、御神幸道の基点であり 、現在でも1691年に作られた石碑がたもとに残されてい http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/267
268: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 09:21:04.98 ID:2LIMvxdg0 。−29−写真沸玉池の写真Bエムゾネ2山宮浅間神社浅間大社の 北北東約5kmに位置し、木花之佐久夜毘売命を主祭神とする 神社である。その起源は「富士本宮社記」によれば、山足の地 に祀られていた浅間大神を、神話上の英雄である日本武尊が大 神の神威により難を逃れた謝礼に山宮にエムゾネ祀ったこととされ 、これが802年に再び遷され浅間大社となったとする。具体 的な創建年代は不詳だが、文献上での初見は1551年である 。神社は神事の際に使用する籠屋以外の建物施設を持たず、拝 殿・本殿等が位置すべき場所には石列でいくつかエムゾネに区分さ れた遥拝所が設置されるのみという特異な形態を示している。 この形態は古代からの富士山祭祀の形を止めていると推定され ており、遥拝所の主軸は富士山方向を向いている。発掘調査で は12〜15世紀にかけての神事に使用されたと推定されエムゾネ る破砕された土器が遥拝所北側から多数出土し、当神社での宗 教活動を裏付けている。また、遅くとも1577年までには浅 間大社との間で「山宮御神幸」といわれる儀式が開始された。 これは4月と11月に神の宿った鉾を持ち、浅間大社から山宮 浅間エムゾネ神社へ行き、神事を行った後、翌日未明に浅間大社へ 戻る行事である。行事の意味として、現時点では神が4月に旧 跡に戻るという解釈と、山にいる神が4月に田の神として里へ 降りるという解釈がある。この行事は1874年まで行われて いた。なお、エムゾネ「山宮御神幸」に使用される経路を御神幸道 と称し、浅間大社湧玉池横より発し、約600m東へ向かった 後、ほぼ直角に曲がり直線状に北上して山宮浅間神社に至る。 道の出発点及び途中には1691年に置かれた距離を示す石碑 が少なくとも四箇所残エムゾネっている。写真山宮浅間神社の写真 B3村山浅間神社山宮浅間神社の南東約4km、富士山南麓に 張り出した標高約500mのバルコニー状地形に位置し、木 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/268
269: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 09:33:34.62 ID:2LIMvxdg0 0−ともに、登拝が困難な人々に対しては川辺で垢離を取り、 祈ることで登拝と同等の利益があるとする「富士垢離」の手法 を広めている。加えて富士山をエムゾネ航海の目印とする伊豆半島 の漁業者に対しては航海安全と大漁の祈願を行った。興法寺の 勢力は地元支配者である今川氏の支援を受けていた16世紀前 半が最も強かったが、それ以降衰退しつつも聖護院の力を背景 に一定の権威をもち、登山道及びその頂エムゾネ上部の大日堂周辺 を支配した。社殿については、1697年徳川幕府により修復 され、現在の大日堂は建築様式や部材の状況から19世紀半ば に建立されたと推定される。また、浅間神社は1913年改築 されたものを基本としている。1868年、神仏エムゾネ分離令に より浅間神社と興法寺(大日堂)は分離され、山伏は還俗し、 1906年の登山道の変化にも伴い両者とも衰微した。ただし 、富士峰修行と加持祈祷は1940年代まで継続された。現在 は1970年代より活発になった地域住民による伝統復活エムゾネ のための活動が見られ、水垢離等の行事が行われている。また 、村山浅間神社の影響を受けた地域のうち、滋賀県甲賀市、三 重県南伊勢町等では現在でも富士垢離の行事が継続されている 。写真村山浅間神社の写真B−4須山浅間神社富士山の南東麓 、須エムゾネ山口登山道の入り口に位置し、木花開花姫命を主祭神 とする神社である。その起源は1598年作の社伝旧記による と110年、日本武尊が蝦夷征伐の際、この地を訪れ浅間神社 を創起し、さらに552年有力豪族の蘇我稲目が再興したとあ る。記録上神エムゾネ社の存在が確認できるのは1524年で修築 時の棟札による。また、市天然記念物である境内の杉は、樹齢 500年以上と推定されており、遅くともこの時期までに須山 浅間神社が現在の地に存在したと推測できる。現在の社殿は1 823年の再建であるエムゾネ。1707年の宝永噴火により登 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/269
270: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 09:40:16.90 ID:2LIMvxdg0 道も含め大きな被害を受けたが、1780年に登山道が再興さ れ、1800年の御縁年には約5,400人の登拝者があった 。須山浅間神社は12軒の御師とともに当時の須山村の中心的 存在であり、村全体で須山口登エムゾネ山道と山頂部銀明水を管理 した。また、京都吉田家より神道裁許状を得たり、朝廷・公家 に銀明水を献上したりする等して権威を高めているが、山頂部 で発生した問題については、浅間大社の判断を仰いでいる。 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/270
271: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 09:47:16.50 ID:2LIMvxdg0 山浅間神社は村山三坊とも関わりを持ちエムゾネ、1940年頃ま で境内で富士峯修行の一環としての祈祷が行われていた。18 83年、御殿場口登山道が開設され、1899年の東海道本線 開通による御殿場口利便性の向上は須山口からの登拝者や登山 者を奪い、加えて1912年登山道の一部が陸軍エムゾネ演習場と なり使用不可能となったため、須山口は衰退した。しかし、そ の後都市化の影響を余り受けなかったため、須山浅間神社周辺 は日本的伝統に基づく村落景観を保っている部分が多い。写真 須山浅間神社の写真B5冨士浅間神社富士山東麓、須走口エムゾネ 登山道の起点に位置し、木花開花姫命を主祭神とする神社であ る。境内西側には鎌倉往還が通り、神社周辺は古来、交通の要 衝であった。社伝では802年、噴火の鎮火祈願のために祭事 を行い、翌年噴火が収まったことから、807年に祭事の跡地 であエムゾネるとされる現在の地にお礼のために社殿を造営したと される。その他の文書で確実に存在が確認できるのは、157 1年のものである。16世紀には地元支配者である武田氏の保 護を受け、山頂部の散銭取得権の一部を得ている。17世紀以 降、須走浅間エムゾネ神社は当時の須走村の御師などと共に須走口 登山道を支配し、山頂部薬師嶽(現−31−久須志岳)の薬師 堂開帳の権利及び山頂部の散銭取得権の一部を得ていた。これ ら山頂部の権利については八合目以上の支配権を主張する富士 山本宮浅間大社と争いエムゾネになり、須走村は1703年と17 72年の2回、幕府に裁定を求めている。この結果、これらの 権利は幕府によって認められた。また、冨士浅間神社神主や御 師は須山の場合と同じく、京都吉田家より神道裁許状を得て権 威を高めている。社殿は、記録エムゾネの残っている範囲では16 62年、地元領主である沼津城主大久保氏や小田原藩主稲葉氏 などの援助によって修造が行われた。しかし1707年の宝 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/271
272: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 09:53:39.99 ID:2LIMvxdg0 噴火では3m以上の降砂に埋もれ崩壊したため、1718年に 再建された。この後もこの際の部材を使エムゾネ用し、2009年 の修理も含め何回かの修理がおこなわれている。境内には水路 があり、水垢離に利用された。18世紀末から19世紀初頭に かけて富士講が隆盛を迎えると須走口にも関東からの登拝者が 登山又は下山の際立ち寄った。その数は1800エムゾネ年の御縁 年の際に約27,300名であった。同時期から20世紀前半 まで富士講信者は境内に登山回数等の記念碑を約80基造営し た。また、神社には神社神官や御師が発行した木版印刷による 神影や神符の版木が保管されている。写真冨士浅間神社のエムゾネ 写真B6河口浅間神社古くから富士山に関わる祭祀は南麓の浅 間神社(山宮浅間神社か〜)が執り行っていたが、864年〜 866年に北麓で起こった噴火を契機に、北麓にも浅間神社が 建てられることとなった。それが、富士山を望む河口湖の北岸 にあエムゾネり、溶岩の届かなかった河口浅間神社であるとされる 。浅間神社を中心とした河口の地は、甲府盆地から続く官道の 宿駅という役割に加え、富士登拝が大衆化した中世後半から御 師集落として発展を遂げた。しかし、江戸における富士講の大 流行と、それエムゾネに伴う吉田御師の隆盛により、河口の御師集 落としての機能は、19世紀以降衰退してしまった。ただし、 河口浅間神社は、現在も富士山と密接に結びついた宗教行事を 行っており、歴史的背景と相俟って、富士山信仰を語る上で欠 かすことができない資エムゾネ産である。写真河口浅間神社の写真 表法的保護、修理・整備の経緯2011年文化財保護法の下に 他の文化財とともに史跡富士山として指定(予定)2011年 「史跡富士山保存管理計画」を策定(予定)B7冨士御室浅間 神社冨士御室浅間神社は吉田口エムゾネ二合目に鎮座した本宮(も とみや)と、河口湖畔に建立された里宮から構成されている http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/272
273: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 10:00:32.15 ID:2LIMvxdg0 8世紀初めに吉田口登山道二合目に祭場をしつらえたのが最初 とされ、富士山中に祀られた最初の神社であるとする文献もあ る。富士修験の信仰拠点は南西の村山でエムゾネあるが、北面の二 合目、御室浅間神社が鎮座する御室の地にも山内の信仰拠点と して役行者堂が整備されたようである。また、社記によると9 58年、二合目は冬季における参詣が難儀であることから河口 湖畔の現在地に里宮が建立されたという。江戸時エムゾネ代以降富 士講の隆盛にともない、吉田口登山道の信仰拠点の一つとして この二合目の役割はさらに増すことになる。しかし、昭和に入 ると富士信仰のありかたの変化や、富士スバルラインの開通等 もあって吉田口登山道は衰退する。それに伴い二合目を通エムゾネ 過する登拝者も激減する。また、富士御室浅間神社本宮を支え てきた氏子にとっても、その維持管理が困難となって、197 3年から74年にかけて、−32−本殿を里宮地内に移転する こととなる。修験や登拝といった様々な富士信仰の拠点として 位置エムゾネづけられる二合目の本宮と、土地の産土神としての里 宮が一体となって機能してきた神社である。写真冨士御室浅間 神社の写真表法的保護、修理・整備の経緯1973年本宮本殿 ・二合目から里宮境内地に移築、整備された(〜74年)19 85年本宮本エムゾネ殿・文化財保護法の下に重要文化財として指 定1983年回廊修理工事を行う1995年外部の漆塗の塗り 直しほか一部補修を行う2010年「重要文化財冨士御室浅間 神社本殿保存活用計画」を策定2011年文化財保護法の下に 他の文化財とともに史エムゾネ跡富士山として指定(予定)201 1年「史跡富士山保存管理計画」を策定(予定)B8御師住宅 御師は、道者に宿や食事を始め登拝のための一切の世話をする とともに、登拝の指導や祈祷を行うことを業とした。富士山御 師として代表的なのは、吉田口エムゾネ登山道の起点である北口 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/273
274: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 10:07:01.66 ID:2LIMvxdg0 宮冨士浅間神社の北西に、北東方向の傾斜面に沿って大規模な 集落を形成した吉田の御師である。御師屋敷の多くは短冊状を なし、表通りに面して引き込み路を設け、敷地を流れる水路の 奥に住宅兼宿坊の建物が建っている。玄エムゾネ関から奥へ客室が 続き、最奥部には神殿が設けられている。最古の部類に入る旧 外川家住宅や、格式的な構えが確立した頃に建てられ富士講最 盛期の典型例とされる小佐野家住宅が代表的である。旧外川 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/274
275: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 10:19:43.99 ID:2LIMvxdg0 落移転に合わせて現在地に移転してきたと伝えられる。代々御 師を勤め、屋号を堀端屋と号し、江戸時代には当エムゾネ主は小佐 野壱岐あるいは小佐野大隈と名乗っていた。当家に宿泊する参 詣者は年間1,000人に達したとされる。現在、屋敷地の東 側には所有者が住む住居が建築されており、小佐野家住宅には 所有者の親族が居住している。写真小佐野家住宅の写真表エムゾネ 法的保護、修理・整備の経緯1976年文化財保護法の下に重 要文化財として指定1977年消防設備設置を行う1979年 屋根の葺替えを行う1996年雨樋いの補修を行う1997年 主屋、蔵の修理を行う1998年主屋、蔵の修理を行い201 0年エムゾネ「重要文化財小佐野家住宅保存活用計画」を策定B9 山中湖富士山の火山活動によって形成された堰止湖で、富士山 の北東に位置する。富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡 りが行われたが、この山中湖にも多くの富士講徒が訪れた。古 くから景勝地エムゾネとして有名で、20世紀前半には湖畔に洋式 ホテルが建てられたほか、別荘地としても整備された。ゆかり のある芸術家も多く、山中湖を描いた文学や絵画が散見する。 富士山の頂上付近に日の入りが重なる様子はダイアモンド富士 と呼ばれ、多くの写真エムゾネ家を集める。写真山中湖の写真B1 0河口湖富士山の火山活動により形成された堰止湖で、富士山 の北に位置する。富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡り が行われたが、この河口湖にも多くの富士講徒が訪れた。古く から景勝地として有名で、20エムゾネ世紀前半には湖畔に洋式ホ テルが建てられた。ゆかりのある芸術家も多く、湖を題材にし た文学や絵画は、富士五湖中この河口湖が最も多い。葛飾北斎 や歌川広重といった浮世絵師も、河口湖越しに見える富士山を 描いている。写真河口湖の写真表法的保エムゾネ護、修理・整備の 経緯(B9・B10)1936年所在地が国立公園法の下に http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/275
276: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 10:27:02.91 ID:2LIMvxdg0 富士箱根)国立公園に指定1988年「山梨県富士五湖の静穏 の保全に関する条例」を制定2006年自然公園法の下に本栖 湖の湖面全域での動力船の使用が規制される−3エムゾネ4−20 11年文化財保護法の下に名勝に指定(予定)2011年「名 勝富士五湖保存管理計画」を策定(予定)B11忍野八海富士 山の北東、忍野村忍草にある、富士山の伏流水による八つの湧 水地(出口池、御釜池、底抜池、銚子池、湧池、濁池、鏡エムゾネ 池、菖蒲池)の愛称である。それぞれに八大竜王を祀る富士信 仰に関わる巡拝地であった。富士登山を目指す行者たちはこの 水で穢れを祓った。長谷川角行が行った富士八海修行になぞら れ「富士御手洗(みてらし)元八湖」と唱えられた古跡の霊場 と伝エムゾネえられ、1843年に富士講道者によって再興された とされる。写真忍野八海の写真(どれか1つ)図忍野八海周辺 図表法的保護、修理・整備の経緯1934年史蹟名勝天然紀念 物保存法の下に天然紀念物に指定2010年忍野村景観計画を 策定、忍野八エムゾネ海周辺を景観形成重点区域に指定2010年 街なみ環境整備事業により忍野八海周辺環境の整備を行う(〜 14年)2011年「天然記念物忍野八海保存管理計画」を策 定(予定)B12船津胎内樹型1617年、富士講の祖とされ る長谷川角行が富士登エムゾネ拝の際、現船津胎内樹型の南方に焼 入(船津胎内樹型指定範囲内に点在する小規模な溶岩樹型のひ とつと考えられる)を発見し、浅間明神を祀った。1673年 、富士講道者村上光清により現船津胎内樹型が発見され、開祖 が祀った焼入の地の浅間明神がエムゾネ遷宮された。浅間明神誕生 の地ともいわれ、無戸室(むつむろ)に火を放ち、無事に御子 を出産したという故事に倣い社号を無戸室浅間神社と名付けた 。富士道者は、富士登拝の際に、樹型を入って身を清める風習 があり、洞穴内外の地形空間に宗教的なエムゾネ意義付けが行わ http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/276
277: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 10:32:41.93 ID:2LIMvxdg0 るとともに、奥には富士講にとっての富士山の祭神である木花 開耶姫などが祀られている。写真船津胎内樹型の写真表法的保 護、修理・整備の経緯1929年史跡名勝天然記念物法の下に 天然紀念物として指定2010年「山梨県南都留エムゾネ郡富士河 口湖町町内国指定天然記念物溶岩洞穴等保存管理・整備活用計 画書」を策定B13吉田胎内樹型吉田胎内本穴は、1892年 に富士道者により整備された「御胎内」である。吉田胎内本 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/277
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