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【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)30【ダメ工作員】 (326レス)
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)30【ダメ工作員】 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/
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277: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 10:32:41.93 ID:2LIMvxdg0 るとともに、奥には富士講にとっての富士山の祭神である木花 開耶姫などが祀られている。写真船津胎内樹型の写真表法的保 護、修理・整備の経緯1929年史跡名勝天然記念物法の下に 天然紀念物として指定2010年「山梨県南都留エムゾネ郡富士河 口湖町町内国指定天然記念物溶岩洞穴等保存管理・整備活用計 画書」を策定B13吉田胎内樹型吉田胎内本穴は、1892年 に富士道者により整備された「御胎内」である。吉田胎内本 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/277
278: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 10:39:31.85 ID:2LIMvxdg0 の奥には、石祠があって富士講にとっての富士山の祭神でエムゾネ ある木花開耶姫が祀られている。樹型内に入ると横穴の正面に は、食行身禄を祀る石祠があり、その下段には、さらに横穴が あり左右に分かれている。右の穴が天津彦彦火瓊瓊杵命を祀る 父の胎内で、左の穴が木花開耶姫を祀る母の胎内である。富士 講講エムゾネ徒は、昼までに御師の家に着き、夕方まで胎内巡りを し、翌朝富士山に登山した。−35−本穴については、古くか ら冨士山北口御師団が管理している。写真吉田胎内樹型の写真 表法的保護、修理・整備の経緯1929年史跡名勝天然紀念物 法の下に天然エムゾネ紀念物として指定2010年「天然記念物吉 田胎内樹型保存管理計画」を策定B14人穴富士講遺跡富士山 西麓、静岡県側と山梨県側を結ぶ街道沿いに位置する。木花開 花姫命・角行祖霊・徳川家康を主祭神とする浅間神社と富士講 の人々による約230エムゾネ基の碑塔群及び溶岩洞窟である人穴 がある。長さ約83mの人穴は約11,000〜8,000年 前に流出した犬涼山溶岩流中に生成したものである。1300 年前後に成立した文書である吾妻鏡によれば人穴は霊的な場所 であり、地元では「浅間大菩薩エムゾネの御在所」とみられていた ことが記述されている。この内容は遅くとも1603年までに 説話化され、多くの人にその存在が知られていた。富士講関連 の文書では1558年、開祖とされる長谷川角行が役行者のお 告げにより人穴に至り、洞窟内で立行等エムゾネを達成し、浅間大 菩薩よりお告げを得たとしている。角行は人穴を浄土への入り 口とし、「西の浄土」と呼んだため、主に19世紀以降、人穴 は富士講の人々より聖地として信仰を集め、参詣だけでなく修 行を行う者も見られた。その大部分は吉田口登山エムゾネ道の利用 者と推定される。また、塔頭の碑文から村山三坊との関係もあ ったと推定されている。人穴浅間神社の創建は明確ではない http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/278
279: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 10:45:37.99 ID:2LIMvxdg0 、1648年及び1665年、その前身である光〜寺が富士講 二世日珀(正しくは王へんに日)、三世珀心(同)によりエムゾネ 再興された記述があり、19世紀前半に同寺の大日堂が僧空胎 により再興された。1868年の神仏分離令により20世紀ま でには大日堂が人穴村の氏神としての浅間神社となった。19 42年、付近が軍用地となったため一時移転したが、1954 年にエムゾネ現在地に復興された。境内の碑塔は、その4分の3( 194基)が墓碑ないし供養碑で人穴への分骨埋葬を望んだ富 士講の信仰によるものである。そのほかに富士山に何回も登っ たという登拝記念や大願成就の碑塔や角行二百年忌の宝篋印塔 などがある。エムゾネ碑塔は富士講の講毎に群を成した所があり、 その目的は講の勢力を誇るためと推定されている。碑塔で建立 年代のわかる89基の内、富士講が隆盛した18世紀末から1 9世紀前半(1781から1850年)に建立されたものが半 数(44基)、19世エムゾネ紀末より20世紀前半(1871か ら1940年)のものが3分の1(29基)を占める。写真B 14の写真B15白糸ノ滝人穴の北方約5kmにある落差約2 0〜25m・幅約120〜210mの数百の流れを持つ滝であ る。滝は約1万年前に噴出したエムゾネ白糸溶岩流の末端から湧き 出す一日平均13万〜の水を源としている。滝の名前は湧水の 噴出が数百条の白糸が垂れているように見えるため名づけられ た。湧水のメカニズムは、湧玉池と同様であり、透水性の白糸 溶岩流と不透水性の古富士泥流の境界にエムゾネ降水・雪解け水が 滞水し、三層の溶岩の隙間、及び溶岩流と泥流層の間より湧き 出しているものである。このメカニズムが解明される前の19 世紀半ばの資料「不二山道知留邊」ではその起源を富士五湖の 伏流水としていた。白糸ノ滝は富士講関連の文書エムゾネでは、開 祖とされる長谷川角行が人穴での立行と合わせて水行を行っ http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/279
280: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 10:51:36.06 ID:2LIMvxdg0 地と記されている。−36−その後、白糸の滝は富士講を中心 とした人々の巡礼の場となった。その様子は1845年と18 54年にこの地を訪れた富士講先達の記録で確認でき、滝エムゾネ つぼの中で垢離をとる信者の周囲に虹が出来る現象を「御来光 」としている。また、周辺にある食行身禄の碑や不動尊が同書 の挿画に描かれている。そのほかの19世紀の登山記でも人穴 と共にその存在が長谷川角行との関わりを通して紹介されてい る。エムゾネまた、白糸ノ滝は景勝地としても有名であり、多くの 和歌・絵画の題材となっている。写真B15の写真表法的保護 、修理・整備の経緯1936年所在地が国立公園法の下に(富 士箱根)国立公園に指定1936年史蹟名勝天然紀念物保存法 の下に名勝及エムゾネび天然紀念物に指定1987年富士宮市によ り「白糸ノ滝」保存管理計画が策定2010年富士宮市により 保存管理計画が改定され、これにともなった整備計画に基づき 、滝周辺の景観整備が行われた(3)眺望C三保松原富士山頂 の南西約45kmに位エムゾネ置する駿河湾に突き出した長さ約7 kmの砂嘴をなす三保半島上の松原である。現在、5万4千本 の黒松が外海側海岸線4kmを中心に繁茂し、その中でも樹齢 約650年といわれる「羽衣の松」付近は、富士山と砂浜の松 という日本で好まれた景観を組エムゾネみ合わせて望むことができ る景勝地として知られている。三保松原のある三保半島は約6 000年前に現在の形となったと考えられ、三保の名前は内海 側の三つの岬を稲穂にたとえたという説が有力である。かつて は半島一帯に松が繁茂し、8世紀初頭にエムゾネは松原自体を景勝 地として捉えた和歌が詠まれ、「万葉集」に掲載された。その 後遅くとも13世紀初頭までに三保松原は後鳥羽上皇など中央 の権力者に富士山と組み合わされた景勝地として認識され、1 4〜15世紀には室町幕府将軍足利義満と足利義エムゾネ教が三 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/280
281: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 10:57:47.19 ID:2LIMvxdg0 半島と対岸(現静岡市清水区興津)との間を船で渡り富士山を 眺める行事を行い、16世紀には徳川家康が三保半島内海側に 富士見櫓を建設した。文学では「万葉集」以降も和歌等の詩の 題材となると共に、地元の伝説を基にし、羽衣の松を舞台エムゾネ とした謡曲(能)「羽衣」が遅くとも16世紀までに成立した 。降臨した天女と漁師との出会いと別れを描いたこの話の最終 場面ではヒロインの天女が富士山方向へ飛び去っていく描写 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/281
282: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 11:11:46.35 ID:2LIMvxdg0 として日本人の自然に対する信仰の在り方や、海外に影響を与 えた葛飾北斎や歌川広重などによる顕著な普遍的価値を持つ「 浮世エムゾネ絵」などの日本独自の芸術文化を育んだ「名山」であ る。富士山は山岳に対する信仰の在り方や芸術活動などを通じ 、時代を超えて一国の文化の諸相と極めて深い関連性を示し、 生きた文化的伝統の物証であるのみならず、人間と自然との良 好で継続的なエムゾネ関係を示す景観の傑出した類型として、世界 的にも類例を見ない顕著な普遍的価値を持つ山である。本計画 では、顕著な普遍的価値に対し、資産に含まれる要素を「顕著 な普遍的価値を構成する諸要素」と「顕著な普遍的価値を構成 する諸要素と密接に関エムゾネわる諸要素」に分類し、さらに緩衝 地帯における「周辺環境を構成する諸要素」を加え、表に示す とおり整理を行った。A富士山山体及び登山道B信仰に関わる 周辺のものC富士山から離れた眺望に関わるもの表富士山の構 成要素A富士山(富士山体)Aエムゾネ1山頂信仰遺跡・富士山本 宮奥宮・東北奥宮(久須志神社)・金明水・銀明水・八葉(剣 ヶ峰、白山岳、久須志岳、成就岳、伊豆岳、朝日岳、浅間岳、 駒ヶ岳、三島岳)・大内院・小内院・馬の背・東安河原・西安 河原・虎岩(獅子岩)・割石・雷岩・こエムゾネのしろが池・荒巻 ・吉田須走拝所跡・須山拝所跡・村山大宮拝所跡・三島ヶ岳経 塚・外浜道・内浜道A2大宮・村山口登山道・札打場・中宮八 幡堂跡(1号建物跡)・八大龍王・5号建物跡・8号建物跡・ 12号建物跡・鳥居A3須山口登山道・須山御胎エムゾネ内(溶岩 洞穴)・石像・石燈篭・鳥居・標柱・祠A4須走口登山道・古 御岳神社・迎久須志之神社・鳥居・狛犬・石碑A5吉田口登山 道・現登山道・旧登山道・馬返・五合目・烏帽子岩A6北口本 宮冨士浅間神社−38−−39−・本殿・東宮本殿・西宮エムゾネ 本殿・大塚山・御鞍石A7西湖・湖水A8精進湖・湖水A9 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/282
283: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 11:18:53.35 ID:2LIMvxdg0 栖湖・湖水・中ノ倉峠からの展望B1富士山本宮浅間大社・神 立山・湧玉池(上池、下池)・社叢・社殿(本殿・拝殿・幣殿 )・透塀・楼門・手水舎・廻廊・灯籠・石鳥居・東鳥居・西鳥 居・エムゾネ桜の馬場・禊所・神幸橋(湧玉橋)・輪橋(太鼓橋) ・護摩堂跡(推定)・随身像・狛犬・御神幸道首標の碑・三之 宮・七之宮・鉾立石・欄干橋(神路橋、神路枚橋)B2山宮浅 間神社・溶岩流地形・社叢・籠屋(参籠所)・鉾立石・石段( 参道)・石塁エムゾネ・玉垣・遥拝所・石鳥居・参道B3村山浅間 神社・元村山溶岩流・水源地「竜頭ヶ池」・御神木(イチョウ 、大スギ)・社叢・浅間神社社殿・大日堂(興法寺)・水垢離 場・護摩壇・氏神社(高嶺総鎮守社)・石鳥居・氏神社鳥居・ 手水舎(手水鉢)・石エムゾネ段(参道)・狛犬B4須山浅間神社 ・社叢・社殿・神輿殿・狛犬・灯籠・手水舎・参道・鳥居・石 碑・古宮神社B5冨士浅間神社(須走浅間神社)・社叢(浅間 の杜)・ハルニレ・エゾヤマザクラ・根上がりモミ・社殿・楼 門・参道大鳥居・裏参道鳥居・エムゾネ富士塚狛犬・富士講講碑群 B6河口浅間神社・社殿、鳥居B7冨士御室浅間神社・吉田口 二合目(拝殿の一部、行者堂跡、定善院跡、建物礎石)・移築 された二合目本殿B8御師住宅(旧外川家住宅、小佐野家住宅 )・主屋・離座敷・中門・屋敷地(タツエムゾネミチ)B9山中湖 ・湖水B10河口湖・湖水B11忍野八海・八つの池(出口池 、御釜池、底抜池、銚子池、湧池、濁池、鏡池、菖蒲池)・湧 水B12船津胎内樹型・溶岩樹型・無戸室浅間神社、石造物群 B13吉田胎内樹型・溶岩樹型・洞内の石祠、石エムゾネ造物群− 40−B14人穴富士講遺跡(人穴浅間神社)・犬涼み溶岩流 ・溶岩洞穴・社叢(周辺の植生)・碑塔群・参道・建物跡・参 道跡・道跡・炭焼窯跡・井戸跡B15白糸ノ滝・古富士泥流堆 積物・白糸溶岩流・白糸の滝・音止の滝・鬢撫水・植物・エムゾ http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/283
284: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 11:25:33.87 ID:2LIMvxdg0 富士講・白糸の滝の勝景・音止の勝景・富士山の展望・富士の 巻狩の伝承・歌碑・標識C三保松原・特別規制A地区・特別規 制B地区・第1種規制地区・第2種規制地区・第3種規制地区 @自然地形(山林、河川など)・宝永山(宝永火口)・溶岩洞 穴、エムゾネ樹型等富士山体・側火山からの噴出物による地形・富 士山原始林及び青木ヶ原樹海・国指定天然記念物(鳴沢溶岩樹 型、鳴沢氷穴、本栖風穴等)A森林、植栽樹木(山林を構成 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/284
285: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 11:38:59.84 ID:2LIMvxdg0 遺跡の分布図・富士山本宮奥宮富士宮口登山道頂上に位置し、 7、8月の開山期にのみ開かれる。祭神は木花之佐久夜毘売命 である。『本エムゾネ朝世紀』には、久安5年(1149)「富士 上人末代は、富士山に数百度登り、山頂に仏閣を構え、大日寺 と称し、写経を埋納下した」とある。江戸時代には、村山三坊 所有の大日堂があったが、明治7年(1874)、廃仏毀釈に より山中の仏像を取りエムゾネ除き、大日堂跡へ奥宮を建立し、浅 間大神を祭った。写真奥宮の写真[奥宮周辺の石碑群](a) 蹲虎の碑(高さ139×幅64×厚さ18p)奥宮の裏手、浅 間岳の麓に所在する。一方の面に漢文が、もう一方には虎の絵 が彫られている。天保年間(1エムゾネ830−34)に、岸岱が 作ったとされる。(b)鎮國之山(高さ146×幅61×厚さ 31p)奥宮の前に所在する。碑面に「鎮國之山」と彫られて いる。明治31年(1898)に書家の中林梧竹により建碑さ れた。後年、落雷により破壊されたが、エムゾネ昭和42年(19 67)に再建された。・東北奥宮(久須志神社)浅間大社奥宮 の末社で、大名牟遅命、少彦名命を祀る。須走口登山道、吉田 口登山道の終点にある。室町時代以降、頂上の一つである久須 志岳(旧薬師ヶ嶽)に薬師堂があり、道者の登山エムゾネ切手を改 めた。古くは山役銭の徴収場であった。薬師堂は奥宮の場合と 同様に廃仏毀釈により破却され、久須志神社と改称した。写真 東北奥宮の写真・金明水雪解け水が湧く泉で、その湧き水は霊 験あらたかな「御霊水」として珍重された。大正期の写真エムゾネ をみると、井戸は石組みや木製の柵で囲われ、旗や幟などもみ られる。・銀明水金明水とおなじく、富士山頂の霊験あらたか な湧き水として珍重された。『富士の歴史』によれば、「如何 なる旱にも水の涸れることはない」と記している。写真銀明水 の写エムゾネ真[銀明水の石碑群](a)石碑@(高さ112× http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/285
286: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 11:45:52.96 ID:2LIMvxdg0 62p)銘文には「明治三拾九年」と「大正五年」の2つの年 代が確認できる。富士講の人々が建碑したものと考えられる。 (b)石碑A(高さ162×下幅76×上幅63p)表面に龍 が、裏面にはエムゾネ文字が刻まれている。(c)石碑B(未計測 )「大正十三年八月」と刻してある。写真銀明水の石碑群の写 真−42−・八葉(剣ヶ峰、白山岳、久須志岳、成就岳、伊豆 岳、朝日岳、浅間岳、駒ヶ岳、三島岳)山頂部の直径約800 mの火口を囲む峰々のエムゾネ総称で、それぞれの峰に仏が住むと された。文永年中(1264〜1275)の作である『万葉集 註釈』には「いたゞきに八葉の嶺あり」とあることから、鎌倉 時代中期には山頂の峰々を蓮の「八葉」に見立てていたと考え られる。江戸時代後期の地誌でエムゾネある『駿河国新風土記』に は「ソノ名一定ノ説ナク、又峰ノ数八ツアルニアラズ。コマカ ニカゾヘバ、十二バカリナリト言フ。」とあり、八葉を構成す る峰も、またその名称も一定でないことがわかる。峰の名称は 、明治8年に廃仏毀釈により仏教色を払エムゾネ拭したものに変更 された。以下、平成20年度の静岡県埋蔵文化財調査研究所に よる発掘調査報告書で示された9つの峰について、最高峰の剣 ヶ峰からお鉢巡りの回り方である時計回りの順に、記述する。 なお、浅間大社では、伊豆岳以外の8つをもってエムゾネ「八神峰 」としている。図八葉の配置図[剣ヶ峰(標高約3,776m )]かつては剣ノ峰、阿弥陀岳とも呼ばれた。遠くから見ると 剣を立てたようにそびえ立っているためにこの名があるという 。道者たちはあまりに険しいこの峰を恐れて多くは登らなエムゾネ かったという。この峰の石は「神の惜ミ給ふ」とされ、採取を 禁じられたが、麓からの石と取り替えるということが行われて いた。写真剣ヶ峰の写真図気象庁測候所跡周辺の平面図[白山 岳(標高約3,756m)]かつては釈迦ヶ岳とも呼ばれた http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/286
287: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 11:51:45.49 ID:2LIMvxdg0 現在エムゾネは一般の立入は禁止されている。頂上には鳥居が立ち 、また二等三角点が存在する。[久須志岳(標高約3,725 m)]かつては薬師岳とも呼ばれた。現在の久須志神社の裏手 にあたる。他の峰々と比べ傾斜はなだらかである。頂上には鳥 居が火口の方エムゾネ向に向けて建てられている。頂上付近には石 造物が残存し、首から上と手首から先が欠損している。台座正 面に「食行」「身禄」の文字が確認できる。写真久須志岳の http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/287
288: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 11:58:42.38 ID:2LIMvxdg0 造物の写真[成就岳(標高約3,734m)]かつては大日岳 とも呼ばれ、大小2つエムゾネの鳥居が、噴火口の方角を向いて建 てられている。[伊豆岳(標高約3,748m)]かつては勢 至ヶ嶽、観音嶽とも呼ばれた。『浅間神社の歴史』には、「中 腹より地中に熱気を感じ、下りて荒巻の険を越え、成就岳にい たるまで、至る所に蒸気を噴出エムゾネする」とある。頂上には鳥 居は見られない。[朝日岳(標高約3,733m)]伊豆岳と 同様、かつては地中から蒸気を発していたとされる。頂上に鳥 居は存在しない。石積みがあるが時期は不明である。他の峰々 と比べ、文献の言及が乏しい。[浅間岳エムゾネ(標高約3,72 2m)]浅間大社奥宮の裏手にあり、頂上に鳥居がある。現在 は一般の立入が制限されている。[駒ヶ岳(標高約3,718 m)]聖徳太子が黒駒に乗って登山した際に、ここで休息をと ったという伝説のある峰である。山頂に鳥居が存エムゾネ在する。 峰全体が岩石からできている。[三島岳(標高約3,734m )]−43−かつては文殊岳とも呼ばれた。頂上に木製の鳥居 と、「三島岳」と刻まれた白い角材の木杭が立っている。三島 岳の石仏群として、三島岳のふもと、かつて経塚が発見さエムゾネ れた付近に、10体の石像が安置されている。これらは原位置 を留めておらず、周辺にあったものが集められたと考えられる 。いずれも頭部を欠損している。・大内院山頂の火口中央に存 在する穴で、ここより雲が生じ、風が起きるとされた。大内院 (噴エムゾネ火口)は中央にある大きな火口、小内院(阿弥陀ヶ窪 )は雷岩の下の小さな火口を指す。神や仏の居る所であると信 じられ、登山者は各登山口に設けられた拝所あるいは初穂打場 から、噴火口に向けて賽銭を投げ入れた。現在、噴火口への立 入は禁止されエムゾネている。写真大内院の写真・小内院西安河原 から白山岳に向かう途中にある大きな窪地で、大内院との対 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/288
289: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 12:04:04.78 ID:2LIMvxdg0 で小内院と呼ばれる。かつては噴火口だったと考えられる。写 真小内院の写真・馬の背剣ヶ峰に通じる坂道で、火山礫と砂の 急斜面である。お鉢巡エムゾネりの道中で最大の難所である。現在 はブルドーザーが通れるよう整地されている。火口に向けて傾 斜しており、その険しさから道者たちの多くは剣ヶ峰に登らな かったといわれる。・東安河原須山口拝所東側にあり、山頂部 では稀な広い平坦部である。かエムゾネつては現世と来世の境であ る「賽の河原」になぞらえて、道者たちが溶岩礫を積み上げ石 塔を作った。また「初穂打場」とも呼ばれ、火口に向けて賽銭 が投げ込まれた場所とされる。・西安河原東安河原と対をなす 、剣ヶ峰から北側に下りた付近の平坦部エムゾネである。火口の外 壁を行く外浜道と内壁を行く内浜道との分岐点に位置する。・ 虎岩(獅子岩)大内院の南岸に突き出た大岩で、形状が虎(獅 子)のうずくまる姿に似ていることから名付けられた。・割石 かつては「釈迦の割石」と呼ばれた溶岩で、溶岩エムゾネが急速に 冷えて固まったため割れていた。高さが15m程あったが、現 在は崩壊してしまっている。古くから行者の修行場として知ら れ、食行身禄がここで入定しようとしたが、大宮浅間の社人か らの許可が得られず、吉田口七合五勺の烏帽子岩で入定しエムゾネ たとされる。写真割石の写真・雷岩白山岳の西側にある岩で、 この方角から強い雷雲がくる事からこう呼ばれたとされる。ま た、文化年間の初め、岩より雷鳴がとどろいて雷獣が出現し、 8合目の石室に走り入った。これを石室に居合わせた人々が生 け捕エムゾネりにしたとも伝えられる。・このしろが池三島岳の雪 解け水が窪地に溜まってできる季節的な池で、6月から7月に 姿を現し、雪解け水の供給が無くなると消えてしまう。・荒巻 −44−かつては勢至ヶ窪と呼ばれ、強い風が吹き付ける富士 山頂の難所とエムゾネして知られた。道の火口側には、火山礫を http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/289
290: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 12:09:56.13 ID:2LIMvxdg0 み上げた石組みがある。・吉田須走拝所跡須走口登山道を登り きったところにあったとされる。拝所は初穂打場とも呼ばれ、 登山者たちが賽銭を噴火口の大内院に投げ入れる、そこに鎮座 する浅間大菩薩を拝むエムゾネ場所であった。また、御来光を拝む 場所でもあった。現在は、付近に鳥居がなく痕跡も残っていな いため、場所を特定することはできない。写真吉田須走拝所跡 の写真・須山拝所跡銀明水の裏手の火口を臨む位置にあったと される。大正2年(1913)エムゾネの登山スタンプが押された 写真では、銀明水裏手の火口の縁に立っている鳥居が確認でき る。現在その地点には、2つの目印の石が存在している。写真 須山拝所跡の写真・村山大宮拝所跡『隔掻録』は、大日堂の裏 手に建つ鳥居を「大宮拝所」としているエムゾネ。『富士山明細図 』は、このしろが池の裏手の鳥居を影拝所としている。このし ろが池から剣ヶ峰の登山道に沿って3体の大日如来があり、そ れぞれ延徳2年(1490)、天文12年(1543)、寛永 元年(1624)の銘があったとされる。昭和初エムゾネ期の絵葉 書にも、剣ヶ峰の手前の火口を臨む位置に鳥居が建っている。 写真村山・大宮拝所跡の写真・三島ヶ岳経塚昭和4年(192 9)、頂上の神官が銅仏の破片と一石経を採集して下山、それ を受けて昭和5年に三島岳のふもとを調査したところ、経エムゾネ 巻が詰まった経筒や木槨、土器片などの遺物が出土した。富士 山本宮浅間大社には、現在10巻分の経巻が残っており、うち 5巻は開かれていて内容を確認できる。経巻のスタイルや計測 値から平安時代後期までさかのぼる可能性が考えられる。写真 出土エムゾネ遺物の写真・外浜道・内浜道山頂を周回し八葉を巡る 「お鉢巡り」を行う道である。剣ヶ峰を下り西安河原の北側で 道が二手に分かれるが、峰の外を回り雷岩、割石を経て白山岳 に至る道が外浜道で、峰の内側を大内院に沿って回り金明水 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/290
291: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 12:16:41.60 ID:2LIMvxdg0 至る道が内浜エムゾネ道である。沿道には信仰に関わる工作物や自 然物が数多く存在する。外浜道は近年崩落が著しく、現在は立 入禁止となっている。A2大宮・村山口登山道図登山道に要素 が点在している平面図・札打場村山浅間神社の北東約3.5q 、天照教社の西南西約エムゾネ1qの地点(標高約830m)に、 東西約7m、南北約10mの平場がある。南側に1本の大きな ケヤキの巨木があり、ここが札打場であった。札打とは、自 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/291
292: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 12:22:32.21 ID:2LIMvxdg0 の院号を記した札を打ちつけることである。村山で修験道が盛 んであった頃、山伏が峰入修行エムゾネに先立ち札打を行った。昭 和30年(1955)頃までは、木に打ちつけた札が見られた という写真札打場の写真・中宮八幡堂跡(1号建物跡)村山口 登山道跡と富士山スカイラインが交差する地点から南西方向に 約500mの地点に位置する。標高は約エムゾネ1,280mであ る。東側を走る沢から一段上がった平坦面に所在している。平 坦面は2段あり、上−45−段には小さな祠が建てられている 。また下段には、南東から北西方向に石列が伸びている。江戸 時代には馬返しと呼ばれ、駒立小屋があったとさエムゾネれる。ま た、ここからは女人は登山道を登ることを許されず、駒立小屋 は女人堂として使われた時期もあったと考えられる。下段平坦 面の南側には溝が東西方向に延び、西側の森林に突き当たって 痕跡をたどれなくなる。木馬道である可能性が指摘されるエムゾネ 。写真中宮八幡堂の写真・八大龍王中宮八幡堂跡より北東に約 100mの地点に「八大龍王」と刻まれた石碑と水神の祠が並 んで建てられている。水神祠には「文化十三年寅年六月日」、 八大龍王には「文化七年七月十七日」との銘が刻まれている。 駿河エムゾネ国大宮町神田の横関家の主人が、天保14年(184 3)から文久3年(1863)にかけて記録した『袖日記』に は、安政7年(1860)5月11日の条に「中宮八幡堂の井 戸を掘ったので山が荒れた」との記述がある。この「中宮八幡 堂の井戸」とエムゾネは、八大龍王前にある井戸跡を指すものと考 えられている。井戸跡は幅80p、深さ50pほどである。・ 5号建物跡4号建物跡から登山道跡を登りしばらくすると一面 の倒木帯となり、その中に5号建物跡がある。標高は約1,8 65mである。平成5エムゾネ年の富士宮市による調査では、平場 の北側の斜面の縁に3体の石像が発見されていたが、平成2 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/292
293: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 12:28:04.89 ID:2LIMvxdg0 年の静岡県埋蔵文化財調査研究所による調査では石像が4体見 つかっている。木が倒れた際に地面が掘り起こされ、地中にあ った石像が地上に現われたと考エムゾネえられる。うち1体の不動 明王像には、文化7年(1810)の銘がある。背面には「瀧 本前」と刻まれており、ここが「富士山表口南面路次社堂室有 来之次第絵図」でいう「瀧本・笹垢離」跡であると推測できる 。4体の石像には破壊された痕跡が確認エムゾネできる。廃仏毀釈 によるものと考えられる。なお、明治末の登山案内では5号建 物跡に該当する施設の記載がなくなっている。・8号建物跡7 号建物跡から北西に約220m(標高約2,170m)の位置 にある。中宮八幡堂跡より標高の高い位置に所在エムゾネする建物 跡の中で最も大規模なものである。2つの平場により構成され 、南西部の平場は東西約25m、南北約10mである。入口に 石段が残存しており、石段の東西には石垣が組まれている。ま た平場中央部よりやや西に護摩壇と思われる石組も残存しエムゾネ ている。もう一つの北東部の平場は北西から南東に傾斜する斜 面上に、長軸約15m、短軸約6mの三角形で、北西側斜面の 縁と南側斜面の縁に石組が確認できる。昭和時代の地図には「 一ノ木戸」として載っており、「富士山表口南面路次社堂室有 来之エムゾネ次第絵図」に描かれた「室大日堂・木戸堂・茶屋堂」 にあたると考えられる。室大日堂は大日如来と役行者像が祀ら れていたとの記述が『駿河国新風土記』にあり、また末代上人 が建てた往生寺があったところだともいわれている。写真8号 建物跡の写真エムゾネ・12号建物跡村山口登山道跡に残る遺構の うちで、一番標高の高い位置(約2,390m)にある。11 号建物跡から北に50mの地点に所在する。東西約8m、南北 約5mの方形の区画が石組によって作られている。東側には直 径約90pの丸い穴がエムゾネ二つある。(同様の穴は他の建物 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/293
294: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 12:34:04.03 ID:2LIMvxdg0 でも見られ、)便所跡と考えられる。−46−・鳥居登山道跡 の8合目上に、自然木により構築された鳥居が設置されている 。「昭和五十二年七月吉日」と刻まれており、個人が設置した ものである。A3須山口登山道エムゾネ図登山道に要素が点在して いる平面図・須山御胎内(溶岩洞穴)旧須山口登山道1合目( 標高1,440m付近)にある全長10m余の溶岩洞穴である 。洞穴の直径は約1mで南東側と北西側に入口があり、内部を 通り抜けることができる。登山者は、こエムゾネの洞穴を通って登 山するのがならわしであった。かつて洞穴の延長は数10mあ ったが、関東大震災により天井部分が崩落し、現在の長さにな った。崩落した部分は、長さ約30mのU字型の溝状の溶岩地 形として須山御胎内の南東側に残っている。このエムゾネ付近の溶 岩は須山胎内溶岩と呼ばれている。年代測定では1030〜1 230年という結果が出ており、永保3年(1083)の噴火 時に噴出した可能性がある。平成21年に実施した測量調査で は、須山胎内溶岩は須山口登山道脇の標高1,485m付エムゾネ 近から認められており、須山口登山道がこの溶岩流に沿って形 成されていることが判明した。写真須山御胎内の写真・石像須 山御胎内の洞穴内部に、「木花咲耶姫」の石像が安置されてい る。地元在住の彫刻家、杉山拓氏の作品。須山口登山道復興後 の平エムゾネ成12年に作られたものである。・石燈篭須山御胎内 の南東側入口の両脇に、石燈篭が設置されている。・鳥居須山 御胎内の南東側入口前に高さ3m前後の木製の鳥居が建てられ ている。・標柱鳥居脇に、「旧須山口登山道一合目(須山御胎 内)」と記さエムゾネれた標柱が、富士山須山口登山道保存会によ って設置されている。・祠須山御胎内から南東に続くU字状の 溶岩地形脇に、石造りの祠が設置されている。写真祠の写真A 4須走口登山道図登山道に要素が点在している平面図・古御 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/294
295: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 12:40:53.40 ID:2LIMvxdg0 神社冨士浅間神社の境エムゾネ外末社で、5合目の登山道登り口に ある。現在の社殿は、昭和54年(1979)に建立され、間 口九尺、奥行九尺の規模である。その際、御室浅間神社を合祀 した。神社の前には鳥居がある。かつては3000坪の境内地 を持ち、本殿、拝殿、庁舎を備エムゾネえていたという。写真古御 岳神社の写真・迎久須志之神社冨士浅間神社の境外末社で、9 合目(3,570m付近)に建てられている。かつては向薬 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/295
296: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 12:46:29.04 ID:2LIMvxdg0 、向ヒ薬師、手引薬師と呼ばれ、石室の中に薬師如来が祀られ 冨士浅間神社の神主が管理していた。元エムゾネ禄16年(170 3)−47−の文書「大宮司富士信安等返答下書」に「前薬師 之小屋」の記述があることから、江戸時代初期以降にはすでに 祀られていたものと考えられる。道者はここで薬師に線香を手 向けたという。廃仏毀釈によって仏像は山を降ろエムゾネされ迎久 須志神社と改められた。祭神は大己貴命と少彦名命である。以 前は登山道が建物の西側を通るルートであったが、現在は建物 の東側を通るようになっている。迎久須志神社の直下には、「 日ノ見御前」「日ノ御子」と呼ばれる日の出を遥拝する場エムゾネ 所があり、江戸時代には「日ノ御子石」という富士山型の石が 置かれていた。富士講の講中が大きな平石の上で朝日を拝した という。現在「日ノ御子石」はないが、祠と鳥居が建てられて いる。写真迎久須志之神社の写真・鳥居登山道の浅間大社東北 奥宮エムゾネ(久須志神社)前(登山道終点)、9合目、本8合目 、本7合目、7合目、本5合目、古御嶽神社前に自然木などに より構築された鳥居が設置されている。・狛犬登山道終点の鳥 居前に狛犬2体が設置されている。この場所は「鳥居御橋」( とりいおはしエムゾネ)と呼ばれていた。・石碑7合目付近の登山 道脇に富士講関連の石碑がある。以前はもっと標高の高い場所 にあったが、雪崩によって流されて別の場所に転がっていたも のを山小屋関係者で運び、現在の場所に設置したという。日付 は「七月吉日」とあるエムゾネのみで、上部が欠損している。A5 吉田口登山道図登山道に要素が点在している平面図・登山道吉 田口登山道は、北口本宮冨士浅間神社を起点とし、富士山頂を 目指す道である。18世紀後半以降は、最も多くの道者が吉田 口登山道を目指している。しかエムゾネも、古道としては唯一徒歩 で麓から頂上まで登れる重要な道である。顕著な普遍的価値 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/296
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