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【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)30【ダメ工作員】 (326レス)
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296: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 12:46:29.04 ID:2LIMvxdg0 、向ヒ薬師、手引薬師と呼ばれ、石室の中に薬師如来が祀られ 冨士浅間神社の神主が管理していた。元エムゾネ禄16年(170 3)−47−の文書「大宮司富士信安等返答下書」に「前薬師 之小屋」の記述があることから、江戸時代初期以降にはすでに 祀られていたものと考えられる。道者はここで薬師に線香を手 向けたという。廃仏毀釈によって仏像は山を降ろエムゾネされ迎久 須志神社と改められた。祭神は大己貴命と少彦名命である。以 前は登山道が建物の西側を通るルートであったが、現在は建物 の東側を通るようになっている。迎久須志神社の直下には、「 日ノ見御前」「日ノ御子」と呼ばれる日の出を遥拝する場エムゾネ 所があり、江戸時代には「日ノ御子石」という富士山型の石が 置かれていた。富士講の講中が大きな平石の上で朝日を拝した という。現在「日ノ御子石」はないが、祠と鳥居が建てられて いる。写真迎久須志之神社の写真・鳥居登山道の浅間大社東北 奥宮エムゾネ(久須志神社)前(登山道終点)、9合目、本8合目 、本7合目、7合目、本5合目、古御嶽神社前に自然木などに より構築された鳥居が設置されている。・狛犬登山道終点の鳥 居前に狛犬2体が設置されている。この場所は「鳥居御橋」( とりいおはしエムゾネ)と呼ばれていた。・石碑7合目付近の登山 道脇に富士講関連の石碑がある。以前はもっと標高の高い場所 にあったが、雪崩によって流されて別の場所に転がっていたも のを山小屋関係者で運び、現在の場所に設置したという。日付 は「七月吉日」とあるエムゾネのみで、上部が欠損している。A5 吉田口登山道図登山道に要素が点在している平面図・登山道吉 田口登山道は、北口本宮冨士浅間神社を起点とし、富士山頂を 目指す道である。18世紀後半以降は、最も多くの道者が吉田 口登山道を目指している。しかエムゾネも、古道としては唯一徒歩 で麓から頂上まで登れる重要な道である。顕著な普遍的価値 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/296
297: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 12:52:40.39 ID:2LIMvxdg0 構成する要素として、現存する吉田口登山道や沿道の宗教施設 や山小屋等信仰の拠点などがある。・旧登山道・馬返ここから 急坂となり馬が使えなくなることからこエムゾネの名がついた。こ の一体は草山から木山への境でもあり、ここからが御山の聖地 ということにもなる。富士山有料道路が開通する以前の馬返の 周辺は、本格的な登り勾配の坂道が始まる直前の平地であり、 登拝者たちがいったん休憩を取る場所として賑わエムゾネった。登 山期間には4軒の茶屋が営業され、登拝者の便に供された。写 真馬返周辺の写真・五合目ここは木山と焼山の境界でもあるこ の地は天地境(てんちのさかい)とも言われる場所である。役 場、中宮の社、小屋等がおかれていた。ここの役場は、古エムゾネ くは中宮三社の神供料として役銭を納めた場所である。後年は 登山切手改め所となった。小屋については、江戸後期には4軒 があったが、すでに武田信玄の1566年の文書に「中宮之室 」という名称があり、戦国時代からこの地に小屋が設けられ− 48エムゾネ−ていたことがわかる。最盛期には18軒が所在した と伝えられている。写真五合目周辺の写真・烏帽子岩七合五勺 に烏帽子の形をした岩があり、これを烏帽子岩という。ここに て富士講中興の祖と称される食行身禄が、1733年に31日 間の断食修行エムゾネを経て入定した。「甲斐国志」にも「享保十 八六月十三日富士行者身禄ガ入定ノ地ナリ小屋アリ身禄ノ木像 ヲ安置ス流レヲ汲者年々此に登拝ス」とあり、江戸後期にはす でに身禄の聖地として信者が登拝していたことがわかる。現在 も富士講の聖地としてエムゾネ重要な地である。写真烏帽子岩の写 真A6北口本宮冨士浅間神社図以下に示す要素が点在している 平面図北口本宮冨士浅間神社は、富士講とのつながりが強く1 730年代に富士講の指導者である村上光清の寄進によって境 内の建造物群の修復工事が行わエムゾネれ、現在にみる境内の景 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/297
298: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 12:59:30.87 ID:2LIMvxdg0 の礎が形成された。社殿の背後には登山門があり、この神社を 起点として富士山頂まで吉田口登山道が延びている。富士講や 吉田御師と密接な関係を持ちながら発展した神社である。顕著 な普遍的価値を構成する諸要素として、エムゾネ富士信仰の拠点で もある本殿などの建造物群や境内地、吉田口登山道の起点など がある。・本殿本殿は、1615年、都留郡の領主鳥居土佐守 成次によって建立された。桁行一間・梁間二間の規模で、入母 屋造の建物を身舎としてその前面に唐破風造の向エムゾネ拝一間を つけた形式をとり、独自な本殿形式が採用されている。各部に 漆塗り、極彩色をほどこし、彫刻・金具を配して豪華絢爛な装 飾を展開し、桃山式建築の装飾的技法の多様性を示すとともに 、すぐれた意匠をみせる顕著な建物である。写真本殿の写エムゾネ 真図本殿の図・東宮本殿東宮本殿は、1223年北条義時の創 建とも伝えられるが、現社殿は1561年武田信玄が浅間本社 として造営したものである。本殿は身舎梁間一間、桁行一間で 正面に一間の向拝をつける一間社流造の形式である。東宮本殿 は、エムゾネ本社本殿はもとより西宮本殿に比較してやや小規模で あるが、構造形式や蟇股に挿入した彫刻などに室町時代の手法 を示しており、三殿中最も古い建物である。写真東宮本殿の写 真図東宮本殿の図・西宮本殿西宮本殿は、1594年谷村城主 浅野左右衛門エムゾネ佐氏重により東宮に替わる本殿として建立さ れたが、1615年、鳥居成次の本殿建立により現在地に移さ れ西宮となった。本殿の形式は東宮と同じ一間社流造であるが 、両側面と背面は二間で一間の向拝をつける。西宮本殿は、桃 山時代の装飾的要素をエムゾネ多分に取り入れていて、やがて豪華 な本社本殿建築へと発展する過程を、両者並べて鑑賞できる貴 重な建物である。−49−写真西宮本殿の写真図西宮本殿の図 ・大塚山社誌では、日本武尊が富士山を遙拝した地であり、 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/298
299: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 13:05:39.86 ID:2LIMvxdg0 こを浅間明神の創建にかかわるエムゾネ場所と位置づけている。さ らに、788年には新たに浅間明神を建て、この大塚山には、 大塚社として日本武尊を分祀したと伝えられる。現在この地は 、流山状の小高い丘をなしており、日本武尊を祀る祠が建てら れている。写真大塚山の写真図大塚山のエムゾネ図・御鞍石吉田火 祭(鎮火祭)の際の御輿行在所。吉田火祭の本日にこの御鞍石 上に御輿が安置され、神事が行われる。ここで読まれる祝詞 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/299
300: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 13:11:57.09 ID:2LIMvxdg0 一節から、この地が諏訪明神旧鎮座地とされる。写真御鞍石の 写真図御鞍石の図A7西湖図以下に示す要素が点エムゾネ在してい る平面図富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが多くの 富士講徒によって行われたが、いつの時代も変わらず巡拝の対 象として数えられている。また、景勝の地でもあり、多くの芸 術作品とゆかりが深い。顕著な普遍的価値を構成する諸要エムゾネ 素として、自然地形(湖水)などがある。写真西湖の写真A8 精進湖図以下に示す要素が点在している平面図富士山周辺の湖 を巡って修行する内八海巡りが多くの富士講徒によって行われ たが、いつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられている 。まエムゾネた、景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深 い。顕著な普遍的価値を構成する諸要素として、自然地形(湖 水)などがある。写真精進湖の写真A9本栖湖図以下に示す要 素が点在している平面図富士山周辺の湖を巡って修行する内八 海巡りが多くエムゾネの富士講徒によって行われたが、いつの時代 も変わらず巡拝の対象として数えられている。また、景勝の地 でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。顕著な普遍的価値 を構成する諸要素として、自然地形(湖水)や中ノ倉峠からの 展望などがある。写真エムゾネ本栖湖の写真A信仰に関わる周辺の ものB1富士山本宮浅間大社図以下に示す要素が点在している 平面図・神立山本殿の北側にある丘陵地一帯は神立山と称され る。神立山及び富士山本宮浅間大社の基盤を構成する地形は、 新富士火山旧期溶岩流に分類さエムゾネれる富士宮溶岩流と、溶岩 流直上に広がる扇状地堆積物の層で−50−構成され、溶岩流 の末端部にあたる。そのため指定地内の一部では溶岩礫が露出 し、縄状溶岩も散見される。また、当該地区は風致地区・保安 林にも指定され、渋沢堀沿いの散策路以エムゾネ外は立ち入りが禁 止されている。寛文10年(1670)の浅間大社境内絵図 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/300
301: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 13:18:41.61 ID:2LIMvxdg0 は神立山に信仰関連の様々な建築物が描かれ、発掘調査で石畳 や護摩堂跡が確認されている。写真神立山の写真・湧玉池(上 池、下池)本殿東側の「湧玉池」は、国指定特別エムゾネ天然記念 物となっている。湧玉池は、富士山に降った雨や雪が地下水と なり、被圧によって富士宮溶岩流の溶岩層間を流れ、溶岩流末 端で湧出して池になったものである。禊所付近を境に上池と下 池に分かれ、以前は上池のみを湧玉池、下池から下流を御エムゾネ 手洗川と呼んだ。登山者や道者が湧玉池の水で心身を清めた後 山中へ向かうという、富士山信仰と関連の深い池であった。現 在も富士山山開きの7月1日には、湧玉池で禊神事が行われる 。写真湧玉池の写真図詳細平面図・社叢神立山表層部は約3万 8千エムゾネuにわたってスダジイ、ケヤキ等の樹木が生育してお り、富士宮市保存樹林に指定されている。また、野鳥の生息に 適した環境でもあり、「野鳥の森」碑が建てられている。・社 殿(本殿・拝殿・幣殿・透塀・楼門)浅間大社は、社伝によれ ば大同元年(エムゾネ806)に造営されたという。かつての駿河 国の一宮で、現在は全国1300余の浅間神社の総本社として 崇められている。現在の社殿は、慶長9〜11年(1604〜 06)に徳川家康が造営したものである。写真社殿全体の写真 図社殿平面図[本殿]エムゾネ本殿は国指定重要文化財である。「 浅間造」と称する棟高45尺の二重の楼閣造構造で他に例を見 ない。1階下層は桁行5間・梁間4間の寄棟造、2階上層は桁 行3間・梁間2間の三間社流造で共に桧皮葺である。明治40 年(1907)5月27日古社エムゾネ寺保存法により特別保護建 造物に指定され、以後、国指定重要文化財として保護されてい る。写真本殿全体の写真(幣殿・拝殿含む)図本殿平面図(幣 殿・拝殿含む)[幣殿]本殿と拝殿をつなぐ部分で、桁行3間 ・梁間3間の両下造、屋根は檜皮葺、寛エムゾネ文年間の古絵図 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/301
302: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 13:24:47.39 ID:2LIMvxdg0 は幣殿は描かれていないが、現在幣殿として使われている部分 に「作合三間四間ひはだぶき」と書き込まれており、本殿の全 景がよく見えるように描かれたと推測される。県指定文化財と して保護されている。[拝殿]桁行5間・梁間3エムゾネ間で、床 は幣殿より2段高くなっている。正面が入母屋造、背面が切妻 造で、屋根は檜皮葺、正面に1間の向拝が付いている。三方に 縁を巡らせ、背面は幣殿に接続している。県指定文化財として 保護されている。[透塀]本殿周囲を囲む1棟と、その外エムゾネ 側、本殿横に並ぶ三之宮及び七之宮を含めたより広い範囲を囲 む1棟−51−の計2棟で、総延長は36間に及ぶ。県指定文 化財として保護されている。[楼門]三間一戸、重層入母屋造 で、屋根は檜皮葺、正面・左右脇に扉がついている。楼門の左 右にエムゾネは随身像が安置してある。静岡県指定文化財として保 護されている。写真楼門全体の写真図楼門平面図・廻廊楼門か ら東西に伸びる回廊は、昭和9年(1934)に付加されたも のである。・手水舎楼門の南西側に、参拝者が参拝前に身を清 めるために手エムゾネや口をすすぐ、手水舎がある。・灯籠大小そ れぞれの灯籠が境内各所に設置されている。・石鳥居本殿へ続 く参道に石造りの鳥居が建てられている。昭和33年3月に寄 進されたものである。・東鳥居・西鳥居桜の馬場の東端と西端 にそれぞれ朱塗りの鳥エムゾネ居が建てられている。・桜の馬場浅 間大社流鏑馬式が執り行われる馬場が約200mに渡って東西 に伸びている。源頼朝が富士の裾野で巻狩を行った際、流鏑馬 を奉納したことに始まると言われ、室町時代の初期にはすでに 神事が行われていたとの記録がエムゾネ残っている。馬場に沿って 両側に御神木の桜が植えられている。・禊所湧玉池の上池と下 池の境部分が禊所とされ、池に下りるための石段が組まれてい る。・神幸橋(湧玉橋)湧玉池南側の神田川への流出口に石 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/302
303: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 13:30:51.38 ID:2LIMvxdg0 りの橋が架けられている。春秋の大祭にエムゾネはこの橋を通って 山宮御神幸が出発したとされる。寛文10年(1671)の絵 図では橋に屋根が葺かれている。・輪橋(太鼓橋)本殿へと向 かう参道に、鏡池を渡る輪橋が架けられている。寛文10年の 絵図には既に描かれているが、大正4年(191エムゾネ5)に石 造りに改められた。写真輪橋の写真図輪橋の平面図絵図寛文1 0年の絵図・護摩堂跡(推定)平成20年の発掘調査により http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/303
304: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 13:36:19.83 ID:2LIMvxdg0 護摩堂跡と考えられる溶岩礫で構成された石垣と建物跡が検出 された。石垣は樵石積みで組まれ、平面形は正方形となっエムゾネ ている。また、石垣で正方形に囲繞された敷地内で建物跡の礎 石が確認された。桁行3間・梁間4間で、南側に入口を有して いたと考えられる。発掘調査後に、江戸時代終わり頃の地誌で この建物跡を「本地堂」とする記載が確認されており、最終的 に護エムゾネ摩堂から本地堂へ造作し直された可能性がある。写真 護摩堂の発掘調査時の完掘写真(平面写真)図平面図・随身像 慶長19年(1614)2月に建立された。背銘には、左側の 像は「甲州河内下山住番匠石川清助作」、右−52−側の像は 「大工山城國エムゾネ上原住櫻井三蔵作」と記され、市指定有形文 化財として保護されている。写真随身像全体の写真・狛犬参道 の石鳥居両側に、狛犬が建てられている。大正7年5月に奉献 されたものである。・御神幸道首標の碑明治以前に行われてい た「山宮御神幸」におエムゾネける、御神幸道の首標が、池畔に立 てられている。造立年は元禄年(1691)未年十一月とされ 、「自当社山宮御神幸道五十丁証碑首也」と刻まれている。昭 和59年(1984)に浅間大社境内の土中から発見され、現 在地に再建された。・三之宮本エムゾネ殿横西側に、淺間第三御子 神を祀る境内社「三之宮浅間神社」が建てられている。・七之 宮本殿横東側に、淺間第七御子神を祀る境内社「七之宮浅間神 社」が建てられている。・鉾立石楼門前の石段には、鉾立石が 置かれている。明治の初めまで行われてエムゾネいた山宮御神幸の 際、神の宿った鉾を立てて休めた自然石である。・欄干橋(神 路橋、神路枚橋)池畔と川中島を結ぶ橋が2本架けられている 。島の西側が神路橋、東側が神路枚橋であるが、寛文10年( 1670)の絵図では西側にのみ架けられているエムゾネ。写真橋 全体の写真絵図寛文10年の絵図B2山宮浅間神社図以下に http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/304
305: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 13:42:09.63 ID:2LIMvxdg0 す要素が点在している平面図・溶岩流地形山宮浅間神社の石鳥 居から参道を経て参籠所に至るまでの区域は北山溶岩流上に展 開している。また、遥拝所が位置する小高い丘陵は青沢溶エムゾネ 岩流の先端部である。さらに、涸れ沢の西岸には、天母山(二 子山)溶岩流、万野風穴溶岩流で構成される丘陵地が展開する 。よって、山宮浅間神社周辺には、籠屋付近の北山溶岩流を含 め、4つの異なる溶岩流地形が広がっていることになる。遥拝 所のエムゾネ基盤となっている青沢溶岩流は、約2,000年前の 噴火によって流出した比較的新しい溶岩流であるため、この部 分は他の区域と比べて植生の回復は遅れていたと考えられる。 そのために、樹木等に遮られることなく富士山の山頂まで見渡 せていたためエムゾネ、この場所で山を遥拝する行為が行われたと 考えられる。写真溶岩流地形の写真図溶岩流の拡散している模 式図・社叢目通りの幹周が3mを超える巨木4本を含むスギ林 が、約9,780uの社叢を形成しており、富士宮市の保存樹 林に指定されている。エムゾネ・籠屋(参籠所)遥拝所へ登る手前 の平坦な土地に籠屋が建てられている。籠屋は、神の宿った御 鉾が浅間大社と山宮浅間神社を往復する祭儀「山宮御神幸」に おいて、これに同行した大宮司以下の諸職が一夜参籠した場所 である。−53−・鉾立石籠屋エムゾネをくぐり遥拝所へ続く参道 に、「山宮御神幸」で神の宿った鉾を休めるための「鉾立石」 が置かれている。石は火山弾であり、籠屋をくぐってすぐの位 置に1つ、石段の手前に1つの計2つが置かれている。・石段 (参道)遥拝所が位置する丘陵へ登るたエムゾネめの石段が組まれ ている。現在あるものは戦中もしくは戦後に改築されたものと 考えられる。・石塁遥拝所の周辺約45m四方が石塁により方 形に区切られている。青沢溶岩流の溶岩塊上に溶岩礫を積み上 げて構築され、部分的に遺物を含む土層上に構築エムゾネされて http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/305
306: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 13:49:01.59 ID:2LIMvxdg0 る。石塁下から祭祀に用いられたと思われる土師器が出土して いるため、それらが用いられた12世紀から15世紀、もしく は後の時代に築造されたものと推定される。写真石塁の写真図 石塁の平面図・断面図・玉垣遥拝所の周囲にはコンクリーエムゾネ ト製の玉垣が設置されている。戦中もしくは戦後に設けられた ものと考えられる。また、遥拝所入口には鉄製の門扉が取り付 けられている。・遥拝所富士山を直接拝礼し、祭儀を行うこと を目的として築造されたと推定される施設である。南北約15 .2エムゾネm、東西約7.6mの長方形で、30〜40p程度の 溶岩を用いて石列等によって組まれている。富士山を拝む方向 に祭壇が位置し、祭壇に向かって左側に祭儀を行う際の大宮司 席、公文・案主席、献饌所が、向かって右側に別当・供僧席が 設けられていエムゾネる。写真遥拝所の写真図遥拝所の平面図・石 鳥居境内地の南端に、石鳥居が建てられている。昭和6年(1 931)に建立されたものである。・参道石鳥居から籠屋まで 参道が続いている。B3村山浅間神社図以下に示す要素が点在 している平面図・元村エムゾネ山溶岩流村山浅間神社は、新富士旧 期溶岩の元村山溶岩流末端部付近にあたる。見付の間は平地で 、両見付から先は急傾斜地となっている。村山地区は標高が高 く、他の集落と急傾斜地で隔絶された一段高い場所に位置する 。・水源地(竜頭ヶ池)社叢東エムゾネ側に「竜頭ヶ池」と呼ばれ る湧水池があり、水垢離や生活用水として利用されてきた。ま たこの湧水を水源とする村山沢は南流して渓谷を刻み神社西側 から大沢川となる。これらの水源は、村山の集落を成立させた 要因の一つである。・御神木(イチョウエムゾネ、大スギ)[イチ ョウ]−54−昭和43年(1968)7月2日に県天然記念 物に指定された。目通り8m、根回り9.15m、樹高26m 、枝張り東西19m南北14mで、樹勢よく乳状下垂気根の http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/306
307: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 13:54:52.61 ID:2LIMvxdg0 達も著しい。気根が数多く垂下する。気根の先端エムゾネに針を刺 して祈願すると妊産婦の乳の出がよくなると伝えられ、女性の 信仰を集めていた。また以前はウロの中に大日如来が祀られて いたといわれ、現在でも祭祀でしめ縄を張る。[大スギ]昭和 31年5月24日に県天然記念物に指定された。村山浅間エムゾネ 神社の御神木と称される巨木である。境内の多くのスギの中で 最大のもので目通り9.9m、枝張り東西17.5m、南北 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/307
308: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 14:01:32.76 ID:2LIMvxdg0 1m、樹高47mもある。中心部には高さ8mに及ぶ空洞があ る。案内板では約1,000年の樹齢とされるが、実際にはお よそエムゾネ400〜600年と推定される。・社叢境内には胸高 直径0.7m以上のスギが39本ある。アカガシ3本、スダジ イ1本などの大樹も見られるが、裏山の大半は戦後植樹された ヒノキやスギである。富士宮市の保存樹林に指定されている。 ・浅間神社社エムゾネ殿村山浅間神社社殿は、神仏分離令によって 境内社富士浅間七社を相殿として造られ、中座に木花開耶姫命 、左座に大山祗命、彦火々出見命、瓊々杵命、右座に大日霊貴 (天照大神)・伊弉諾尊・伊弉冉尊を祀っている。現在の社殿 は大正2年(1913エムゾネ)に改築されたものだが、幣殿と拝 殿は老朽化したため、その後さらに鉄筋コンクリート一部木造 に建替えられている。写真社殿の写真図社殿の図面・大日堂( 興法寺)鎌倉時代の文保年間(1317〜1318)に、末代 上人の流れをくむ頼尊が村山にエムゾネ興法寺を開いたと伝えられ ている。その興法寺の建物として現存する唯一の堂で、富士山 の本尊である大日如来を主尊とする。現在の建物は、部材の状 況や絵様彫刻の特徴などから江戸時代末期の建造と考えられる が、外壁は波鉄板板張りに変えられていエムゾネる。桁行5間・梁 間7間、入母屋造、鉄板葺きで、南面に出入り口を開き、前面 と両側面に幅一間の回り縁を巡らしている。写真社殿の写真図 社殿の図面・水垢離場山伏修行者及び修験者が、富士登拝の道 者が垢離をとって身を浄めた場所で、間口約6.エムゾネ5m、奥 行き約4mの長方形で、深さ約0.6mに掘り込み、底に石を 敷きつめ周囲は石積みとなっている。造成年代は不明。水垢離 場へは社叢裏手の沢に湧く龍頭池湧水を引き、上の段から樋で 落とし垢離を取るようにしてある。水の落ち口には山伏修エムゾネ 行のときの主尊とされる不動明王の石像が安置されている。 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/308
309: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 14:07:59.39 ID:2LIMvxdg0 真水垢離場の写真・護摩壇大日堂東側にあり、正面には不動明 王の石像が祀られている。護摩壇は、四囲を石で囲んだ一辺5 .3mの丸い石組となっている。丸い石組の前に置かれた葛石 にはエムゾネ、「干時安政四年九月」と刻まれ、安政4年(185 7)造立と考えられる。周囲の正方形の石組みと中央の丸い石 組みは石材に違いが見られ、造成時期が異なっているものと思 われる。写真護摩壇の写真・氏神社(高嶺総鎮守社)−55− 護摩壇裏手のエムゾネ一段高くなったところに末代上人を祀る大棟 梁権現社があったとされる。しかし、神仏分離令により廃され 、代わりに村山浅間神社社殿と大日堂の間から裏山に登ったと ころに大棟梁権現社を遷し「富士大神社(祭神大己貴命)」と して祀られた。現在はエムゾネ「高根総鎮守」と呼ばれ、元村山集 落の氏神社となっている。「明治十八年五月十七日奉再建冨士 大神社」と記された棟札が残されている。現在の社殿は、平成 15年に再建された。・石鳥居村山浅間神社へと登る石段の途 中に、石鳥居が建てられているエムゾネ。昭和28年(1953) に建立されたものである。・氏神社鳥居氏神社(高嶺総鎮守社 )へと登る参道の入口に、鳥居が建てられている。平成15年 の再建に合わせて建てられたものである。・手水舎(手水鉢) 村山浅間神社へと続く参道入口の左側にエムゾネ、手水舎が設置さ れている。明治16年(1883)に設置されたものである。 ・石段(参道)段の入り口が、村山浅間神社へ続くものと、大 日堂へ続くものの2本が平行して造られている。・狛犬昭和5 年に奉納された狛犬2体が、参道脇に設置されてエムゾネいる。B 4須山浅間神社図以下に示す要素が点在している平面図・社叢 樹齢500年を超えるスギの巨木が22本あり、中には樹高3 7m、目通りの太さが7mを超えるものも見られる。社叢全体 が市指定天然記念物として保護されている。・社殿大禰宜エムゾ http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/309
310: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 14:13:29.03 ID:2LIMvxdg0 ・渡邊対馬守安吉の社伝旧記によれば、天元4年(961)に 駿河国司・平兼盛が社殿を修理したとの記録がある。その後の 記録として社殿の存在が確認できるのは、大永4年(1524 )と記された修築時の棟札による。現在の社殿は、文政6年( 18エムゾネ23)に再建されたとされている。写真社殿の写真図 社殿の図面・神輿殿須山浅間神社の例大祭で使用される神輿を 納めた神輿殿が、境内地西側に建てられている。・狛犬境内に は、社殿前と石段手前の参道脇に計二対の狛犬が設置されてい る。社殿前のエムゾネ一対は平成12年に、参道脇の一対は平成1 3年に奉納されたものである。・灯籠参道の両脇に灯籠が建て られている。登り口のものは平成13年に、階段を登ったとこ ろにあるものは、それぞれ寛保2年(1742)、文政6年に 奉納されたものであるエムゾネ。・手水舎石段に至る参道の脇と、 社務所西側の2箇所に、手水舎が建てられている。社務所そば には、文政7−56−年と刻まれた水盤も置かれている。・参 道鳥居から10mほどは石畳が敷かれ、その後社殿の位置する 高台へ登るためにコンクリートエムゾネ製の階段が続いている。・ 鳥居参道入口には、朱塗りのコンクリート製の鳥居が建てられ ている。昭和41年(1966)に奉納されたものである。・ 石碑鳥居の東側に、郷社として奉幣を受けていたことを示す碑 が建てられている。・古宮神社八坂大神エムゾネ、八幡大神、愛鷹 大神、子安大神、疱瘡守護神を祀る境内社である。覆屋の中に あり、旧本殿と推測される建物である。B5冨士浅間神社図以 下に示す要素が点在している平面図・社叢(浅間の杜)社殿周 囲と、参道の南側に社叢が広がっている。特に参エムゾネ道南側の 部分を浅間の杜と呼び、静岡県や小山町の天然記念物である大 樹が生育している。・ハルニレ昭和38年(1963)2月1 9日に静岡県の天然記念物に指定された。根回り約6m、目 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/310
311: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 14:20:00.37 ID:2LIMvxdg0 り4m、樹高24.50m、枝張東西28.10m、南北エムゾネ 23.50m、樹齢約500年。北日本の山地に多い落葉高木 で、静岡県では極めて少なく当社以外の小山町内では数本しか 見当たらないが、境内には10本が生育している。・エゾヤマ ザクラ昭和58年5月1日に小山町の天然記念物に指定された 。樹エムゾネ齢約130年で、根回り2.08m、目通り1.75 m、樹高約10m、枝張東西13.8m、南北9.5m。別 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/311
312: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 14:26:38.56 ID:2LIMvxdg0 をオオヤマザクラと称するヤマザクラの北方型で、静岡県が南 限である。県内ではまれな樹種である。・根上がりモミ平成3 年5月1日にエムゾネ小山町の天然記念物に指定された。樹齢約3 00年で、根回り4.61m、目通り3.07m、樹高27m 。この根上り群は約150年生のモミの根本にブナ、イヌシデ の種子が生え、宝永噴火の火山灰土が、降雨により流亡しなが らモミが成長したためエムゾネ、根が爪を立てた状態で生育し、根 上がりになったと考えられる。縁結びの木とも呼ばれている。 ・社殿平成18年8月24日に小山町の文化財(建造物)に指 定された。宝永噴火により大きな損害を受けたが、享保3年( 1718)に再建された。そのエムゾネ後蟻害や老朽化により改修 したものの、部材は享保年間(1716〜36)のものが今な お使用されている。社殿は本殿・幣殿・拝殿が連結した権現造 である。拝殿は入母屋造で千鳥破風を据え、本殿は享保年間の 遺構を残した流造りとなっている。−5エムゾネ7−構造は、拝殿 が桁行5間・梁間2間の入母屋造で、向拝1間、正面千鳥破風 付。幣殿が桁行3間・梁間2間の両下造。本殿が三間社流造、 向拝1間、屋根は全て銅板葺きとなっている。写真社殿の写真 図社殿の図面・楼門二階建ての随神門で、上層のエムゾネ周囲に高 欄付きの縁を巡らしている。北の櫛岩窓神、南の豊岩窓神が随 神として配神されている。宝永噴火により社殿とともに大破し ており、現在のものは明和4年(1767)随神が寄贈された 当時に再建されたものと考えられる。楼門の構造は、三間エムゾネ 一戸楼門、茅葺型入母屋造、銅板葺き。軒廻りは二軒繁垂木に 組物は出組で、腰組も二手先としている。・参道大鳥居参道入 口には、花崗岩の石鳥居が建てられている。春日造で、額束に は「不二山」と刻まれている。明治33年(1900)に奉納 されエムゾネた。・裏参道鳥居西側駐車場から本殿へ至る裏参道 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/312
313: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 14:33:13.88 ID:2LIMvxdg0 入口に石鳥居が建てられている。・富士塚狛犬楼門前参道の両 側に、富士塚が築かれ、その上に狛犬が置かれている。・富士 講講碑群明治より昭和にかけて、各地の富士講より寄進された 記念碑が多くエムゾネ残されている。多くは、数多く富士登山が成 就されたことを感謝し、先達や講名を高く掲げ信仰の証とした もので、境内地の西側部分裏参道周辺に、多くの碑塔が建てら れている。写真富士講講碑群の写真図富士講講碑群の配置図B 6河口浅間神社図以下エムゾネに示す要素が点在している平面図河 口浅間神社は、864〜866年に北麓で起こった噴火を契機 に、北麓でも浅間神社が建てられることになったが、その神社 である可能性が高い。現在も富士山と密接に結びついた宗教行 事を行っており、歴史的背景とエムゾネ相俟って、富士山信仰を語 る上で欠かすことのできない資産である。顕著な普遍的価値を 構成する諸要素として、富士信仰の拠点でもある本殿などの建 造物群や境内地などがある。・社殿、鳥居河口浅間神社創建は 、平安時代の865年に遡る可能性があエムゾネる。建立目的は富 士山の噴火を鎮めるためであり、当時の富士山及び噴火という ことに対する当時の考え方を理解することができる。鳥居は1 697年に谷村藩主秋本喬知の再建。銅製の扁額に記された「 三国第一山」の書は輪王寺宮公弁親王の筆とされエムゾネる。写真 社殿の写真図社殿の図面B7冨士御室浅間神社図以下に示す要 素が点在している平面図−58−冨士御室浅間神社は、8世紀 初めに吉田口登山道二合目に祭場をしつらえたのが最初とされ 、富士山中に祀られた最初の神社であるとする文献もあるエムゾネ 。二合目本宮(もとみや)へは冬季の参拝に苦渋するため、9 58年、河口湖畔に現在の里宮が建立されたという。現在は二 合目にあった社殿も里宮の広い境内に敷地内に移設されている 。修行や登拝といった様々な富士信仰の拠点として位置づけ http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/313
314: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 14:38:43.56 ID:2LIMvxdg0 れるエムゾネ二合目の本宮と、土地の産土神としての里宮が一体と なって機能してきた。顕著な普遍的価値を構成する諸要素とし ては、信仰拠点である二合目や本殿などがある。・吉田口二合 目吉田口登山道二合目に御室浅間名字(本宮)が鎮座した。御 室浅間神社はエムゾネ木花開耶姫を祭神とし、創立年代は詳らかで ないが、社殿には和銅元年(708)に祭場をしつらえたのが 最初とされる。冨士山中最初の社という。なお、平安末期には 浅間神の信仰に修験道が習合して、富士山が霊験所の一として 広く知られていた。冨エムゾネ士修験の信仰拠点は南口の村山であ るが、北口の二合目、御室の地にも山内の信仰拠点として行者 堂が設置されていた。・本殿本殿は、1612年に当時の甲斐 国都留郡領主であった鳥居土佐守成次によって桃山時代建築様 式の神社建物に再建されたことエムゾネが棟札から明らかにされて いる。大規模な入母屋造りの一間社で棟の高さは9.3m、屋 根は檜皮葺形の銅板葺である。蟇股や軒唐破風妻などにも彫刻 を飾るなど、桃山建築様式の特色が見られる。内部の色彩も当 初のものを良く残しており、建築年代のエムゾネ確実なこの時期の 遺構としては大変貴重な建造物である。写真本殿の写真図本殿 の図面B8御師住宅図御師住宅の位置図御師住宅は、富士講徒 の案内をし、宿泊の世話や祈祷を行った御師の住宅兼宿坊であ る。御師屋敷の多くは短冊状をなし、表通りに面エムゾネして引き 込み路を設け、敷地を流れる水路の奥に建物がある。顕著な普 遍的価値を構成する諸要素として、最古の部類に入る旧外川家 住宅などがある。・旧外川家主屋、離座敷、中門主屋は妻入り 形式の典型的な御師住宅であり、棟札から1768年に建エムゾネ 設されたものであることが判明している。また、主屋は「平面 座敷型」をとっており、近世になって御師住宅の様式が確立さ れる以前の御師住宅として最古の部類の建築物である。離座 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/314
315: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 14:45:26.89 ID:2LIMvxdg0 は、富士講が盛んになるととともに主屋だけでは収容人数に限 りがエムゾネあるなどの理由から主屋の東側に増設されたとみられ る。ただし、御神殿が上段・下段の続きの手前に配置され、上 吉田の一般的な御師住宅に比して独自の構成を有している。写 真主屋等の写真図旧外川家住宅現状平面図等・小佐野家主屋、 蔵主屋は一部エムゾネ二階、切妻造、妻入の居室及び座敷部の前面 北寄りに台所部を背面南寄りに神殿部を付設した形式になる http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/315
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