[過去ログ] 【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)34【ダメ工作員】 (356レス)
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188: (ワッチョイ bf0c-wbgk) 2018/02/07(水)05:33 ID:9nWTm38Q0(55/223) AAS
川家は、屋号を塩屋ないし大外川、塩廼屋エムゾネ(しおのや)と号し
、富士信仰における上吉田に居住し、下総地域を檀家とした富士山
御師である。1572年の「吉田宿屋敷割帳写」には、外川家の位
置に「仁科六郎ゑもん」の屋敷が記されており、外川家ではこの人
物を中興の初代としている。またエムゾネ、1669年の「検地帳」で
は、塩屋多兵衛の屋敷として確認される。御師としての活動は江戸
末期頃隆盛期を迎えるが、1962年に御師を廃業している。建物
の老朽化に伴い、所有者が取り壊す意向であったが、富士吉田市が
寄贈を受け、2006年エムゾネから2007年にかけ大規模保存修理
事業を行った上で、2008年4月から富士吉田市歴史民俗博物館
省18
189: (ワッチョイ bf0c-wbgk) 2018/02/07(水)05:38 ID:9nWTm38Q0(56/223) AAS
している。写真小佐野家住宅の写真表法的保護、修理・整備の経緯
1976年文化財保護法の下に重要文化財として指定1977年消
防設備設置を行う1979年屋根の葺替えを行う1996年雨樋い
の補修を行う1997年主屋、蔵の修エムゾネ理を行う1998年主屋
、蔵の修理を行い2010年「重要文化財小佐野家住宅保存活用計
画」を策定B9山中湖富士山の火山活動によって形成された堰止湖
で、富士山の北東に位置する。富士山周辺の湖を巡って修行す
190: (ワッチョイ bf0c-wbgk) 2018/02/07(水)05:44 ID:9nWTm38Q0(57/223) AAS
八海巡りが行われたが、このエムゾネ山中湖にも多くの富士講徒が訪れ
た。古くから景勝地として有名で、20世紀前半には湖畔に洋式ホ
テルが建てられたほか、別荘地としても整備された。ゆかりのある
芸術家も多く、山中湖を描いた文学や絵画が散見する。富士山の頂
上付近に日の入りがエムゾネ重なる様子はダイアモンド富士と呼ばれ、
多くの写真家を集める。写真山中湖の写真B10河口湖富士山の火
山活動により形成された堰止湖で、富士山の北に位置する。富士山
周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが行われたが、この河口湖に
も多くの富エムゾネ士講徒が訪れた。古くから景勝地として有名で、2
0世紀前半には湖畔に洋式ホテルが建てられた。ゆかりのある芸術
省18
191: (ワッチョイ bf0c-wbgk) 2018/02/07(水)05:50 ID:9nWTm38Q0(58/223) AAS
景観計画を策定、忍野八海周辺を景観形成重点区域に指定2010
年街なみ環境整備事業により忍野八海周辺環境の整備を行う(〜1
4年)2011年「天然記念物忍野八海保存管理計画」を策定(予
定)B12船津胎内樹型エムゾネ1617年、富士講の祖とされる長谷
川角行が富士登拝の際、現船津胎内樹型の南方に焼入(船津胎内樹
型指定範囲内に点在する小規模な溶岩樹型のひとつと考えられる)
を発見し、浅間明神を祀った。1673年、富士講道者村上光清に
より現船津胎内エムゾネ樹型が発見され、開祖が祀った焼入の地の浅間
明神が遷宮された。浅間明神誕生の地ともいわれ、無戸室(むつむ
ろ)に火を放ち、無事に御子を出産したという故事に倣い社号を無
省18
192: (ワッチョイ bf0c-wbgk) 2018/02/07(水)05:56 ID:9nWTm38Q0(59/223) AAS
念物吉田胎内樹型保存管理計画」を策定B14人穴富士講遺跡富士
山西麓、静岡県側と山梨県側を結ぶ街道沿いに位置する。木花開花
姫命・角行祖霊・徳川家康をエムゾネ主祭神とする浅間神社と富士講の
人々による約230基の碑塔群及び溶岩洞窟である人穴がある。長
さ約83mの人穴は約11,000〜8,000年前に流出した犬
涼山溶岩流中に生成したものである。1300年前後に成立した文
書である吾妻鏡によエムゾネれば人穴は霊的な場所であり、地元では「
浅間大菩薩の御在所」とみられていたことが記述されている。この
内容は遅くとも1603年までに説話化され、多くの人にその存在
が知られていた。富士講関連の文書では1558年、開祖とされる
省18
193: (ワッチョイ bf0c-wbgk) 2018/02/07(水)06:03 ID:9nWTm38Q0(60/223) AAS
で建立年代のわかる89基の内、富士講が隆盛した18世紀末から
19世紀前半(1781から18エムゾネ50年)に建立されたものが
半数(44基)、19世紀末より20世紀前半(1871から19
40年)のものが3分の1(29基)を占める。写真B14の写真
B15白糸ノ滝人穴の北方約5kmにある落差約20〜25m・幅
約120〜210mの数エムゾネ百の流れを持つ滝である。滝は約1万
年前に噴出した白糸溶岩流の末端から湧き出す一日平均13万
194: (ワッチョイ bf0c-wbgk) 2018/02/07(水)06:16 ID:9nWTm38Q0(61/223) AAS
なったと考えられ、三保の名前は内海側の三つの岬を稲穂にたとえ
たという説が有力でエムゾネある。かつては半島一帯に松が繁茂し、8
世紀初頭には松原自体を景勝地として捉えた和歌が詠まれ、「万葉
集」に掲載された。その後遅くとも13世紀初頭までに三保松原は
後鳥羽上皇など中央の権力者に富士山と組み合わされた景勝地とし
て認識されエムゾネ、14〜15世紀には室町幕府将軍足利義満と足利
義教が三保半島と対岸(現静岡市清水区興津)との間を船で渡り富
士山を眺める行事を行い、16世紀には徳川家康が三保半島内海側
に富士見櫓を建設した。文学では「万葉集」以降も和歌等の詩の題
材エムゾネとなると共に、地元の伝説を基にし、羽衣の松を舞台とした
省18
195: (ワッチョイ bf0c-wbgk) 2018/02/07(水)06:21 ID:9nWTm38Q0(62/223) AAS
)写真歌川広重の浮世絵エムゾネ−37−写真三保松原の写真表法的保
護、修理・整備の経緯1922年史蹟名勝天然紀念物保存法の下に
名勝に指定1976年名勝「三保松原」管理計画書を策定1977
年名勝地内の一部が指定解除1989年名勝「三保松原」保存管理
計画書を改定1エムゾネ990年名勝地内の一部が追加指定及び指定解
除2011年名勝「三保松原」保存管理計画書を改定第3章保存管
理の基本方針1顕著な普遍的価値及び周辺環境を構成する諸要素世
界文化遺産「富士山」の顕著な普遍的価値は以下に示すとおりであ
る。「エムゾネ富士山」の顕著な普遍的価値富士山は、日本を代表し象
徴する日本最高峰(標高3776m)の秀麗な独立した火山として
省18
196: (ワッチョイ bf0c-wbgk) 2018/02/07(水)06:27 ID:9nWTm38Q0(63/223) AAS
)・割石・雷岩・このしろが池・荒巻・吉田須走拝所跡・須山拝所
跡・村山大宮拝所跡・三島ヶ岳経塚・外浜道・内浜道A2大宮・村
山口登山道・札打場・中宮八幡堂跡(1号建物跡)・八大龍王・5
号建物跡・8号建物エムゾネ跡・12号建物跡・鳥居A3須山口登山道
・須山御胎内(溶岩洞穴)・石像・石燈篭・鳥居・標柱・祠A4須
走口登山道・古御岳神社・迎久須志之神社・鳥居・狛犬・石碑A5
吉田口登山道・現登山道・旧登山道・馬返・五合目・烏帽子岩
197: (ワッチョイ bf0c-wbgk) 2018/02/07(水)06:33 ID:9nWTm38Q0(64/223) AAS
北口本宮冨エムゾネ士浅間神社−38−−39−・本殿・東宮本殿・西
宮本殿・大塚山・御鞍石A7西湖・湖水A8精進湖・湖水A9本栖
湖・湖水・中ノ倉峠からの展望B1富士山本宮浅間大社・神立山・
湧玉池(上池、下池)・社叢・社殿(本殿・拝殿・幣殿)・透塀・
楼エムゾネ門・手水舎・廻廊・灯籠・石鳥居・東鳥居・西鳥居・桜の馬
場・禊所・神幸橋(湧玉橋)・輪橋(太鼓橋)・護摩堂跡(推定)
・随身像・狛犬・御神幸道首標の碑・三之宮・七之宮・鉾立石・欄
干橋(神路橋、神路枚橋)B2山宮浅間神社・溶岩流地形・エムゾネ社
叢・籠屋(参籠所)・鉾立石・石段(参道)・石塁・玉垣・遥拝所
・石鳥居・参道B3村山浅間神社・元村山溶岩流・水源地「竜頭ヶ
省18
198(1): (ワッチョイ bf0c-wbgk) 2018/02/07(水)06:39 ID:9nWTm38Q0(65/223) AAS
植物・富士講・白糸の滝の勝景・音止の勝景・富士山の展望・富士
の巻狩の伝承・歌碑・標識C三保松原・特別規制A地区・特別規制
B地区・第1種規制地区・第2種規制地区・第3種規制地区?自然
地形(エムゾネ山林、河川など)・宝永山(宝永火口)・溶岩洞穴、樹
型等富士山体・側火山からの噴出物による地形・富士山原始林及び
青木ヶ原樹海・国指定天然記念物(鳴沢溶岩樹型、鳴沢氷穴、本栖
風穴等)?森林、植栽樹木(山林を構成する森林、寺社・遺跡等エムソ
゙ネの植栽樹木など)・自然林、森林施業地、人工林・社叢林、境内
林・富士山特定地理等保護林・富士箱根伊豆国立公園富士山管理計
画区?保存管理又は公開活用を目的とした建造物(展示館、管理棟
省18
199: (ワッチョイ bf0c-wbgk) 2018/02/07(水)06:45 ID:9nWTm38Q0(66/223) AAS
は、現在も石碑が一部残存している。ルートはほぼ森林限界に沿っ
て、富士山体を一周する。15〜16世紀ごろ富士講の祖とされる
長谷川角行エムゾネによって開かれたとされその後大沢崩れ−41−を
通るため富士講信者により修行の道として利用された。写真標高約
1500m以上の写真A1山頂信仰遺跡図山頂信仰遺跡の分布図・
富士山本宮奥宮富士宮口登山道頂上に位置し、7、8月の開山期に
のエムゾネみ開かれる。祭神は木花之佐久夜毘売命である。『本朝世紀
』には、久安5年(1149)「富士上人末代は、富士山に数百度
登り、山頂に仏閣を構え、大日寺と称し、写経を埋納下した」とあ
る。江戸時代には、村山三坊所有の大日堂があったが、明治エムゾネ7
省18
200: (ワッチョイ bf0c-wbgk) 2018/02/07(水)06:50 ID:9nWTm38Q0(67/223) AAS
らたかな湧き水として珍重された。『富士の歴史』によれば、「如
何なる旱にも水エムゾネの涸れることはない」と記している。写真銀明
水の写真[銀明水の石碑群](a)石碑?(高さ112×幅62?
)銘文には「明治三拾九年」と「大正五年」の2つの年代が確認で
きる。富士講の人々が建碑したものと考えられる。(b)石碑?(
高さ1エムゾネ62×下幅76×上幅63?)表面に龍が、裏面には文
字が刻まれている。(c)石碑?(未計測)「大正十三年八月
201: (ワッチョイ bf0c-wbgk) 2018/02/07(水)06:56 ID:9nWTm38Q0(68/223) AAS
刻してある。写真銀明水の石碑群の写真−42−・八葉(剣ヶ峰、
白山岳、久須志岳、成就岳、伊豆岳、朝日岳、浅間岳、駒ヶ岳、エムソ
゙ネ三島岳)山頂部の直径約800mの火口を囲む峰々の総称で、そ
れぞれの峰に仏が住むとされた。文永年中(1264〜1275)
の作である『万葉集註釈』には「いたゞきに八葉の嶺あり」とある
ことから、鎌倉時代中期には山頂の峰々を蓮の「八葉」エムゾネに見立
てていたと考えられる。江戸時代後期の地誌である『駿河国新風土
記』には「ソノ名一定ノ説ナク、又峰ノ数八ツアルニアラズ。コマ
カニカゾヘバ、十二バカリナリト言フ。」とあり、八葉を構成する
峰も、またその名称も一定でないことがわかるエムゾネ。峰の名称は、
省18
202: (ワッチョイ bf0c-wbgk) 2018/02/07(水)07:03 ID:9nWTm38Q0(69/223) AAS
文字が確認できる。写真久須志岳の石造物の写真[成就岳(標高約
3エムゾネ,734m)]かつては大日岳とも呼ばれ、大小2つの鳥居
が、噴火口の方角を向いて建てられている。[伊豆岳(標高約3,
748m)]かつては勢至ヶ嶽、観音嶽とも呼ばれた。『浅間神社
の歴史』には、「中腹より地中に熱気を感じ、下りて荒巻のエムゾネ険
を越え、成就岳にいたるまで、至る所に蒸気を噴出する」とある。
頂上には鳥居は見られない。[朝日岳(標高約3,733m)]伊
豆岳と同様、かつては地中から蒸気を発していたとされる。頂上に
鳥居は存在しない。石積みがあるが時期は不明であエムゾネる。他の峰
々と比べ、文献の言及が乏しい。[浅間岳(標高約3,722m)
省18
203: (ワッチョイ bf0c-wbgk) 2018/02/07(水)07:09 ID:9nWTm38Q0(70/223) AAS
剣ヶ峰エムゾネに通じる坂道で、火山礫と砂の急斜面である。お鉢巡り
の道中で最大の難所である。現在はブルドーザーが通れるよう整地
されている。火口に向けて傾斜しており、その険しさから道者たち
の多くは剣ヶ峰に登らなかったといわれる。・東安河原須山口拝エムソ
゙ネ所東側にあり、山頂部では稀な広い平坦部である。かつては現世
と来世の境である「賽の河原」になぞらえて、道者たちが溶岩礫を
積み上げ石塔を作った。また「初穂打場」とも呼ばれ、火口に向け
て賽銭が投げ込まれた場所とされる。・西安河原東安河エムゾネ原と対
をなす、剣ヶ峰から北側に下りた付近の平坦部である。火口の外壁
を行く外浜道と内壁を行く内浜道との分岐点に位置する。・虎岩(
省18
204: (ワッチョイ bf0c-wbgk) 2018/02/07(水)07:14 ID:9nWTm38Q0(71/223) AAS
む場所であった。また、御来光を拝む場所でもあった。現在は、付
近に鳥居がなく痕跡も残っていないため、場所を特定することはで
きない。写真吉田須走拝所跡の写真・須山拝所跡銀明水の裏手の火
口エムゾネを臨む位置にあったとされる。大正2年(1913)の登山
スタンプが押された写真では、銀明水裏手の火口の縁に立っている
鳥居が確認できる。現在その地点には、2つの目印の石が存在して
いる。写真須山拝所跡の写真・村山大宮拝所跡『隔掻録』はエムゾ
205: (ワッチョイ bf0c-wbgk) 2018/02/07(水)07:20 ID:9nWTm38Q0(72/223) AAS
大日堂の裏手に建つ鳥居を「大宮拝所」としている。『富士山明細
図』は、このしろが池の裏手の鳥居を影拝所としている。このしろ
が池から剣ヶ峰の登山道に沿って3体の大日如来があり、それぞれ
延徳2年(1490)、天文12年(1543)、エムゾネ寛永元年(
1624)の銘があったとされる。昭和初期の絵葉書にも、剣ヶ峰
の手前の火口を臨む位置に鳥居が建っている。写真村山・大宮拝所
跡の写真・三島ヶ岳経塚昭和4年(1929)、頂上の神官が銅仏
の破片と一石経を採集して下山、それを受エムゾネけて昭和5年に三島
岳のふもとを調査したところ、経巻が詰まった経筒や木槨、土器片
などの遺物が出土した。富士山本宮浅間大社には、現在10巻分の
省18
206: (ワッチョイ bf0c-wbgk) 2018/02/07(水)07:26 ID:9nWTm38Q0(73/223) AAS
mである。東側を走る沢から一段上がった平坦面に所在している。
平坦面は2段あり、上−45−段には小さな祠が建てられている。
また下段には、南東から北西方向に石列が伸びている。エムゾネ江戸時
代には馬返しと呼ばれ、駒立小屋があったとされる。また、ここか
らは女人は登山道を登ることを許されず、駒立小屋は女人堂として
使われた時期もあったと考えられる。下段平坦面の南側には溝が東
西方向に延び、西側の森林に突き当たって痕跡エムゾネをたどれなくな
る。木馬道である可能性が指摘される。写真中宮八幡堂の写真・八
大龍王中宮八幡堂跡より北東に約100mの地点に「八大龍王」と
刻まれた石碑と水神の祠が並んで建てられている。水神祠には「文
省18
207: (ワッチョイ bf0c-wbgk) 2018/02/07(水)07:32 ID:9nWTm38Q0(74/223) AAS
5号建物跡に該当する施設の記載がなくなっている。・8号建物跡
7号建物跡から北西に約220m(標高約2,170m)のエムゾネ位
置にある。中宮八幡堂跡より標高の高い位置に所在する建物跡の中
で最も大規模なものである。2つの平場により構成され、南西部の
平場は東西約25m、南北約10mである。入口に石段が残存して
おり、石段の東西には石垣が組まれている。また平エムゾネ場中央部よ
りやや西に護摩壇と思われる石組も残存している。もう一つの北東
部の平場は北西から南東に傾斜する斜面上に、長軸約15m、短軸
約6mの三角形で、北西側斜面の縁と南側斜面の縁に石組が確認で
きる。昭和時代の地図には「一ノ木戸」とエムゾネして載っており、「
省18
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