[過去ログ]
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)34【ダメ工作員】 (356レス)
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)34【ダメ工作員】 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516780764/
上
下
前
次
1-
新
通常表示
512バイト分割
レス栞
このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています。
次スレ検索
歴削→次スレ
栞削→次スレ
過去ログメニュー
207: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-wbgk) [sage] 2018/02/07(水) 07:32:04 ID:9nWTm38Q0 5号建物跡に該当する施設の記載がなくなっている。・8号建物跡 7号建物跡から北西に約220m(標高約2,170m)のエムゾネ位 置にある。中宮八幡堂跡より標高の高い位置に所在する建物跡の中 で最も大規模なものである。2つの平場により構成され、南西部の 平場は東西約25m、南北約10mである。入口に石段が残存して おり、石段の東西には石垣が組まれている。また平エムゾネ場中央部よ りやや西に護摩壇と思われる石組も残存している。もう一つの北東 部の平場は北西から南東に傾斜する斜面上に、長軸約15m、短軸 約6mの三角形で、北西側斜面の縁と南側斜面の縁に石組が確認で きる。昭和時代の地図には「一ノ木戸」とエムゾネして載っており、「 富士山表口南面路次社堂室有来之次第絵図」に描かれた「室大日堂 ・木戸堂・茶屋堂」にあたると考えられる。室大日堂は大日如来と 役行者像が祀られていたとの記述が『駿河国新風土記』にあり、ま た末代上人が建てた往生寺があっエムゾネたところだともいわれている 。写真8号建物跡の写真・12号建物跡村山口登山道跡に残る遺構 のうちで、一番標高の高い位置(約2,390m)にある。11号 建物跡から北に50mの地点に所在する。東西約8m、南北約5m の方形の区画が石組によエムゾネって作られている。東側には直径約9 0?の丸い穴が二つある。(同様の穴は他の建物跡でも見られ、) 便所跡と考えられる。−46−・鳥居登山道跡の8合目上に、自然 木により構築された鳥居が設置されている。「昭和五十二年七月吉 日」と刻まれてエムゾネおり、個人が設置したものである。A3須山口 登山道図登山道に要素が点在している平面図・須山御胎内(溶岩洞 穴)旧須山口登山道1合目(標高1,440m付近)にある全長1 0m余の溶岩洞穴である。洞穴の直径は約1mで南東側と北西側に 入口がエムゾネあり、内部を通り抜けることができる。登山者は、この 洞穴を通って登山するのがならわしであった。かつて洞穴の延長は 数10mあったが、関東大震災により天井部分が崩落し、現在 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516780764/207
208: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-wbgk) [sage] 2018/02/07(水) 07:38:21 ID:9nWTm38Q0 さになった。崩落した部分は、長さ約30mのU字型の溝状の溶エムソ ゙ネ岩地形として須山御胎内の南東側に残っている。この付近の溶岩 は須山胎内溶岩と呼ばれている。年代測定では1030〜1230 年という結果が出ており、永保3年(1083)の噴火時に噴出し た可能性がある。平成21年に実施した測量調査では、エムゾネ須山胎 内溶岩は須山口登山道脇の標高1,485m付近から認められてお り、須山口登山道がこの溶岩流に沿って形成されていることが http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516780764/208
209: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-wbgk) [sage] 2018/02/07(水) 07:44:04 ID:9nWTm38Q0 した。写真須山御胎内の写真・石像須山御胎内の洞穴内部に、「木 花咲耶姫」の石像が安置されている。地元在住エムゾネの彫刻家、杉山 拓氏の作品。須山口登山道復興後の平成12年に作られたものであ る。・石燈篭須山御胎内の南東側入口の両脇に、石燈篭が設置され ている。・鳥居須山御胎内の南東側入口前に高さ3m前後の木製の 鳥居が建てられている。・標柱鳥居脇エムゾネに、「旧須山口登山道一 合目(須山御胎内)」と記された標柱が、富士山須山口登山道保存 会によって設置されている。・祠須山御胎内から南東に続くU字状 の溶岩地形脇に、石造りの祠が設置されている。写真祠の写真A4 須走口登山道図登山道に要素エムゾネが点在している平面図・古御岳神 社冨士浅間神社の境外末社で、5合目の登山道登り口にある。現在 の社殿は、昭和54年(1979)に建立され、間口九尺、奥行九 尺の規模である。その際、御室浅間神社を合祀した。神社の前には 鳥居がある。かつてエムゾネは3000坪の境内地を持ち、本殿、拝殿 、庁舎を備えていたという。写真古御岳神社の写真・迎久須志之神 社冨士浅間神社の境外末社で、9合目(3,570m付近)に建て られている。かつては向薬師、向ヒ薬師、手引薬師と呼ばれ、石室 の中に薬師エムゾネ如来が祀られ冨士浅間神社の神主が管理していた。 元禄16年(1703)−47−の文書「大宮司富士信安等返答下 書」に「前薬師之小屋」の記述があることから、江戸時代初期以降 にはすでに祀られていたものと考えられる。道者はここで薬師に線 香エムゾネを手向けたという。廃仏毀釈によって仏像は山を降ろされ迎 久須志神社と改められた。祭神は大己貴命と少彦名命である。以前 は登山道が建物の西側を通るルートであったが、現在は建物の東側 を通るようになっている。迎久須志神社の直下には、「日ノエムゾネ見 御前」「日ノ御子」と呼ばれる日の出を遥拝する場所があり、江戸 時代には「日ノ御子石」という富士山型の石が置かれていた。富士 講の講中が大きな平石の上で朝日を拝したという。現在「日ノ http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516780764/209
210: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-wbgk) [sage] 2018/02/07(水) 07:50:20 ID:9nWTm38Q0 石」はないが、祠と鳥居が建てられている。写真迎エムゾネ久須志之神 社の写真・鳥居登山道の浅間大社東北奥宮(久須志神社)前(登山 道終点)、9合目、本8合目、本7合目、7合目、本5合目、古御 嶽神社前に自然木などにより構築された鳥居が設置されている。・ 狛犬登山道終点の鳥居前に狛犬2体が設置エムゾネされている。この場 所は「鳥居御橋」(とりいおはし)と呼ばれていた。・石碑7合目 付近の登山道脇に富士講関連の石碑がある。以前はもっと標高の高 い場所にあったが、雪崩によって流されて別の場所に転がっていた ものを山小屋関係者で運び、現在エムゾネの場所に設置したという。日 付は「七月吉日」とあるのみで、上部が欠損している。A5吉田口 登山道図登山道に要素が点在している平面図・登山道吉田口登山道 は、北口本宮冨士浅間神社を起点とし、富士山頂を目指す道である 。18世紀後半以降は、エムゾネ最も多くの道者が吉田口登山道を目指 している。しかも、古道としては唯一徒歩で麓から頂上まで登れる 重要な道である。顕著な普遍的価値を構成する要素として、現存す る吉田口登山道や沿道の宗教施設や山小屋等信仰の拠点などがある 。・旧登山道・エムゾネ馬返ここから急坂となり馬が使えなくなること からこの名がついた。この一体は草山から木山への境でもあり、こ こからが御山の聖地ということにもなる。富士山有料道路が開通す る以前の馬返の周辺は、本格的な登り勾配の坂道が始まる直前の平 地であエムゾネり、登拝者たちがいったん休憩を取る場所として賑わっ た。登山期間には4軒の茶屋が営業され、登拝者の便に供された。 写真馬返周辺の写真・五合目ここは木山と焼山の境界でもあるこの 地は天地境(てんちのさかい)とも言われる場所である。役場、エムソ ゙ネ中宮の社、小屋等がおかれていた。ここの役場は、古くは中宮三 社の神供料として役銭を納めた場所である。後年は登山切手改め所 となった。小屋については、江戸後期には4軒があったが、すでに 武田信玄の1566年の文書に「中宮之室」という名称エムゾネが http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516780764/210
211: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-wbgk) [sage] 2018/02/07(水) 07:55:32 ID:9nWTm38Q0 、戦国時代からこの地に小屋が設けられ−48−ていたことがわか る。最盛期には18軒が所在したと伝えられている。写真五合目周 辺の写真・烏帽子岩七合五勺に烏帽子の形をした岩があり、これを 烏帽子岩という。ここにて富士講中興の祖と称エムゾネされる食行身禄 が、1733年に31日間の断食修行を経て入定した。「甲斐国志 」にも「享保十八六月十三日富士行者身禄ガ入定ノ地ナリ小屋アリ 身禄ノ木像ヲ安置ス流レヲ汲者年々此に登拝ス」とあり、江戸後期 にはすでに身禄の聖地として信者が登エムゾネ拝していたことがわかる 。現在も富士講の聖地として重要な地である。写真烏帽子岩の写真 A6北口本宮冨士浅間神社図以下に示す要素が点在している平面図 北口本宮冨士浅間神社は、富士講とのつながりが強く1730年代 に富士講の指導者である村上エムゾネ光清の寄進によって境内の建造物 群の修復工事が行われ、現在にみる境内の景観の礎が形成された。 社殿の背後には登山門があり、この神社を起点として富士山頂まで 吉田口登山道が延びている。富士講や吉田御師と密接な関係を持ち ながら発展した神社エムゾネである。顕著な普遍的価値を構成する諸要 素として、富士信仰の拠点でもある本殿などの建造物群や境内地、 吉田口登山道の起点などがある。・本殿本殿は、1615年、都留 郡の領主鳥居土佐守成次によって建立された。桁行一間・梁間二間 の規模で、エムゾネ入母屋造の建物を身舎としてその前面に唐破風造の 向拝一間をつけた形式をとり、独自な本殿形式が採用されている。 各部に漆塗り、極彩色をほどこし、彫刻・金具を配して豪華絢爛な 装飾を展開し、桃山式建築の装飾的技法の多様性を示すとともに、 すエムゾネぐれた意匠をみせる顕著な建物である。写真本殿の写真図本 殿の図・東宮本殿東宮本殿は、1223年北条義時の創建とも伝え られるが、現社殿は1561年武田信玄が浅間本社として造営した ものである。本殿は身舎梁間一間、桁行一間で正面に一間のエムゾネ向 拝をつける一間社流造の形式である。東宮本殿は、本社本殿は http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516780764/211
212: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-wbgk) [sage] 2018/02/07(水) 08:00:43 ID:9nWTm38Q0 より西宮本殿に比較してやや小規模であるが、構造形式や蟇股に挿 入した彫刻などに室町時代の手法を示しており、三殿中最も古い建 物である。写真東宮本殿の写真図東宮本殿の図・西エムゾネ宮本殿西宮 本殿は、1594年谷村城主浅野左右衛門佐氏重により東宮に替わ る本殿として建立されたが、1615年、鳥居成次の本殿建立によ り現在地に移され西宮となった。本殿の形式は東宮と同じ一間社流 造であるが、両側面と背面は二間で一間のエムゾネ向拝をつける。 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516780764/212
213: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-wbgk) [sage] 2018/02/07(水) 08:07:08 ID:9nWTm38Q0 本殿は、桃山時代の装飾的要素を多分に取り入れていて、やがて豪 華な本社本殿建築へと発展する過程を、両者並べて鑑賞できる貴重 な建物である。−49−写真西宮本殿の写真図西宮本殿の図・大塚 山社誌では、日本武尊が富士山をエムゾネ遙拝した地であり、ここを浅 間明神の創建にかかわる場所と位置づけている。さらに、788年 には新たに浅間明神を建て、この大塚山には、大塚社として日本武 尊を分祀したと伝えられる。現在この地は、流山状の小高い丘をな しており、日本武尊を祀エムゾネる祠が建てられている。写真大塚山の 写真図大塚山の図・御鞍石吉田火祭(鎮火祭)の際の御輿行在所。 吉田火祭の本日にこの御鞍石上に御輿が安置され、神事が行われる 。ここで読まれる祝詞の一節から、この地が諏訪明神旧鎮座地とさ れる。写真御鞍エムゾネ石の写真図御鞍石の図A7西湖図以下に示す要 素が点在している平面図富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡 りが多くの富士講徒によって行われたが、いつの時代も変わらず巡 拝の対象として数えられている。また、景勝の地でもあり、多くの 芸術作エムゾネ品とゆかりが深い。顕著な普遍的価値を構成する諸要素 として、自然地形(湖水)などがある。写真西湖の写真A8精進湖 図以下に示す要素が点在している平面図富士山周辺の湖を巡って修 行する内八海巡りが多くの富士講徒によって行われたが、いつのエムソ ゙ネ時代も変わらず巡拝の対象として数えられている。また、景勝の 地でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。顕著な普遍的価値を 構成する諸要素として、自然地形(湖水)などがある。写真精進湖 の写真A9本栖湖図以下に示す要素が点在している平面エムゾネ図富士 山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが多くの富士講徒によって 行われたが、いつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられてい る。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。顕 著な普遍的価値を構成する諸要素として、自然エムゾネ地形(湖水)や 中ノ倉峠からの展望などがある。写真本栖湖の写真?信仰に関 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516780764/213
214: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-wbgk) [sage] 2018/02/07(水) 08:12:28 ID:9nWTm38Q0 周辺のものB1富士山本宮浅間大社図以下に示す要素が点在してい る平面図・神立山本殿の北側にある丘陵地一帯は神立山と称される 。神立山及び富士山本宮浅間大社の基エムゾネ盤を構成する地形は、新 富士火山旧期溶岩流に分類される富士宮溶岩流と、溶岩流直上に広 がる扇状地堆積物の層で−50−構成され、溶岩流の末端部にあた る。そのため指定地内の一部では溶岩礫が露出し、縄状溶岩も散見 される。また、当該地区は風エムゾネ致地区・保安林にも指定され、渋 沢堀沿いの散策路以外は立ち入りが禁止されている。寛文10年( 1670)の浅間大社境内絵図では神立山に信仰関連の様々な建築 物が描かれ、発掘調査で石畳や護摩堂跡が確認されている。写真神 立山の写真・湧玉池エムゾネ(上池、下池)本殿東側の「湧玉池」は、 国指定特別天然記念物となっている。湧玉池は、富士山に降った雨 や雪が地下水となり、被圧によって富士宮溶岩流の溶岩層間を流れ 、溶岩流末端で湧出して池になったものである。禊所付近を境に上 池と下池にエムゾネ分かれ、以前は上池のみを湧玉池、下池から下流を 御手洗川と呼んだ。登山者や道者が湧玉池の水で心身を清めた後山 中へ向かうという、富士山信仰と関連の深い池であった。現在も富 士山山開きの7月1日には、湧玉池で禊神事が行われる。写真湧玉 池エムゾネの写真図詳細平面図・社叢神立山表層部は約3万8千?にわ たってスダジイ、ケヤキ等の樹木が生育しており、富士宮市保存樹 林に指定されている。また、野鳥の生息に適した環境でもあり、「 野鳥の森」碑が建てられている。・社殿(本殿・拝殿・幣殿エムゾネ・ 透塀・楼門)浅間大社は、社伝によれば大同元年(806)に造営 されたという。かつての駿河国の一宮で、現在は全国1300余の 浅間神社の総本社として崇められている。現在の社殿は、慶長9〜 11年(1604〜06)に徳川家康が造営したもエムゾネのである。 写真社殿全体の写真図社殿平面図[本殿]本殿は国指定重要文化財 である。「浅間造」と称する棟高45尺の二重の楼閣造構造で http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516780764/214
215: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-wbgk) [sage] 2018/02/07(水) 08:18:13 ID:9nWTm38Q0 例を見ない。1階下層は桁行5間・梁間4間の寄棟造、2階上層は 桁行3間・梁間2間の三間社流造で共に桧エムゾネ皮葺である。明治4 0年(1907)5月27日古社寺保存法により特別保護建造物に 指定され、以後、国指定重要文化財として保護されている。写真本 殿全体の写真(幣殿・拝殿含む)図本殿平面図(幣殿・拝殿含む) [幣殿]本殿と拝殿をつなぐ部分エムゾネで、桁行3間・梁間3間の両 下造、屋根は檜皮葺、寛文年間の古絵図には幣殿は描かれていない が、現在幣殿として使われている部分に「作合三間四間ひはだぶき 」と書き込まれており、本殿の全景がよく見えるように描かれたと 推測される。県指定文化エムゾネ財として保護されている。[拝殿]桁 行5間・梁間3間で、床は幣殿より2段高くなっている。正面が入 母屋造、背面が切妻造で、屋根は檜皮葺、正面に1間の向拝が付い ている。三方に縁を巡らせ、背面は幣殿に接続している。県指定文 化財として保護エムゾネされている。[透塀]本殿周囲を囲む1棟と、 その外側、本殿横に並ぶ三之宮及び七之宮を含めたより広い範囲を 囲む1棟−51−の計2棟で、総延長は36間に及ぶ。県指定文化 財として保護されている。[楼門]三間一戸、重層入母屋造で、屋 根は檜エムゾネ皮葺、正面・左右脇に扉がついている。楼門の左右には 随身像が安置してある。静岡県指定文化財として保護されている。 写真楼門全体の写真図楼門平面図・廻廊楼門から東西に伸びる回廊 は、昭和9年(1934)に付加されたものである。・手水舎楼エムソ ゙ネ門の南西側に、参拝者が参拝前に身を清めるために手や口をすす ぐ、手水舎がある。・灯籠大小それぞれの灯籠が境内各所に設置さ れている。・石鳥居本殿へ続く参道に石造りの鳥居が建てられてい る。昭和33年3月に寄進されたものである。・東鳥居エムゾネ・西鳥 居桜の馬場の東端と西端にそれぞれ朱塗りの鳥居が建てられている 。・桜の馬場浅間大社流鏑馬式が執り行われる馬場が約200mに 渡って東西に伸びている。源頼朝が富士の裾野で巻狩を行った http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516780764/215
216: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-wbgk) [sage] 2018/02/07(水) 08:23:28 ID:9nWTm38Q0 流鏑馬を奉納したことに始まると言われ、室町エムゾネ時代の初期には すでに神事が行われていたとの記録が残っている。馬場に沿って両 側に御神木の桜が植えられている。・禊所湧玉池の上池と下池の境 部分が禊所とされ、池に下りるための石段が組まれている。・神幸 橋(湧玉橋)湧玉池南側の神田川へのエムゾネ流出口に石造りの橋が架 けられている。春秋の大祭にはこの橋を通って山宮御神幸が出発し たとされる。寛文10年(1671)の絵図では橋に屋根が葺 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516780764/216
217: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-wbgk) [sage] 2018/02/07(水) 08:29:02 ID:9nWTm38Q0 ている。・輪橋(太鼓橋)本殿へと向かう参道に、鏡池を渡る輪橋 が架けられている。寛文10エムゾネ年の絵図には既に描かれているが 、大正4年(1915)に石造りに改められた。写真輪橋の写真図 輪橋の平面図絵図寛文10年の絵図・護摩堂跡(推定)平成20年 の発掘調査により、護摩堂跡と考えられる溶岩礫で構成された石垣 と建物跡が検出されエムゾネた。石垣は樵石積みで組まれ、平面形は正 方形となっている。また、石垣で正方形に囲繞された敷地内で建物 跡の礎石が確認された。桁行3間・梁間4間で、南側に入口を有し ていたと考えられる。発掘調査後に、江戸時代終わり頃の地誌でこ の建物跡をエムゾネ「本地堂」とする記載が確認されており、最終的に 護摩堂から本地堂へ造作し直された可能性がある。写真護摩堂の発 掘調査時の完掘写真(平面写真)図平面図・随身像慶長19年(1 614)2月に建立された。背銘には、左側の像は「甲州河内下山 住エムゾネ番匠石川清助作」、右−52−側の像は「大工山城國上原住 櫻井三蔵作」と記され、市指定有形文化財として保護されている。 写真随身像全体の写真・狛犬参道の石鳥居両側に、狛犬が建てられ ている。大正7年5月に奉献されたものである。・御神幸道エムゾネ首 標の碑明治以前に行われていた「山宮御神幸」における、御神幸道 の首標が、池畔に立てられている。造立年は元禄年(1691)未 年十一月とされ、「自当社山宮御神幸道五十丁証碑首也」と刻まれ ている。昭和59年(1984)に浅間大社境内のエムゾネ土中から発 見され、現在地に再建された。・三之宮本殿横西側に、淺間第三御 子神を祀る境内社「三之宮浅間神社」が建てられている。・七之宮 本殿横東側に、淺間第七御子神を祀る境内社「七之宮浅間神社」が 建てられている。・鉾立石楼門前の石段にエムゾネは、鉾立石が置かれ ている。明治の初めまで行われていた山宮御神幸の際、神の宿った 鉾を立てて休めた自然石である。・欄干橋(神路橋、神路枚橋)池 畔と川中島を結ぶ橋が2本架けられている。島の西側が神路橋 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516780764/217
218: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-wbgk) [sage] 2018/02/07(水) 08:35:01 ID:9nWTm38Q0 側が神路枚橋であるが、寛文10エムゾネ年(1670)の絵図では西 側にのみ架けられている。写真橋全体の写真絵図寛文10年の絵図 B2山宮浅間神社図以下に示す要素が点在している平面図・溶岩流 地形山宮浅間神社の石鳥居から参道を経て参籠所に至るまでの区域 は北山溶岩流上に展開しエムゾネている。また、遥拝所が位置する小高 い丘陵は青沢溶岩流の先端部である。さらに、涸れ沢の西岸には、 天母山(二子山)溶岩流、万野風穴溶岩流で構成される丘陵地が展 開する。よって、山宮浅間神社周辺には、籠屋付近の北山溶岩流を 含め、4つの異エムゾネなる溶岩流地形が広がっていることになる。遥 拝所の基盤となっている青沢溶岩流は、約2,000年前の噴火に よって流出した比較的新しい溶岩流であるため、この部分は他の区 域と比べて植生の回復は遅れていたと考えられる。そのために、樹 木等にエムゾネ遮られることなく富士山の山頂まで見渡せていたため、 この場所で山を遥拝する行為が行われたと考えられる。写真溶岩流 地形の写真図溶岩流の拡散している模式図・社叢目通りの幹周が3 mを超える巨木4本を含むスギ林が、約9,780?の社叢を形エムソ ゙ネ成しており、富士宮市の保存樹林に指定されている。・籠屋(参 籠所)遥拝所へ登る手前の平坦な土地に籠屋が建てられている。籠 屋は、神の宿った御鉾が浅間大社と山宮浅間神社を往復する祭儀「 山宮御神幸」において、これに同行した大宮司以下の諸エムゾネ職が一 夜参籠した場所である。−53−・鉾立石籠屋をくぐり遥拝所へ続 く参道に、「山宮御神幸」で神の宿った鉾を休めるための「鉾立石 」が置かれている。石は火山弾であり、籠屋をくぐってすぐの位置 に1つ、石段の手前に1つの計2つが置かれてエムゾネいる。・石段( 参道)遥拝所が位置する丘陵へ登るための石段が組まれている。現 在あるものは戦中もしくは戦後に改築されたものと考えられる。・ 石塁遥拝所の周辺約45m四方が石塁により方形に区切られている 。青沢溶岩流の溶岩塊上に溶岩礫を積エムゾネみ上げて構築され、 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516780764/218
219: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-wbgk) [sage] 2018/02/07(水) 08:40:14 ID:9nWTm38Q0 的に遺物を含む土層上に構築されている。石塁下から祭祀に用いら れたと思われる土師器が出土しているため、それらが用いられた1 2世紀から15世紀、もしくは後の時代に築造されたものと推定さ れる。写真石塁の写真図石塁エムゾネの平面図・断面図・玉垣遥拝所の 周囲にはコンクリート製の玉垣が設置されている。戦中もしくは戦 後に設けられたものと考えられる。また、遥拝所入口には鉄製の門 扉が取り付けられている。・遥拝所富士山を直接拝礼し、祭儀を行 うことを目的としてエムゾネ築造されたと推定される施設である。南北 約15.2m、東西約7.6mの長方形で、30〜40?程度の溶 岩を用いて石列等によって組まれている。富士山を拝む方向に祭壇 が位置し、祭壇に向かって左側に祭儀を行う際の大宮司席、公文・ 案主席、献エムゾネ饌所が、向かって右側に別当・供僧席が設けられて いる。写真遥拝所の写真図遥拝所の平面図・石鳥居境内地の南端に 、石鳥居が建てられている。昭和6年(1931)に建立されたも のである。・参道石鳥居から籠屋まで参道が続いている。B3村山 浅エムゾネ間神社図以下に示す要素が点在している平面図・元村山溶岩 流村山浅間神社は、新富士旧期溶岩の元村山溶岩流末端部付近にあ たる。見付の間は平地で、両見付から先は急傾斜地となっている。 村山地区は標高が高く、他の集落と急傾斜地で隔絶された一エムゾネ段 高い場所に位置する。・水源地(竜頭ヶ池)社叢東側に「竜頭ヶ池 」と呼ばれる湧水池があり、水垢離や生活用水として利用されてき た。またこの湧水を水源とする村山沢は南流して渓谷を刻み神社西 側から大沢川となる。これらの水源は、村山の集落エムゾネを成立させ た要因の一つである。・御神木(イチョウ、大スギ)[イチョウ] −54−昭和43年(1968)7月2日に県天然記念物に指定さ れた。目通り8m、根回り9.15m、樹高26m、枝張り東西1 9m南北14mで、樹勢よく乳状下垂気根エムゾネの発達も著しい。気 根が数多く垂下する。気根の先端に針を刺して祈願すると妊産 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516780764/219
220: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-wbgk) [sage] 2018/02/07(水) 08:45:52 ID:9nWTm38Q0 乳の出がよくなると伝えられ、女性の信仰を集めていた。また以前 はウロの中に大日如来が祀られていたといわれ、現在でも祭祀でし め縄を張る。[大スギ]昭和31エムゾネ年5月24日に県天然記念物 に指定された。村山浅間神社の御神木と称される巨木である。境内 の多くのスギの中で最大のもので目通り9.9m、枝張り東西17 .5m、南北31m、樹高47mもある。中心部には高さ8mに及 ぶ空洞がある。案内板でエムゾネは約1,000年の樹齢とされる http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516780764/220
221: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-wbgk) [sage] 2018/02/07(水) 08:52:06 ID:9nWTm38Q0 実際にはおよそ400〜600年と推定される。・社叢境内には胸 高直径0.7m以上のスギが39本ある。アカガシ3本、スダジイ 1本などの大樹も見られるが、裏山の大半は戦後植樹されたヒノキ やスギである。エムゾネ富士宮市の保存樹林に指定されている。・浅間 神社社殿村山浅間神社社殿は、神仏分離令によって境内社富士浅間 七社を相殿として造られ、中座に木花開耶姫命、左座に大山祗命、 彦火々出見命、瓊々杵命、右座に大日霊貴(天照大神)・伊弉諾尊 ・伊弉エムゾネ冉尊を祀っている。現在の社殿は大正2年(1913) に改築されたものだが、幣殿と拝殿は老朽化したため、その後さら に鉄筋コンクリート一部木造に建替えられている。写真社殿の写真 図社殿の図面・大日堂(興法寺)鎌倉時代の文保年間(1317エムソ ゙ネ〜1318)に、末代上人の流れをくむ頼尊が村山に興法寺を開 いたと伝えられている。その興法寺の建物として現存する唯一の堂 で、富士山の本尊である大日如来を主尊とする。現在の建物は、部 材の状況や絵様彫刻の特徴などから江戸時代末期の建造エムゾネと考え られるが、外壁は波鉄板板張りに変えられている。桁行5間・梁間 7間、入母屋造、鉄板葺きで、南面に出入り口を開き、前面と両側 面に幅一間の回り縁を巡らしている。写真社殿の写真図社殿の図面 ・水垢離場山伏修行者及び修験者が、富士登拝エムゾネの道者が垢離を とって身を浄めた場所で、間口約6.5m、奥行き約4mの長方形 で、深さ約0.6mに掘り込み、底に石を敷きつめ周囲は石積みと なっている。造成年代は不明。水垢離場へは社叢裏手の沢に湧く龍 頭池湧水を引き、上の段から樋で落とエムゾネし垢離を取るようにして ある。水の落ち口には山伏修行のときの主尊とされる不動明王の石 像が安置されている。写真水垢離場の写真・護摩壇大日堂東側にあ り、正面には不動明王の石像が祀られている。護摩壇は、四囲を石 で囲んだ一辺5.3mの丸いエムゾネ石組となっている。丸い石組の前 に置かれた葛石には、「干時安政四年九月」と刻まれ、安政4 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516780764/221
222: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-wbgk) [sage] 2018/02/07(水) 08:57:38 ID:9nWTm38Q0 1857)造立と考えられる。周囲の正方形の石組みと中央の丸い 石組みは石材に違いが見られ、造成時期が異なっているものと思わ れる。写真護摩壇のエムゾネ写真・氏神社(高嶺総鎮守社)−55−護 摩壇裏手の一段高くなったところに末代上人を祀る大棟梁権現社が あったとされる。しかし、神仏分離令により廃され、代わりに村山 浅間神社社殿と大日堂の間から裏山に登ったところに大棟梁権現社 を遷し「富エムゾネ士大神社(祭神大己貴命)」として祀られた。現在 は「高根総鎮守」と呼ばれ、元村山集落の氏神社となっている。「 明治十八年五月十七日奉再建冨士大神社」と記された棟札が残され ている。現在の社殿は、平成15年に再建された。・石鳥居村山浅 間エムゾネ神社へと登る石段の途中に、石鳥居が建てられている。昭和 28年(1953)に建立されたものである。・氏神社鳥居氏神社 (高嶺総鎮守社)へと登る参道の入口に、鳥居が建てられている。 平成15年の再建に合わせて建てられたものである。・手水エムゾネ舎 (手水鉢)村山浅間神社へと続く参道入口の左側に、手水舎が設置 されている。明治16年(1883)に設置されたものである。・ 石段(参道)段の入り口が、村山浅間神社へ続くものと、大日堂へ 続くものの2本が平行して造られている。・狛犬昭エムゾネ和5年に奉 納された狛犬2体が、参道脇に設置されている。B4須山浅間神社 図以下に示す要素が点在している平面図・社叢樹齢500年を超え るスギの巨木が22本あり、中には樹高37m、目通りの太さが7 mを超えるものも見られる。社叢全体が市エムゾネ指定天然記念物とし て保護されている。・社殿大禰宜・渡邊対馬守安吉の社伝旧記によ れば、天元4年(961)に駿河国司・平兼盛が社殿を修理したと の記録がある。その後の記録として社殿の存在が確認できるのは、 大永4年(1524)と記されたエムゾネ修築時の棟札による。現在の 社殿は、文政6年(1823)に再建されたとされている。写真社 殿の写真図社殿の図面・神輿殿須山浅間神社の例大祭で使用さ http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516780764/222
223: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-wbgk) [sage] 2018/02/07(水) 09:03:01 ID:9nWTm38Q0 神輿を納めた神輿殿が、境内地西側に建てられている。・狛犬境内 には、社殿前と石段手前エムゾネの参道脇に計二対の狛犬が設置されて いる。社殿前の一対は平成12年に、参道脇の一対は平成13年に 奉納されたものである。・灯籠参道の両脇に灯籠が建てられている 。登り口のものは平成13年に、階段を登ったところにあるものは 、それぞれ寛保エムゾネ2年(1742)、文政6年に奉納されたもの である。・手水舎石段に至る参道の脇と、社務所西側の2箇所に、 手水舎が建てられている。社務所そばには、文政7−56−年と刻 まれた水盤も置かれている。・参道鳥居から10mほどは石畳が敷 かれ、エムゾネその後社殿の位置する高台へ登るためにコンクリート製 の階段が続いている。・鳥居参道入口には、朱塗りのコンクリート 製の鳥居が建てられている。昭和41年(1966)に奉納された ものである。・石碑鳥居の東側に、郷社として奉幣を受けていたエムソ ゙ネことを示す碑が建てられている。・古宮神社八坂大神、八幡大神 、愛鷹大神、子安大神、疱瘡守護神を祀る境内社である。覆屋の中 にあり、旧本殿と推測される建物である。B5冨士浅間神社図以下 に示す要素が点在している平面図・社叢(浅間の杜)社エムゾネ殿周囲 と、参道の南側に社叢が広がっている。特に参道南側の部分を浅間 の杜と呼び、静岡県や小山町の天然記念物である大樹が生育してい る。・ハルニレ昭和38年(1963)2月19日に静岡県の天然 記念物に指定された。根回り約6m、目通り4エムゾネm、樹高24. 50m、枝張東西28.10m、南北23.50m、樹齢約500 年。北日本の山地に多い落葉高木で、静岡県では極めて少なく当社 以外の小山町内では数本しか見当たらないが、境内には10本が生 育している。・エゾヤマザクラ昭和5エムゾネ8年5月1日に小山町の 天然記念物に指定された。樹齢約130年で、根回り2.08m、 目通り1.75m、樹高約10m、枝張東西13.8m、南北9. 5m。別名をオオヤマザクラと称するヤマザクラの北方型で、 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516780764/223
224: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-wbgk) [sage] 2018/02/07(水) 09:08:38 ID:9nWTm38Q0 県が南限である。県内ではまエムゾネれな樹種である。・根上がりモミ 平成3年5月1日に小山町の天然記念物に指定された。樹齢約30 0年で、根回り4.61m、目通り3.07m、樹高27m。この 根上り群は約150年生のモミの根本にブナ、イヌシデの種子が生 え、宝永噴火の火山エムゾネ灰土が、降雨により流亡しながらモミが成 長したため、根が爪を立てた状態で生育し、根上がりになったと考 えられる。縁結びの木とも呼ばれている。・社殿平成18年8 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516780764/224
225: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-wbgk) [sage] 2018/02/07(水) 09:13:55 ID:9nWTm38Q0 4日に小山町の文化財(建造物)に指定された。宝永噴火により大 きな損害をエムゾネ受けたが、享保3年(1718)に再建された。そ の後蟻害や老朽化により改修したものの、部材は享保年間(171 6〜36)のものが今なお使用されている。社殿は本殿・幣殿・拝 殿が連結した権現造である。拝殿は入母屋造で千鳥破風を据え、本 殿エムゾネは享保年間の遺構を残した流造りとなっている。−57−構 造は、拝殿が桁行5間・梁間2間の入母屋造で、向拝1間、正面千 鳥破風付。幣殿が桁行3間・梁間2間の両下造。本殿が三間社流造 、向拝1間、屋根は全て銅板葺きとなっている。写真社殿のエムゾネ写 真図社殿の図面・楼門二階建ての随神門で、上層の周囲に高欄付き の縁を巡らしている。北の櫛岩窓神、南の豊岩窓神が随神として配 神されている。宝永噴火により社殿とともに大破しており、現在の ものは明和4年(1767)随神が寄贈された当時エムゾネに再建され たものと考えられる。楼門の構造は、三間一戸楼門、茅葺型入母屋 造、銅板葺き。軒廻りは二軒繁垂木に組物は出組で、腰組も二手先 としている。・参道大鳥居参道入口には、花崗岩の石鳥居が建てら れている。春日造で、額束には「不二山」エムゾネと刻まれている。明 治33年(1900)に奉納された。・裏参道鳥居西側駐車場から 本殿へ至る裏参道の入口に石鳥居が建てられている。・富士塚狛犬 楼門前参道の両側に、富士塚が築かれ、その上に狛犬が置かれてい る。・富士講講碑群明治より昭和エムゾネにかけて、各地の富士講より 寄進された記念碑が多く残されている。多くは、数多く富士登山が 成就されたことを感謝し、先達や講名を高く掲げ信仰の証としたも ので、境内地の西側部分裏参道周辺に、多くの碑塔が建てられてい る。写真富士講講碑群のエムゾネ写真図富士講講碑群の配置図B6河口 浅間神社図以下に示す要素が点在している平面図河口浅間神社は、 864〜866年に北麓で起こった噴火を契機に、北麓でも浅間神 社が建てられることになったが、その神社である可能性が高い http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516780764/225
226: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-wbgk) [sage] 2018/02/07(水) 09:19:27 ID:9nWTm38Q0 在も富士山と密エムゾネ接に結びついた宗教行事を行っており、歴史的 背景と相俟って、富士山信仰を語る上で欠かすことのできない資産 である。顕著な普遍的価値を構成する諸要素として、富士信仰の拠 点でもある本殿などの建造物群や境内地などがある。・社殿、鳥居 河口浅エムゾネ間神社創建は、平安時代の865年に遡る可能性がある 。建立目的は富士山の噴火を鎮めるためであり、当時の富士山及び 噴火ということに対する当時の考え方を理解することができる。鳥 居は1697年に谷村藩主秋本喬知の再建。銅製の扁額に記されエムソ ゙ネた「三国第一山」の書は輪王寺宮公弁親王の筆とされる。写真社 殿の写真図社殿の図面B7冨士御室浅間神社図以下に示す要素が点 在している平面図−58−冨士御室浅間神社は、8世紀初めに吉田 口登山道二合目に祭場をしつらえたのが最初とされ、富エムゾネ士山中 に祀られた最初の神社であるとする文献もある。二合目本宮(もと みや)へは冬季の参拝に苦渋するため、958年、河口湖畔に現在 の里宮が建立されたという。現在は二合目にあった社殿も里宮の広 い境内に敷地内に移設されている。修行や登拝エムゾネといった様々な 富士信仰の拠点として位置づけられる二合目の本宮と、土地の産土 神としての里宮が一体となって機能してきた。顕著な普遍的価値を 構成する諸要素としては、信仰拠点である二合目や本殿などがある 。・吉田口二合目吉田口登山道二合目エムゾネに御室浅間名字(本宮) が鎮座した。御室浅間神社は木花開耶姫を祭神とし、創立年代は詳 らかでないが、社殿には和銅元年(708)に祭場をしつらえたの が最初とされる。冨士山中最初の社という。なお、平安末期には浅 間神の信仰に修験道が習合しエムゾネて、富士山が霊験所の一として広 く知られていた。冨士修験の信仰拠点は南口の村山であるが、北口 の二合目、御室の地にも山内の信仰拠点として行者堂が設置されて いた。・本殿本殿は、1612年に当時の甲斐国都留郡領主であっ た鳥居土佐守成次にエムゾネよって桃山時代建築様式の神社建物に http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516780764/226
上
下
前
次
1-
新
書
関
写
板
覧
索
設
栞
歴
あと 130 レスあります
スレ情報
赤レス抽出
画像レス抽出
歴の未読スレ
AAサムネイル
Google検索
Wikipedia
ぬこの手
ぬこTOP
0.009s