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【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)46【ダメ工作員】 (367レス)
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120: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-9lb2) [sage] 2018/01/27(土) 09:44:41.01 ID:/kmEsvOR0 、木花開花姫命を主祭神とする神社である。神エムゾネ社と一体化した 範囲には、現在別の宗教法人となった大日堂・水垢離場・護摩壇な どが存在している。これらは1868年の神仏分離令までは一体の ものであり、富士山興法寺(村山興法寺)と呼ばれていた。なお、 周辺には興法寺の維持・運営にあたっエムゾネていた道者坊の村山三坊 (池西坊・大鏡坊・辻之坊の三箇所)の跡が発掘調査によって確認 されている。その起源は、1149年の記録に見える修行僧末代上 人による富士山頂への大日寺の建立にあるとされる。末代上人が富 士山中又は村山の地に興法寺エムゾネを建立したとの記録も残されてい る。これらの記録等から、12世紀中ごろに村山周辺において修験 道または密教系の宗教活動が行われていたと推測できる。1259 年には、現存する大日如来が寄進されたことを仏像の銘で確認でき る。末代以後、そのエムゾネ流れを汲み富士山で修行する人々が現れ、 村山が富士山修験道(富士行)の拠点となったと考えられる。14 世紀初めには僧の頼尊が修験者とその活動を組織化し、興法寺を再 興したとされる。15世紀に入ると興法寺とそれを支える宿坊の存 在が現存すエムゾネる大日如来の銘(1478)で確認できる。148 2年には修験道本山派の本寺である聖護院と関係を持ち、その権威 を高めた。16世紀中には十数軒あった道者坊が村山三坊に統合さ れ、その活動を資料で確認できる。坊に所属する山伏は夏に「富士 峯エムゾネ修行」を山中及び山頂で行った。また、富士山への一般の登 拝者も増加し、夜間に白装束をまとい、仏がいるとされた山頂を目 指す多くの人々の様子が「絹本著色富士曼荼羅図」に描かれている 。村山の山伏は、富士峰修行の際に東麓、南麓の村を年一回エムゾネ巡 回し加持祈祷等を行った。また18世紀、富士講の隆盛に対抗し西 日本の一般登拝者中の有力者に対して「先達」の免許を発行し組織 化を図ると−30−ともに、登拝が困難な人々に対しては川辺で垢 離を取り、祈ることで登拝と同等の利益があるとすエムゾ http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516975152/120
121: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-XqOq) [sage] 2018/01/27(土) 09:50:47.91 ID:/kmEsvOR0 とが確認できる。遅くとも17世紀までに、冨士浅間神社及び 須走村が登山道山頂部までを支配し、薬師嶽(現久須志岳)に おける石室建設の独占、薬師堂の開帳・入仏などを行った。ま た、エムゾネ内院および薬師堂の散銭取得権も浅間大社に次ぐ権利 を有していた。冨士浅間神社及び須走村は、1703年と17 72年の2回幕府に訴え、これらの権利について八合目以上の 支配権を主張する浅間大社と争い、正式に権利を http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516975152/121
122: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-9lb2) [sage] 2018/01/27(土) 09:51:30.28 ID:/kmEsvOR0 離」の手法を広めている。加えて富士山を航海の目印とする伊豆半 島の漁業者に対しては航海安全と大漁の祈願を行った。興法寺の勢 力は地元支配者である今川氏の支援を受けていた16世紀前半が最 も強かったが、それ以降衰退しつつも聖護エムゾネ院の力を背景に一定 の権威をもち、登山道及びその頂上部の大日堂周辺を支配した。社 殿については、1697年徳川幕府により修復され、現在の大日堂 は建築様式や部材の状況から19世紀半ばに建立されたと推定され る。また、浅間神社は1913年エムゾネ改築されたものを基本として いる。1868年、神仏分離令により浅間神社と興法寺(大日堂) は分離され、山伏は還俗し、1906年の登山道の変化にも伴い両 者とも衰微した。ただし、富士峰修行と加持祈祷は1940年代ま で継続された。現在は1エムゾネ970年代より活発になった地域住民 による伝統復活のための活動が見られ、水垢離等の行事が行われて いる。また、村山浅間神社の影響を受けた地域のうち、滋賀県甲賀 市、三重県南伊勢町等では現在でも富士垢離の行事が継続されてい る。写真村山浅エムゾネ間神社の写真B−4須山浅間神社富士山の南東 麓、須山口登山道の入り口に位置し、木花開花姫命を主祭神とする 神社である。その起源は1598年作の社伝旧記によると110年 、日本武尊が蝦夷征伐の際、この地を訪れ浅間神社を創起し、さら に55エムゾネ2年有力豪族の蘇我稲目が再興したとある。記録上神社 の存在が確認できるのは1524年で修築時の棟札による。また、 市天然記念物である境内の杉は、樹齢500年以上と推定されてお り、遅くともこの時期までに須山浅間神社が現在の地に存在したエムソ ゙ネと推測できる。現在の社殿は1823年の再建である。1707 年の宝永噴火により登山道も含め大きな被害を受けたが、1780 年に登山道が再興され、1800年の御縁年には約5,400人の 登拝者があった。須山浅間神社は12軒の御師とともにエムゾネ当時の 須山村の中心的存在であり、村全体で須山口登山道と http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516975152/122
123: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-XqOq) [sage] 2018/01/27(土) 09:57:23.06 ID:/kmEsvOR0 −25−登山エムゾネ道の施設は1683年の資料等で詳細が確認 でき、大日堂、御室浅間神社、古御岳神社等の宗教施設と共に 、小屋・石室が山頂部まで設置されている。1707年の宝永 噴火では、これらの施設及び麓の浅間神社、須走村は約3mの 降砂に覆われ壊滅したエムゾネが、江戸幕府の支援を受け、翌年の 登拝期までには復興を完了し、多くの登拝者を集めた。18世 紀半ばには800名前後に減少したとの資料があるが、18世 紀後半、相模の大山石尊や関本の道了尊とセットにされた参詣 の流行で登拝者数は増加し、年エムゾネ平均約1万人、1800年 の御縁年に23,700人とピークを迎えた。登拝者は関東地 方の富士講関係者が多く、東北地方からの登拝者も見られる。 講によっては吉田口から登山し、砂道で下山に適した須走口へ 下山する形をとった。また、1831年エムゾネ、須走口山頂部に 宝経塔が作られたことにより、日蓮宗の信徒による登拝も増加 した。1889年の東海道線開通による御殿場口、および19 03年の中央線開通による吉田口の利便性の向上で、距離が長 い須走口は敬遠されるが、御殿場口の下山道としエムゾネて利用さ れ続けた。1909年より登山道の周囲に石垣を築き、191 6年には、八合目まで馬による登山が可能になった。八合目以 上は浅間大社境内地という理由で馬の利用は行われなかった。 また、1923年に皇太子(昭和天皇)の登山に利用されエムゾネ ている。1959年、バス道路(現ふじあざみライン)の完成 により、五合目以下の登山道の利用は減少し、一部登山道とし ての確認ができない区間がある。写真須走口登山道の写真A5 吉田口登山道北口本宮冨士浅間神社を起点とし、富士山頂を目 指すエムゾネ道である。15世紀には、富士山への登拝が、修験者 だけでなく、ごく一般の人々の間にも広まっていた。吉田口は 14世紀後半には参詣の道者のための宿坊もでき http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516975152/123
124: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-9lb2) [sage] 2018/01/27(土) 09:58:01.51 ID:/kmEsvOR0 を管理した。また、京都吉田家より神道裁許状を得たり、朝廷・公 家に銀明水を献上したりする等して権威を高めているが、山頂部で 発生した問題については、浅間大社の判断を仰エムゾネいでいる。須山 浅間神社は村山三坊とも関わりを持ち、1940年頃まで境内で富 士峯修行の一環としての祈祷が行われていた。1883年、御殿場 口登山道が開設され、1899年の東海道本線開通による御殿場口 利便性の向上は須山口からの登拝者やエムゾネ登山者を奪い、加えて1 912年登山道の一部が陸軍演習場となり使用不可能となったため 、須山口は衰退した。しかし、その後都市化の影響を余り受けなか ったため、須山浅間神社周辺は日本的伝統に基づく村落景観を保っ ている部分が多い。写真須山エムゾネ浅間神社の写真B5冨士浅間神社 富士山東麓、須走口登山道の起点に位置し、木花開花姫命を主祭神 とする神社である。境内西側には鎌倉往還が通り、神社周辺は古来 、交通の要衝であった。社伝では802年、噴火の鎮火祈願のため に祭事を行い、翌年エムゾネ噴火が収まったことから、807年に祭事 の跡地であるとされる現在の地にお礼のために社殿を造営したとさ れる。その他の文書で確実に存在が確認できるのは、1571年の ものである。16世紀には地元支配者である武田氏の保護を受け、 山頂部の散エムゾネ銭取得権の一部を得ている。17世紀以降、須走浅 間神社は当時の須走村の御師などと共に須走口登山道を支配し、山 頂部薬師嶽(現−31−久須志岳)の薬師堂開帳の権利及び山頂部 の散銭取得権の一部を得ていた。これら山頂部の権利については八 合エムゾネ目以上の支配権を主張する富士山本宮浅間大社と争いになり 、須走村は1703年と1772年の2回、幕府に裁定を求めてい る。この結果、これらの権利は幕府によって認められた。また、冨 士浅間神社神主や御師は須山の場合と同じく、京都吉田家よエムゾネり 神道裁許状を得て権威を高めている。社殿は、記録の残っている範 囲では1662年、地元領主である沼津城主大久保氏 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516975152/124
125: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-XqOq) [sage] 2018/01/27(土) 10:04:19.30 ID:/kmEsvOR0 人々が登るための設備が整うようになった。16世紀から17 世紀、長谷川エムゾネ角行が吉田口を利用して修行を行い、18世 紀前半には富士講隆盛の礎を築いた食行身禄は、入定(宗教的 自殺)にあたって信者の登山本道をこの吉田口と定めた。この ため、富士講の信者が次第に増加した18世紀後半以降は、年 間数万人を数える富士エムゾネ講の道者が登拝したとされる。19 64年に富士山有料道路が開通した後は、ほとんどの登山者が 新五合目(小御岳)を起点として登るようになったため、五合 目以下の道を利用する登山者は激減したが、六合目以上につい ては、現在残る登山道の中で最エムゾネも多くの道者(外の登山口 の合計と同程度)が吉田口登山道を上って山頂を目指している 。しかも、古道としては唯一徒歩で麓から頂上まで登れる重要 な道である。写真吉田口登山道の写真表法的保護、修理・整備 の経緯1924年所在地が史蹟名勝天然エムゾネ紀念物保存法の下 に名勝に仮指定1936年所在地が国立公園法の下に(富士箱 根)国立公園に指定1952年所在地が文化財保護法の下に名 勝、ついで特別名勝に指定1978年「特別名勝富士山保存管 理計画」策定(1999年、2006年改訂)1エムゾネ996年 歴史の道整備活用事業により馬返〜1合目区間を発掘調査・整 備1999年「特別名勝富士山保存管理計画」を改訂2006 年「特別名勝富士山保存管理計画」を改訂2011年文化財保 護法の下に他の文化財とともに登山道の一部を史跡富士山エムゾネ として指定−26−2011年「史跡富士山保存管理計画」を 策定(予定)A6北口本宮冨士浅間神社富士山北麓、吉田口登 山道の起点に位置し、祭神として木花開花姫命、天津彦彦火瓊 瓊杵命、大山祇命を祀る神社である。富士山の遙拝所に祀られ ていエムゾネた浅間明神(富士山の荒ぶる神)を起源とし、148 0年には「富士山」の鳥居が建立され、16世紀 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516975152/125
126: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-9lb2) [sage] 2018/01/27(土) 10:05:00.65 ID:/kmEsvOR0 稲葉氏などの援助によって修造が行われた。しかし1707年の宝 永噴火では3m以上の降砂に埋もれ崩壊したため、エムゾネ1718年 に再建された。この後もこの際の部材を使用し、2009年の修理 も含め何回かの修理がおこなわれている。境内には水路があり、水 垢離に利用された。18世紀末から19世紀初頭にかけて富士講が 隆盛を迎えると須走口にも関東からの登拝エムゾネ者が登山又は下山の 際立ち寄った。その数は1800年の御縁年の際に約 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516975152/126
127: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-XqOq) [sage] 2018/01/27(土) 10:10:16.63 ID:/kmEsvOR0 神社の社殿が整っていたとされる。当神社は領主からの崇敬が 厚く、境内に現存する3つの社殿は、1561年、1594年 、1615年エムゾネにそれぞれ当時の領主が寄進したものである 。富士講とのつながりが強く、1730年には富士講の指導者 である村上光清の寄進によって境内の建造物群の修復工事が行 われ、現在にみる境内の景観の礎が形成された。北口本宮冨士 浅間神社の支配権は外エムゾネ川家、小佐野家などの吉田の御師に 所属しており、神社の管理も御師団の中から選ばれた者に委ね られていた。社殿の背後に登山門があり、この神社を起点とし て富士山頂まで吉田口登山道が伸びている。富士講や吉田御師 と密接な関係を持ちながら発展エムゾネした神社である。写真北口 本宮冨士浅間神社の写真(本殿、西宮本殿、東宮本殿)表法的 保護、修理・整備の経緯1907年古社寺保存法の下に東宮本 殿が特別保護建造物の指定1952年所在地が文化財保護法の 下に名勝、ついで特別名勝に指定195エムゾネ2年東宮本殿・解 体修理工事を行う1953年文化財保護法の下に本殿、西宮本 殿が重要文化財の指定1962年西宮本殿・解体修理工事を行 う(〜64年)1978年「特別名勝富士山保存管理計画」を 策定1973年本殿・部分解体修理工事を行う(エムゾネ〜74年 )1981年東宮本殿・部分修理工事を行う(〜82年)19 97年東宮本殿・部分修理工事を行う2008年本殿・屋根の 葺替え修理工事を行う(〜09年)2010年「重要文化財北 口本宮冨士浅間神社保存活用計画」を策定2011年文化エムゾネ 財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定(予 定)2011年「史跡富士山保存管理計画」を策定(予定)A 7西湖富士山の火山活動により形成された堰止湖で、富士山の 北北西に位置する。富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡 りがエムゾネ行われたが、この西湖にも多くの富士講 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516975152/127
128: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-9lb2) [sage] 2018/01/27(土) 10:10:55.56 ID:/kmEsvOR0 名であった。同時期から20世紀前半まで富士講信者は境内に登山 回数等の記念碑を約80基造営した。また、神社には神社神官や御 師が発行した木版印刷による神影エムゾネや神符の版木が保管されてい る。写真冨士浅間神社の写真B6河口浅間神社古くから富士山に関 わる祭祀は南麓の浅間神社(山宮浅間神社か〜)が執り行っていた が、864年〜866年に北麓で起こった噴火を契機に、北麓にも 浅間神社が建てられるこエムゾネととなった。それが、富士山を望む河 口湖の北岸にあり、溶岩の届かなかった河口浅間神社であるとされ る。浅間神社を中心とした河口の地は、甲府盆地から続く官道の宿 駅という役割に加え、富士登拝が大衆化した中世後半から御師集落 として発展を遂エムゾネげた。しかし、江戸における富士講の大流行と 、それに伴う吉田御師の隆盛により、河口の御師集落としての機能 は、19世紀以降衰退してしまった。ただし、河口浅間神社は、現 在も富士山と密接に結びついた宗教行事を行っており、歴史的背景 と相俟エムゾネって、富士山信仰を語る上で欠かすことができない資産 である。写真河口浅間神社の写真表法的保護、修理・整備の経緯2 011年文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として 指定(予定)2011年「史跡富士山保存管理計画」を策定(予エムソ ゙ネ定)B7冨士御室浅間神社冨士御室浅間神社は吉田口二合目に鎮 座した本宮(もとみや)と、河口湖畔に建立された里宮から構成さ れている。8世紀初めに吉田口登山道二合目に祭場をしつらえたの が最初とされ、富士山中に祀られた最初の神社であるとエムゾネする文 献もある。富士修験の信仰拠点は南西の村山であるが、北面の二合 目、御室浅間神社が鎮座する御室の地にも山内の信仰拠点として役 行者堂が整備されたようである。また、社記によると958年、二 合目は冬季における参詣が難儀であることからエムゾネ河口湖畔の現在 地に里宮が建立されたという。江戸時代以降富士講の隆盛にともな い、吉田口登山道の信仰拠点の一つとしてこの二合目 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516975152/128
129: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-XqOq) [sage] 2018/01/27(土) 10:16:58.48 ID:/kmEsvOR0 西湖と精進湖はかつて「〜の海(せのうみ)」と呼ばれる一つ の湖だったが、日本最古の歌集・万葉集で〜の海が詠われたほ か、いくつかの文学作品ともゆかりがある。写真西湖の写真A 8精進湖富士エムゾネ山の火山活動により形成された堰止湖で、富 士山の北西に位置する。富士山周辺の湖を巡って修−27−行 する内八海巡りが行われたが、この精進湖にも多くの富士講徒 が訪れた。富士山北麓で最初の洋風ホテルはこの http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516975152/129
130: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-9lb2) [sage] 2018/01/27(土) 10:17:38.73 ID:/kmEsvOR0 に増すことになる。しかし、昭和に入ると富士信仰のありかたの変 化や、富士スバルラインの開通等もあエムゾネって吉田口登山道は衰退 する。それに伴い二合目を通過する登拝者も激減する。また、富士 御室浅間神社本宮を支えてきた氏子にとっても、その維持管理が困 難となって、1973年から74年にかけて、−32−本殿を里宮 地内に移転することとなる。エムゾネ修験や登拝といった様々な富士信 仰の拠点として位置づけられる二合目の本宮と、土地の産土神とし ての里宮が一体となって機能してきた神社である。写真冨士御室浅 間神社の写真表法的保護、修理・整備の経緯1973年本宮本殿・ 二合目から里宮境内エムゾネ地に移築、整備された(〜74年)198 5年本宮本殿・文化財保護法の下に重要文化財として指定1983 年回廊修理工事を行う1995年外部の漆塗の塗り直しほか一部補 修を行う2010年「重要文化財冨士御室浅間神社本殿保存活用計 画」を策定エムゾネ2011年文化財保護法の下に他の文化財とともに 史跡富士山として指定(予定)2011年「史跡富士山保存管理計 画」を策定(予定)B8御師住宅御師は、道者に宿や食事を始め登 拝のための一切の世話をするとともに、登拝の指導や祈祷を行うこ とエムゾネを業とした。富士山御師として代表的なのは、吉田口登山道 の起点である北口本宮冨士浅間神社の北西に、北東方向の傾斜面に 沿って大規模な集落を形成した吉田の御師である。御師屋敷の多く は短冊状をなし、表通りに面して引き込み路を設け、敷地をエムゾネ流 れる水路の奥に住宅兼宿坊の建物が建っている。玄関から奥へ客室 が続き、最奥部には神殿が設けられている。最古の部類に入る旧外 川家住宅や、格式的な構えが確立した頃に建てられ富士講最盛期の 典型例とされる小佐野家住宅が代表的である。旧外エムゾネ川家住宅は 、富士北麓の信仰登山口集落である富士吉田市上吉田・下宿の東側 南端に位置する。1572年の町割によって成立した東西方向の奥 行きが150mほどの長大な短冊形の屋敷地に建てら http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516975152/130
131: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-XqOq) [sage] 2018/01/27(土) 10:23:16.31 ID:/kmEsvOR0 てられ、多くの西洋人エムゾネが訪れた。20世紀初頭には、絵葉 書に使われた富士山の写真はこの精進湖からのものがほとんど だった。写真精進湖の写真A9本栖湖富士山の火山活動により 形成された堰止湖で、富士山の北西に位置する。富士山周辺の 湖を巡って修行する内八海巡りエムゾネが行われたが、この精進湖 にも多くの富士講徒が訪れた。本栖湖は、日本の紙幣の図柄と して何度も使用された写真の撮影地点であり、重要な展望地点 (viewpoint)である。富士山は、プロ・アマを問わ ず多くの写真家に愛され、撮影されてきエムゾネた。なかでも、生 涯にわたり富士山を追い続けた岡田紅陽によって、1935年 に本栖湖北西岸の峠道から撮影された「湖畔の春」という写真 は有名である。この写真は、1984年に採用された5千円札 及び2004年に採用された千円札の図柄としてエムゾネ使用され た。山体の裾野が湖まで広がり一体の景観を構成している本栖 湖からの展望は、「湖畔の春」に撮影された富士山とほぼ同じ 姿のまま現在も残している。写真本栖湖の写真表法的保護、修 理・整備の経緯(A7・A8・A9)1936年所在地がエムゾネ 国立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指定1988年「山 梨県富士五湖の静穏の保全に関する条例」を制定2006年自 然公園法の下に本栖湖の湖面全域での動力船の使用が規制され る2011年文化財保護法の下に名勝に指定(予定)2011 年「エムゾネ名勝富士五湖保存管理計画」を策定(予定)(2)信 仰B1富士山本宮浅間大社富士山の南西麓に位置する神社であ り、この神社とともに発展してきた富士宮市の中央部に所在す る。富士山の神とされる木花之佐久夜毘売命を主祭神とし、現 在全国に約1エムゾネ300社ある浅間神社の総本宮とされている 。境内には登拝の際に水垢離場として使用された湧玉池がある 。浅間大社は7世紀ごろ、富士山により近い遥拝 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516975152/131
132: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-9lb2) [sage] 2018/01/27(土) 10:23:58.58 ID:/kmEsvOR0 川家は、屋号を塩屋ないし大外川、塩廼屋エムゾネ(しおのや)と号し 、富士信仰における上吉田に居住し、下総地域を檀家とした富士山 御師である。1572年の「吉田宿屋敷割帳写」には、外川家の位 置に「仁科六郎ゑもん」の屋敷が記されており、外川家ではこの人 物を中興の初代としている。またエムゾネ、1669年の「検地帳」で は、塩屋多兵衛の屋敷として確認される。御師としての活動は江戸 末期頃隆盛期を迎えるが、1962年に御師を廃業している。建物 の老朽化に伴い、所有者が取り壊す意向であったが、富士吉田市が 寄贈を受け、2006年エムゾネから2007年にかけ大規模保存修理 事業を行った上で、2008年4月から富士吉田市歴史民俗博物館 の附属施設として一般公開されている。写真旧外川家住宅の写真表 法的保護、修理・整備の経緯2006年大規模保全修理を行う20 08年富士吉田エムゾネ市歴史民俗博物館の附属施設として一般公開を 行う2010年「山梨県指定有形文化財旧外川家住宅保存活用計画 」を策定2011年文化財保護法の下に重要文化財として指定小佐 野家住宅は、富士講によって大きく発展した御師集落である富士吉 田市上エムゾネ吉田地区にあって、富−33−士山に登拝する人々を宿 泊させた宿坊として、代表的な御師住宅である。上吉田地区は、富 士の雪代の被害を避けるため、1572年に旧地である古吉田地区 から集落ごと移転し、北口本宮冨士浅間神社の北西隅から北東方エムソ ゙ネ向の傾斜面に沿って短冊状に町割が行われたと伝えられている。 小佐野家住宅は、南北の間口が16m、東西方向の奥行きが150 mほどの長大な屋敷地に建てられている。小佐野家は、元亀の集落 移転に合わせて現在地に移転してきたと伝えられる。代エムゾネ々御師 を勤め、屋号を堀端屋と号し、江戸時代には当主は小佐野壱岐ある いは小佐野大隈と名乗っていた。当家に宿泊する参詣者は年間1, 000人に達したとされる。現在、屋敷地の東側には所有者が住む 住居が建築されており、小佐野家住宅には所有エムゾネ者 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516975152/132
133: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-XqOq) [sage] 2018/01/27(土) 10:29:34.33 ID:/kmEsvOR0 宮浅間神社から現在の地に移転されたとされる。創建当時は富 士山の噴火が盛んであエムゾネり、これを畏れ鎮めることを信仰の 目的としていた。朝廷も浅間大神に他の山よりも高い神階を与 えることで崇敬の念を示した。12世紀後半ごろには、浅間大 神は本地垂迹説の影響を受け大日如来の垂迹である「浅間大菩 薩」と見なされるようになり、エムゾネ12世紀頃より政治の実権 を掌握した武士階級に戦勝の神として信仰された。15世紀ご ろ、登拝が盛んになるにつれて、浅間大社は村山浅間神社とと もに大宮・村山口登山道の起点となり、宿坊が周辺に建設され た。16世紀ごろ、浅間大社は湧玉池でエムゾネの水垢離を重要な 儀式と位置づけることによって、浅間大社を経由した登拝を喧 伝した。同時期の絵図である絹本著色富士曼荼羅図には、浅間 大社・湧玉池及び村山浅間神社を経由して登山する人々の姿が 描かれている。登拝の拡大に伴い、富士山中でのエムゾネ諸権利が 構築されていく中で、浅間大社は徳川家康の庇護の下、160 4年現在の社殿が造営されるとともに、1609年山頂部の散 銭取得における優先権を得た。これを基に浅間大社は山頂部の 管理・支配を行うようになった。ただし、大宮・村山口登エムゾネ 山道と頂上部の大日堂周辺は−28−村山浅間神社が支配し、 廃仏毀釈以降、村山浅間神社の衰退と1906年の村山浅間神 社を経由しない登山道の開削などにより、浅間大社には多くの 参拝者が訪れた。また、明治政府の政策により、一時国有地と されエムゾネていた八合目以上の土地は1974年の最高裁判決に 基づき、2004年浅間大社に譲渡(返還)された。写真本殿 ・拝殿+富士山表法的保護、修理・整備の経緯1907年本殿 が古社寺保存法の下に特別保護建造物に指定1925年本殿・ 拝殿・楼門等エムゾネの補修1929年本殿は国宝保存法制定に伴 い国宝に名称変更1934年楼門の修理1936 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516975152/133
134: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-9lb2) [sage] 2018/01/27(土) 10:30:15.48 ID:/kmEsvOR0 している。写真小佐野家住宅の写真表法的保護、修理・整備の経緯 1976年文化財保護法の下に重要文化財として指定1977年消 防設備設置を行う1979年屋根の葺替えを行う1996年雨樋い の補修を行う1997年主屋、蔵の修エムゾネ理を行う1998年主屋 、蔵の修理を行い2010年「重要文化財小佐野家住宅保存活用計 画」を策定B9山中湖富士山の火山活動によって形成された堰止湖 で、富士山の北東に位置する。富士山周辺の湖を巡っ http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516975152/134
135: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-XqOq) [sage] 2018/01/27(土) 10:36:58.03 ID:/kmEsvOR0 を附した1950年本殿は文化財保護法制定に伴い重要文化財 に名称変更1952年本殿の屋根の修理等が行われた1970 年本殿の屋根の修理等エムゾネが行われた1988年本殿の屋根の 修理等が行われた1996年富士宮市教育委員会が調査を行っ た2002年富士宮市教育委員会が調査を行った2005年本 殿の屋根の修理等が行われた2008年財団法人静岡県埋蔵文 化財調査研究所により境内の発エムゾネ掘調査が行われ、その成果 に基づき2010年に「史跡富士山保存管理計画」を策定20 10年文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山とし て指定湧玉池は富士山本宮浅間神社境内に所在する面積約2, 500uの池である。池は約1万年前にエムゾネ噴出した万野溶岩 流の末端から湧き出す一日平均14万〜(2008年)の水を 源としている。湧水のメカニズムは、富士山の標高1000m 前後ないしそれ以上の高所の降水が地下にしみ込み、何層もあ る溶岩層の間にはさまれて充満し、それが押し出エムゾネされるよ うにして末端から湧出したものである。浅間大社の位置は、富 士山の噴火を湧水によって鎮める考えや、富士山を聖なる水源 の山として崇める考え方から、豊富な湧水量を持つ湧玉池のほ とりに置かれたとされる。この湧水には灌漑用水としてのエムゾネ 役割もあり、浅間大社境内の神田の宮では水徳の神・農業神と しての浅間大神に感謝する祭礼が行われている。池の名前の由 来には、地底から玉が湧き出るように湧水しているためという 説や湧く霊たま(神霊)との説等があり、わく玉の名は10世 紀後エムゾネ半の地元支配者による和歌に見られ、湧玉池の名称は 1670年作成の「社頭古絵図」に見られる。湧玉池は浅間大 社に参拝し、富士山をめざす登拝者が身を清める場として使用 された。その様子は「絹本著色富士曼荼羅図」や「富士浅間曼 荼羅図」、1エムゾネ7世紀初頭の登山記で確認でき http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516975152/135
136: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-9lb2) [sage] 2018/01/27(土) 10:37:40.26 ID:/kmEsvOR0 八海巡りが行われたが、このエムゾネ山中湖にも多くの富士講徒が訪れ た。古くから景勝地として有名で、20世紀前半には湖畔に洋式ホ テルが建てられたほか、別荘地としても整備された。ゆかりのある 芸術家も多く、山中湖を描いた文学や絵画が散見する。富士山の頂 上付近に日の入りがエムゾネ重なる様子はダイアモンド富士と呼ばれ、 多くの写真家を集める。写真山中湖の写真B10河口湖富士山の火 山活動により形成された堰止湖で、富士山の北に位置する。富士山 周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが行われたが、この河口湖に も多くの富エムゾネ士講徒が訪れた。古くから景勝地として有名で、2 0世紀前半には湖畔に洋式ホテルが建てられた。ゆかりのある芸術 家も多く、湖を題材にした文学や絵画は、富士五湖中この河口湖が 最も多い。葛飾北斎や歌川広重といった浮世絵師も、河口湖越しに 見エムゾネえる富士山を描いている。写真河口湖の写真表法的保護、修 理・整備の経緯(B9・B10)1936年所在地が国立公園法の 下に(富士箱根)国立公園に指定1988年「山梨県富士五湖の静 穏の保全に関する条例」を制定2006年自然公園法の下にエムゾネ本 栖湖の湖面全域での動力船の使用が規制される−34−2011年 文化財保護法の下に名勝に指定(予定)2011年「名勝富士五湖 保存管理計画」を策定(予定)B11忍野八海富士山の北東、忍野 村忍草にある、富士山の伏流水による八つの湧水地エムゾネ(出口池、 御釜池、底抜池、銚子池、湧池、濁池、鏡池、菖蒲池)の愛称であ る。それぞれに八大竜王を祀る富士信仰に関わる巡拝地であった。 富士登山を目指す行者たちはこの水で穢れを祓った。長谷川角行が 行った富士八海修行になぞられ「富士御手エムゾネ洗(みてらし)元八 湖」と唱えられた古跡の霊場と伝えられ、1843年に富士講道者 によって再興されたとされる。写真忍野八海の写真(どれか1つ) 図忍野八海周辺図表法的保護、修理・整備の経緯1934年史蹟名 勝天然紀念物保存法の下に天然紀エムゾネ念物に指定20 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516975152/136
137: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-XqOq) [sage] 2018/01/27(土) 10:42:56.59 ID:/kmEsvOR0 では現在の形状に近い湧玉池が描かれ、水垢離する人々やその ための施設が見られる。登拝者の水垢離は1920〜30年代 まで行われ、現在では山開きの恒例行事に形を変えて継承され ている。また、湧水はエムゾネ聖なる水として現在でも利用する人 が多い。湧玉池および周辺には様々な宗教に係わる施設がある が、特に池の南端にある「神幸橋」は、御神幸道の基点であり 、現在でも1691年に作られた石碑がたもとに http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516975152/137
138: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-9lb2) [sage] 2018/01/27(土) 10:43:34.94 ID:/kmEsvOR0 景観計画を策定、忍野八海周辺を景観形成重点区域に指定2010 年街なみ環境整備事業により忍野八海周辺環境の整備を行う(〜1 4年)2011年「天然記念物忍野八海保存管理計画」を策定(予 定)B12船津胎内樹型エムゾネ1617年、富士講の祖とされる長谷 川角行が富士登拝の際、現船津胎内樹型の南方に焼入(船津胎内樹 型指定範囲内に点在する小規模な溶岩樹型のひとつと考えられる) を発見し、浅間明神を祀った。1673年、富士講道者村上光清に より現船津胎内エムゾネ樹型が発見され、開祖が祀った焼入の地の浅間 明神が遷宮された。浅間明神誕生の地ともいわれ、無戸室(むつむ ろ)に火を放ち、無事に御子を出産したという故事に倣い社号を無 戸室浅間神社と名付けた。富士道者は、富士登拝の際に、樹型を入 って身エムゾネを清める風習があり、洞穴内外の地形空間に宗教的な意 義付けが行われるとともに、奥には富士講にとっての富士山の祭神 である木花開耶姫などが祀られている。写真船津胎内樹型の写真表 法的保護、修理・整備の経緯1929年史跡名勝天然記念物法のエムソ ゙ネ下に天然紀念物として指定2010年「山梨県南都留郡富士河口 湖町町内国指定天然記念物溶岩洞穴等保存管理・整備活用計画書」 を策定B13吉田胎内樹型吉田胎内本穴は、1892年に富士道者 により整備された「御胎内」である。吉田胎内本穴の奥エムゾネには、 石祠があって富士講にとっての富士山の祭神である木花開耶姫が祀 られている。樹型内に入ると横穴の正面には、食行身禄を祀る石祠 があり、その下段には、さらに横穴があり左右に分かれている。右 の穴が天津彦彦火瓊瓊杵命を祀る父の胎内で、エムゾネ左の穴が木花開 耶姫を祀る母の胎内である。富士講講徒は、昼までに御師の家に着 き、夕方まで胎内巡りをし、翌朝富士山に登山した。−35−本穴 については、古くから冨士山北口御師団が管理している。写真吉田 胎内樹型の写真表法的保護、修理・整エムゾネ備の経緯1929年史跡 名勝天然紀念物法の下に天然紀念物として指定201 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516975152/138
139: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-XqOq) [sage] 2018/01/27(土) 10:49:01.54 ID:/kmEsvOR0 。−29−写真沸玉池の写真Bエムゾネ2山宮浅間神社浅間大社の 北北東約5kmに位置し、木花之佐久夜毘売命を主祭神とする 神社である。その起源は「富士本宮社記」によれば、山足の地 に祀られていた浅間大神を、神話上の英雄である日本武尊が大 神の神威により難を逃れた謝礼に山宮にエムゾネ祀ったこととされ 、これが802年に再び遷され浅間大社となったとする。具体 的な創建年代は不詳だが、文献上での初見は1551年である 。神社は神事の際に使用する籠屋以外の建物施設を持たず、拝 殿・本殿等が位置すべき場所には石列でいくつかエムゾネに区分さ れた遥拝所が設置されるのみという特異な形態を示している。 この形態は古代からの富士山祭祀の形を止めていると推定され ており、遥拝所の主軸は富士山方向を向いている。発掘調査で は12〜15世紀にかけての神事に使用されたと推定されエムゾネ る破砕された土器が遥拝所北側から多数出土し、当神社での宗 教活動を裏付けている。また、遅くとも1577年までには浅 間大社との間で「山宮御神幸」といわれる儀式が開始された。 これは4月と11月に神の宿った鉾を持ち、浅間大社から山宮 浅間エムゾネ神社へ行き、神事を行った後、翌日未明に浅間大社へ 戻る行事である。行事の意味として、現時点では神が4月に旧 跡に戻るという解釈と、山にいる神が4月に田の神として里へ 降りるという解釈がある。この行事は1874年まで行われて いた。なお、エムゾネ「山宮御神幸」に使用される経路を御神幸道 と称し、浅間大社湧玉池横より発し、約600m東へ向かった 後、ほぼ直角に曲がり直線状に北上して山宮浅間神社に至る。 道の出発点及び途中には1691年に置かれた距離を示す石碑 が少なくとも四箇所残エムゾネっている。写真山宮浅間神社の写真 B3村山浅間神社山宮浅間神社の南東約4km、富士山南麓に 張り出した標高約500mのバルコニー状地形に http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516975152/139
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