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【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)46【ダメ工作員】 (367レス)
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)46【ダメ工作員】 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516975152/
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1: 底名無し沼さん (ワッチョイ ffbb-jW/L) [] 2018/01/26(金) 22:59:12.04 ID:7UW/V/qh0 板中を荒らしながら病的な自演とスパムを続ける「栗木ハンター」。 アフィ目的は明らかですが、その来歴や栗城スレ(まとめwiki)の妨害、当スレでの執拗な埋立てなどから 栗城ネット工作である可能性が濃厚です。 ここは、現在もっとも不快な荒らしである「栗木ハンター(通称ワイエディ)」をヲチりつつ 登山キャンプ板の正常化を願い、情報を共有していくためのスレッドです。 【!】異常者にご注意ください【!】 (ワイエディ [123.255.128.*]) 栗木ハンター主回線 (エーイモ [1.114(115).*.*]) 別回線 (ササクッテロ*) 別回線 末尾*ラ〜ロは動的 (ワッチョイ [175.177.5.*]) 埋立荒らし (JP [103.75.118.*]) 埋立荒らし (アウアウカー [182.251.242.*]) 埋立荒らし (アウアウウー [106.133.56.*]) 埋立荒らし ※他にワントンキン・ラクッペ・スップなど 自演回線あり ■ ご覧の皆さまへ 悪質転載ブログ「wi1d28jp」 は踏まずにNG登録を。 踏んでしまった人は関連cookieを削除し、ネットショッピングは別ブラウザから。 ■ 普段からアフィ対策を! ブラウザにadblockやuBlock導入+国内フィルタ全部載せが推奨です。 スマホは広告ブロッカーも多いのでお好みのものを(フィルタ追加できるものが効果的)。 勝手な広告やスパイウェアをブロックして安全で快適なネットライフを♪ スマホ通信量の節約、時短にもなります。 ☆ オリジナルはこちら! 【栗城史多まとめ @ ウィキ】 登山や活動・関係者等の詳細なまとめ。 http://www44.atwiki.jp/kuriki_fan/ http://www44.atwiki.jp/kuriki_fan/m/ [モバイル版] 【知恵袋のベストアンサー】 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1146998496 【オクサマファイル】 的確な指摘です。ご一読を。 http://baby01.net/blog/364 (当板「栗城スレ」や「海彦山彦ブログ/栗城下山劇場」もおすすめです) !extend:checked:vvvvv:1000:512 ※前スレ 【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)45【ダメ工作員】 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516974674/ VIPQ2_EXTDAT: checked:vvvvv:1000:512:----: EXT was configured http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516975152/1
348: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-CMKN) [sage] 2018/01/27(土) 22:08:38.49 ID:/kmEsvOR0 呼び、富士山の範囲とみなす地域もあった。景観的には山体の傾 斜角の変化率が大きくなり「平野部」と「山体」の境界として認 識され、稜線が優美な曲線を描き絵画などの対象とされることが 多い範囲である。2)資産の構成推薦資産は、日本エムゾネ列島の ほぼ中央に位置する富士山体と、周辺の浅間神社や御師住宅、霊 地・巡礼地である風穴・溶岩樹型・湖沼、芸術作品の視点場(又 は舞台)となった地点から構成される。富士山体の中には山頂信 仰遺跡や登山道などの重要な要素が含まれている。こエムゾネれら の構成資産が一体となった推薦資産「富士山」は、山に対する固 有の文化的伝統を表す物証であり、山と人間との精神的な関係を 生み出した景観の見本であるとともに、芸術的作品との関連があ る山岳である。表構成資産/構成要素の分類No.世界エムゾネ遺 産条約上の分類遺跡A1山頂信仰遺跡遺跡A2大宮・村山口登山 道遺跡A3須山口登山道遺跡A4須走口登山道遺跡A5吉田口登 山道遺跡A6北口本宮冨士浅間神社遺跡、記念工作物、建造物A 7西湖遺跡A8精進湖遺跡A9本栖湖遺跡B1遺跡、記念エムゾネ 工作物、建造物B2遺跡B3遺跡B4遺跡B5遺跡B6遺跡B7 遺跡、記念工作物、建造物B8建造物B9遺跡B10遺跡B11 遺跡B12遺跡B13遺跡B14遺跡B15遺跡C遺跡A富士山 (富士山体)富士山本宮浅間大社山宮浅間神社河口湖村山浅エムゾ ネ間神社須山浅間神社富士浅間神社(須走浅間神社)河口浅間神 社白糸ノ滝三保松原構成資産/構成要素忍野八海船津胎内樹型吉 田胎内樹型人穴富士講遺跡冨士御室浅間神社御師住宅山中湖67 3)構成資産の説明富士山(富士山体)・展望地点富士山にはエム ゾネ、山頂部に点在する宗教関連施設を始め、信仰登山の支援施 設として機能してきた登山道や山小屋といった宿泊施設、信仰の 証として建てられた石碑などが存在する。推薦範囲は、周辺の浅 間神社や展望地点から見た可視領域が重なり合う http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516975152/348
349: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-9lb2) [sage] 2018/01/27(土) 22:09:19.72 ID:/kmEsvOR0 大社の境内地とされた八合目(登山道を10区間に分割した目安の 一つ。登山道ごとに異なり標高約3200〜3375m)以上と、 山頂に近づくほどより強い神聖性エムゾネを持つと認識されてきた。A 富士山(富士山体)A1山頂信仰遺跡A9本栖湖C三保松原(写真 複数、地図挿入)(改頁)登山道富士山には、麓の浅間神社を起点 として山頂に至る登山道が、複数存在する。12世紀前半から中ご ろにかけての修行僧末代エムゾネの活動がきっかけになったと考えられ る大宮・村山口登山道や、六合目から1384年の銘のある掛仏が 出土した須走口登山道などがある。吉田口登山道は、富士講信者の 登山本道とされ、18世紀後半以降、最も多くの道者(他の登山口 の合計と同程度エムゾネ)によって利用された。また、1200年の資 料では、大宮・村山口及び吉田口の外、須山口登山道を挙げて、そ れ以外には登山道がないと述べられている。登山道沿いには要所要 所に祠や石碑が設置され、随所に小屋や石室が設けられており、富 士独特エムゾネの登拝システムを語る上で、登山道は欠かすことのでき ない構成要素である。A2大宮・村山口登山道A3須山口登山道A 4須走口登山道A5吉田口登山道(写真複数、地図挿入)(改頁) 浅間神社・御師住宅登山道の起点や周辺地域には浅間神社が建造エムソ ゙ネされた。古くから富士山は遥拝の対象であり、山宮浅間神社など は古代からの祭祀の形をとどめている。噴火活動の活発化を受け、 律令国家によって9世紀前半に富士山を神体とする浅間神社(後の 富士山本宮浅間大社)が、9世紀後半には北麓にも噴火エムゾネを鎮め るための神社が祭祀された。11世紀後半の噴火を最後に火山活動 が休止期に入ると、富士山を舞台とする修験の活動が活発化し始め 、修験者の拠点が後に村山浅間神社や冨士御室浅間神社へと発展し ていった。登拝の大衆化に伴って、須山浅間神エムゾネ社や富士浅間神 社(須走浅間神社)8など、登山口の起点にも浅間神社が建立され るようになる。なかでも、北口本宮冨士浅間神社は http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516975152/349
350: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-XqOq) [sage] 2018/01/27(土) 22:15:17.11 ID:/kmEsvOR0 。富士山体の中には山頂信仰遺跡や登山道などの重要な要素が 含まれている。これらの構成資産が一体となった推薦資産「富 士山」は、山に対する固有の文化的伝統を表す物証であり、山 と人エムゾネ間との精神的な関係を生み出した景観の見本であると ともに、芸術的作品との関連がある山岳である。表構成資産/ 構成要素の分類No.世界遺産条約上の分類遺跡A1山頂信仰 遺跡遺跡A2大宮・村山口登山道遺跡A3須山 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516975152/350
351: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-CMKN) [sage] 2018/01/27(土) 22:15:58.97 ID:/kmEsvOR0 エムゾネ鑑賞の側面における比重が最も高い。特に本栖湖や三保松 原は、何度も紙幣の図柄に採用された写真の撮影地や富士山を描 く典型的な構図に含まれる景勝地であり、主要な展望を供する展 望地点である。また推薦範囲は、山体の神聖性の境界の一つであ るエムゾネ「馬返」以上に該当する標高1500m以上の区域でも あり、その中でも、他界(死後世界)と考えられた森林限界より 上方、富士山本宮浅間大社の境内地とされた八合目(登山道を1 0区間に分割した目安の一つ。登山道ごとに異なり標高約320 0〜エムゾネ3375m)以上と、山頂に近づくほどより強い神聖 性を持つと認識されてきた。A富士山(富士山体)A1山頂信仰 遺跡A9本栖湖C三保松原(写真複数、地図挿入)(改頁)登山 道富士山には、麓の浅間神社を起点として山頂に至る登山道が、 複数存エムゾネ在する。12世紀前半から中ごろにかけての修行僧 末代の活動がきっかけになったと考えられる大宮・村山口登山道 や、六合目から1384年の銘のある掛仏が出土した須走口登山 道などがある。吉田口登山道は、富士講信者の登山本道とされ、 18世紀エムゾネ後半以降、最も多くの道者(他の登山口の合計と 同程度)によって利用された。また、1200年の資料では、大 宮・村山口及び吉田口の外、須山口登山道を挙げて、それ以外に は登山道がないと述べられている。登山道沿いには要所要所に祠 や石碑が設エムゾネ置され、随所に小屋や石室が設けられており、 富士独特の登拝システムを語る上で、登山道は欠かすことのでき ない構成要素である。A2大宮・村山口登山道A3須山口登山道 A4須走口登山道A5吉田口登山道(写真複数、地図挿入)(改 頁)浅間神社エムゾネ・御師住宅登山道の起点や周辺地域には浅間 神社が建造された。古くから富士山は遥拝の対象であり、山宮浅 間神社などは古代からの祭祀の形をとどめている。噴火活動の活 発化を受け、律令国家によって9世紀前半に富士 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516975152/351
352: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-9lb2) [sage] 2018/01/27(土) 22:16:39.10 ID:/kmEsvOR0 流行した富士講によって大いに利用された吉田口登山道の起点であ ったが、その北には、富士講徒の案内エムゾネし、宿泊の世話や祈祷を 行った御師の住宅が今も残されている。B1富士山本宮浅間大社B 2山宮浅間神社B3村山浅間神社B4須山浅間神社B5富士浅間神 社(須走浅間神社)A6北口本宮冨士浅間神社B8御師住宅B6河 口浅間神社B7冨士御室浅間エムゾネ神社(写真複数、地図挿入)(改 頁)霊地・巡礼地となった風穴・溶岩樹型・湧水地・湖沼18世紀 後半から爆発的に流行した富士講の信者は、山頂を目指して富士山 に登るだけでなく、いわばオプショナル・ツアーのごとく周辺の風 穴や湧水地などを巡エムゾネり、巡礼や修行を行っていた。富士講の開 祖とされる長谷川角行は、人穴(富士講遺跡)で修行をし、富士五 湖を始めとした八つの湖沼や白糸ノ滝で水行を行った。後の富士講 徒はこれらの地へ参詣し、開祖に倣って修行を行う者もいた。また 、長谷川角エムゾネ行の八海修行になぞらえ「富士御手洗(みてらし) 元八湖」と唱えられた忍野八海や、彼が北麓の洞穴で浅間明神を祀 ったことにちなんで整備された船津胎内樹型や吉田胎内樹型など、 特定の富士講にとっての霊場・巡礼地となっている資産もある。B 9エムゾネ山中湖B10河口湖A7西湖A8精進湖A9本栖湖B11忍 野八海B12船津胎内樹型B13吉田胎内樹型B14人穴富士講遺 跡B15白糸ノ滝(写真複数、地図挿入)(改頁)A.富士山(富 士山体)説明富士山には、山頂部に点在する宗教関連施設をエムゾネ始 め、信仰登山の支援施設として機能してきた登山道や山小屋といっ た宿泊施設、信仰の証として建てられた石碑などが存在する。推薦 範囲は、周辺の浅間神社や展望地点から見た可視領域が重なり合う 範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重が9最も高エムゾネい。また推 薦範囲は、山体の神聖性の境界の一つである「馬返」以上に該当す る標高1500m以上の区域でもあり、その中でも、他界(死後世 界)と考えられた森林限界より上方、富士山本宮浅 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516975152/352
353: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-XqOq) [sage] 2018/01/27(土) 22:22:03.58 ID:/kmEsvOR0 4須走口登山エムゾネ道遺跡A5吉田口登山道遺跡A6北口本宮冨 士浅間神社遺跡、記念工作物、建造物A7西湖遺跡A8精進湖 遺跡A9本栖湖遺跡B1遺跡、記念工作物、建造物B2遺跡B 3遺跡B4遺跡B5遺跡B6遺跡B7遺跡、記念工作物、建造 物B8建造物B9遺跡エムゾネB10遺跡B11遺跡B12遺跡B 13遺跡B14遺跡B15遺跡C遺跡A富士山(富士山体)富 士山本宮浅間大社山宮浅間神社河口湖村山浅間神社須山浅間神 社富士浅間神社(須走浅間神社)河口浅間神社白糸ノ滝三保松 原構成資産/構成要素忍野八海エムゾネ船津胎内樹型吉田胎内樹型 人穴富士講遺跡冨士御室浅間神社御師住宅山中湖673)構成 資産の説明富士山(富士山体)・展望地点富士山には、山頂部 に点在する宗教関連施設を始め、信仰登山の支援施設として機 能してきた登山道や山小屋といった宿泊エムゾネ施設、信仰の証と して建てられた石碑などが存在する。推薦範囲は、周辺の浅間 神社や展望地点から見た可視領域が重なり合う範囲で、芸術・ 鑑賞の側面における比重が最も高い。特に本栖湖や三保松原は 、何度も紙幣の図柄に採用された写真の撮影地やエムゾネ富士山を 描く典型的な構図に含まれる景勝地であり、主要な展望を供す る展望地点である。また推薦範囲は、山体の神聖性の境界の一 つである「馬返」以上に該当する標高1500m以上の区域で もあり、その中でも、他界(死後世界)と考えられた森林エムゾネ 限界より上方、富士山本宮浅間大社の境内地とされた八合目( 登山道を10区間に分割した目安の一つ。登山道ごとに異なり 標高約3200〜3375m)以上と、山頂に近づくほどより 強い神聖性を持つと認識されてきた。A富士山(富士山体)A 1山エムゾネ頂信仰遺跡A9本栖湖C三保松原(写真複数、地図挿 入)(改頁)登山道富士山には、麓の浅間神社を起点として山 頂に至る登山道が、複数存在する。12世紀前 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516975152/353
354: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-CMKN) [sage] 2018/01/27(土) 22:22:46.23 ID:/kmEsvOR0 浅間神社(後のエムゾネ富士山本宮浅間大社)が、9世紀後半には 北麓にも噴火を鎮めるための神社が祭祀された。11世紀後半の 噴火を最後に火山活動が休止期に入ると、富士山を舞台とする修 験の活動が活発化し始め、修験者の拠点が後に村山浅間神社や冨 士御室浅間神社へエムゾネと発展していった。登拝の大衆化に伴っ て、須山浅間神社や富士浅間神社(須走浅間神社)8など、登山 口の起点にも浅間神社が建立されるようになる。 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516975152/354
355: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-9lb2) [sage] 2018/01/27(土) 22:23:27.59 ID:/kmEsvOR0 とされた八合目(登山道を10区間に分割エムゾネした目安の一つ。登 山道ごとに異なり標高約3200〜3375m)以上と、山頂に近 づくほどより強い神聖性を持つと認識されてきた。八合目以上は、 1779年以降、富士山本宮浅間大社の境内地とされたが、この理 由は八合目の標高とほぼ一致するエムゾネ噴火口(「内院」と呼び宗教 的に意義付けられている)の底部に浅間大神が鎮座するとの信仰に 基づく。標高約2500m付近の森林限界より上方は富士講信者( 富士山信仰の集団の一つ)には「焼山」と呼ばれ、神聖な地域ない し他界(死後世界)と考エムゾネえられていた。ほぼこの境域に沿い、 富士山体を一周する「御中道」が15〜16世紀ごろに富士講の祖 とされる長谷川角行によって開かれたとされ(1561年及び15 80年とされる)、その後「大沢崩れ」という危険箇所を通るため 富士講信者によエムゾネり修行の道として利用された。構成資産範囲内 には、山頂信仰遺跡や登山道といった、富士山の顕著な普遍的価値 を語る上で重要な役割を担う、次のような構成要素が存在する。A 1.山頂信仰遺跡富士山山頂部には、火口壁に沿っていくつかの神 社などエムゾネ、宗教関連施設が所在する。富士山への信仰登山が開始 されると、修験道の影響を受け山頂部において寺院の造営や仏像等 の奉納がおこなわれるとともに、山頂部での宗教行為が体系化され ていった。道者は山頂周辺において「御来迎(仏の来迎と見なさエムソ ゙ネれたブロッケン現象)」(のち「御来光(日の出)」)を拝み、 内院(噴火口)に鎮座するとされる神仏(大日如来が本地仏とされ た浅間大神ないし浅間大菩薩)を拝し、火口壁にいくつかあるピー クを仏教の曼荼羅における仏の世界に擬して巡拝する「エムゾネお鉢め ぐり(八葉めぐり)」と呼ばれる行為を行なうことが一般的であっ た。山頂の宗教的施設は、12世紀中ごろ修行僧末代により建立さ れた施設(後の大日堂)が最初とされ、その後、経典(12世紀末 〜13世紀前半と推定されるものが最古)・懸エムゾネ http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516975152/355
356: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-XqOq) [sage] 2018/01/27(土) 22:28:36.58 ID:/kmEsvOR0 かけての修行僧末代の活動がきっかけになったと考えられる大 宮・村山口登エムゾネ山道や、六合目から1384年の銘のある掛 仏が出土した須走口登山道などがある。吉田口登山道は、富士 講信者の登山本道とされ、18世紀後半以降、最も多くの道者 (他の登山口の合計と同程度)によって利用された。また、1 200年の資料では、エムゾネ大宮・村山口及び吉田口の外、須山 口登山道を挙げて、それ以外には登山道がないと述べられてい る。登山道沿いには要所要所に祠や石碑が設置され、随所に小 屋や石室が設けられており、富士独特の登拝システムを語る上 で、登山道は欠かすことのできエムゾネない構成要素である。A2 大宮・村山口登山道A3須山口登山道A4須走口登山道A5吉 田口登山道(写真複数、地図挿入)(改頁)浅間神社・御師住 宅登山道の起点や周辺地域には浅間神社が建造された。古くか ら富士山は遥拝の対象であり、山宮浅間エムゾネ神社などは古代か らの祭祀の形をとどめている。噴火活動の活発化を受け、律令 国家によって9世紀前半に富士山を神体とする浅間神社(後の 富士山本宮浅間大社)が、9世紀後半には北麓にも噴火を鎮め るための神社が祭祀された。11世紀後半の噴火エムゾネを最後に 火山活動が休止期に入ると、富士山を舞台とする修験の活動が 活発化し始め、修験者の拠点が後に村山浅間神社や冨士御室浅 間神社へと発展していった。登拝の大衆化に伴って、須山浅間 神社や富士浅間神社(須走浅間神社)8など、登山口の起エムゾネ 点にも浅間神社が建立されるようになる。なかでも、北口本宮 冨士浅間神社は、江戸を中心に流行した富士講によって大いに 利用された吉田口登山道の起点であったが、その北には、富士 講徒の案内し、宿泊の世話や祈祷を行った御師の住宅が今も残 されエムゾネている。B1富士山本宮浅間大社B2山宮浅間神社B 3村山浅間神社B4須山浅間神社B5富士浅間 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516975152/356
357: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-CMKN) [sage] 2018/01/27(土) 22:29:17.00 ID:/kmEsvOR0 本宮冨士浅間神社は、江戸を中心に流行した富士講によって大い に利用された吉田口エムゾネ登山道の起点であったが、その北には 、富士講徒の案内し、宿泊の世話や祈祷を行った御師の住宅が今 も残されている。B1富士山本宮浅間大社B2山宮浅間神社B3 村山浅間神社B4須山浅間神社B5富士浅間神社(須走浅間神社 )A6北口本宮冨士浅エムゾネ間神社B8御師住宅B6河口浅間神 社B7冨士御室浅間神社(写真複数、地図挿入)(改頁)霊地・ 巡礼地となった風穴・溶岩樹型・湧水地・湖沼18世紀後半から 爆発的に流行した富士講の信者は、山頂を目指して富士山に登る だけでなく、いわばオプエムゾネショナル・ツアーのごとく周辺の 風穴や湧水地などを巡り、巡礼や修行を行っていた。富士講の開 祖とされる長谷川角行は、人穴(富士講遺跡)で修行をし、富士 五湖を始めとした八つの湖沼や白糸ノ滝で水行を行った。後の富 士講徒はこれらの地へ参詣エムゾネし、開祖に倣って修行を行う者 もいた。また、長谷川角行の八海修行になぞらえ「富士御手洗( みてらし)元八湖」と唱えられた忍野八海や、彼が北麓の洞穴で 浅間明神を祀ったことにちなんで整備された船津胎内樹型や吉田 胎内樹型など、特定の富士講エムゾネにとっての霊場・巡礼地とな っている資産もある。B9山中湖B10河口湖A7西湖A8精進 湖A9本栖湖B11忍野八海B12船津胎内樹型B13吉田胎内 樹型B14人穴富士講遺跡B15白糸ノ滝(写真複数、地図挿入 )(改頁)A.富士山(富士山エムゾネ体)説明富士山には、山頂 部に点在する宗教関連施設を始め、信仰登山の支援施設として機 能してきた登山道や山小屋といった宿泊施設、信仰の証として建 てられた石碑などが存在する。推薦範囲は、周辺の浅間神社や展 望地点から見た可視領域が重なりエムゾネ合う範囲で、芸術・鑑賞 の側面における比重が9最も高い。また推薦範囲は、山体の神聖 性の境界の一つである「馬返」以上に該当する標 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516975152/357
358: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-9lb2) [sage] 2018/01/27(土) 22:29:56.36 ID:/kmEsvOR0 の銘のあるものが最古)・仏像等(1302年の銘があるものが最 古)の山頂部への奉納・埋納や内院への散銭が行われた。また、遅 くとも17世紀には、大宮・村山口山頂部に大日堂(現在は富士山 本宮奥宮が所在)が、吉田・須走口山エムゾネ頂部に薬師堂(現在の久 須志神社)が造営された。1874年、山頂の仏教的施設及び仏像 は廃仏毀釈の影響によって撤去され、ピークの名称も変更され、寺 院は神社に改変された。しかし、山頂部に対する信 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516975152/358
359: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-XqOq) [sage] 2018/01/27(土) 22:35:54.43 ID:/kmEsvOR0 神社)A6北口本宮冨士浅間神社B8御師住宅B6河口浅間神 社B7冨士御室浅間神社(写真複数、地図挿入)(改頁)霊地 ・巡礼地となエムゾネった風穴・溶岩樹型・湧水地・湖沼18世紀 後半から爆発的に流行した富士講の信者は、山頂を目指して富 士山に登るだけでなく、いわばオプショナル・ツアーのごとく 周辺の風穴や湧水地などを巡り、巡礼や修行を行っていた。富 士講の開祖とされる長エムゾネ谷川角行は、人穴(富士講遺跡)で 修行をし、富士五湖を始めとした八つの湖沼や白糸ノ滝で水行 を行った。後の富士講徒はこれらの地へ参詣し、開祖に倣って 修行を行う者もいた。また、長谷川角行の八海修行になぞらえ 「富士御手洗(みてらし)元八エムゾネ湖」と唱えられた忍野八海 や、彼が北麓の洞穴で浅間明神を祀ったことにちなんで整備さ れた船津胎内樹型や吉田胎内樹型など、特定の富士講にとって の霊場・巡礼地となっている資産もある。B9山中湖B10河 口湖A7西湖A8精進湖A9本栖湖B1エムゾネ1忍野八海B12 船津胎内樹型B13吉田胎内樹型B14人穴富士講遺跡B15 白糸ノ滝(写真複数、地図挿入)(改頁)A.富士山(富士山 体)説明富士山には、山頂部に点在する宗教関連施設を始め、 信仰登山の支援施設として機能してきた登山道やエムゾネ山小屋と いった宿泊施設、信仰の証として建てられた石碑などが存在す る。推薦範囲は、周辺の浅間神社や展望地点から見た可視領域 が重なり合う範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重が9最も 高い。また推薦範囲は、山体の神聖性の境界の一つであるエムゾネ 「馬返」以上に該当する標高1500m以上の区域でもあり、 その中でも、他界(死後世界)と考えられた森林限界より上方 、富士山本宮浅間大社の境内地とされた八合目(登山道を10 区間に分割した目安の一つ。登山道ごとに異なり標高約320 0〜エムゾネ3375m)以上と、山頂に近づくほ http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516975152/359
360: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-CMKN) [sage] 2018/01/27(土) 22:36:36.14 ID:/kmEsvOR0 上の区域でもあり、その中でも、他界(死後世界)と考えられた 森林限界より上方、富士山本宮浅間エムゾネ大社の境内地とされた 八合目(登山道を10区間に分割した目安の一つ。登山道ごとに 異なり標高約3200〜3375m)以上と、山頂に近づくほど より強い神聖性を持つと認識されてきた。八合目以上は、177 9年以降、富士山本宮浅間大社の境内エムゾネ地とされたが、この 理由は八合目の標高とほぼ一致する噴火口(「内院」と呼び宗教 的に意義付けられている)の底部に浅間大神が鎮座するとの信仰 に基づく。標高約2500m付近の森林限界より上方は富士講信 者(富士山信仰の集団の一つ)には「焼エムゾネ山」と呼ばれ、神 聖な地域ないし他界(死後世界)と考えられていた。ほぼこの境 域に沿い、富士山体を一周する「御中道」が15〜16世紀ごろ に富士講の祖とされる長谷川角行によって開かれたとされ(15 61年及び1580年とされる)、その後エムゾネ「大沢崩れ」と いう危険箇所を通るため富士講信者により修行の道として利用さ れた。構成資産範囲内には、山頂信仰遺跡や登山道といった、富 士山の顕著な普遍的価値を語る上で重要な役割を担う、次のよう な構成要素が存在する。A1.山頂信仰遺跡エムゾネ富士山山頂部 には、火口壁に沿っていくつかの神社など、宗教関連施設が所在 する。富士山への信仰登山が開始されると、修験道の影響を受け 山頂部において寺院の造営や仏像等の奉納がおこなわれるととも に、山頂部での宗教行為が体系化されていったエムゾネ。道者は山 頂周辺において「御来迎(仏の来迎と見なされたブロッケン現象 )」(のち「御来光(日の出)」)を拝み、内院(噴火口)に鎮 座するとされる神仏(大日如来が本地仏とされた浅間大神ないし 浅間大菩薩)を拝し、火口壁にいくつかあるピーエムゾネクを仏教 の曼荼羅における仏の世界に擬して巡拝する「お鉢めぐり(八葉 めぐり)」と呼ばれる行為を行なうことが一般的 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516975152/360
361: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-9lb2) [sage] 2018/01/27(土) 22:37:18.75 ID:/kmEsvOR0 ることなく、上記の行為は現エムゾネ代の登山者の多くが行っており、 これらを通じて富士信仰の核心が現代に受け継がれている。A2. 大宮・村山口登山道富士山南西麓の浅間大社を起点とし、村山浅間 神社を経て山頂南側に至る登山道である。12世紀前半から中ごろ の、修行僧末代の活エムゾネ動により、富士山南麓における登山が本格 的に開始されたとされ、14世紀初めには修験者による組織的登山 が始まったとされる。15世紀以降19世紀後半まで、「村山三坊 」と呼ばれた3軒の有力宿坊が村山浅間神社(興法寺)と登山道の 管理を行うエムゾネとともに所属の修験者が登山道等を利用して修行を 行った。また、一般人の信仰登山(以下これを行う者を「道者」と 言う。)も開始され、その様子は16世紀の作とされる「絹本著色 富士曼荼羅図」に描かれている。道者の数は18世紀後半から19 世エムゾネ紀初頭の宿坊(大鏡坊のみ)の記録より、御縁年で2,00 0人前後、平年で数百名程度と推測できる。また1860年、初の 外国人登山を行った英国公使オールコックがこの登山道を利用した 。101889年、鉄道(東海道線)の開通による御殿場口エムゾネ利 用者の増加により衰退し、これへの対策として1906年、村山を 経由しない新道が建設されたため、大宮から現在の六合目(標高2 600m)までは登山道としての機能を失った。この区間は一部除 き登山道跡の推定は困難な状態である。現在は19エムゾネ70年に標 高2400m地点まで開通した自動車道を利用しての登山が行われ ている。(推薦範囲は六合目以上である。)A3.須山口登山道富 士山南東麓、須山浅間神社を起点とし、山頂南東部に至る登山道で ある。その起源は明確ではないが、文字資エムゾネ料の中で1486年 にその存在が確認できる。登山道および山頂部銀明水は須山浅間神 社及びその所在地の須山村(現裾野市須山)により管理されていた 。また、登山道のいくつかの宗教施設は村山の修験者の行場(参拝 所)としても使用された。道者にエムゾネついては詳し http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516975152/361
362: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-XqOq) [sage] 2018/01/27(土) 22:43:04.15 ID:/kmEsvOR0 性を持つと認識されてきた。八合目以上は、1779年以降、 富士山本宮浅間大社の境内地とされたが、この理由は八合目の 標高とほぼ一致する噴火口(「内院」と呼び宗教的に意義付け られている)エムゾネの底部に浅間大神が鎮座するとの信仰に基づ く。標高約2500m付近の森林限界より上方は富士講信者( 富士山信仰の集団の一つ)には「焼山」と呼ばれ、神聖な地域 ないし他界(死後世界)と考えられていた。ほ http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516975152/362
363: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-CMKN) [sage] 2018/01/27(土) 22:43:46.62 ID:/kmEsvOR0 の宗教的施設は、12世紀中ごろ修行僧末代により建立された施 設(後の大日堂)が最初とされ、その後、経典(1エムゾネ2世紀 末〜13世紀前半と推定されるものが最古)・懸仏(1482年 の銘のあるものが最古)・仏像等(1302年の銘があるものが 最古)の山頂部への奉納・埋納や内院への散銭が行われた。また 、遅くとも17世紀には、大宮・村山口山頂部に大日エムゾネ堂( 現在は富士山本宮奥宮が所在)が、吉田・須走口山頂部に薬師堂 (現在の久須志神社)が造営された。1874年、山頂の仏教的 施設及び仏像は廃仏毀釈の影響によって撤去され、ピークの名称 も変更され、寺院は神社に改変された。しかし、山頂部エムゾネに 対する信仰自体は変化することなく、上記の行為は現代の登山者 の多くが行っており、これらを通じて富士信仰の核心が現代に受 け継がれている。A2.大宮・村山口登山道富士山南西麓の浅間 大社を起点とし、村山浅間神社を経て山頂南側に至る登山エムゾネ 道である。12世紀前半から中ごろの、修行僧末代の活動により 、富士山南麓における登山が本格的に開始されたとされ、14世 紀初めには修験者による組織的登山が始まったとされる。15世 紀以降19世紀後半まで、「村山三坊」と呼ばれた3軒の有エムゾ ネ力宿坊が村山浅間神社(興法寺)と登山道の管理を行うととも に所属の修験者が登山道等を利用して修行を行った。また、一般 人の信仰登山(以下これを行う者を「道者」と言う。)も開始さ れ、その様子は16世紀の作とされる「絹本著色富士曼荼羅図エム ゾネ」に描かれている。道者の数は18世紀後半から19世紀初 頭の宿坊(大鏡坊のみ)の記録より、御縁年で2,000人前後 、平年で数百名程度と推測できる。また1860年、初の外国人 登山を行った英国公使オールコックがこの登山道を利用した。1 エムゾネ01889年、鉄道(東海道線)の開通による御殿場口利 用者の増加により衰退し、これへの対策として1 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516975152/363
364: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-9lb2) [sage] 2018/01/27(土) 22:44:28.21 ID:/kmEsvOR0 いないが、1800年(御縁年:富士山出現伝説に由来する60年 に1回の記念の年)に約5,400人、1840年代前半は年平均 約1,700人、1860年(御縁年)は約3,600人であった 。1883年、須山口二エムゾネ合八勺(標高2050m)に接続する 御殿場口登山道が開削され、1889年、東海道本線開通による御 殿場口利便性の向上は須山口よりの道者を奪い、さらに1912年 、一部が陸軍演習場となり使用不可能となったため、須山口からの 登拝(登山)はエムゾネ衰退し現在に至っている。二合八勺以下の登山 道で当時の道が確認できる部分は一部のみである。(資産範囲は現 在「御殿場口」の名称で使用されている二合八勺以上の部分及び遊 歩道として整備された旧須山口の一部である)A4.須走口登山道 富士山エムゾネ東麓の冨士浅間神社を起点とし、八合目で吉田口登山道 と合流し山頂東部に至る登山道である。その起源は明確ではないが 、六合目からは1384年の銘のある掛仏が出土しており、文字資 料では1500年にその存在を確認できる。登山道は遅くとも1エムソ ゙ネ7世紀までに、冨士浅間神社及びその所在地の須走村が登山道の 山頂部までを支配し、散銭取得権の一部などを得ていた。山頂部の 権利については富士山本宮浅間大社と争いになり、須走村は18世 紀(1703年と1772年)、幕府に裁定を求め、権エムゾネ利は幕 府によって認められた。1707年の宝永噴火の際、これらの施設 及び冨士浅間神社、須走村は噴砂に覆われ壊滅したが、江戸幕府の 支援を受け翌年には復興を完了し、多くの道者を集めた。18世紀 後半、他の霊場とセットにされた参詣の流行でエムゾネ道者数は年平均 約1万人、1800年の御縁年に23,700人とピークを迎えた 。1959年、バス道路の完成により、新五合目(標高約2000 m)以下の登山道の利用はほとんどなくなり、一部道としての確認 ができない区間がある。(推薦範囲はエムゾネ現在も利用されている新 五合目以上である。)A5.吉田口登山道北口本宮 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516975152/364
365: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-XqOq) [sage] 2018/01/27(土) 22:49:42.31 ID:/kmEsvOR0 い、富士山体を一周すエムゾネる「御中道」が15〜16世紀ごろ に富士講の祖とされる長谷川角行によって開かれたとされ(1 561年及び1580年とされる)、その後「大沢崩れ」とい う危険箇所を通るため富士講信者により修行の道として利用さ れた。構成資産範囲内には、山エムゾネ頂信仰遺跡や登山道といっ た、富士山の顕著な普遍的価値を語る上で重要な役割を担う、 次のような構成要素が存在する。A1.山頂信仰遺跡富士山山 頂部には、火口壁に沿っていくつかの神社など、宗教関連施設 が所在する。富士山への信仰登山が開始エムゾネされると、修験道 の影響を受け山頂部において寺院の造営や仏像等の奉納がおこ なわれるとともに、山頂部での宗教行為が体系化されていった 。道者は山頂周辺において「御来迎(仏の来迎と見なされたブ ロッケン現象)」(のち「御来光(日の出)」)エムゾネを拝み、 内院(噴火口)に鎮座するとされる神仏(大日如来が本地仏と された浅間大神ないし浅間大菩薩)を拝し、火口壁にいくつか あるピークを仏教の曼荼羅における仏の世界に擬して巡拝する 「お鉢めぐり(八葉めぐり)」と呼ばれる行為を行なうこエムゾネ とが一般的であった。山頂の宗教的施設は、12世紀中ごろ修 行僧末代により建立された施設(後の大日堂)が最初とされ、 その後、経典(12世紀末〜13世紀前半と推定されるものが 最古)・懸仏(1482年の銘のあるものが最古)・仏像等( 13エムゾネ02年の銘があるものが最古)の山頂部への奉納・埋 納や内院への散銭が行われた。また、遅くとも17世紀には、 大宮・村山口山頂部に大日堂(現在は富士山本宮奥宮が所在) が、吉田・須走口山頂部に薬師堂(現在の久須志神社)が造営 された。18エムゾネ74年、山頂の仏教的施設及び仏像は廃仏毀 釈の影響によって撤去され、ピークの名称も変更され、寺院は 神社に改変された。しかし、山頂部に対する信 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516975152/365
366: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-CMKN) [sage] 2018/01/27(土) 22:50:21.12 ID:/kmEsvOR0 を経由しない新道が建設されたため、大宮から現在の六合目(標 高2600m)までは登山道としての機能を失った。この区間は 一エムゾネ部除き登山道跡の推定は困難な状態である。現在は19 70年に標高2400m地点まで開通した自動車道を利用しての 登山が行われている。(推薦範囲は六合目以上である。)A3. 須山口登山道富士山南東麓、須山浅間神社を起点とし、山頂南東 部にエムゾネ至る登山道である。その起源は明確で http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516975152/366
367: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-XqOq) [sage] 2018/01/27(土) 22:56:47.94 ID:/kmEsvOR0 ることなく、上記の行為は現代の登山者の多くが行っており、 これらを通じて富士信エムゾネ仰の核心が現代に受け継がれている 。A2.大宮・村山口登山道富士山南西麓の浅間大社を起点と し、村山浅間神社を経て山頂南側に至る登山道である。12世 紀前半から中ごろの、修行僧末代の活動により、富士山南麓に おける登山が本格的に開始されエムゾネたとされ、14世紀初めに は修験者による組織的登山が始まったとされる。15世紀以降 19世紀後半まで、「村山三坊」と呼ばれた3軒の有力宿坊が 村山浅間神社(興法寺)と登山道の管理を行うとともに所属の 修験者が登山道等を利用して修行を行っエムゾネた。また、一般人 の信仰登山(以下これを行う者を「道者」と言う。)も開始さ れ、その様子は16世紀の作とされる「絹本著色富士曼荼羅図 」に描かれている。道者の数は18世紀後半から19世紀初頭 の宿坊(大鏡坊のみ)の記録より、御縁年で2,エムゾネ000人 前後、平年で数百名程度と推測できる。また1860年、初の 外国人登山を行った英国公使オールコックがこの登山道を利用 した。101889年、鉄道(東海道線)の開通による御殿場 口利用者の増加により衰退し、これへの対策として190エムゾネ 6年、村山を経由しない新道が建設されたため、大宮から現在 の六合目(標高2600m)までは登山道としての機能を失っ た。この区間は一部除き登山道跡の推定は困難な状態である。 現在は1970年に標高2400m地点まで開通した自動車道 を利エムゾネ用しての登山が行われている。(推薦範囲は六合目以 上である。)A3.須山口登山道富士山南東麓、須山浅間神社 を起点とし、山頂南東部に至る登山道である。その起源は明確 ではないが、文字資料の中で1486年にその存在が確認でき る。登山道おエムゾネよび山頂部銀明水は須山浅間神社及びその所 在地の須山村(現裾野市須山)により管理され http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516975152/367
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