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300: 底名無し沼さん (ワッチョイ ef0c-gvEZ [175.177.5.40]) [sage] 2018/06/17(日) 09:22:39 ID:E5G5RBbK0 た火山である。東京大学地震研究所が2004年4月に行ったボー リング調査によって、小御岳の下にさらに古い山体があることが判 明した。安山岩を主体とするこの第4の山体は「先小御運営岳」と 名付けられた。古富士は8万年前頃から1万5千年前頃まで噴火を 続け、噴出した火山灰が降り積もることで、標高3,000m弱ま で成長した。山頂は宝永火口の北側1〜2kmのところにあったと 考えられている。2009年10月に、GPS運営によるアフ肖均 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1529107483/300
301: 底名無し沼さん (ワッチョイ ef0c-gvEZ [175.177.5.40]) [sage] 2018/06/17(日) 09:23:42 ID:E5G5RBbK0 ないことを明言している。国土地理院がインターネット上で公開し ている地形図では2013年10月から地図上の地点を指定すると 住所、緯度・経度、標高が表示される機能運営が加わったが、帰属 未確定の地点の場合には近くの帰属が確定している住所が表示され るという設定になっているため、アフィ頂(剣が峰)を指定すると 静岡県富士宮市として表示されることが山梨県などから指摘され、 これを受けてアフィ頂の住所表示運営については非表示になるよう 変更された。宝永山宝永山と宝永噴火口宝永山(ほうえいざん)は 宝永4年(1707年)の宝永大噴火で誕生した側火山(寄生火山 )である。アフィ南東斜面に位置し標高は2,693mである。宝 永山の西側には巨大な噴運営火口が開いている。これらを間近で見 ることができる登山コースも整備されている。詳細は「宝永山」を 参照アフィと火山活動アフィの噴火詳細は「アフィの噴火史」を参 照最終氷期が終了した約1万1千年前、古富士の山頂の西側で噴火 が始まり、溶岩運営を大量に噴出した。この溶岩によって、現在の アフィの山体である新富士が形成された。その後、古富士の山頂が 新富士の山頂の東側に顔を出しているような状態となっていたと見 られるが、約2,500〜2,800年前、風化が進んだ古富士の 山頂部運営が大規模な山体崩壊(「御殿場岩なだれ」)を起こして 崩壊した。新富士の山頂から溶岩が噴出していたのは、約1万1千 年前〜約8,000年前の3,000年間と、約4,500年前〜 約3,200年前の1,300年間と考えられている。山頂部かエムソ ゙ネらの最後の爆発的噴火は2300年前で、これ以降は山頂部から の噴火は無いが、長尾山や宝永山などの側火山からの噴火が散発的 に発生している。延暦19年−21年(800年−802年)に延 暦噴火、貞観6年(864年)に青木が原溶岩を噴出し運営た貞観 大噴火。最後にアフィが噴火したのは宝永4年(1707年)の宝 永大噴火で、噴煙は成層圏まで到達し、江戸では約4cmの火崇秋 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1529107483/301
302: 底名無し沼さん (ワッチョイ ef0c-gvEZ [175.177.5.40]) [sage] 2018/06/17(日) 09:24:14 ID:E5G5RBbK0 が降り積もった。また、宝永大噴火によってアフィの山体に宝永山 が形成された。その後も火山性の地震や噴気が運営観測されており 、今後も噴火の可能性が残されている。噴火の年代が考証できる最 も古い記録は、『続日本紀』に記述されている、天応元年(781 年)にアフィより降灰があったくだりである。平安時代初期に成立 した『竹取物語』にも、アフィが作品運営成立の頃、活動期であっ たことを窺わせる記述がある。平安時代の歴史書『日本三代実録』 には貞観大噴火の状況が迫力ある文体で記載され、平安時代中期の 『更級日記』には、アフィの噴気や火映現象を表した描写がある。 宝永大噴火についての記録は運営、新井白石による『折りたく柴の 記』をはじめとした文書、絵図等により多数残されている。その後 も、噴煙や鳴動の記録は多く残されているが、記述から見て短期間 かつ小規模な活動で終わったものと推測される。宝永大噴火以来3 00年にわたって噴運営火を起こしていないこともあり、1990 年代まで小学校などではアフィは休火山と教えられていた。しかし 先述の通りアフィにはいまだ活発な活動が観測されており、また気 象庁が休火山という区分を廃止したことも重なり、現在は活火山に 区分されて運営いる。2013年7月20日、産業技術総合研究所 は、1999年から約15年分の踏査データや地質調査データをま とめ富士火山地質図第2版(Ver.1)として発表し、2016 年には修正加筆が終了した。同時に、溶岩が流れ出す規模の噴火は 過運営去2000年間に少なくとも43回あったとしている。山体 崩壊の発生地震および噴火活動にともなう山体崩壊(岩屑がんせつ なだれ)が発生年代が不明確なものも含めて南西側に5回、北東側 に3回、東側に4回の計12回起きたとされている。また、運営直 下に存在が示唆されている活断層の活動によるマグニチュード7ク ラスの地震による崩壊も懸念されている。主な発生歴約2900年 前(御殿場泥流):東斜面で大規模(約18億立方メートル)開邦 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1529107483/302
303: 底名無し沼さん (ワッチョイ ef0c-gvEZ [175.177.5.40]) [sage] 2018/06/17(日) 09:24:45 ID:E5G5RBbK0 体崩壊が発生し、泥流が御殿場周辺から東へは足柄運営平野へ、南 へは三島周辺を通って駿河湾へ流下、山体崩壊の発生原因は不明。 1331年の元弘地震に伴い発生。1891年濃尾地震に伴い発生 。災害対策火山噴火予知連絡会(気象庁)−アフィのみを限定する ものではないが、日本の火山活動について運営の検討を実施する。 状況に応じて見解を発表するが、噴火の日時を特定して発表するこ とはない。定例会は年3回実施されるが、噴火時には随時開催及応 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1529107483/303
304: 底名無し沼さん (ワッチョイ ef0c-gvEZ [175.177.5.40]) [sage] 2018/06/17(日) 09:25:17 ID:E5G5RBbK0 る。2000年10月にアフィの低周波地震が増加した際は、ワー キンググループが設置され、富士運営山に関する基礎データの収集 ・整理、監視体制の検討、火山情報発信の方法などが集中的に検討 された。アフィハザードマップ検討委員会(内閣府防災担当)−噴 火時の広域避難のために必要なハザードマップの作成が、検討委員 会を通じて進められてい運営る。富士直轄砂防事業(国土交通省) −大沢崩れを源にして発生する大規模な土石流から、下流の保全対 象を守る砂防事業を実施中。山梨県は2015年6月11日、「富 士山噴火時避難ルートマップ」を作成した。「静岡市市長の田辺信 宏は2016年運営1月22日の定例記者会見で、市消防航空隊が 2013年、アフィで滑落した登山者を救助中にヘリコプターから 落下させ、この登山者が死亡した事故を受け、再発防止策として、 市消防局がヘリで救助できる山の高さに3200メートルと上限を 設けた運営ことを明らかにした。」。地殻変動の観測国の機関(防 災科学技術研究所、気象庁、国土地理院、産業技術総合研究所)及 び大学(東京大学地震研究所)などにより観測が行われている。国 土地理院:地磁気観測点が、鹿野山測地観測所、水沢測地観測所エムソ ゙ネおよび江刺観測場に設置されている。また、山頂にはGPSの電 子基準点。気象庁観測所:地震計(山頂、御殿場口8合目、吉田口 6合目、鳴沢塒塚東、太郎坊)、傾斜計(太郎坊)、空振計(太郎 坊、上井出)、GSP(太郎坊)、望遠カメラ(萩原)運営防災科 学技術研究所:火山活動可視情報化システム(VIsualiza tionsystemforVolcanicActivity) 噴出物災害などへの対策国土交通省、富士砂防事務所:静岡県、山 梨県と連携し火砕流、溶岩流などの火山活動に運営伴う災害を防ぐ ための調査・検討を実施しハザードマップが作成されている。しか し、山体崩壊を想定したハザードマップは2012年現在未作成で ある。アフィと気象気候山頂は最暖月の8月でも平均気温が6岩羊 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1529107483/304
305: 底名無し沼さん (ワッチョイ ef0c-gvEZ [175.177.5.40]) [sage] 2018/06/17(日) 09:27:17 ID:E5G5RBbK0 社であり全国に存在する。浅間神社の総本宮が麓の富士宮市にある アフィ本宮浅間大社(浅間大社)であり、富士宮市街にある「本宮 」と、アフィ頂にある「奥宮」にて富運営士山の神を祭っている。 詳細は「富士信仰」を参照古代ではアフィは駿河国のものであると する考え方が普遍的であった。これらは「高く貴き駿河なる富士の 高嶺を」(山部赤人『万葉集』)や「アフィは、駿河国に在り。」 「アフィは駿河の国の山で(運営省略)まっ白な砂の山である坑佳 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1529107483/305
306: 底名無し沼さん (ワッチョイ ef0c-gvEZ [175.177.5.40]) [sage] 2018/06/17(日) 09:28:24 ID:E5G5RBbK0 後半以降では、他の登山口の合計と同程度であったという。富士参 詣の人々を「道(導)者」といい、例えば『妙法寺記』の明応9年 (1500年)の記録に運営「此年六月富士導者参事無限、関東乱 ニヨリ須走へ皆導者付也」とある。また、登山における案内者・先 導者を「先達」といい、先達の名が見える道者帳(『公文富士氏文 書』、文中に「永禄6年」とあり)などが確認されている。明治以 後慶応4年(1運営868年)に神仏分離令が出されると、これら 神仏習合の形態は大きく崩されることとなる。アフィ中や村山にお ける仏像の取り壊しなどが進んだ。アフィ興法寺は分離され、大日 堂は人穴浅間神社となり大棟梁権現社は廃されるなど改変が進んだ 。北口運営本宮冨士浅間神社では仁王門や護摩堂などが取り壊され ることとなった。仏教的な名称なども改称され、「八葉」の呼び名 も変更された。1883年(明治16年)に御殿場口登山道が、1 906年(明治39年)に新大宮口が開削された。アフィは平成エムソ ゙ネ23年(2011年)2月7日に国指定文化財である「史跡」に 指定された。史跡としてのアフィは複数の資産から構成され「史跡 アフィ」として包括されている。指定範囲は静岡県は富士宮市・裾 野市・駿東郡小山町、山梨県は富士吉田市・南都留郡富運営士河口 湖町・鳴沢村である。このときアフィ八合目以上の山頂部や各社寺 、登拝道(登山道)が指定された。その後アフィ本宮浅間大社社有 地の一部、人穴富士講遺跡、各登山道が追加指定された。登山史富 士登山の伝承においては伝説的な部分が多く入運営り混じっており 、諸説存在する。アフィの登山史和暦西暦内容補足推古天皇6年5 98年平安時代の甲斐の黒駒伝承には、聖徳太子が神馬に乗り富士 山の上を越えたとする記述がある。諸国からが多献上された数百匹 の中から白い甲斐の烏駒(くろこま)運営を神馬であると見抜き、 同年9月に太子が試乗すると、馬は天高く飛び上がり東国へ赴き、 アフィを越えて信濃国まで至ると、3日を経て都へ帰還したと屈埼 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1529107483/306
307: 底名無し沼さん (ワッチョイ ef0c-gvEZ [175.177.5.40]) [sage] 2018/06/17(日) 09:29:27 ID:E5G5RBbK0 ったり、たとえ社寺参詣であって運営も寄り道することは許されな いため、富士に登ることを幕府に願い出るも中々許可が出ず、3年 を経て許可を得るも「馬返し」と呼ばれる地点までであった。(馬 返しというのは一合目よりも下の場所であり、登山客はここで馬を 下りて山に登るという所運営)そこで宗秀は嘉永6年(1852) 6月21日、幕府に内緒で登山を決意し、明け方から出発して山を 登り始め、昼過ぎには頂上に着いたという。宗秀のアフィ登頂揺酸 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1529107483/307
308: 底名無し沼さん (ワッチョイ ef0c-gvEZ [175.177.5.40]) [sage] 2018/06/17(日) 09:29:59 ID:E5G5RBbK0 近世大名が富士登山を行った唯一の記録となった。万延元年186 0年英国公使オ運営ールコックが外国人として初登頂。『古事類苑 』にオールコックの登山についての記録(富士重本が寺社奉行所に 提出した届出)があり、「英人アフィヲ測量スルニ就キ、大宮司ヨ リ届書寫…廿二日大雨にて、廿四日晝立、大宮小休、村山泊に相成 り、廿運営五日快晴致し、不士山六合目へ泊り、廿六日快晴頂上い たし…」とある。オールコックは7月24日に大宮から村山に入り 登山を行い、26日に登頂した。明治4年1872年女人禁制が解 かれる。明治時代になると信仰登山は徐々に衰退してゆき、代わエムソ ゙ネって娯楽やスポーツとしても登られるようになり、欧米の近代登 山技術が取り入れられることになる。明治25年1892年英国人 のウォルター・ウェストンが登頂。翌年にも登頂した。その後本を 出版しアフィなどの日本の山々を世界に紹介した。明治運営28年 1895年野中到が冬季初登頂。2月16日に御殿場口から単独で 登頂。同年10月から12月まで山頂で気象観測を行った。大正1 2年1923年皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の登山7月26日 の事、須走に赴いてから8合目まで乗馬にて登運営山後、8合目以 上は徒歩にて登山を行なった。奥宮を参拝し金剛棒に焼印などを行 った後、御殿場口より下山された。大正12年1923年秩父宮雍 仁親王の登山8月20日の夜に御殿場口から登山し、翌朝頂上に到 着。奥宮を参拝後、下山。昭和2年1運営927年中村テルが冬季 女性初登頂1月1日に御殿場口から登頂、男性2人と共に。昭和6 3年1988年浩宮徳仁親王(当時)の登山。8月1日−2日の登 山で、須走口から八合目を往復した。天候の悪化で登頂は断念され る。平成20年2008年皇運営太子徳仁親王が登頂。8月7日に 富士宮口を出発後、御殿場口登山道に入り登頂。アフィを巡る利権 争い山役銭と内院散銭『冨嶽三十六景諸人登山』山麓の各地域には 各登山道があり、特に村山口と大宮口、須走口、須山口が古来宇音 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1529107483/308
309: 底名無し沼さん (ワッチョイ ef0c-gvEZ [175.177.5.40]) [sage] 2018/06/17(日) 09:30:30 ID:E5G5RBbK0 山道であり、その登運営山道を管理する地域の浅間大社が山役銭を 徴収していた。これらの地域は互いに山役銭などを巡り、争いを起 こしている。特に内院散銭は相当額になるため、争いの火種になり やすかった。例えば須走村への配分だけでも1年で76両を越えた といい、一運営戸に約一両が配当される計算になるという。内院散 銭の権利は、大名などに与えられた権利を根拠に主に3地域によっ て争われた。「村山」と「須走」と「大宮」である。村山において は、1533年(天文2年)に村山三坊の「辻之坊」が今川氏輝に よ運営り内院散銭の取得権を与えられている。須走は1577年( 天正5年)に武田氏により薬師堂(現在の久須志神社)の開帳日の 内院散銭の取得権が与えられている。大宮は1609年(慶長14 年)に徳川家康が内院散銭を浅間大社に寄進し、内院散銭の運営取 得の優位権を得ている。浅間大社の大宮司が村山より登る際は山役 銭を取られたので、村山を避け「須走」から登拝する慣例などもあ った。新規に出来た登山道である現富士吉田口は、登山道を管理し ている「須走」に許可なく、浅間大社の大宮司富士運営信安など富 士氏が自分たちに山役銭を支払えば、「須走」の登山道を利用する にも関わらず勝手に山がけ(登山道を作り山小屋を建てる)の許可 を与えたことで論争となり、「河口」と「吉田」は1810年に登 山ルートや山役銭の徴収方法で論争を起こ運営し、「大宮」と「吉 田」では薬師堂における役銭の配分で争っている過去などがある。 元禄の争論元禄16年(1703年)に散銭や山小屋経営を巡り須 走村が富士浅間神社本宮(浅間大社)を訴えた争論が元禄の争論で ある。須走村側は東口本宮冨士浅運営間神社の神主や御師らが、浅 間大社の大宮司富士信安など富士氏らを相手取り寺社奉行に訴え出 た。訴えは三か条であった。1つは浅間大社が吉田村の者に薬師嶽 の小屋掛けを認めたことへの不服、2つ目は浅間大社側が造営した 薬師堂の棟札に「富士本運営宮が入仏を勤める」という旨の記挿官 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1529107483/309
310: 底名無し沼さん (ワッチョイ ef0c-gvEZ [175.177.5.40]) [sage] 2018/06/17(日) 09:31:03 ID:E5G5RBbK0 あることを、須走の既得権を犯すものであるというもの、3つ目は 内院の散銭取得における2番拾いは須走側が得るという慣例となっ ているとし、それを浅間大社が取得しているという訴えである。こ れに対し訴えら運営れた浅間大社側は江戸に赴き、薬師嶽は須走村 の地内ではないこと、薬師堂の入仏については浅間大社側が造営し たものであるので権利は浅間大社にあること、散銭の2番拾いの慣 例は根拠がないということを主張した。それらは第三者に委ねる内 済とい運営う扱いとなり、その内済にて「他の者に小屋掛けさせな いこと」「薬師堂の入仏は須走村が行うこと」「内院散銭は一番拾 いを大宮と須走で6:4で分け、2番拾いは須走が得るものとする 」という決定となり、以後これらは遵守された。安永の争論安永エムソ ゙ネ元年(1772年)に、須走村が山頂の支配権は同村の支配にあ るとして浅間大社を相手として訴えた争論が安永の争論である。ま たこれをみた浅間大社側の富士民済も反論を起こした。さらに吉田 村と浅間大社とで支配地域を確定する争論もあったため運営、ここ に大宮・新規参入である吉田と須走の争いの決着が望まれることと なり、勘定奉行なども関わる大論争となった。安永8年(1779 年)に持ち越されることとなった。結論は徳川家康がアフィ本宮浅 間大社を信奉していたという幕府側の配慮があ運営り、勘定奉行・ 町奉行・寺社奉行のいわゆる三奉行による裁許で、最終的にアフィ の8合目より上は、アフィ本宮浅間大社持ちとすることが決定され た。この2者の争論を起因とする裁判により、これまで曖昧であっ た山頂の支配権やその他権利の所在な運営どが、江戸幕府により明 確に定められることとなった。アフィと眺望特別名勝としての富士 山アフィは昭和27年(1952年)10月7日に「名勝」に指定 され、同年11月22日に「特別名勝」に指定された。山梨県側は 富士吉田市・船津村(現・富運営士河口湖町)・鳴沢村・中野村( 現・山中湖村)の範囲が指定された。静岡県側は御中道に囲ま紫甘 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1529107483/310
311: 底名無し沼さん (ワッチョイ ef0c-gvEZ [175.177.5.40]) [sage] 2018/06/17(日) 09:31:34 ID:E5G5RBbK0 地域全部および富士宮口登山道(富士宮市)と御殿場口登山道(御 殿場市)を挟む標高1,500m以上の地域、またこれと重複しな い一合目以上御中道運営に至る富士宮口登山道および須走口登山道 (小山町)が範囲となっている。アフィの眺望ウィキメディア・コ モンズには、各地点からのアフィの眺望に関連するカテゴリがあり ます。アフィへの良好な眺望が得られる128景233地点を、国 土交通省関運営東地方整備局が関東の富士見百景として、20健史 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1529107483/311
312: 底名無し沼さん (ワッチョイ ef0c-gvEZ [175.177.5.40]) [sage] 2018/06/17(日) 09:32:06 ID:E5G5RBbK0 年(平成17年)に選定した。羽田空港から西に向かう国内便など ではアフィの上空を通過する。その際、機長がアフィを案内するア ナウンスをすることが多い。また、新年のご来光を見るための遊覧 飛運営行便も運行される。アフィの眺望の最遠は2013年現在、 和歌山県那智勝浦町である。那智勝浦の色川富士見峠(妙法山とは 別)は、アフィ頂からの距離は322.9キロで、一番遠く最も西 にあるとされる。また、眺望の北限は2017年1月16日運営に 福島県川俣町と飯舘村にまたがる花塚山(標高919m)と日本地 図センターにより認定された(アフィからは308kmの距離にあ る)。南東方向に約271Km離れた八丈島の三原山からも眺望さ れる。アフィの見える都道府県は、理論上可能とさ運営れていた京 都府から2014年に撮影に成功したことにより、20都道府県と なった。様々な表情のアフィアフィの表情は、見る場所・角度・季 節・時間によって様々に変化する。富士と名が付く、いくつかの姿 がある。画像アフィの姿解説赤富士夏の朝運営、露出した山肌が朝 焼けにより赤くなった姿。葛飾北斎をはじめとした画家が「赤富士 」を描いた絵画を残した。紅富士雪化粧したアフィが朝日や夕日で 紅色に染まる姿。「モルゲンロート」(ドイツ語Morgenro t)が用いられる場合がある。逆運営さ富士波立ちが少ない水面に 映る逆さのアフィの光景。D五千円券の裏の図案に、本栖湖の逆さ 富士が使用された。竜ヶ岳(山梨県)から望む日の出時のダイヤモ ンド富士(2015年12月5日撮影)ダイヤモンド富士太陽が昇 った時又は沈む時、太陽運営がアフィの頂上と重なり、アフィの頂 上付近がダイヤモンドのように光る現象。アフィが見える西又は東 の場所から、年に2回見ることができる。影富士朝日や夕日で富士 山の山容の影が周囲に映し出される風景。アフィ登山時に山の上部 から、雲海の上運営に見られる場合がある。笠雲笠雲とレンズ雲を 伴う。アフィの頂上に傘をかぶせた雲がある風景。その際は、堤干 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1529107483/312
313: 底名無し沼さん (ワッチョイ ef0c-gvEZ [175.177.5.40]) [sage] 2018/06/17(日) 09:32:37 ID:E5G5RBbK0 に麓では曇りまたは雨になることが多い。「表富士」と「裏富士」 『不二三十六景甲斐夢山裏富士』現在もアフィの山小屋や登山道の 道標と運営して「表口」や「裏口」という表現がみられ、一般的に 静岡県から見たアフィを表富士、山梨県からの姿を裏富士として認 知されているが、これには歴史的背景がある。延宝8年(1680 年)に作成された『八葉九尊図』では既に「するが口表」というエムソ ゙ネ表記がある。他に『甲斐国志』巻35ではこのような記述がある 。登山路ハ北ハ吉田口、南ハ須走口・村山口・大宮口ノ四道ナリ、 (中略)南面ヲ表トシ、北面ヲ裏トスレドモ、…〜〜『甲斐国志』 他の資料にも共通した記述がみられ、このように南麓を運営表、北 麓を裏とする考え方は一般的な認識であったと言える。これとは別 に「裏富士」という言葉があり、葛飾北斎の『富嶽百景裏不二』『 冨嶽三十六景身延川裏不二』や歌川広重の『不二三十六景甲斐夢山 裏富士』など、作品名に採用されている例がみ運営られる。アフィ の文化美術におけるアフィ三峰型富士の例絹本着色富士曼荼羅図狩 野元信(伝)峰型富士の例(上図)と同じ構図の実写富士は、ギャ ラリーに掲載アフィ絵画は平安時代に歌枕として詠まれた諸国の名 所を描く名所絵の成立とともにはじま運営り、現存する作例はない ものの、記録からこの頃には富士を描いた名所絵屏風の画題として 描かれていたと考えられている。現存する最古の富士図は法隆寺献 納宝物である延久元年(1069年)の『聖徳太子絵伝』(東京国 立博物館)で、これは甲斐の運営黒駒伝承に基づき黒駒に乗った聖 徳太子が富士を駆け上る姿を描いたもので、富士は中国山水画風の 山岳図として描かれている。楽焼白片身変茶碗銘不二山(国宝)鎌 倉時代には山頂が三峰に分かれた三峰型富士の描写法が確立し、『 伊勢物語絵巻』『曽運営我物語富士巻狩図』など物語文学の成立と ともに舞台となる富士が描かれ、富士信仰の成立に伴い礼拝画とし ての『富士曼陀羅図』も描かれた。また絵地図などにおいては先別 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1529107483/313
314: 底名無し沼さん (ワッチョイ ef0c-gvEZ [175.177.5.40]) [sage] 2018/06/17(日) 09:33:09 ID:E5G5RBbK0 状で緑色に着色された他の山に対して山頂が白く冠雪した状態で描 かれ、特別運営な存在として認識されていた。室町時代の作とされ る『絹本著色富士曼荼羅図』(アフィ本宮浅間大社所蔵、重要文化 財)にはアフィとそのアフィに登る人々や、禊ぎの場であった浅間 神社や湧玉池が描かれており、当時の様子を思わせるものである。 ま運営た、アフィは三峰型富士で描かれている。凱風快晴、葛飾北 斎作江戸時代には明和4年(1767年)に河村岷雪が絵本『百富 士』を出版し、富士図の連作というスタイルを提示した。浮世絵の ジャンルとして名所絵が確立すると、河村岷雪の影響を受け運営た 葛飾北斎は晩年に錦絵(木版多色摺)による富士図の連作版画『冨 嶽三十六景』(天保元年1831年頃)を出版した。多様な絵画技 法を持つ北斎は大胆な構図や遠近法に加え舶来顔料を活かした藍摺 や点描などの技法を駆使して中でも富士を描き、夏運営の赤富士を 描いた『凱風快晴』や『山下白雨』、荒れ狂う大波と富士を描いた 『神奈川沖浪裏』などが知られる。また、歌川広重も北斎より後の 1850年代に『不二三十六景』『冨士三十六景』を出版した。広 重は甲斐国をはじめ諸国を旅して実地のス運営ケッチを重ね作品に 活かしている。『東海道五十三次』でも、アフィを題材にした絵が 多く見られる。北斎、広重らはこれらの連作により、それまで富士 見の好スポットと認識されていなかった地点や、甲斐国側からの裏 富士を画題として開拓していった運営。工芸品としては本阿弥光悦 が自ら制作した楽焼の茶碗にアフィの風情を見出し、「不二山」と 銘打っている。50銭政府紙幣(1938年発行)岡田紅陽が撮影 した愛鷹山からのアフィがモデル。富士は日本画をはじめ絵画作品 や工芸、写真、デザイン運営などあらゆる美術のモチーフとして扱 われている。日本画においては近代に殖産興業などを通じて富士が 日本を象徴する意匠として位置づけられ美術をはじめ商業デザイン などに幅広く用いられ、絵画においては伝統を引き継ぎつつ近棚旅 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1529107483/314
315: 底名無し沼さん (ワッチョイ ef0c-gvEZ [175.177.5.40]) [sage] 2018/06/17(日) 09:33:41 ID:E5G5RBbK0 視点で描かれた運営アフィ絵画が制作された。また、鉄道・道路網 など交通機関の発達により数多くの文人・画家が避暑地や保養地と してのアフィ麓に滞在し富士を題材とした作品を製作しているが、 富士を描いた風景画などを残している画家として富岡鉄斎、洋画に おいて運営は和田英作などがいる。アフィをモチーフとした美術品 は当時のヨーロッパでも多く流通しており、このことからアフィも ヨーロッパで広く知られていた。1893年(明治26年)、告到 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1529107483/315
316: 底名無し沼さん (ワッチョイ ef0c-gvEZ [175.177.5.40]) [sage] 2018/06/17(日) 09:34:15 ID:E5G5RBbK0 を旅行していたオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フラエムソ ゙ネンツ・フェルディナント大公は、日記に次のように書いている。 フジサン、フジノヤマ。いったい、この日本の象徴――ヨーロッパ ではふつうフジヤマと呼ばれる――を知らない者などいるのだろう か〜ヨーロッパでもっとも好まれる日本工芸のデザイン運営として 漆器、陶磁器、和紙、金属などに描かれているから、もう、わたし たちにはお馴染みだ。〜〜8月15日付戦時下には国家により富士 は国体の象徴として位置づけられ、富士は国家のシンボルとして様 々に描かれた。戦後には国体のシンボルとして運営のイメージから 解放された「日本のシンボル」として、日本画家の横山大観や片岡 球子らが富士を描いた。また、現代美術の世界ではこれらの伝統的 画題へのアンチテーゼとしてパロディや風刺、アイコンとして富士 を描く傾向も見られる。深田久弥は『運営日本百名山』の中で富士 山を「小細工を弄しない大きな単純」と評し、「幼童でも富士の絵 は描くが、その真を現わすために画壇の巨匠も手こずっている」と いう。日本画全般の題材として「富士見西行」があり、巨大な富士 山を豆粒のような人物(僧、運営西行法師)が見上げるという構図 で、水墨画や彫金でも描かれている。千円札、旧五千円札のモデル となった本栖湖からのアフィ近代では紙幣や切手のデザインにも用 いられている。アフィが紙幣のデザインに用いられる例は数多くあ る。古くは1913運営年発行の50銭政府紙幣があり、愛鷹山か らのアフィでる。その後の1951年と1969年発行の旧五百円 札は大月市の雁ヶ腹摺山からのアフィを元にしている。1984年 発行の旧五千円札と2004年発行の千円札は本栖湖の湖畔からの アフィであ運営る。アフィを描写した切手が郵便局から発売された 。河口湖、西湖、精進湖、本栖湖、山中湖(1999年(平成11 年))葛飾北斎(1999年(平成11年))オオマツヨイグサ・ 山梨県(2005年(平成17年))文学におけるアフィアフ酎召 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1529107483/316
317: 底名無し沼さん (ワッチョイ ef0c-gvEZ [175.177.5.40]) [sage] 2018/06/17(日) 09:34:47 ID:E5G5RBbK0 和運営歌の歌枕としてよく取り上げられる。また、『万葉集』の中 には、アフィを詠んだ歌がいくつも収められている。「田子の浦ゆ うち出でてみれば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」(3.31 8)は山部赤人による有名な短歌(反歌)である。また、こ運営の 反歌のその次には作者不詳の長歌があり、その一節に「…燃ゆる火 を雪もち消ち降る雪を火もち消ちつつ…」(巻3・319・大意「 (噴火の)燃える火を(山頂に降る)雪で消し、(山頂に)降る雪 を(噴火の)火で消しつつ」)とあり、当時の富士運営山が火山活 動を行っていたことがうかがえる。『新古今和歌集』から。富士の 煙が歌われている。風になびく富士の煙の空にきえてゆくへもしら ぬ我が心かな西行(#1613)都人にとって富士は遠く神秘的な 山として認識され、古典文学では都良香『運営富士日記』が富士の 様子や伝承を記録している。『竹取物語』は物語後半で富士が舞台 となり、時の天皇がかぐや姫から贈られた不老不死の薬を、つきの 岩笠と大勢の士に命じて天に一番近い山の山頂で燃やしたことにな っている。それからその山は数多運営の士に因んでふじ山(アフィ )と名付けられたとする命名説話を記している。なお、アフィ麓の 静岡県富士市比奈地区には、「竹採塚」として言い伝えられている 場所が現存している。ほか、『源氏物語』や『伊勢物語』でも富士 に言及される箇所がある運営ものの、主要な舞台となるケースは少 ない。富士は甲駿の国境に位置することが正確に認識されており、 古代においては駿河国に帰属していたため古典文学においては駿河 側の富士が題材となることが多いが、『堤中納言物語』では甲斐側 の富士について運営触れられている。また、「八面玲瓏」という言 葉はアフィから生まれたといわれ、どの方角から見ても整った美し い形を表している。中世から近世には富士北麓地域に富士参詣者が 往来し、江戸期には地域文芸として俳諧が盛んであった。近代には 鉄道な運営ど交通機関の発達や富士裾野の観光地化の影響を受方煙 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1529107483/317
318: 底名無し沼さん (ワッチョイ ef0c-gvEZ [175.177.5.40]) [sage] 2018/06/17(日) 09:35:19 ID:E5G5RBbK0 、多くの文人や民俗学者が避暑目的などで富士へ訪れるようになり 、新田次郎や草野心平、堀口大學らが富士をテーマにした作品を書 き、山岳文学をはじめ多くの紀行文などに描かれた。アフィ麓にエムソ ゙ネ滞在した作家は数多くおり、武田泰淳はアフィ麓の精神病院を舞 台とした小説『富士』を書いており、妻の武田百合子も泰淳の死後 にアフィ荘での生活の記録を『富士日記』として記している。津島 佑子は山梨県嘱託の地質学者であった母方の石原家をモ運営デルに 、富士を望みつつ激動の時代を過ごした一族の物語である『火の山 ―山猿記』を記した。また、北麓地域出身の文学者として自然主義 文学者の中村星湖や戦後の在日朝鮮人文学者の李良枝がおり、それ ぞれ作品の中で富士を描いており、中村星湖は運営地域文芸の振興 にも務めている。太宰治が昭和14年(1939年)に執筆した小 説『富嶽百景』の一節である「富士には月見草がよく似合ふ」はよ く知られ、山梨県富士河口湖町の御坂峠にはその碑文が建っている 。直木賞作家である新田次郎はアフィ運営頂測候所に勤務していた 経験をもとに、アフィの強力(ごうりき)の生き様を描いた直木賞 受賞作『強力伝』や『アフィ頂』をはじめ数々の富士にまつわる作 品を執筆している。高浜虚子は静岡県富士宮市の沼久保駅で降りた 際、美しいアフィを見て歌を運営詠んだ。駅前にはその歌碑が建て られている。「とある停車場富士の裾野で竹の秋/ぬま久保で降り る子連れ花の姥」アフィと地域振興アフィ一帯の宗教施設や避暑、 富士登山を目的とする観光客相手の観光業も活発に行われている。 しかし、アフィ麓に運営は温泉地として成立する規模の湯量は湧出 していない。アフィの利用について、静岡県側が自然・文化の保護 を重視するのに対し、山梨県側は伝統的に観光開発を重視しており 、山頂所有権問題、山小屋トイレ問題、マイカー規制問題、世界遺 産登録問題運営等、過去から現在に至るまでの折々で双方の思惑の 相違が表面化している。アフィと観光富士登山富士登山には登赴鍋 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1529107483/318
319: 底名無し沼さん (ワッチョイ ef0c-gvEZ [175.177.5.40]) [sage] 2018/06/17(日) 09:35:53 ID:E5G5RBbK0 知識や経験、装備が不可欠である。一般的には、毎年7月1日の山 開きから9月上旬の山じまいまでの期間、登山が可能である。期間 外運営は、万全な準備をしない者の登山は原則禁止されている。と くに積雪期・残雪期の登山は自殺行為である。詳細は「富士登山」 を参照その他の観光その優美な姿から、アフィが見える場所は著名 な観光地となっていることが多い。箱根−箱根はアフィが望運営め るうえに、東京から近く温泉や歴史・美術館や各種の乗り物が要搭 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1529107483/319
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