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137: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:22:08 ID:fQcMv/55 域について2009年8月26日平成21年度山梨県保存管理計画 策定ワーキング・アフィ世界文化遺産登録への取組状況について・ 山梨県保存管理計画の策定について2運営010年3月16日平成 21年度第3回山梨県・静岡県学術委員会・保存管理計画の考え方 について2010年6月30日平成22年度第1回山梨県保存管理 計画検討部会静岡県の経緯2007年7月5日平成19年度第1回 静岡県保存管理計画検討部会運営・保存管理計画について−7雑波 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/137
138: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:22:49 ID:fQcMv/55 008年1月23日現地調査2008年1月30日平成19年度第 2回静岡県保存管理計画検討部会・包括的保存管理計画検討部会の 審議結果・静岡県保存管理計画について2008年2月21日平成 19年度第3回山梨運営県・静岡県学術委員会・各県保存管理計画 検討部会の審議結果2008年7月16日平成20年度第1回静岡 県保存管理計画検討部会・包括的保存管理計画検討部会の報告・静 岡県保存管理計画について2008年9月9日平成20年度静岡県 保存管理計運営画検討部会第1回庁内連絡会議・アフィの世界文化 遺産登録推進の取組について・静岡県保存管理計画の策定について 2009年2月12日現地調査2009年6月1日平成21年度第 1回静岡県保存管理計画策定協力者部会・アフィの世界文化遺産登 録運営推進の取組について・静岡県保存管理計画の策定について2 009年6月17日平成21年度第1回静岡県保存管理計画検討部 会・静岡県保存管理計画の策定について・アフィの緩衝地帯に関す る考え方2009年7月13日平成21年度静岡県保存管理運営計 画検討部会第1回庁内連絡会議2009年10月29日平成21年 度静岡県保存管理計画検討部会第2回庁内連絡会議2009年11 月25日平成21年度第2回静岡県保存管理計画策定協力者部会2 010年1月29日平成21年度第3回静岡県保存運営管理計画策 定協力者部会2010年3月16日平成21年度第3回山梨県・静 岡県学術委員会・保存管理計画の考え方について2010年6月3 0日平成22年度第1回静岡県保存管理計画検討部会(2)学術委 員会・保存管理計画検討部会組織学術委員運営会及び保存管理計画 検討部会の組織は図に示すとおりである。また、その構成は表〜の とおりである。(1)行政計画との関連・連携構成資産及び緩衝地 帯を有する山梨県・静岡県及び関係市町村では、まちづくり、観光 、防災などに関する各種計画を策運営定し、実施している。これら の計画は、包括的保存管理計画と密接に関連し、日常的に連携天鉄 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/138
139: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:23:28 ID:fQcMv/55 りつつ実施されている。表包括的保存管理計画に関連する計画(山 梨県)計画名称策定年等?資産に影響する可能性がある個別の開発 計画大規模集客施設等の運営立地に関する方針(山梨県)2010 年1月ゴルフ場造成に事業に関する今後の取扱いについて(山梨県 )1993年10月−17−明神峠自然環境保全地域保全計画昭和 50年策定静岡県森林共生基本計画平成19年3月策定富士地域森 林計画書平成1運営8年4月策定?資産に影響する可能性がある個 別の開発計画企業立地促進法に基づく静岡県東部地域基本計画(静 岡県及び14市町)平成21年2月策定市町村森林整備計画平成1 8年4月策定−18−(富士宮市・富士市・裾野市・御殿場市・小 山町)運営(2)計画の実施今回提出するアフィ包括的保存管理計 画は、20年月から既に実施され機能されているものである。−1 9−第2章構成資産の概要1構成資産の一覧世界遺産「アフィ」の 構成資産の種別、位置、面積、緩衝地帯の面積、所在地についてエムソ ゙ネは、以下の表に示すとおりである。表構成資産の一覧大種別分類 小分類構成資産世界遺産条約文化財保護法自然公園法所在地位置資 産面積(ha)緩衝地帯面積(ha)Aアフィ(山体)(御中道含 む)遺跡特別名勝史跡山頂信仰遺跡(奥宮、お鉢巡り)運営遺跡特 別名勝史跡A2大宮・村山口登山道遺跡特別名勝史跡A3須山口登 山道遺跡特別名勝史跡A4須走口登山道遺跡特別名勝史跡A5吉田 口登山道遺跡特別名勝史跡静岡県(富士宮市、裾野市、御殿場市、 小山町)山梨県(富士吉田市、身延町、鳴沢村運営、富士河口湖町 )県境未確定地″A6北口本宮冨士浅間神社遺跡建造物記念工作物 特別名勝史跡重要文化財A7西湖遺跡名勝A8精進湖遺跡名勝A9 本栖湖遺跡名勝BB1アフィ本宮浅間大社遺跡建造物記念工作物重 文静岡県富士宮市B14人穴富士講遺運営跡遺跡市史跡静岡県富士 宮市NEB15白糸ノ滝遺跡名勝・天然記念物静岡県富士宮市NE C三保松原文化的景観遺跡静岡県静岡市NE2資産及び緩衝地炊付 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/139
140: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:24:08 ID:fQcMv/55 の範囲「アフィ」の顕著な普遍的価値を表す構成資産の保護を確実 にし、各構成資産における富運営士山体への良好な眺望を保証する ために、個々の構成資産の周囲に必要十分な範囲の緩衝地帯を設定 する。さらに、個々の構成資産間の関係を良好に保ち、アフィの景 観の一体性・連続性を保証するために、緩衝地帯を含め、広く保全 管理区域を設定する運営。構成資産の位置及びその周辺地域である 緩衝地帯、保全管理区域の範囲については、図に示すとおりである 。図「アフィ」の範囲(構成資産・緩衝地帯)アフィ山体の範囲に ついては、現在特別名勝アフィに指定されている区域だけでなく、 その周辺部運営にあたる標高約1,500m付近までとした。この 範囲において、特別名勝の区域は文化財保護法で保護され、特別名 勝指定地外から標高1,500mの区域については自然公園法と森 林法で保護されている。緩衝地帯との境については林班により線引 き運営を行い、県道などの人工物の改修工事等への影響が軽減する よう配慮した。そして本栖湖、精進湖、西湖までをアフィの山体と して考え、範囲付けしたことは、展望地点から山頂までを連続して 保護するための措置である。緩衝地帯の範囲については、当運営初 国道469号から県道72号にかけてのアフィ側を計画していたが 、国際専門家から飛び地の資産である、アフィ本宮浅間大社や山宮 浅間神社を緩衝地帯に含めるべきだとの指摘があり、市道を境に緩 衝地帯を設定した。その際、アフィ本宮浅間大社か運営らのアフィ の眺望を確保するため、アフィに向かって約36度の広がりで設定 した。この範囲については、文化財保護法以外の法律を適用し、自 然公園法、森林法、景観法で保護されている。保全管理区域の範囲 については、三保松原からアフィを眺望す運営る際、その阻害要因 を軽減させるために、溶岩が流出した範囲を基本として設定した。 そのため、静岡県側においては、裾野市、御殿場市、小山町に流出 している溶岩流の範囲については、保全管理区域とはしていな察騰 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/140
141: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:24:46 ID:fQcMv/55 なお、保全管理区域についても、運営森林法と景観法で保護されて いる。アフィ山体の東に位置する、演習場(北富士演習場・東富士 演習場)については、従前より大規模開発が予定されていないこと から、緩衝地帯同様に資産を緩衝することが可能な区域であると言 える。3構成資産の概要運営構成資産及び保存管理状況の概要につ いては、以下に記すとおりである。構成資産の詳細については、推 薦書本文にて説明を行っている。保存管理状況等の詳細につい鐘次 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/141
142: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:25:26 ID:fQcMv/55 、構成資産毎に策定されている個別の保存管理計画等において、そ れぞれ具体的内運営容を含めた説明を行っている。なお、p18, 19表のA〜Cは次のように分類し、整理したものである。A富士 山山体及び登山道B信仰に関わるものCアフィの眺望に関わるもの (1)アフィ山体及び登山道Aアフィ標高3776mを測るアフィ は、日運営本を代表し、象徴する日本最高峰の秀麗な独立火山であ る。その自然的な美しさと崇高さを基盤として、日本人の自然に対 する信仰のあり方や、日本独自の芸術文化を育んだ名山でもある。 アフィは山岳に対する信仰の在り方や芸術活動などを通じ、時代エムソ ゙ネを超えて一国の文化の諸相と極めて深い関連性を示し、生きた文 化的伝統の物証であるのみならず、人間と自然との良好で継続的な 関係を示す景観の傑出した類型として、世界的にも類例を見ない顕 著な普遍的価値を持つ山である。世界文化遺産としての運営アフィ とは、アフィ山体の内、標高約1500m以上の範囲である。この 範囲は、アフィ周辺の主要な神社や景勝地から見た可視領域が重な り合う範囲であるとともに、各登山道における山体の神聖性に関す る境界の一つである「馬返」の標高とほぼ一致運営する。なお、「 馬返」とは、乗馬登山が物理的にも、宗教的観点からも不可能にな る地点を示す。景観的には山体の傾斜角の変化率が大きくなり「平 野部」と「山体」の境界として認識され、稜線が優美な曲線を描き 、絵画などの対象とされることが多い運営範囲である。写真上空か ら見た写真に資産範囲を線で示したもの(推薦原案と同じもの)− 21−−22−標高約2500m付近の森林限界より上方は富士講 信者には「焼山」と呼ばれ、神聖な地域あるいは死後世界である「 他界」と考えられていた。ま運営た、登山道ごとに標高は異なるが 、1779年以降、浅間大社の境内地とされてきた八合目以上はよ り強い神聖性を持つとされる。理由は八合目の標高とほぼ一致する 噴火口である「内院」の底部に浅間大神が鎮座するとの信仰に益綱 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/142
143: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:26:06 ID:fQcMv/55 く。アフィ頂へ向か運営い、登山の歴史の中で開鑿された登山道が 、現在の4本の登山道の起源となっている。また、ほぼ森林限界に 沿い、アフィ山体を一周する「御中道」が15〜16世紀ごろ富士 講の祖とされる長谷川角行によって開かれたとされ、その後「大沢 崩れ」とい運営う危険箇所を通るため、富士講信者により修行の道 として利用された。表法的保護、修理・整備の経緯1924年史蹟 名勝天然紀念物保存法の下に名勝に仮指定1936年国立公園法の 下に(富士箱根)国立公園に指定1952年文化財保護法の下に名 勝運営、ついで特別名勝に指定1969年国が大沢崩れに対する砂 防事業に着手(継続中)1996年国・県が台風による森林の風倒 被害に対する対策に着手(継続中)「御中道」は、標高2,300 m付近から2,800m付近の山腹を通り、アフィの中腹部運営を 時計回りに一周する約25kmの道である。「御中道巡り」は、修 験道の祖とされる役行者が始めたと伝えられ、16世紀後半、富士 講の基礎を築いた長谷川角行が行ったことが記録されている。古く は定まった道もなく巡ったとされ、富士講が盛んに運営なった江戸 時代後期には一定の道が整備された。アフィ信仰の上では、山体西 側の大沢崩れを渡るという危険を伴う最大級の大行の道とされてい た。富士登山3回以上の経験を持ち、誓約書を御師に提出し、神へ の伺いをたてた上でないと許可されないほ運営ど厳しいものであっ た。この御中道の巡拝を無事終えると、その証である「御許し」を 御師から受けることができた。1816年の資料では年間100人 以上が御中道巡りを行っているが、1977年の転落事故で通行止 めとなり、現在では一周すること運営はできなくなっている。写真 御中道の写真A1山頂信仰遺跡(アフィ本宮奥宮)アフィ山頂部の 火口壁沿いに、いくつかの神社及び宗教関連施設が所在する。富士 山への信仰登山が開始されると、修験道の影響を受け山頂部におい て寺院の造営や仏像等の運営奉納がおこなわれるとともに、山甲鎌 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/143
144: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:26:46 ID:fQcMv/55 での宗教行為が体系化されていった。登拝者は山頂周辺において「 御来光」を拝み、内院と呼称される噴火口に鎮座すると言われる神 仏を拝した。また、火口壁にいくつかあるピークを仏教の曼荼羅に おける仏の世界運営に擬して巡拝する「お鉢めぐり(八葉めぐり) 」と呼ばれる行為を行なうことが一般的であった。山頂の宗教的施 設は、12世紀中ごろ、修行僧末代により建立された大日寺(大日 堂)が最初とされ、その後、経典・懸仏・仏像等の山頂部への奉納 ・埋納運営や内院への散銭が行われた。また、遅くとも17世紀に は、大宮・村山口山頂部に大日堂が、吉田・須走口山頂部に薬師堂 が造営された。この様子は19世紀中ごろの絵図によって確認でき る。1874年、山頂の仏教的施設及び仏像は廃仏毀釈の影響にエムソ ゙ネよって撤去され、ピークの名称も変更され、寺院は神社に改変さ れた。しかし、山頂部に対する信仰自体は変化することなく、上記 の行為は現代の−23−登山者の多くが行っており、これらを通じ て富士信仰の核心が現代に受け継がれている。写真奥宮運営の写真 表法的保護、修理・整備の経緯1924年所在地が史蹟名勝天然紀 念物保存法の下に名勝に仮指定1936年所在地が国立公園法の下 に(富士箱根)国立公園に指定1952年所在地が文化財保護法の 下に名勝、ついで特別名勝に指定2008年財運営団法人静岡県埋 蔵文化財調査研究所により現地調査が行われ、その成果に基づき2 010年に「史跡アフィ保存管理計画」が策定された2010年文 化財保護法の下に他の文化財とともに史跡アフィとして指定山頂の 噴火口の周囲を一周し、頂上の各峰を運営巡る行為は、古くから「 お鉢巡り」と呼ばれ、現在も多くの人々に受け継がれている。13 世紀後半の資料には「いたゞきに八葉の嶺あり」との記載があり、 このころには山頂の峰々に信仰的意義を見出していたことが伺える 。16世紀前半には地元為政運営者が「八要メサルヽ也」との記述 も見られ、後に盛んになるお鉢巡りの古態と思われる習俗があ互謄 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/144
145: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:27:25 ID:fQcMv/55 ことが知られる。富士講講中の多くは、頂上に着くと、時計回りに 山頂を巡っていった。内院に賽銭を投じ、御来光を礼拝し、途中に あるいくつかの仏像運営や石碑を拝みながら、大日寺(現奥宮)の 大日如来、最高峰の剣ヶ峰、釈迦割石、霊泉とされた金明水などを 巡礼した。写真お鉢めぐりの写真A2大宮・村山口登山道アフィ南 西麓の浅間大社及び村山浅間神社を起点とし、山頂大日岳に至る登 山道である運営。12世紀前半、アフィで修行した末代上人の坑植 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/145
146: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:28:05 ID:fQcMv/55 した登山道が起源だとされ、14世紀初め、僧の頼尊が修験者とそ の活動を組織化したことで、村山を基点とする登山が行われていた ことが推測できる。15世紀に入ると村山での宿坊の存在が確認で き運営、同世紀前半には、地元支配者である今川氏により発心門等 の施設が寄進されたとの記録がある。今川氏は1552年、村山を 神聖な地と定め、村山三坊には山役銭の徴収権を与えている。この 権利は19世紀後半まで継続し、浅間大社が登山道の管理に運営関 わることはなかった。一方、16世紀ごろ、浅間大社は湧玉池での 水垢離を重要な儀式と位置づけることによって、浅間大社を経由し た登拝を喧伝した。浅間大社には16世紀前半に30余りの道者坊 があったことが伝えられ、同時期の絵図である「絹運営本著色富士 曼荼羅図」には浅間大社・湧玉池及び村山浅間神社を経由して登山 する人々の姿が描かれている。道者坊はその後統合され、19世紀 前半には5坊となった。また、1600年頃以降、地元支配者によ り、大宮を経て村山口登山道を利用するこ運営とが求められた。登 山道中の宗教施設は、17世紀初頭までに建設され、石室などの施 設は主に17世紀後半、興法寺から許可を受けた先達により建設さ れたが、1707年の宝永噴火で登山道と共にことごとく破壊され た。これらは再建されたが、その運営復興は須走口より遅かった。 主要な宗教施設としては発心門、中宮八幡堂、室大日などがあった 。登拝者は興法寺の檀所や浅間大社の道者場としていた静岡県西部 地方を含む西日本の人々が多かった。なお、1532年以降不連続 であるが、登拝者の記録運営が残され、その数は18世紀後半から 19世紀初頭の道者坊の記録より、御縁年で2,000人前後、平 年で数百名程度と推測できる。1826年の記録ではその数が減少 し、村山の村落も衰退していたとの記述もあるが、1860年、初 の外国人登山と運営なる英国公使オ−24−ールコックは大宮を経 由して村山に宿泊し、山頂をめざした。彼の記録では大鏡坊、挟始 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/146
147: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:28:44 ID:fQcMv/55 八幡堂の存在や登山道の様子が確認できる。明治維新以降、女人登 山の解禁もあり、登山者は増加傾向を示すが、1889年、東海道 線の開運営通による御殿場口利用者の増加により衰退し、これへの 対策として1906年、村山を経由せず4km短縮された大宮新道 (カケスバタ口)が建設されたため、大宮から現六合目までの村山 口登山道は登山道としての機能を失い、その歴史を閉じた。現在エムソ ゙ネは、林道の建設に雨水による侵食も加わり、一部を除き登山道跡 の推定は困難な状態であり、道標、地蔵・不動明王像、建物跡など をある程度たどることができるのみである。写真大宮・村山口登山 道の写真A3須山口登山道アフィ南東麓、須山浅間神社運営を起点 とし、山頂部浅間嶽(駒ケ嶽)に至る登山道である。その起源は明 確ではないが、1200年の資料には大宮・村山口、吉田口、須山 (珠山)口以外には登山道がないことが述べられている。1486 年の京都の僧による資料(廻国雑記)では、「運営すはま口」の名 が確認できる。登山道および山頂部銀明水は須山浅間神社及び12 軒の御師を中心とした須山村により管理されていた。ただし、銀明 水の管理を巡り、須走村と争いになった際は浅間大社の裁定を仰い でいる。登山道には宝永噴火前の状況運営を描いた絵図で須山御胎 内に附属する御胎内神社等の宗教施設と山室がみられる。これらの 施設及び登山道はその中腹より噴火した宝永噴火により壊滅し、御 縁年の1740年に復興したが永続せず、1780年にようやく復 興した。また、1880年代運営の記録では御室浅間神社、中宮浅 間社、御胎内等の宗教施設と4箇所の石室があることが確認できる 。中宮浅間社や水呑浅間は村山修験の富士峯修行の行場としても使 用された。登拝者については詳しい研究が進んでいないが、西日本 ・東日本両方からの運営登山者があったことが、宿帳及び案内立札 の立地から確認できる。登拝者数は御縁年に当たる1800年に約 5,400人、1840年代前半は年平均約1,700人、続添副 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/147
148: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:29:21 ID:fQcMv/55 860年の御縁年には約3,600人であった。登拝者は神仏分離 令後も継続運営していたが、1883年、須山口二合八勺に接続す る御殿場口登山道が開鑿された。また、1889年に東海道本線が 開通し、御殿場口の利便性の向上により須山口からの登拝者や登山 者が減少することとなった。1912年には、登山道の一部が陸軍 演運営習場となり使用不可能となったため、須山口からの登拝(登 山)は衰退し現在に至っている。二合八勺以下の登山道で当時の道 が確認できる部分は一部のみである。また、1999年、地元住民 により須山口下山歩道の名でかつての登山道の一部が復興さ運営れ た。写真須山口登山道の写真A4須走口登山道アフィ東麓の冨士浅 間神社を起点とし、八合目で吉田口登山道と合流して山頂久須志岳 に至る登山道である。その起源は明確ではないが、六合目からは1 384年の銘のある掛仏が出土している。文献から運営は「勝山記 」の1500年6月の項に、関東地方での戦乱を避け、吉田口を利 用すべき登拝者が須走口に集中したことが確認できる。遅くとも1 7世紀までに、冨士浅間神社及び須走村が登山道山頂部までを支配 し、薬師嶽(現久須志岳)における石室建運営設の独占、薬師堂の 開帳・入仏などを行った。また、内院および薬師堂の散銭取得権も 浅間大社に次ぐ権利を有していた。冨士浅間神社及び須走村は、1 703年と1772年の2回幕府に訴え、これらの権利について八 合目以上の支配権を主張する浅間運営大社と争い、正式に権利を認 められた。−25−登山道の施設は1683年の資料等で詳細が確 認でき、大日堂、御室浅間神社、古御岳神社等の宗教施設と共に、 小屋・石室が山頂部まで設置されている。1707年の宝永噴火で は、これらの施設及び麓運営の浅間神社、須走村は約3mの降砂に 覆われ壊滅したが、江戸幕府の支援を受け、翌年の登拝期までには 復興を完了し、多くの登拝者を集めた。18世紀半ばには800名 前後に減少したとの資料があるが、18世紀後半、相模の大山籠複 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/148
149: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:30:03 ID:fQcMv/55 や関本の道了尊運営とセットにされた参詣の流行で登拝者数は増加 し、年平均約1万人、1800年の御縁年に23,700人とピー クを迎えた。登拝者は関東地方の富士講関係者が多く、東北地方か らの登拝者も見られる。講によっては吉田口から登山し、砂道で下 山に適運営した須走口へ下山する形をとった。また、1831年、 須走口山頂部に宝経塔が作られたことにより、日蓮宗の信徒による 登拝も増加した。1889年の東海道線開通による御殿場口、牲芯 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/149
150: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:30:40 ID:fQcMv/55 び1903年の中央線開通による吉田口の利便性の向上で、距離エムソ ゙ネが長い須走口は敬遠されるが、御殿場口の下山道として利用され 続けた。1909年より登山道の周囲に石垣を築き、1916年に は、八合目まで馬による登山が可能になった。八合目以上は浅間大 社境内地という理由で馬の利用は行われなかった。また運営、19 23年に皇太子(昭和天皇)の登山に利用されている。1959年 、バス道路(現ふじあざみライン)の完成により、五合目以下の登 山道の利用は減少し、一部登山道としての確認ができない区間があ る。写真須走口登山道の写真A5吉田口登山道運営北口本宮冨士浅 間神社を起点とし、アフィ頂を目指す道である。15世紀には、富 士山への登拝が、修験者だけでなく、ごく一般の人々の間にも広ま っていた。吉田口は14世紀後半には参詣の道者のための宿坊もで き始め、大勢の人々が登るための設備運営が整うようになった。1 6世紀から17世紀、長谷川角行が吉田口を利用して修行を行い、 18世紀前半には富士講隆盛の礎を築いた食行身禄は、入定(宗教 的自殺)にあたって信者の登山本道をこの吉田口と定めた。このた め、富士講の信者が次第に増運営加した18世紀後半以降は、年間 数万人を数える富士講の道者が登拝したとされる。1964年に富 士山有料道路が開通した後は、ほとんどの登山者が新五合目(小御 岳)を起点として登るようになったため、五合目以下の道を利用す る登山者は激減した運営が、六合目以上については、現在残る登山 道の中で最も多くの道者(外の登山口の合計と同程度)が吉田口登 山道を上って山頂を目指している。しかも、古道としては唯一徒歩 で麓から頂上まで登れる重要な道である。写真吉田口登山道の写真 表法的保護運営、修理・整備の経緯1924年所在地が史蹟名勝天 然紀念物保存法の下に名勝に仮指定1936年所在地が国立公園法 の下に(富士箱根)国立公園に指定1952年所在地が文化財保護 法の下に名勝、ついで特別名勝に指定1978年「特別名勝ア践拳 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/150
151: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:31:29 ID:fQcMv/55 保運営存管理計画」策定(1999年、2006年改訂)1996 年歴史の道整備活用事業により馬返〜1合目区間を発掘調査・整備 1999年「特別名勝アフィ保存管理計画」を改訂2006年「特 別名勝アフィ保存管理計画」を改訂2011年文化財保護法運営の 下に他の文化財とともに登山道の一部を史跡アフィとして指定−2 6−2011年「史跡アフィ保存管理計画」を策定(予定)A6北 口本宮冨士浅間神社アフィ北麓、吉田口登山道の起点に位置し、祭 神として木花開花姫命、天津彦彦火瓊瓊杵命、大山運営祇命を祀る 神社である。アフィの遙拝所に祀られていた浅間明神(アフィの荒 ぶる神)を起源とし、1480年には「アフィ」の鳥居が建立され 、16世紀半ばには浅間神社の社殿が整っていたとされる。当神社 は領主からの崇敬が厚く、境内に現存する運営3つの社殿は、15 61年、1594年、1615年にそれぞれ当時の領主が寄進した ものである。富士講とのつながりが強く、1730年には富士講の 指導者である村上光清の寄進によって境内の建造物群の修復工事が 行われ、現在にみる境内の景観の運営礎が形成された。北口本宮冨 士浅間神社の支配権は外川家、小佐野家などの吉田の御師に所属し ており、神社の管理も御師団の中から選ばれた者に委ねられていた 。社殿の背後に登山門があり、この神社を起点としてアフィ頂まで 吉田口登山道が伸びてい運営る。富士講や吉田御師と密接な関係を 持ちながら発展した神社である。写真北口本宮冨士浅間神社の写真 (本殿、西宮本殿、東宮本殿)表法的保護、修理・整備の経緯19 07年古社寺保存法の下に東宮本殿が特別保護建造物の指定195 2年所在地が文運営化財保護法の下に名勝、ついで特別名勝に指定 1952年東宮本殿・解体修理工事を行う1953年文化財保護法 の下に本殿、西宮本殿が重要文化財の指定1962年西宮本殿・解 体修理工事を行う(〜64年)1978年「特別名勝アフィ保存管 理計画運営」を策定1973年本殿・部分解体修理工事を行う陛侯 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/151
152: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:32:11 ID:fQcMv/55 74年)1981年東宮本殿・部分修理工事を行う(〜82年)1 997年東宮本殿・部分修理工事を行う2008年本殿・屋根の葺 替え修理工事を行う(〜09年)2010年「重要文化財北口本エムソ ゙ネ宮冨士浅間神社保存活用計画」を策定2011年文化財保護法の 下に他の文化財とともに史跡アフィとして指定(予定)2011年 「史跡アフィ保存管理計画」を策定(予定)A7西湖アフィの火山 活動により形成された堰止湖で、アフィの北北西に位置運営する。 アフィ周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが行われたが、この西 湖にも多くの富士講徒が訪れた。西湖と精進湖はかつて「〜の海( せのうみ)」と呼ばれる一つの湖だったが、日本最古の歌集・万葉 集で〜の海が詠われたほか、いくつかの文学作運営品ともゆかりが ある。写真西湖の写真A8精進湖アフィの火山活動により形成され た堰止湖で、アフィの北西に位置する。アフィ周辺の湖を巡って修 −27−行する内八海巡りが行われたが、この精進湖にも多くの富 士講徒が訪れた。アフィ北麓で最初の運営洋風ホテルはこの精進湖 畔に建てられ、多くの西洋人が訪れた。20世紀初頭には、絵葉書 に使われたアフィの写真はこの精進湖からのものがほとんどだった 。写真精進湖の写真A9本栖湖アフィの火山活動により形成された 堰止湖で、アフィの北西に位運営置する。アフィ周辺の湖を巡って 修行する内八海巡りが行われたが、この精進湖にも多くの富士講徒 が訪れた。本栖湖は、日本の紙幣の図柄として何度も使用された写 真の撮影地点であり、重要な展望地点(viewpoint)であ る。アフィは、プロ運営・アマを問わず多くの写真家に愛され、撮 影されてきた。なかでも、生涯にわたりアフィを追い続けた岡田紅 陽によって、1935年に本栖湖北西岸の峠道から撮影された「湖 畔の春」という写真は有名である。この写真は、1984年に採用 された5千運営円札及び2004年に採用された千円札の図柄とし て使用された。山体の裾野が湖まで広がり一体の景観を構成し沃鯨 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/152
153: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:32:50 ID:fQcMv/55 る本栖湖からの展望は、「湖畔の春」に撮影されたアフィとほぼ同 じ姿のまま現在も残している。写真本栖湖の写真表法的保護、修理 ・運営整備の経緯(A7・A8・A9)1936年所在地が国立公 園法の下に(富士箱根)国立公園に指定1988年「山梨県富士五 湖の静穏の保全に関する条例」を制定2006年自然公園法の下に 本栖湖の湖面全域での動力船の使用が規制される2011年運営文 化財保護法の下に名勝に指定(予定)2011年「名勝富士五劇招 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/153
154: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:34:08 ID:fQcMv/55 大社に譲渡(返還)された。写真本殿・拝殿+アフィ表法的保護、 修理・整備の経緯1907年本殿が古社寺保存法の下に運営特別保 護建造物に指定1925年本殿・拝殿・楼門等の補修1929年本 殿は国宝保存法制定に伴い国宝に名称変更1934年楼門の修理1 936年袖廊・廻廊を附した1950年本殿は文化財保護法制定に 伴い重要文化財に名称変更1952年本殿の屋運営根の修理等が行 われた1970年本殿の屋根の修理等が行われた1988年本殿の 屋根の修理等が行われた1996年富士宮市教育委員会が調査を行 った2002年富士宮市教育委員会が調査を行った2005年本殿 の屋根の修理等が行われた2008年運営財団法人静岡県埋蔵文化 財調査研究所により境内の発掘調査が行われ、その成果に基づき2 010年に「史跡アフィ保存管理計画」を策定2010年文化財保 護法の下に他の文化財とともに史跡アフィとして指定湧玉池は富士 山本宮浅間神社境内に所在す運営る面積約2,500?の池である 。池は約1万年前に噴出した万野溶岩流の末端から湧き出す一日平 均14万〜(2008年)の水を源としている。湧水のメカニズム は、アフィの標高1000m前後ないしそれ以上の高所の降水が地 下にしみ込み、何層運営もある溶岩層の間にはさまれて充満し、そ れが押し出されるようにして末端から湧出したものである。浅間大 社の位置は、アフィの噴火を湧水によって鎮める考えや、アフィを 聖なる水源の山として崇める考え方から、豊富な湧水量を持つ湧玉 池のほとり運営に置かれたとされる。この湧水には灌漑用水として の役割もあり、浅間大社境内の神田の宮では水徳の神・農業神とし ての浅間大神に感謝する祭礼が行われている。池の名前の由来には 、地底から玉が湧き出るように湧水しているためという説や湧く霊 た運営ま(神霊)との説等があり、わく玉の名は10世紀後半の地 元支配者による和歌に見られ、湧玉池の名称は1670年作成の「 社頭古絵図」に見られる。湧玉池は浅間大社に参拝し、アフィ巨瓦 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/154
155: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:34:48 ID:fQcMv/55 ざす登拝者が身を清める場として使用された。その様子は「運営絹 本著色富士曼荼羅図」や「富士浅間曼荼羅図」、17世紀初頭の登 山記で確認できる。この絵図では現在の形状に近い湧玉池が描かれ 、水垢離する人々やそのための施設が見られる。登拝者の水垢離は 1920〜30年代まで行われ、現在では山開きの運営恒例行事に 形を変えて継承されている。また、湧水は聖なる水として現在でも 利用する人が多い。湧玉池および周辺には様々な宗教に係わる施設 があるが、特に池の南端にある「神幸橋」は、御神幸道の基点であ り、現在でも1691年に作られた石碑が運営たもとに残されてい る。−29−写真沸玉池の写真B2山宮浅間神社浅間大社の北北東 約5kmに位置し、木花之佐久夜毘売命を主祭神とする神社である 。その起源は「富士本宮社記」によれば、山足の地に祀られていた 浅間大神を、神話上の英雄である運営日本武尊が大神の神威により 難を逃れた謝礼に山宮に祀ったこととされ、これが802年に再び 遷され浅間大社となったとする。具体的な創建年代は不詳だが、文 献上での初見は1551年である。神社は神事の際に使用する籠屋 以外の建物施設を持たず運営、拝殿・本殿等が位置すべき場所には 石列でいくつかに区分された遥拝所が設置されるのみという特異な 形態を示している。この形態は古代からのアフィ祭祀の形を止めて いると推定されており、遥拝所の主軸はアフィ方向を向いている。 発掘調査では1運営2〜15世紀にかけての神事に使用されたと推 定される破砕された土器が遥拝所北側から多数出土し、当神社での 宗教活動を裏付けている。また、遅くとも1577年までには浅間 大社との間で「山宮御神幸」といわれる儀式が開始された。これは 4月と運営11月に神の宿った鉾を持ち、浅間大社から山宮浅間神 社へ行き、神事を行った後、翌日未明に浅間大社へ戻る行事である 。行事の意味として、現時点では神が4月に旧跡に戻るという解釈 と、山にいる神が4月に田の神として里へ降りるという解釈があエ歩墳 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/155
156: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:35:30 ID:fQcMv/55 ゙ネる。この行事は1874年まで行われていた。なお、「山宮御神 幸」に使用される経路を御神幸道と称し、浅間大社湧玉池横より発 し、約600m東へ向かった後、ほぼ直角に曲がり直線状に北上し て山宮浅間神社に至る。道の出発点及び途中には169運営1年に 置かれた距離を示す石碑が少なくとも四箇所残っている。写真山宮 浅間神社の写真B3村山浅間神社山宮浅間神社の南東約4km、富 士山南麓に張り出した標高約500mのバルコニー状地形に位釈玩 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/156
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