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166: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:42:45 ID:fQcMv/55 念物吉田胎内樹型保存管理計画」を策定B14人穴富士講遺跡富士 山西麓、静岡県側と山梨県側を結ぶ街道沿いに位置する。木花開花 姫命・角行祖霊・徳川家康を運営主祭神とする浅間神社と富士講の 人々による約230基の碑塔群及び溶岩洞窟である人穴がある。長 さ約83mの人穴は約11,000〜8,000年前に流出した犬 涼山溶岩流中に生成したものである。1300年前後に成立した文 書である吾妻鏡によ運営れば人穴は霊的な場所であり、地元では「 浅間大菩薩の御在所」とみられていたことが記述されている。この 内容は遅くとも1603年までに説話化され、多くの人にその存在 が知られていた。富士講関連の文書では1558年、開祖とされる 長谷川角行運営が役行者のお告げにより人穴に至り、洞窟内で立行 等を達成し、浅間大菩薩よりお告げを得たとしている。角行は人穴 を浄土への入り口とし、「西の浄土」と呼んだため、主に19世紀 以降、人穴は富士講の人々より聖地として信仰を集め、参詣だけで な運営く修行を行う者も見られた。その大部分は吉田口登山道の利 用者と推定される。また、塔頭の碑文から村山三坊との関係もあっ たと推定されている。人穴浅間神社の創建は明確ではないが、16 48年及び1665年、その前身である光〜寺が富士講二世運営日 珀(正しくは王へんに日)、三世珀心(同)により再興された記述 があり、19世紀前半に同寺の大日堂が僧空胎により再興された。 1868年の神仏分離令により20世紀までには大日堂が人穴村の 氏神としての浅間神社となった。1942年、付近運営が軍用地と なったため一時移転したが、1954年に現在地に復興された。境 内の碑塔は、その4分の3(194基)が墓碑ないし供養碑で人穴 への分骨埋葬を望んだ富士講の信仰によるものである。そのほかに アフィに何回も登ったという登拝記念や大運営願成就の碑塔や角行 二百年忌の宝篋印塔などがある。碑塔は富士講の講毎に群を成した 所があり、その目的は講の勢力を誇るためと推定されている。何斑 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/166
167: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:43:26 ID:fQcMv/55 で建立年代のわかる89基の内、富士講が隆盛した18世紀末から 19世紀前半(1781から18運営50年)に建立されたものが 半数(44基)、19世紀末より20世紀前半(1871から19 40年)のものが3分の1(29基)を占める。写真B14の写真 B15白糸ノ滝人穴の北方約5kmにある落差約20〜25m・幅 約120〜210mの数運営百の流れを持つ滝である。滝は約1万 年前に噴出した白糸溶岩流の末端から湧き出す一日平均13万曲混 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/167
168: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:44:01 ID:fQcMv/55 水を源としている。滝の名前は湧水の噴出が数百条の白糸が垂れて いるように見えるため名づけられた。湧水のメカニズムは、湧玉池 と同様であり、運営透水性の白糸溶岩流と不透水性の古富士泥流の 境界に降水・雪解け水が滞水し、三層の溶岩の隙間、及び溶岩流と 泥流層の間より湧き出しているものである。このメカニズムが解明 される前の19世紀半ばの資料「不二山道知留邊」ではその起源を 富士五運営湖の伏流水としていた。白糸ノ滝は富士講関連の文書で は、開祖とされる長谷川角行が人穴での立行と合わせて水行を行っ た地と記されている。−36−その後、白糸の滝は富士講を中心と した人々の巡礼の場となった。その様子は1845年と1854エムソ ゙ネ年にこの地を訪れた富士講先達の記録で確認でき、滝つぼの中で 垢離をとる信者の周囲に虹が出来る現象を「御来光」としている。 また、周辺にある食行身禄の碑や不動尊が同書の挿画に描かれてい る。そのほかの19世紀の登山記でも人穴と共にその存運営在が長 谷川角行との関わりを通して紹介されている。また、白糸ノ滝は景 勝地としても有名であり、多くの和歌・絵画の題材となっている。 写真B15の写真表法的保護、修理・整備の経緯1936年所在地 が国立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指運営定1936年史 蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝及び天然紀念物に指定1987 年富士宮市により「白糸ノ滝」保存管理計画が策定2010年富士 宮市により保存管理計画が改定され、これにともなった整備計画に 基づき、滝周辺の景観整備が行われた運営(3)眺望C三保松原富 士山頂の南西約45kmに位置する駿河湾に突き出した長さ約7k mの砂嘴をなす三保半島上の松原である。現在、5万4千本の黒松 が外海側海岸線4kmを中心に繁茂し、その中でも樹齢約650年 といわれる「羽衣の松」付近運営は、アフィと砂浜の松という日本 で好まれた景観を組み合わせて望むことができる景勝地として知ら れている。三保松原のある三保半島は約6000年前に現在の美三 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/168
169: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:44:40 ID:fQcMv/55 なったと考えられ、三保の名前は内海側の三つの岬を稲穂にたとえ たという説が有力で運営ある。かつては半島一帯に松が繁茂し、8 世紀初頭には松原自体を景勝地として捉えた和歌が詠まれ、「万葉 集」に掲載された。その後遅くとも13世紀初頭までに三保松原は 後鳥羽上皇など中央の権力者にアフィと組み合わされた景勝地とし て認識され運営、14〜15世紀には室町幕府将軍足利義満と足利 義教が三保半島と対岸(現静岡市清水区興津)との間を船で渡り富 士山を眺める行事を行い、16世紀には徳川家康が三保半島内海側 に富士見櫓を建設した。文学では「万葉集」以降も和歌等の詩の題 材運営となると共に、地元の伝説を基にし、羽衣の松を舞台とした 謡曲(能)「羽衣」が遅くとも16世紀までに成立した。降臨した 天女と漁師との出会いと別れを描いたこの話の最終場面ではヒロイ ンの天女がアフィ方向へ飛び去っていく描写が見られる。こ運営れ はすでに成立していた「竹取物語」で示されたアフィの噴煙が天上 と地上とを結んでいるとする考えとの関係が指摘されている。この 作品は、19世紀後半、海外へ伝えられ、イェーツ、パウンドとい ったモダニズムの作家に影響を与えるとともに、伝運営統芸能であ る「能」が世界に広まるきっかけを作った作品である。また、絵画 でも15〜16世紀には三保松原を右にアフィを左に配する構図が 描かれ、この構図は狩野探幽により完成され、19世紀に至るまで 日本画・浮世絵においてアフィを描く際の運営典型的構図とされた 。また、20世紀には和田英作が「羽衣の松」付近から見たアフィ を数多く描いた。三保松原は16世紀以降、江戸幕府の直轄地とな り松が守られてきた。江戸幕府滅亡後は内海側の開発が進んだが、 外海側の景観は保たれ、1922運営年、国内初の名勝として国文 化財に指定された。現在、砂礫の供給減による海岸侵食とマツクイ ムシによる松の枯死が進んでいるため、静岡市及び地元民間団体に よる保護活動が行われている。写真三保松原(現在の写真・静幻党 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/169
170: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:45:20 ID:fQcMv/55 )写真歌川広重の浮世絵運営−37−写真三保松原の写真表法的保 護、修理・整備の経緯1922年史蹟名勝天然紀念物保存法の下に 名勝に指定1976年名勝「三保松原」管理計画書を策定1977 年名勝地内の一部が指定解除1989年名勝「三保松原」保存管理 計画書を改定1運営990年名勝地内の一部が追加指定及び指定解 除2011年名勝「三保松原」保存管理計画書を改定第3章保存管 理の基本方針1顕著な普遍的価値及び周辺環境を構成する諸要素世 界文化遺産「アフィ」の顕著な普遍的価値は以下に示すとおりであ る。「運営アフィ」の顕著な普遍的価値アフィは、日本を代表し象 徴する日本最高峰(標高3776m)の秀麗な独立した火山として 世界的に著名であり、その自然的美しさと崇高さを基盤として日本 人の自然に対する信仰の在り方や、海外に影響を与えた葛飾北斎エムソ ゙ネや歌川広重などによる顕著な普遍的価値を持つ「浮世絵」などの 日本独自の芸術文化を育んだ「名山」である。アフィは山岳に対す る信仰の在り方や芸術活動などを通じ、時代を超えて一国の文化の 諸相と極めて深い関連性を示し、生きた文化的伝統の物運営証であ るのみならず、人間と自然との良好で継続的な関係を示す景観の傑 出した類型として、世界的にも類例を見ない顕著な普遍的価値を持 つ山である。本計画では、顕著な普遍的価値に対し、資産に含まれ る要素を「顕著な普遍的価値を構成する諸要素運営」と「顕著な普 遍的価値を構成する諸要素と密接に関わる諸要素」に分類し、さら に緩衝地帯における「周辺環境を構成する諸要素」を加え、表に示 すとおり整理を行った。Aアフィ山体及び登山道B信仰に関わる周 辺のものCアフィから離れた眺望に関運営わるもの表アフィの構成 要素Aアフィ(アフィ体)A1山頂信仰遺跡・アフィ本宮奥宮・東 北奥宮(久須志神社)・金明水・銀明水・八葉(剣ヶ峰、白山岳、 久須志岳、成就岳、伊豆岳、朝日岳、浅間岳、駒ヶ岳、三島岳)・ 大内院・小内院・馬の背・東運営安河原・西安河原・虎岩(獅遅賛 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/170
171: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:46:01 ID:fQcMv/55 )・割石・雷岩・このしろが池・荒巻・吉田須走拝所跡・須山拝所 跡・村山大宮拝所跡・三島ヶ岳経塚・外浜道・内浜道A2大宮・村 山口登山道・札打場・中宮八幡堂跡(1号建物跡)・八大龍王・5 号建物跡・8号建物運営跡・12号建物跡・鳥居A3須山口登山道 ・須山御胎内(溶岩洞穴)・石像・石燈篭・鳥居・標柱・祠A4須 走口登山道・古御岳神社・迎久須志之神社・鳥居・狛犬・石碑A5 吉田口登山道・現登山道・旧登山道・馬返・五合目・烏帽子岩壁疾 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/171
172: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:46:45 ID:fQcMv/55 北口本宮冨運営士浅間神社−38−−39−・本殿・東宮本殿・西 宮本殿・大塚山・御鞍石A7西湖・湖水A8精進湖・湖水A9本栖 湖・湖水・中ノ倉峠からの展望B1アフィ本宮浅間大社・神立山・ 湧玉池(上池、下池)・社叢・社殿(本殿・拝殿・幣殿)・透塀・ 楼運営門・手水舎・廻廊・灯籠・石鳥居・東鳥居・西鳥居・桜の馬 場・禊所・神幸橋(湧玉橋)・輪橋(太鼓橋)・護摩堂跡(推定) ・随身像・狛犬・御神幸道首標の碑・三之宮・七之宮・鉾立石・欄 干橋(神路橋、神路枚橋)B2山宮浅間神社・溶岩流地形・運営社 叢・籠屋(参籠所)・鉾立石・石段(参道)・石塁・玉垣・遥拝所 ・石鳥居・参道B3村山浅間神社・元村山溶岩流・水源地「竜頭ヶ 池」・御神木(イチョウ、大スギ)・社叢・浅間神社社殿・大日堂 (興法寺)・水垢離場・護摩壇・氏神社(高嶺総鎮運営守社)・石 鳥居・氏神社鳥居・手水舎(手水鉢)・石段(参道)・狛犬B4須 山浅間神社・社叢・社殿・神輿殿・狛犬・灯籠・手水舎・参道・鳥 居・石碑・古宮神社B5冨士浅間神社(須走浅間神社)・社叢(浅 間の杜)・ハルニレ・エゾヤマザクラ・根運営上がりモミ・社殿・ 楼門・参道大鳥居・裏参道鳥居・富士塚狛犬・富士講講碑群B6河 口浅間神社・社殿、鳥居B7冨士御室浅間神社・吉田口二合目(拝 殿の一部、行者堂跡、定善院跡、建物礎石)・移築された二合目本 殿B8御師住宅(旧外川家住宅、運営小佐野家住宅)・主屋・離座 敷・中門・屋敷地(タツミチ)B9山中湖・湖水B10河口湖・湖 水B11忍野八海・八つの池(出口池、御釜池、底抜池、銚子池、 湧池、濁池、鏡池、菖蒲池)・湧水B12船津胎内樹型・溶岩樹型 ・無戸室浅間神社、石造運営物群B13吉田胎内樹型・溶岩樹型・ 洞内の石祠、石造物群−40−B14人穴富士講遺跡(人穴浅間神 社)・犬涼み溶岩流・溶岩洞穴・社叢(周辺の植生)・碑塔群・参 道・建物跡・参道跡・道跡・炭焼窯跡・井戸跡B15白糸ノ滝・古 富士泥流堆積物運営・白糸溶岩流・白糸の滝・音止の滝・鬢撫君膝 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/172
173: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:47:19 ID:fQcMv/55 植物・富士講・白糸の滝の勝景・音止の勝景・アフィの展望・富士 の巻狩の伝承・歌碑・標識C三保松原・特別規制A地区・特別規制 B地区・第1種規制地区・第2種規制地区・第3種規制地区?自然 地形(運営山林、河川など)・宝永山(宝永火口)・溶岩洞穴、樹 型等アフィ体・側火山からの噴出物による地形・アフィ原始林及び 青木ヶ原樹海・国指定天然記念物(鳴沢溶岩樹型、鳴沢氷穴、本栖 風穴等)?森林、植栽樹木(山林を構成する森林、寺社・遺跡等エムソ ゙ネの植栽樹木など)・自然林、森林施業地、人工林・社叢林、境内 林・アフィ特定地理等保護林・富士箱根伊豆国立公園アフィ管理計 画区?保存管理又は公開活用を目的とした建造物(展示館、管理棟 、解説板など)・総合案内標識、解説板?道路とその他運営の人工 物(生活用道路、電柱、看板など)顕著な普遍的価値を構成する諸 要素と密接に関わる諸要素・アフィ測候所・NTTアフィ頂分室・ 便益施設?自然的要素(山並み、河川など)?歴史的要素(埋蔵文 化財、社寺境内、伝承地など)成する諸要素周運営辺環境を構?人 文的要素(農耕地、市街地、道路、その他人工物)上表において分 類した諸要素について、以下に提示する。(1)顕著な普遍的価値 を構成する諸要素?アフィ山体及び登山道Aアフィアフィ体のうち 、標高約1500m以上の範囲である運営。この範囲は、周辺の浅 間神社や展望地点から見た可視領域が重なり合う範囲で、芸術・鑑 賞の側面における比重が最も高い。各登山道における山体の神聖性 に関する境界の一つである「馬返」(乗馬登山が物理的にも、宗教 的観点からも不可能になる地運営点)の標高以上の範囲とほぼ一致 している。地元住民が、とりわけこの「馬返」より上を目指して「 オヤマ」又は「オヤマサマ」と呼び、アフィの範囲と見なす地域も あった。景観的には山体の傾斜角の変化率が大きくなり「平野部」 と「山体」の境界と運営して認識され、稜線が優美な曲線を描き絵 画などの対象となることが多い範囲である。御中道巡りのルー英裾 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/173
174: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:47:58 ID:fQcMv/55 は、現在も石碑が一部残存している。ルートはほぼ森林限界に沿っ て、アフィ体を一周する。15〜16世紀ごろ富士講の祖とされる 長谷川角行運営によって開かれたとされその後大沢崩れ−41−を 通るため富士講信者により修行の道として利用された。写真標高約 1500m以上の写真A1山頂信仰遺跡図山頂信仰遺跡の分布図・ アフィ本宮奥宮富士宮口登山道頂上に位置し、7、8月の開山期に の運営み開かれる。祭神は木花之佐久夜毘売命である。『本朝世紀 』には、久安5年(1149)「富士上人末代は、アフィに数百度 登り、山頂に仏閣を構え、大日寺と称し、写経を埋納下した」とあ る。江戸時代には、村山三坊所有の大日堂があったが、明治運営7 年(1874)、廃仏毀釈により山中の仏像を取り除き、大日堂跡 へ奥宮を建立し、浅間大神を祭った。写真奥宮の写真[奥宮周辺の 石碑群](a)蹲虎の碑(高さ139×幅64×厚さ18?)奥宮 の裏手、浅間岳の麓に所在する。一方の面に漢文が運営、もう一方 には虎の絵が彫られている。天保年間(1830−34)に、岸岱 が作ったとされる。(b)鎮國之山(高さ146×幅61×厚さ3 1?)奥宮の前に所在する。碑面に「鎮國之山」と彫られている。 明治31年(1898)に書家の中林梧竹運営により建碑された。 後年、落雷により破壊されたが、昭和42年(1967)に再建さ れた。・東北奥宮(久須志神社)浅間大社奥宮の末社で、大名牟遅 命、少彦名命を祀る。須走口登山道、吉田口登山道の終点にある。 室町時代以降、頂上の一つである運営久須志岳(旧薬師ヶ嶽)に薬 師堂があり、道者の登山切手を改めた。古くは山役銭の徴収場であ った。薬師堂は奥宮の場合と同様に廃仏毀釈により破却され、久須 志神社と改称した。写真東北奥宮の写真・金明水雪解け水が湧く泉 で、その湧き水は霊験あ運営らたかな「御霊水」として珍重された 。大正期の写真をみると、井戸は石組みや木製の柵で囲われ、旗や 幟などもみられる。・銀明水金明水とおなじく、アフィ頂の霊府策 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/174
175: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:48:37 ID:fQcMv/55 らたかな湧き水として珍重された。『富士の歴史』によれば、「如 何なる旱にも水運営の涸れることはない」と記している。写真銀明 水の写真[銀明水の石碑群](a)石碑?(高さ112×幅62? )銘文には「明治三拾九年」と「大正五年」の2つの年代が確認で きる。富士講の人々が建碑したものと考えられる。(b)石碑?( 高さ1運営62×下幅76×上幅63?)表面に龍が、裏面には文 字が刻まれている。(c)石碑?(未計測)「大正十三年八月草成 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/175
176: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:49:18 ID:fQcMv/55 刻してある。写真銀明水の石碑群の写真−42−・八葉(剣ヶ峰、 白山岳、久須志岳、成就岳、伊豆岳、朝日岳、浅間岳、駒ヶ岳、エムソ ゙ネ三島岳)山頂部の直径約800mの火口を囲む峰々の総称で、そ れぞれの峰に仏が住むとされた。文永年中(1264〜1275) の作である『万葉集註釈』には「いたゞきに八葉の嶺あり」とある ことから、鎌倉時代中期には山頂の峰々を蓮の「八葉」運営に見立 てていたと考えられる。江戸時代後期の地誌である『駿河国新風土 記』には「ソノ名一定ノ説ナク、又峰ノ数八ツアルニアラズ。コマ カニカゾヘバ、十二バカリナリト言フ。」とあり、八葉を構成する 峰も、またその名称も一定でないことがわかる運営。峰の名称は、 明治8年に廃仏毀釈により仏教色を払拭したものに変更された。以 下、平成20年度の静岡県埋蔵文化財調査研究所による発掘調査報 告書で示された9つの峰について、最高峰の剣ヶ峰からお鉢巡りの 回り方である時計回りの順に、記述す運営る。なお、浅間大社では 、伊豆岳以外の8つをもって「八神峰」としている。図八葉の配置 図[剣ヶ峰(標高約3,776m)]かつては剣ノ峰、阿弥陀岳と も呼ばれた。遠くから見ると剣を立てたようにそびえ立っているた めにこの名があるという。道運営者たちはあまりに険しいこの峰を 恐れて多くは登らなかったという。この峰の石は「神の惜ミ給ふ」 とされ、採取を禁じられたが、麓からの石と取り替えるということ が行われていた。写真剣ヶ峰の写真図気象庁測候所跡周辺の平面図 [白山岳(標高約3運営,756m)]かつては釈迦ヶ岳とも呼ば れた。現在は一般の立入は禁止されている。頂上には鳥居が立ち、 また二等三角点が存在する。[久須志岳(標高約3,725m)] かつては薬師岳とも呼ばれた。現在の久須志神社の裏手にあたる。 他の峰々と運営比べ傾斜はなだらかである。頂上には鳥居が火口の 方向に向けて建てられている。頂上付近には石造物が残存し、首か ら上と手首から先が欠損している。台座正面に「食行」「身禄剛脊 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/176
177: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:49:59 ID:fQcMv/55 文字が確認できる。写真久須志岳の石造物の写真[成就岳(標高約 3運営,734m)]かつては大日岳とも呼ばれ、大小2つの鳥居 が、噴火口の方角を向いて建てられている。[伊豆岳(標高約3, 748m)]かつては勢至ヶ嶽、観音嶽とも呼ばれた。『浅間神社 の歴史』には、「中腹より地中に熱気を感じ、下りて荒巻の運営険 を越え、成就岳にいたるまで、至る所に蒸気を噴出する」とある。 頂上には鳥居は見られない。[朝日岳(標高約3,733m)]伊 豆岳と同様、かつては地中から蒸気を発していたとされる。頂上に 鳥居は存在しない。石積みがあるが時期は不明であ運営る。他の峰 々と比べ、文献の言及が乏しい。[浅間岳(標高約3,722m) ]浅間大社奥宮の裏手にあり、頂上に鳥居がある。現在は一般の立 入が制限されている。[駒ヶ岳(標高約3,718m)]聖徳太子 が黒駒に乗って登山した際に、ここで休息運営をとったという伝説 のある峰である。山頂に鳥居が存在する。峰全体が岩石からできて いる。[三島岳(標高約3,734m)]−43−かつては文殊岳 とも呼ばれた。頂上に木製の鳥居と、「三島岳」と刻まれた白い角 材の木杭が立っている。三島岳の運営石仏群として、三島岳のふも と、かつて経塚が発見された付近に、10体の石像が安置されてい る。これらは原位置を留めておらず、周辺にあったものが集められ たと考えられる。いずれも頭部を欠損している。・大内院山頂の火 口中央に存在する穴で、運営ここより雲が生じ、風が起きるとされ た。大内院(噴火口)は中央にある大きな火口、小内院(阿弥陀ヶ 窪)は雷岩の下の小さな火口を指す。神や仏の居る所であると信じ られ、登山者は各登山口に設けられた拝所あるいは初穂打場から、 噴火口に向けて運営賽銭を投げ入れた。現在、噴火口への立入は禁 止されている。写真大内院の写真・小内院西安河原から白山岳に向 かう途中にある大きな窪地で、大内院との対比で小内院と呼ばれる 。かつては噴火口だったと考えられる。写真小内院の写真・馬鮮何 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/177
178: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:50:36 ID:fQcMv/55 剣ヶ峰運営に通じる坂道で、火山礫と砂の急斜面である。お鉢巡り の道中で最大の難所である。現在はブルドーザーが通れるよう整地 されている。火口に向けて傾斜しており、その険しさから道者たち の多くは剣ヶ峰に登らなかったといわれる。・東安河原須山口拝エムソ ゙ネ所東側にあり、山頂部では稀な広い平坦部である。かつては現世 と来世の境である「賽の河原」になぞらえて、道者たちが溶岩礫を 積み上げ石塔を作った。また「初穂打場」とも呼ばれ、火口に向け て賽銭が投げ込まれた場所とされる。・西安河原東安河運営原と対 をなす、剣ヶ峰から北側に下りた付近の平坦部である。火口の外壁 を行く外浜道と内壁を行く内浜道との分岐点に位置する。・虎岩( 獅子岩)大内院の南岸に突き出た大岩で、形状が虎(獅子)のうず くまる姿に似ていることから名付けられた。・運営割石かつては「 釈迦の割石」と呼ばれた溶岩で、溶岩が急速に冷えて固まったため 割れていた。高さが15m程あったが、現在は崩壊してしまってい る。古くから行者の修行場として知られ、食行身禄がここで入定し ようとしたが、大宮浅間の社人からの運営許可が得られず、吉田口 七合五勺の烏帽子岩で入定したとされる。写真割石の写真・雷岩白 山岳の西側にある岩で、この方角から強い雷雲がくる事からこう呼 ばれたとされる。また、文化年間の初め、岩より雷鳴がとどろいて 雷獣が出現し、8合目の石室運営に走り入った。これを石室に居合 わせた人々が生け捕りにしたとも伝えられる。・このしろが池三島 岳の雪解け水が窪地に溜まってできる季節的な池で、6月から7月 に姿を現し、雪解け水の供給が無くなると消えてしまう。・荒巻− 44−かつては勢至運営ヶ窪と呼ばれ、強い風が吹き付けるアフィ 頂の難所として知られた。道の火口側には、火山礫を積み上げた石 組みがある。・吉田須走拝所跡須走口登山道を登りきったところに あったとされる。拝所は初穂打場とも呼ばれ、登山者たちが賽銭を 噴火口の大運営内院に投げ入れる、そこに鎮座する浅間大菩薩耐児 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/178
179: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:51:15 ID:fQcMv/55 む場所であった。また、御来光を拝む場所でもあった。現在は、付 近に鳥居がなく痕跡も残っていないため、場所を特定することはで きない。写真吉田須走拝所跡の写真・須山拝所跡銀明水の裏手の火 口運営を臨む位置にあったとされる。大正2年(1913)の登山 スタンプが押された写真では、銀明水裏手の火口の縁に立っている 鳥居が確認できる。現在その地点には、2つの目印の石が存在して いる。写真須山拝所跡の写真・村山大宮拝所跡『隔掻録』は運遠特 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/179
180: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:51:55 ID:fQcMv/55 大日堂の裏手に建つ鳥居を「大宮拝所」としている。『アフィ明細 図』は、このしろが池の裏手の鳥居を影拝所としている。このしろ が池から剣ヶ峰の登山道に沿って3体の大日如来があり、それぞれ 延徳2年(1490)、天文12年(1543)、運営寛永元年( 1624)の銘があったとされる。昭和初期の絵葉書にも、剣ヶ峰 の手前の火口を臨む位置に鳥居が建っている。写真村山・大宮拝所 跡の写真・三島ヶ岳経塚昭和4年(1929)、頂上の神官が銅仏 の破片と一石経を採集して下山、それを受運営けて昭和5年に三島 岳のふもとを調査したところ、経巻が詰まった経筒や木槨、土器片 などの遺物が出土した。アフィ本宮浅間大社には、現在10巻分の 経巻が残っており、うち5巻は開かれていて内容を確認できる。経 巻のスタイルや計測値から平安時運営代後期までさかのぼる可能性 が考えられる。写真出土遺物の写真・外浜道・内浜道山頂を周回し 八葉を巡る「お鉢巡り」を行う道である。剣ヶ峰を下り西安河原の 北側で道が二手に分かれるが、峰の外を回り雷岩、割石を経て白山 岳に至る道が外浜道で、運営峰の内側を大内院に沿って回り金明水 に至る道が内浜道である。沿道には信仰に関わる工作物や自然物が 数多く存在する。外浜道は近年崩落が著しく、現在は立入禁止とな っている。A2大宮・村山口登山道図登山道に要素が点在している 平面図・札打場運営村山浅間神社の北東約3.5?、天照教社の西 南西約1?の地点(標高約830m)に、東西約7m、南北約10 mの平場がある。南側に1本の大きなケヤキの巨木があり、ここが 札打場であった。札打とは、自分の院号を記した札を打ちつけるこ とであ運営る。村山で修験道が盛んであった頃、山伏が峰入修行に 先立ち札打を行った。昭和30年(1955)頃までは、木に打ち つけた札が見られたという写真札打場の写真・中宮八幡堂跡(1号 建物跡)村山口登山道跡とアフィスカイラインが交差する地点かエムソ ゙ネら南西方向に約500mの地点に位置する。標高は約1,2虜肩 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/180
181: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:53:48 ID:fQcMv/55 さになった。崩落した部分は、長さ約30mのU字型の溝状の溶エムソ ゙ネ岩地形として須山御胎内の南東側に残っている。この付近の溶岩 は須山胎内溶岩と呼ばれている。年代測定では1030〜1230 年という結果が出ており、永保3年(1083)の噴火時に噴出し た可能性がある。平成21年に実施した測量調査では、運営須山胎 内溶岩は須山口登山道脇の標高1,485m付近から認められてお り、須山口登山道がこの溶岩流に沿って形成されていることが屈糾 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/181
182: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:54:27 ID:fQcMv/55 した。写真須山御胎内の写真・石像須山御胎内の洞穴内部に、「木 花咲耶姫」の石像が安置されている。地元在住運営の彫刻家、杉山 拓氏の作品。須山口登山道復興後の平成12年に作られたものであ る。・石燈篭須山御胎内の南東側入口の両脇に、石燈篭が設置され ている。・鳥居須山御胎内の南東側入口前に高さ3m前後の木製の 鳥居が建てられている。・標柱鳥居脇運営に、「旧須山口登山道一 合目(須山御胎内)」と記された標柱が、アフィ須山口登山道保存 会によって設置されている。・祠須山御胎内から南東に続くU字状 の溶岩地形脇に、石造りの祠が設置されている。写真祠の写真A4 須走口登山道図登山道に要素運営が点在している平面図・古御岳神 社冨士浅間神社の境外末社で、5合目の登山道登り口にある。現在 の社殿は、昭和54年(1979)に建立され、間口九尺、奥行九 尺の規模である。その際、御室浅間神社を合祀した。神社の前には 鳥居がある。かつて運営は3000坪の境内地を持ち、本殿、拝殿 、庁舎を備えていたという。写真古御岳神社の写真・迎久須志之神 社冨士浅間神社の境外末社で、9合目(3,570m付近)に建て られている。かつては向薬師、向ヒ薬師、手引薬師と呼ばれ、石室 の中に薬師運営如来が祀られ冨士浅間神社の神主が管理していた。 元禄16年(1703)−47−の文書「大宮司富士信安等返答下 書」に「前薬師之小屋」の記述があることから、江戸時代初期以降 にはすでに祀られていたものと考えられる。道者はここで薬師に線 香運営を手向けたという。廃仏毀釈によって仏像は山を降ろされ迎 久須志神社と改められた。祭神は大己貴命と少彦名命である。以前 は登山道が建物の西側を通るルートであったが、現在は建物の東側 を通るようになっている。迎久須志神社の直下には、「日ノ運営見 御前」「日ノ御子」と呼ばれる日の出を遥拝する場所があり、江戸 時代には「日ノ御子石」というアフィ型の石が置かれていた。富士 講の講中が大きな平石の上で朝日を拝したという。現在「日ノ昼雷 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/182
183: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:55:05 ID:fQcMv/55 石」はないが、祠と鳥居が建てられている。写真迎運営久須志之神 社の写真・鳥居登山道の浅間大社東北奥宮(久須志神社)前(登山 道終点)、9合目、本8合目、本7合目、7合目、本5合目、古御 嶽神社前に自然木などにより構築された鳥居が設置されている。・ 狛犬登山道終点の鳥居前に狛犬2体が設置運営されている。この場 所は「鳥居御橋」(とりいおはし)と呼ばれていた。・石碑7合目 付近の登山道脇に富士講関連の石碑がある。以前はもっと標高の高 い場所にあったが、雪崩によって流されて別の場所に転がっていた ものを山小屋関係者で運び、現在運営の場所に設置したという。日 付は「七月吉日」とあるのみで、上部が欠損している。A5吉田口 登山道図登山道に要素が点在している平面図・登山道吉田口登山道 は、北口本宮冨士浅間神社を起点とし、アフィ頂を目指す道である 。18世紀後半以降は、運営最も多くの道者が吉田口登山道を目指 している。しかも、古道としては唯一徒歩で麓から頂上まで登れる 重要な道である。顕著な普遍的価値を構成する要素として、現存す る吉田口登山道や沿道の宗教施設や山小屋等信仰の拠点などがある 。・旧登山道・運営馬返ここから急坂となり馬が使えなくなること からこの名がついた。この一体は草山から木山への境でもあり、こ こからが御山の聖地ということにもなる。アフィ有料道路が開通す る以前の馬返の周辺は、本格的な登り勾配の坂道が始まる直前の平 地であ運営り、登拝者たちがいったん休憩を取る場所として賑わっ た。登山期間には4軒の茶屋が営業され、登拝者の便に供された。 写真馬返周辺の写真・五合目ここは木山と焼山の境界でもあるこの 地は天地境(てんちのさかい)とも言われる場所である。役場、エムソ ゙ネ中宮の社、小屋等がおかれていた。ここの役場は、古くは中宮三 社の神供料として役銭を納めた場所である。後年は登山切手改め所 となった。小屋については、江戸後期には4軒があったが、すでに 武田信玄の1566年の文書に「中宮之室」という名称運営が口戻 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/183
184: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:55:45 ID:fQcMv/55 、戦国時代からこの地に小屋が設けられ−48−ていたことがわか る。最盛期には18軒が所在したと伝えられている。写真五合目周 辺の写真・烏帽子岩七合五勺に烏帽子の形をした岩があり、これを 烏帽子岩という。ここにて富士講中興の祖と称運営される食行身禄 が、1733年に31日間の断食修行を経て入定した。「甲斐国志 」にも「享保十八六月十三日富士行者身禄ガ入定ノ地ナリ小屋アリ 身禄ノ木像ヲ安置ス流レヲ汲者年々此に登拝ス」とあり、江戸後期 にはすでに身禄の聖地として信者が登運営拝していたことがわかる 。現在も富士講の聖地として重要な地である。写真烏帽子岩の写真 A6北口本宮冨士浅間神社図以下に示す要素が点在している平面図 北口本宮冨士浅間神社は、富士講とのつながりが強く1730年代 に富士講の指導者である村上運営光清の寄進によって境内の建造物 群の修復工事が行われ、現在にみる境内の景観の礎が形成された。 社殿の背後には登山門があり、この神社を起点としてアフィ頂まで 吉田口登山道が延びている。富士講や吉田御師と密接な関係を持ち ながら発展した神社運営である。顕著な普遍的価値を構成する諸要 素として、富士信仰の拠点でもある本殿などの建造物群や境内地、 吉田口登山道の起点などがある。・本殿本殿は、1615年、都留 郡の領主鳥居土佐守成次によって建立された。桁行一間・梁間二間 の規模で、運営入母屋造の建物を身舎としてその前面に唐破風造の 向拝一間をつけた形式をとり、独自な本殿形式が採用されている。 各部に漆塗り、極彩色をほどこし、彫刻・金具を配して豪華絢爛な 装飾を展開し、桃山式建築の装飾的技法の多様性を示すとともに、 す運営ぐれた意匠をみせる顕著な建物である。写真本殿の写真図本 殿の図・東宮本殿東宮本殿は、1223年北条義時の創建とも伝え られるが、現社殿は1561年武田信玄が浅間本社として造営した ものである。本殿は身舎梁間一間、桁行一間で正面に一間の運営向 拝をつける一間社流造の形式である。東宮本殿は、本社本殿は在店 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/184
185: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:56:26 ID:fQcMv/55 より西宮本殿に比較してやや小規模であるが、構造形式や蟇股に挿 入した彫刻などに室町時代の手法を示しており、三殿中最も古い建 物である。写真東宮本殿の写真図東宮本殿の図・西運営宮本殿西宮 本殿は、1594年谷村城主浅野左右衛門佐氏重により東宮に替わ る本殿として建立されたが、1615年、鳥居成次の本殿建立によ り現在地に移され西宮となった。本殿の形式は東宮と同じ一間社流 造であるが、両側面と背面は二間で一間の運営向拝をつける。銃縄 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/185
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