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/ ´,_ゝ`\初心者のための富士山登山入門131.02m 【IP表示なし】 (270レス)
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175: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:48:37 ID:fQcMv/55 らたかな湧き水として珍重された。『富士の歴史』によれば、「如 何なる旱にも水運営の涸れることはない」と記している。写真銀明 水の写真[銀明水の石碑群](a)石碑?(高さ112×幅62? )銘文には「明治三拾九年」と「大正五年」の2つの年代が確認で きる。富士講の人々が建碑したものと考えられる。(b)石碑?( 高さ1運営62×下幅76×上幅63?)表面に龍が、裏面には文 字が刻まれている。(c)石碑?(未計測)「大正十三年八月草成 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/175
176: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:49:18 ID:fQcMv/55 刻してある。写真銀明水の石碑群の写真−42−・八葉(剣ヶ峰、 白山岳、久須志岳、成就岳、伊豆岳、朝日岳、浅間岳、駒ヶ岳、エムソ ゙ネ三島岳)山頂部の直径約800mの火口を囲む峰々の総称で、そ れぞれの峰に仏が住むとされた。文永年中(1264〜1275) の作である『万葉集註釈』には「いたゞきに八葉の嶺あり」とある ことから、鎌倉時代中期には山頂の峰々を蓮の「八葉」運営に見立 てていたと考えられる。江戸時代後期の地誌である『駿河国新風土 記』には「ソノ名一定ノ説ナク、又峰ノ数八ツアルニアラズ。コマ カニカゾヘバ、十二バカリナリト言フ。」とあり、八葉を構成する 峰も、またその名称も一定でないことがわかる運営。峰の名称は、 明治8年に廃仏毀釈により仏教色を払拭したものに変更された。以 下、平成20年度の静岡県埋蔵文化財調査研究所による発掘調査報 告書で示された9つの峰について、最高峰の剣ヶ峰からお鉢巡りの 回り方である時計回りの順に、記述す運営る。なお、浅間大社では 、伊豆岳以外の8つをもって「八神峰」としている。図八葉の配置 図[剣ヶ峰(標高約3,776m)]かつては剣ノ峰、阿弥陀岳と も呼ばれた。遠くから見ると剣を立てたようにそびえ立っているた めにこの名があるという。道運営者たちはあまりに険しいこの峰を 恐れて多くは登らなかったという。この峰の石は「神の惜ミ給ふ」 とされ、採取を禁じられたが、麓からの石と取り替えるということ が行われていた。写真剣ヶ峰の写真図気象庁測候所跡周辺の平面図 [白山岳(標高約3運営,756m)]かつては釈迦ヶ岳とも呼ば れた。現在は一般の立入は禁止されている。頂上には鳥居が立ち、 また二等三角点が存在する。[久須志岳(標高約3,725m)] かつては薬師岳とも呼ばれた。現在の久須志神社の裏手にあたる。 他の峰々と運営比べ傾斜はなだらかである。頂上には鳥居が火口の 方向に向けて建てられている。頂上付近には石造物が残存し、首か ら上と手首から先が欠損している。台座正面に「食行」「身禄剛脊 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/176
177: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:49:59 ID:fQcMv/55 文字が確認できる。写真久須志岳の石造物の写真[成就岳(標高約 3運営,734m)]かつては大日岳とも呼ばれ、大小2つの鳥居 が、噴火口の方角を向いて建てられている。[伊豆岳(標高約3, 748m)]かつては勢至ヶ嶽、観音嶽とも呼ばれた。『浅間神社 の歴史』には、「中腹より地中に熱気を感じ、下りて荒巻の運営険 を越え、成就岳にいたるまで、至る所に蒸気を噴出する」とある。 頂上には鳥居は見られない。[朝日岳(標高約3,733m)]伊 豆岳と同様、かつては地中から蒸気を発していたとされる。頂上に 鳥居は存在しない。石積みがあるが時期は不明であ運営る。他の峰 々と比べ、文献の言及が乏しい。[浅間岳(標高約3,722m) ]浅間大社奥宮の裏手にあり、頂上に鳥居がある。現在は一般の立 入が制限されている。[駒ヶ岳(標高約3,718m)]聖徳太子 が黒駒に乗って登山した際に、ここで休息運営をとったという伝説 のある峰である。山頂に鳥居が存在する。峰全体が岩石からできて いる。[三島岳(標高約3,734m)]−43−かつては文殊岳 とも呼ばれた。頂上に木製の鳥居と、「三島岳」と刻まれた白い角 材の木杭が立っている。三島岳の運営石仏群として、三島岳のふも と、かつて経塚が発見された付近に、10体の石像が安置されてい る。これらは原位置を留めておらず、周辺にあったものが集められ たと考えられる。いずれも頭部を欠損している。・大内院山頂の火 口中央に存在する穴で、運営ここより雲が生じ、風が起きるとされ た。大内院(噴火口)は中央にある大きな火口、小内院(阿弥陀ヶ 窪)は雷岩の下の小さな火口を指す。神や仏の居る所であると信じ られ、登山者は各登山口に設けられた拝所あるいは初穂打場から、 噴火口に向けて運営賽銭を投げ入れた。現在、噴火口への立入は禁 止されている。写真大内院の写真・小内院西安河原から白山岳に向 かう途中にある大きな窪地で、大内院との対比で小内院と呼ばれる 。かつては噴火口だったと考えられる。写真小内院の写真・馬鮮何 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/177
178: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:50:36 ID:fQcMv/55 剣ヶ峰運営に通じる坂道で、火山礫と砂の急斜面である。お鉢巡り の道中で最大の難所である。現在はブルドーザーが通れるよう整地 されている。火口に向けて傾斜しており、その険しさから道者たち の多くは剣ヶ峰に登らなかったといわれる。・東安河原須山口拝エムソ ゙ネ所東側にあり、山頂部では稀な広い平坦部である。かつては現世 と来世の境である「賽の河原」になぞらえて、道者たちが溶岩礫を 積み上げ石塔を作った。また「初穂打場」とも呼ばれ、火口に向け て賽銭が投げ込まれた場所とされる。・西安河原東安河運営原と対 をなす、剣ヶ峰から北側に下りた付近の平坦部である。火口の外壁 を行く外浜道と内壁を行く内浜道との分岐点に位置する。・虎岩( 獅子岩)大内院の南岸に突き出た大岩で、形状が虎(獅子)のうず くまる姿に似ていることから名付けられた。・運営割石かつては「 釈迦の割石」と呼ばれた溶岩で、溶岩が急速に冷えて固まったため 割れていた。高さが15m程あったが、現在は崩壊してしまってい る。古くから行者の修行場として知られ、食行身禄がここで入定し ようとしたが、大宮浅間の社人からの運営許可が得られず、吉田口 七合五勺の烏帽子岩で入定したとされる。写真割石の写真・雷岩白 山岳の西側にある岩で、この方角から強い雷雲がくる事からこう呼 ばれたとされる。また、文化年間の初め、岩より雷鳴がとどろいて 雷獣が出現し、8合目の石室運営に走り入った。これを石室に居合 わせた人々が生け捕りにしたとも伝えられる。・このしろが池三島 岳の雪解け水が窪地に溜まってできる季節的な池で、6月から7月 に姿を現し、雪解け水の供給が無くなると消えてしまう。・荒巻− 44−かつては勢至運営ヶ窪と呼ばれ、強い風が吹き付けるアフィ 頂の難所として知られた。道の火口側には、火山礫を積み上げた石 組みがある。・吉田須走拝所跡須走口登山道を登りきったところに あったとされる。拝所は初穂打場とも呼ばれ、登山者たちが賽銭を 噴火口の大運営内院に投げ入れる、そこに鎮座する浅間大菩薩耐児 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/178
179: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:51:15 ID:fQcMv/55 む場所であった。また、御来光を拝む場所でもあった。現在は、付 近に鳥居がなく痕跡も残っていないため、場所を特定することはで きない。写真吉田須走拝所跡の写真・須山拝所跡銀明水の裏手の火 口運営を臨む位置にあったとされる。大正2年(1913)の登山 スタンプが押された写真では、銀明水裏手の火口の縁に立っている 鳥居が確認できる。現在その地点には、2つの目印の石が存在して いる。写真須山拝所跡の写真・村山大宮拝所跡『隔掻録』は運遠特 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/179
180: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:51:55 ID:fQcMv/55 大日堂の裏手に建つ鳥居を「大宮拝所」としている。『アフィ明細 図』は、このしろが池の裏手の鳥居を影拝所としている。このしろ が池から剣ヶ峰の登山道に沿って3体の大日如来があり、それぞれ 延徳2年(1490)、天文12年(1543)、運営寛永元年( 1624)の銘があったとされる。昭和初期の絵葉書にも、剣ヶ峰 の手前の火口を臨む位置に鳥居が建っている。写真村山・大宮拝所 跡の写真・三島ヶ岳経塚昭和4年(1929)、頂上の神官が銅仏 の破片と一石経を採集して下山、それを受運営けて昭和5年に三島 岳のふもとを調査したところ、経巻が詰まった経筒や木槨、土器片 などの遺物が出土した。アフィ本宮浅間大社には、現在10巻分の 経巻が残っており、うち5巻は開かれていて内容を確認できる。経 巻のスタイルや計測値から平安時運営代後期までさかのぼる可能性 が考えられる。写真出土遺物の写真・外浜道・内浜道山頂を周回し 八葉を巡る「お鉢巡り」を行う道である。剣ヶ峰を下り西安河原の 北側で道が二手に分かれるが、峰の外を回り雷岩、割石を経て白山 岳に至る道が外浜道で、運営峰の内側を大内院に沿って回り金明水 に至る道が内浜道である。沿道には信仰に関わる工作物や自然物が 数多く存在する。外浜道は近年崩落が著しく、現在は立入禁止とな っている。A2大宮・村山口登山道図登山道に要素が点在している 平面図・札打場運営村山浅間神社の北東約3.5?、天照教社の西 南西約1?の地点(標高約830m)に、東西約7m、南北約10 mの平場がある。南側に1本の大きなケヤキの巨木があり、ここが 札打場であった。札打とは、自分の院号を記した札を打ちつけるこ とであ運営る。村山で修験道が盛んであった頃、山伏が峰入修行に 先立ち札打を行った。昭和30年(1955)頃までは、木に打ち つけた札が見られたという写真札打場の写真・中宮八幡堂跡(1号 建物跡)村山口登山道跡とアフィスカイラインが交差する地点かエムソ ゙ネら南西方向に約500mの地点に位置する。標高は約1,2虜肩 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/180
181: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:53:48 ID:fQcMv/55 さになった。崩落した部分は、長さ約30mのU字型の溝状の溶エムソ ゙ネ岩地形として須山御胎内の南東側に残っている。この付近の溶岩 は須山胎内溶岩と呼ばれている。年代測定では1030〜1230 年という結果が出ており、永保3年(1083)の噴火時に噴出し た可能性がある。平成21年に実施した測量調査では、運営須山胎 内溶岩は須山口登山道脇の標高1,485m付近から認められてお り、須山口登山道がこの溶岩流に沿って形成されていることが屈糾 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/181
182: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:54:27 ID:fQcMv/55 した。写真須山御胎内の写真・石像須山御胎内の洞穴内部に、「木 花咲耶姫」の石像が安置されている。地元在住運営の彫刻家、杉山 拓氏の作品。須山口登山道復興後の平成12年に作られたものであ る。・石燈篭須山御胎内の南東側入口の両脇に、石燈篭が設置され ている。・鳥居須山御胎内の南東側入口前に高さ3m前後の木製の 鳥居が建てられている。・標柱鳥居脇運営に、「旧須山口登山道一 合目(須山御胎内)」と記された標柱が、アフィ須山口登山道保存 会によって設置されている。・祠須山御胎内から南東に続くU字状 の溶岩地形脇に、石造りの祠が設置されている。写真祠の写真A4 須走口登山道図登山道に要素運営が点在している平面図・古御岳神 社冨士浅間神社の境外末社で、5合目の登山道登り口にある。現在 の社殿は、昭和54年(1979)に建立され、間口九尺、奥行九 尺の規模である。その際、御室浅間神社を合祀した。神社の前には 鳥居がある。かつて運営は3000坪の境内地を持ち、本殿、拝殿 、庁舎を備えていたという。写真古御岳神社の写真・迎久須志之神 社冨士浅間神社の境外末社で、9合目(3,570m付近)に建て られている。かつては向薬師、向ヒ薬師、手引薬師と呼ばれ、石室 の中に薬師運営如来が祀られ冨士浅間神社の神主が管理していた。 元禄16年(1703)−47−の文書「大宮司富士信安等返答下 書」に「前薬師之小屋」の記述があることから、江戸時代初期以降 にはすでに祀られていたものと考えられる。道者はここで薬師に線 香運営を手向けたという。廃仏毀釈によって仏像は山を降ろされ迎 久須志神社と改められた。祭神は大己貴命と少彦名命である。以前 は登山道が建物の西側を通るルートであったが、現在は建物の東側 を通るようになっている。迎久須志神社の直下には、「日ノ運営見 御前」「日ノ御子」と呼ばれる日の出を遥拝する場所があり、江戸 時代には「日ノ御子石」というアフィ型の石が置かれていた。富士 講の講中が大きな平石の上で朝日を拝したという。現在「日ノ昼雷 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/182
183: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:55:05 ID:fQcMv/55 石」はないが、祠と鳥居が建てられている。写真迎運営久須志之神 社の写真・鳥居登山道の浅間大社東北奥宮(久須志神社)前(登山 道終点)、9合目、本8合目、本7合目、7合目、本5合目、古御 嶽神社前に自然木などにより構築された鳥居が設置されている。・ 狛犬登山道終点の鳥居前に狛犬2体が設置運営されている。この場 所は「鳥居御橋」(とりいおはし)と呼ばれていた。・石碑7合目 付近の登山道脇に富士講関連の石碑がある。以前はもっと標高の高 い場所にあったが、雪崩によって流されて別の場所に転がっていた ものを山小屋関係者で運び、現在運営の場所に設置したという。日 付は「七月吉日」とあるのみで、上部が欠損している。A5吉田口 登山道図登山道に要素が点在している平面図・登山道吉田口登山道 は、北口本宮冨士浅間神社を起点とし、アフィ頂を目指す道である 。18世紀後半以降は、運営最も多くの道者が吉田口登山道を目指 している。しかも、古道としては唯一徒歩で麓から頂上まで登れる 重要な道である。顕著な普遍的価値を構成する要素として、現存す る吉田口登山道や沿道の宗教施設や山小屋等信仰の拠点などがある 。・旧登山道・運営馬返ここから急坂となり馬が使えなくなること からこの名がついた。この一体は草山から木山への境でもあり、こ こからが御山の聖地ということにもなる。アフィ有料道路が開通す る以前の馬返の周辺は、本格的な登り勾配の坂道が始まる直前の平 地であ運営り、登拝者たちがいったん休憩を取る場所として賑わっ た。登山期間には4軒の茶屋が営業され、登拝者の便に供された。 写真馬返周辺の写真・五合目ここは木山と焼山の境界でもあるこの 地は天地境(てんちのさかい)とも言われる場所である。役場、エムソ ゙ネ中宮の社、小屋等がおかれていた。ここの役場は、古くは中宮三 社の神供料として役銭を納めた場所である。後年は登山切手改め所 となった。小屋については、江戸後期には4軒があったが、すでに 武田信玄の1566年の文書に「中宮之室」という名称運営が口戻 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/183
184: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:55:45 ID:fQcMv/55 、戦国時代からこの地に小屋が設けられ−48−ていたことがわか る。最盛期には18軒が所在したと伝えられている。写真五合目周 辺の写真・烏帽子岩七合五勺に烏帽子の形をした岩があり、これを 烏帽子岩という。ここにて富士講中興の祖と称運営される食行身禄 が、1733年に31日間の断食修行を経て入定した。「甲斐国志 」にも「享保十八六月十三日富士行者身禄ガ入定ノ地ナリ小屋アリ 身禄ノ木像ヲ安置ス流レヲ汲者年々此に登拝ス」とあり、江戸後期 にはすでに身禄の聖地として信者が登運営拝していたことがわかる 。現在も富士講の聖地として重要な地である。写真烏帽子岩の写真 A6北口本宮冨士浅間神社図以下に示す要素が点在している平面図 北口本宮冨士浅間神社は、富士講とのつながりが強く1730年代 に富士講の指導者である村上運営光清の寄進によって境内の建造物 群の修復工事が行われ、現在にみる境内の景観の礎が形成された。 社殿の背後には登山門があり、この神社を起点としてアフィ頂まで 吉田口登山道が延びている。富士講や吉田御師と密接な関係を持ち ながら発展した神社運営である。顕著な普遍的価値を構成する諸要 素として、富士信仰の拠点でもある本殿などの建造物群や境内地、 吉田口登山道の起点などがある。・本殿本殿は、1615年、都留 郡の領主鳥居土佐守成次によって建立された。桁行一間・梁間二間 の規模で、運営入母屋造の建物を身舎としてその前面に唐破風造の 向拝一間をつけた形式をとり、独自な本殿形式が採用されている。 各部に漆塗り、極彩色をほどこし、彫刻・金具を配して豪華絢爛な 装飾を展開し、桃山式建築の装飾的技法の多様性を示すとともに、 す運営ぐれた意匠をみせる顕著な建物である。写真本殿の写真図本 殿の図・東宮本殿東宮本殿は、1223年北条義時の創建とも伝え られるが、現社殿は1561年武田信玄が浅間本社として造営した ものである。本殿は身舎梁間一間、桁行一間で正面に一間の運営向 拝をつける一間社流造の形式である。東宮本殿は、本社本殿は在店 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/184
185: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:56:26 ID:fQcMv/55 より西宮本殿に比較してやや小規模であるが、構造形式や蟇股に挿 入した彫刻などに室町時代の手法を示しており、三殿中最も古い建 物である。写真東宮本殿の写真図東宮本殿の図・西運営宮本殿西宮 本殿は、1594年谷村城主浅野左右衛門佐氏重により東宮に替わ る本殿として建立されたが、1615年、鳥居成次の本殿建立によ り現在地に移され西宮となった。本殿の形式は東宮と同じ一間社流 造であるが、両側面と背面は二間で一間の運営向拝をつける。銃縄 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/185
186: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:57:05 ID:fQcMv/55 本殿は、桃山時代の装飾的要素を多分に取り入れていて、やがて豪 華な本社本殿建築へと発展する過程を、両者並べて鑑賞できる貴重 な建物である。−49−写真西宮本殿の写真図西宮本殿の図・大塚 山社誌では、日本武尊がアフィを運営遙拝した地であり、ここを浅 間明神の創建にかかわる場所と位置づけている。さらに、788年 には新たに浅間明神を建て、この大塚山には、大塚社として日本武 尊を分祀したと伝えられる。現在この地は、流山状の小高い丘をな しており、日本武尊を祀運営る祠が建てられている。写真大塚山の 写真図大塚山の図・御鞍石吉田火祭(鎮火祭)の際の御輿行在所。 吉田火祭の本日にこの御鞍石上に御輿が安置され、神事が行われる 。ここで読まれる祝詞の一節から、この地が諏訪明神旧鎮座地とさ れる。写真御鞍運営石の写真図御鞍石の図A7西湖図以下に示す要 素が点在している平面図アフィ周辺の湖を巡って修行する内八海巡 りが多くの富士講徒によって行われたが、いつの時代も変わらず巡 拝の対象として数えられている。また、景勝の地でもあり、多くの 芸術作運営品とゆかりが深い。顕著な普遍的価値を構成する諸要素 として、自然地形(湖水)などがある。写真西湖の写真A8精進湖 図以下に示す要素が点在している平面図アフィ周辺の湖を巡って修 行する内八海巡りが多くの富士講徒によって行われたが、いつのエムソ ゙ネ時代も変わらず巡拝の対象として数えられている。また、景勝の 地でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。顕著な普遍的価値を 構成する諸要素として、自然地形(湖水)などがある。写真精進湖 の写真A9本栖湖図以下に示す要素が点在している平面運営図富士 山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが多くの富士講徒によって 行われたが、いつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられてい る。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。顕 著な普遍的価値を構成する諸要素として、自然運営地形(湖水)や 中ノ倉峠からの展望などがある。写真本栖湖の写真?信仰に関探匹 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/186
187: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:57:42 ID:fQcMv/55 周辺のものB1アフィ本宮浅間大社図以下に示す要素が点在してい る平面図・神立山本殿の北側にある丘陵地一帯は神立山と称される 。神立山及びアフィ本宮浅間大社の基運営盤を構成する地形は、新 富士火山旧期溶岩流に分類される富士宮溶岩流と、溶岩流直上に広 がる扇状地堆積物の層で−50−構成され、溶岩流の末端部にあた る。そのため指定地内の一部では溶岩礫が露出し、縄状溶岩も散見 される。また、当該地区は風運営致地区・保安林にも指定され、渋 沢堀沿いの散策路以外は立ち入りが禁止されている。寛文10年( 1670)の浅間大社境内絵図では神立山に信仰関連の様々な建築 物が描かれ、発掘調査で石畳や護摩堂跡が確認されている。写真神 立山の写真・湧玉池運営(上池、下池)本殿東側の「湧玉池」は、 国指定特別天然記念物となっている。湧玉池は、アフィに降った雨 や雪が地下水となり、被圧によって富士宮溶岩流の溶岩層間を流れ 、溶岩流末端で湧出して池になったものである。禊所付近を境に上 池と下池に運営分かれ、以前は上池のみを湧玉池、下池から下流を 御手洗川と呼んだ。登山者や道者が湧玉池の水で心身を清めた後山 中へ向かうという、アフィ信仰と関連の深い池であった。現在も富 士山山開きの7月1日には、湧玉池で禊神事が行われる。写真湧玉 池運営の写真図詳細平面図・社叢神立山表層部は約3万8千?にわ たってスダジイ、ケヤキ等の樹木が生育しており、富士宮市保存樹 林に指定されている。また、野鳥の生息に適した環境でもあり、「 野鳥の森」碑が建てられている。・社殿(本殿・拝殿・幣殿運営・ 透塀・楼門)浅間大社は、社伝によれば大同元年(806)に造営 されたという。かつての駿河国の一宮で、現在は全国1300余の 浅間神社の総本社として崇められている。現在の社殿は、慶長9〜 11年(1604〜06)に徳川家康が造営したも運営のである。 写真社殿全体の写真図社殿平面図[本殿]本殿は国指定重要文化財 である。「浅間造」と称する棟高45尺の二重の楼閣造構造で足衆 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/187
188: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:58:22 ID:fQcMv/55 例を見ない。1階下層は桁行5間・梁間4間の寄棟造、2階上層は 桁行3間・梁間2間の三間社流造で共に桧運営皮葺である。明治4 0年(1907)5月27日古社寺保存法により特別保護建造物に 指定され、以後、国指定重要文化財として保護されている。写真本 殿全体の写真(幣殿・拝殿含む)図本殿平面図(幣殿・拝殿含む) [幣殿]本殿と拝殿をつなぐ部分運営で、桁行3間・梁間3間の両 下造、屋根は檜皮葺、寛文年間の古絵図には幣殿は描かれていない が、現在幣殿として使われている部分に「作合三間四間ひはだぶき 」と書き込まれており、本殿の全景がよく見えるように描かれたと 推測される。県指定文化運営財として保護されている。[拝殿]桁 行5間・梁間3間で、床は幣殿より2段高くなっている。正面が入 母屋造、背面が切妻造で、屋根は檜皮葺、正面に1間の向拝が付い ている。三方に縁を巡らせ、背面は幣殿に接続している。県指定文 化財として保護運営されている。[透塀]本殿周囲を囲む1棟と、 その外側、本殿横に並ぶ三之宮及び七之宮を含めたより広い範囲を 囲む1棟−51−の計2棟で、総延長は36間に及ぶ。県指定文化 財として保護されている。[楼門]三間一戸、重層入母屋造で、屋 根は檜運営皮葺、正面・左右脇に扉がついている。楼門の左右には 随身像が安置してある。静岡県指定文化財として保護されている。 写真楼門全体の写真図楼門平面図・廻廊楼門から東西に伸びる回廊 は、昭和9年(1934)に付加されたものである。・手水舎楼エムソ ゙ネ門の南西側に、参拝者が参拝前に身を清めるために手や口をすす ぐ、手水舎がある。・灯籠大小それぞれの灯籠が境内各所に設置さ れている。・石鳥居本殿へ続く参道に石造りの鳥居が建てられてい る。昭和33年3月に寄進されたものである。・東鳥居運営・西鳥 居桜の馬場の東端と西端にそれぞれ朱塗りの鳥居が建てられている 。・桜の馬場浅間大社流鏑馬式が執り行われる馬場が約200mに 渡って東西に伸びている。源頼朝が富士の裾野で巻狩を行った広仁 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/188
189: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:59:01 ID:fQcMv/55 流鏑馬を奉納したことに始まると言われ、室町運営時代の初期には すでに神事が行われていたとの記録が残っている。馬場に沿って両 側に御神木の桜が植えられている。・禊所湧玉池の上池と下池の境 部分が禊所とされ、池に下りるための石段が組まれている。・神幸 橋(湧玉橋)湧玉池南側の神田川への運営流出口に石造りの橋が架 けられている。春秋の大祭にはこの橋を通って山宮御神幸が出発し たとされる。寛文10年(1671)の絵図では橋に屋根が葺峡肯 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/189
190: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:59:41 ID:fQcMv/55 ている。・輪橋(太鼓橋)本殿へと向かう参道に、鏡池を渡る輪橋 が架けられている。寛文10運営年の絵図には既に描かれているが 、大正4年(1915)に石造りに改められた。写真輪橋の写真図 輪橋の平面図絵図寛文10年の絵図・護摩堂跡(推定)平成20年 の発掘調査により、護摩堂跡と考えられる溶岩礫で構成された石垣 と建物跡が検出され運営た。石垣は樵石積みで組まれ、平面形は正 方形となっている。また、石垣で正方形に囲繞された敷地内で建物 跡の礎石が確認された。桁行3間・梁間4間で、南側に入口を有し ていたと考えられる。発掘調査後に、江戸時代終わり頃の地誌でこ の建物跡を運営「本地堂」とする記載が確認されており、最終的に 護摩堂から本地堂へ造作し直された可能性がある。写真護摩堂の発 掘調査時の完掘写真(平面写真)図平面図・随身像慶長19年(1 614)2月に建立された。背銘には、左側の像は「甲州河内下山 住運営番匠石川清助作」、右−52−側の像は「大工山城國上原住 櫻井三蔵作」と記され、市指定有形文化財として保護されている。 写真随身像全体の写真・狛犬参道の石鳥居両側に、狛犬が建てられ ている。大正7年5月に奉献されたものである。・御神幸道運営首 標の碑明治以前に行われていた「山宮御神幸」における、御神幸道 の首標が、池畔に立てられている。造立年は元禄年(1691)未 年十一月とされ、「自当社山宮御神幸道五十丁証碑首也」と刻まれ ている。昭和59年(1984)に浅間大社境内の運営土中から発 見され、現在地に再建された。・三之宮本殿横西側に、淺間第三御 子神を祀る境内社「三之宮浅間神社」が建てられている。・七之宮 本殿横東側に、淺間第七御子神を祀る境内社「七之宮浅間神社」が 建てられている。・鉾立石楼門前の石段に運営は、鉾立石が置かれ ている。明治の初めまで行われていた山宮御神幸の際、神の宿った 鉾を立てて休めた自然石である。・欄干橋(神路橋、神路枚橋)池 畔と川中島を結ぶ橋が2本架けられている。島の西側が神路橋嗣旦 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/190
191: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 04:00:20 ID:fQcMv/55 側が神路枚橋であるが、寛文10運営年(1670)の絵図では西 側にのみ架けられている。写真橋全体の写真絵図寛文10年の絵図 B2山宮浅間神社図以下に示す要素が点在している平面図・溶岩流 地形山宮浅間神社の石鳥居から参道を経て参籠所に至るまでの区域 は北山溶岩流上に展開し運営ている。また、遥拝所が位置する小高 い丘陵は青沢溶岩流の先端部である。さらに、涸れ沢の西岸には、 天母山(二子山)溶岩流、万野風穴溶岩流で構成される丘陵地が展 開する。よって、山宮浅間神社周辺には、籠屋付近の北山溶岩流を 含め、4つの異運営なる溶岩流地形が広がっていることになる。遥 拝所の基盤となっている青沢溶岩流は、約2,000年前の噴火に よって流出した比較的新しい溶岩流であるため、この部分は他の区 域と比べて植生の回復は遅れていたと考えられる。そのために、樹 木等に運営遮られることなくアフィの山頂まで見渡せていたため、 この場所で山を遥拝する行為が行われたと考えられる。写真溶岩流 地形の写真図溶岩流の拡散している模式図・社叢目通りの幹周が3 mを超える巨木4本を含むスギ林が、約9,780?の社叢を形エムソ ゙ネ成しており、富士宮市の保存樹林に指定されている。・籠屋(参 籠所)遥拝所へ登る手前の平坦な土地に籠屋が建てられている。籠 屋は、神の宿った御鉾が浅間大社と山宮浅間神社を往復する祭儀「 山宮御神幸」において、これに同行した大宮司以下の諸運営職が一 夜参籠した場所である。−53−・鉾立石籠屋をくぐり遥拝所へ続 く参道に、「山宮御神幸」で神の宿った鉾を休めるための「鉾立石 」が置かれている。石は火山弾であり、籠屋をくぐってすぐの位置 に1つ、石段の手前に1つの計2つが置かれて運営いる。・石段( 参道)遥拝所が位置する丘陵へ登るための石段が組まれている。現 在あるものは戦中もしくは戦後に改築されたものと考えられる。・ 石塁遥拝所の周辺約45m四方が石塁により方形に区切られている 。青沢溶岩流の溶岩塊上に溶岩礫を積運営み上げて構築され、滋特 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/191
192: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 04:00:59 ID:fQcMv/55 的に遺物を含む土層上に構築されている。石塁下から祭祀に用いら れたと思われる土師器が出土しているため、それらが用いられた1 2世紀から15世紀、もしくは後の時代に築造されたものと推定さ れる。写真石塁の写真図石塁運営の平面図・断面図・玉垣遥拝所の 周囲にはコンクリート製の玉垣が設置されている。戦中もしくは戦 後に設けられたものと考えられる。また、遥拝所入口には鉄製の門 扉が取り付けられている。・遥拝所アフィを直接拝礼し、祭儀を行 うことを目的として運営築造されたと推定される施設である。南北 約15.2m、東西約7.6mの長方形で、30〜40?程度の溶 岩を用いて石列等によって組まれている。アフィを拝む方向に祭壇 が位置し、祭壇に向かって左側に祭儀を行う際の大宮司席、公文・ 案主席、献運営饌所が、向かって右側に別当・供僧席が設けられて いる。写真遥拝所の写真図遥拝所の平面図・石鳥居境内地の南端に 、石鳥居が建てられている。昭和6年(1931)に建立されたも のである。・参道石鳥居から籠屋まで参道が続いている。B3村山 浅運営間神社図以下に示す要素が点在している平面図・元村山溶岩 流村山浅間神社は、新富士旧期溶岩の元村山溶岩流末端部付近にあ たる。見付の間は平地で、両見付から先は急傾斜地となっている。 村山地区は標高が高く、他の集落と急傾斜地で隔絶された一運営段 高い場所に位置する。・水源地(竜頭ヶ池)社叢東側に「竜頭ヶ池 」と呼ばれる湧水池があり、水垢離や生活用水として利用されてき た。またこの湧水を水源とする村山沢は南流して渓谷を刻み神社西 側から大沢川となる。これらの水源は、村山の集落運営を成立させ た要因の一つである。・御神木(イチョウ、大スギ)[イチョウ] −54−昭和43年(1968)7月2日に県天然記念物に指定さ れた。目通り8m、根回り9.15m、樹高26m、枝張り東西1 9m南北14mで、樹勢よく乳状下垂気根運営の発達も著しい。気 根が数多く垂下する。気根の先端に針を刺して祈願すると妊産庫天 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/192
193: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 04:01:38 ID:fQcMv/55 乳の出がよくなると伝えられ、女性の信仰を集めていた。また以前 はウロの中に大日如来が祀られていたといわれ、現在でも祭祀でし め縄を張る。[大スギ]昭和31運営年5月24日に県天然記念物 に指定された。村山浅間神社の御神木と称される巨木である。境内 の多くのスギの中で最大のもので目通り9.9m、枝張り東西17 .5m、南北31m、樹高47mもある。中心部には高さ8mに及 ぶ空洞がある。案内板で運営は約1,000年の樹齢とされる致煎 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/193
194: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 04:02:18 ID:fQcMv/55 実際にはおよそ400〜600年と推定される。・社叢境内には胸 高直径0.7m以上のスギが39本ある。アカガシ3本、スダジイ 1本などの大樹も見られるが、裏山の大半は戦後植樹されたヒノキ やスギである。運営富士宮市の保存樹林に指定されている。・浅間 神社社殿村山浅間神社社殿は、神仏分離令によって境内社富士浅間 七社を相殿として造られ、中座に木花開耶姫命、左座に大山祗命、 彦火々出見命、瓊々杵命、右座に大日霊貴(天照大神)・伊弉諾尊 ・伊弉運営冉尊を祀っている。現在の社殿は大正2年(1913) に改築されたものだが、幣殿と拝殿は老朽化したため、その後さら に鉄筋コンクリート一部木造に建替えられている。写真社殿の写真 図社殿の図面・大日堂(興法寺)鎌倉時代の文保年間(1317エムソ ゙ネ〜1318)に、末代上人の流れをくむ頼尊が村山に興法寺を開 いたと伝えられている。その興法寺の建物として現存する唯一の堂 で、アフィの本尊である大日如来を主尊とする。現在の建物は、部 材の状況や絵様彫刻の特徴などから江戸時代末期の建造運営と考え られるが、外壁は波鉄板板張りに変えられている。桁行5間・梁間 7間、入母屋造、鉄板葺きで、南面に出入り口を開き、前面と両側 面に幅一間の回り縁を巡らしている。写真社殿の写真図社殿の図面 ・水垢離場山伏修行者及び修験者が、富士登拝運営の道者が垢離を とって身を浄めた場所で、間口約6.5m、奥行き約4mの長方形 で、深さ約0.6mに掘り込み、底に石を敷きつめ周囲は石積みと なっている。造成年代は不明。水垢離場へは社叢裏手の沢に湧く龍 頭池湧水を引き、上の段から樋で落と運営し垢離を取るようにして ある。水の落ち口には山伏修行のときの主尊とされる不動明王の石 像が安置されている。写真水垢離場の写真・護摩壇大日堂東側にあ り、正面には不動明王の石像が祀られている。護摩壇は、四囲を石 で囲んだ一辺5.3mの丸い運営石組となっている。丸い石組の前 に置かれた葛石には、「干時安政四年九月」と刻まれ、安政4牧凹 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/194
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