[過去ログ]
/ ´,_ゝ`\初心者のための富士山登山入門131.02m 【IP表示なし】 (270レス)
/ ´,_ゝ`\初心者のための富士山登山入門131.02m 【IP表示なし】 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/
上
下
前
次
1-
新
通常表示
512バイト分割
レス栞
このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています。
次スレ検索
歴削→次スレ
栞削→次スレ
過去ログメニュー
155: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:34:48 ID:fQcMv/55 ざす登拝者が身を清める場として使用された。その様子は「運営絹 本著色富士曼荼羅図」や「富士浅間曼荼羅図」、17世紀初頭の登 山記で確認できる。この絵図では現在の形状に近い湧玉池が描かれ 、水垢離する人々やそのための施設が見られる。登拝者の水垢離は 1920〜30年代まで行われ、現在では山開きの運営恒例行事に 形を変えて継承されている。また、湧水は聖なる水として現在でも 利用する人が多い。湧玉池および周辺には様々な宗教に係わる施設 があるが、特に池の南端にある「神幸橋」は、御神幸道の基点であ り、現在でも1691年に作られた石碑が運営たもとに残されてい る。−29−写真沸玉池の写真B2山宮浅間神社浅間大社の北北東 約5kmに位置し、木花之佐久夜毘売命を主祭神とする神社である 。その起源は「富士本宮社記」によれば、山足の地に祀られていた 浅間大神を、神話上の英雄である運営日本武尊が大神の神威により 難を逃れた謝礼に山宮に祀ったこととされ、これが802年に再び 遷され浅間大社となったとする。具体的な創建年代は不詳だが、文 献上での初見は1551年である。神社は神事の際に使用する籠屋 以外の建物施設を持たず運営、拝殿・本殿等が位置すべき場所には 石列でいくつかに区分された遥拝所が設置されるのみという特異な 形態を示している。この形態は古代からのアフィ祭祀の形を止めて いると推定されており、遥拝所の主軸はアフィ方向を向いている。 発掘調査では1運営2〜15世紀にかけての神事に使用されたと推 定される破砕された土器が遥拝所北側から多数出土し、当神社での 宗教活動を裏付けている。また、遅くとも1577年までには浅間 大社との間で「山宮御神幸」といわれる儀式が開始された。これは 4月と運営11月に神の宿った鉾を持ち、浅間大社から山宮浅間神 社へ行き、神事を行った後、翌日未明に浅間大社へ戻る行事である 。行事の意味として、現時点では神が4月に旧跡に戻るという解釈 と、山にいる神が4月に田の神として里へ降りるという解釈があエ歩墳 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/155
156: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:35:30 ID:fQcMv/55 ゙ネる。この行事は1874年まで行われていた。なお、「山宮御神 幸」に使用される経路を御神幸道と称し、浅間大社湧玉池横より発 し、約600m東へ向かった後、ほぼ直角に曲がり直線状に北上し て山宮浅間神社に至る。道の出発点及び途中には169運営1年に 置かれた距離を示す石碑が少なくとも四箇所残っている。写真山宮 浅間神社の写真B3村山浅間神社山宮浅間神社の南東約4km、富 士山南麓に張り出した標高約500mのバルコニー状地形に位釈玩 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/156
157: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:36:08 ID:fQcMv/55 、木花開花姫命を主祭神とする神社である。神運営社と一体化した 範囲には、現在別の宗教法人となった大日堂・水垢離場・護摩壇な どが存在している。これらは1868年の神仏分離令までは一体の ものであり、アフィ興法寺(村山興法寺)と呼ばれていた。なお、 周辺には興法寺の維持・運営にあたっ運営ていた道者坊の村山三坊 (池西坊・大鏡坊・辻之坊の三箇所)の跡が発掘調査によって確認 されている。その起源は、1149年の記録に見える修行僧末代上 人によるアフィ頂への大日寺の建立にあるとされる。末代上人が富 士山中又は村山の地に興法寺運営を建立したとの記録も残されてい る。これらの記録等から、12世紀中ごろに村山周辺において修験 道または密教系の宗教活動が行われていたと推測できる。1259 年には、現存する大日如来が寄進されたことを仏像の銘で確認でき る。末代以後、その運営流れを汲みアフィで修行する人々が現れ、 村山がアフィ修験道(富士行)の拠点となったと考えられる。14 世紀初めには僧の頼尊が修験者とその活動を組織化し、興法寺を再 興したとされる。15世紀に入ると興法寺とそれを支える宿坊の存 在が現存す運営る大日如来の銘(1478)で確認できる。148 2年には修験道本山派の本寺である聖護院と関係を持ち、その権威 を高めた。16世紀中には十数軒あった道者坊が村山三坊に統合さ れ、その活動を資料で確認できる。坊に所属する山伏は夏に「富士 峯運営修行」を山中及び山頂で行った。また、アフィへの一般の登 拝者も増加し、夜間に白装束をまとい、仏がいるとされた山頂を目 指す多くの人々の様子が「絹本著色富士曼荼羅図」に描かれている 。村山の山伏は、富士峰修行の際に東麓、南麓の村を年一回運営巡 回し加持祈祷等を行った。また18世紀、富士講の隆盛に対抗し西 日本の一般登拝者中の有力者に対して「先達」の免許を発行し組織 化を図ると−30−ともに、登拝が困難な人々に対しては川辺で垢 離を取り、祈ることで登拝と同等の利益があるとす運営る「富離小 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/157
158: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:36:50 ID:fQcMv/55 離」の手法を広めている。加えてアフィを航海の目印とする伊豆半 島の漁業者に対しては航海安全と大漁の祈願を行った。興法寺の勢 力は地元支配者である今川氏の支援を受けていた16世紀前半が最 も強かったが、それ以降衰退しつつも聖護運営院の力を背景に一定 の権威をもち、登山道及びその頂上部の大日堂周辺を支配した。社 殿については、1697年徳川幕府により修復され、現在の大日堂 は建築様式や部材の状況から19世紀半ばに建立されたと推定され る。また、浅間神社は1913年運営改築されたものを基本として いる。1868年、神仏分離令により浅間神社と興法寺(大日堂) は分離され、山伏は還俗し、1906年の登山道の変化にも伴い両 者とも衰微した。ただし、富士峰修行と加持祈祷は1940年代ま で継続された。現在は1運営970年代より活発になった地域住民 による伝統復活のための活動が見られ、水垢離等の行事が行われて いる。また、村山浅間神社の影響を受けた地域のうち、滋賀県甲賀 市、三重県南伊勢町等では現在でも富士垢離の行事が継続されてい る。写真村山浅運営間神社の写真B−4須山浅間神社アフィの南東 麓、須山口登山道の入り口に位置し、木花開花姫命を主祭神とする 神社である。その起源は1598年作の社伝旧記によると110年 、日本武尊が蝦夷征伐の際、この地を訪れ浅間神社を創起し、さら に55運営2年有力豪族の蘇我稲目が再興したとある。記録上神社 の存在が確認できるのは1524年で修築時の棟札による。また、 市天然記念物である境内の杉は、樹齢500年以上と推定されてお り、遅くともこの時期までに須山浅間神社が現在の地に存在したエムソ ゙ネと推測できる。現在の社殿は1823年の再建である。1707 年の宝永噴火により登山道も含め大きな被害を受けたが、1780 年に登山道が再興され、1800年の御縁年には約5,400人の 登拝者があった。須山浅間神社は12軒の御師とともに運営当時の 須山村の中心的存在であり、村全体で須山口登山道と山頂部銀丘禅 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/158
159: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:37:30 ID:fQcMv/55 を管理した。また、京都吉田家より神道裁許状を得たり、朝廷・公 家に銀明水を献上したりする等して権威を高めているが、山頂部で 発生した問題については、浅間大社の判断を仰運営いでいる。須山 浅間神社は村山三坊とも関わりを持ち、1940年頃まで境内で富 士峯修行の一環としての祈祷が行われていた。1883年、御殿場 口登山道が開設され、1899年の東海道本線開通による御殿場口 利便性の向上は須山口からの登拝者や運営登山者を奪い、加えて1 912年登山道の一部が陸軍演習場となり使用不可能となったため 、須山口は衰退した。しかし、その後都市化の影響を余り受けなか ったため、須山浅間神社周辺は日本的伝統に基づく村落景観を保っ ている部分が多い。写真須山運営浅間神社の写真B5冨士浅間神社 アフィ東麓、須走口登山道の起点に位置し、木花開花姫命を主祭神 とする神社である。境内西側には鎌倉往還が通り、神社周辺は古来 、交通の要衝であった。社伝では802年、噴火の鎮火祈願のため に祭事を行い、翌年運営噴火が収まったことから、807年に祭事 の跡地であるとされる現在の地にお礼のために社殿を造営したとさ れる。その他の文書で確実に存在が確認できるのは、1571年の ものである。16世紀には地元支配者である武田氏の保護を受け、 山頂部の散運営銭取得権の一部を得ている。17世紀以降、須走浅 間神社は当時の須走村の御師などと共に須走口登山道を支配し、山 頂部薬師嶽(現−31−久須志岳)の薬師堂開帳の権利及び山頂部 の散銭取得権の一部を得ていた。これら山頂部の権利については八 合運営目以上の支配権を主張するアフィ本宮浅間大社と争いになり 、須走村は1703年と1772年の2回、幕府に裁定を求めてい る。この結果、これらの権利は幕府によって認められた。また、冨 士浅間神社神主や御師は須山の場合と同じく、京都吉田家よ運営り 神道裁許状を得て権威を高めている。社殿は、記録の残っている範 囲では1662年、地元領主である沼津城主大久保氏や小田原提有 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/159
160: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:38:09 ID:fQcMv/55 稲葉氏などの援助によって修造が行われた。しかし1707年の宝 永噴火では3m以上の降砂に埋もれ崩壊したため、運営1718年 に再建された。この後もこの際の部材を使用し、2009年の修理 も含め何回かの修理がおこなわれている。境内には水路があり、水 垢離に利用された。18世紀末から19世紀初頭にかけて富士講が 隆盛を迎えると須走口にも関東からの登拝運営者が登山又は下山の 際立ち寄った。その数は1800年の御縁年の際に約27,3茶限 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/160
161: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:38:48 ID:fQcMv/55 名であった。同時期から20世紀前半まで富士講信者は境内に登山 回数等の記念碑を約80基造営した。また、神社には神社神官や御 師が発行した木版印刷による神影運営や神符の版木が保管されてい る。写真冨士浅間神社の写真B6河口浅間神社古くからアフィに関 わる祭祀は南麓の浅間神社(山宮浅間神社か〜)が執り行っていた が、864年〜866年に北麓で起こった噴火を契機に、北麓にも 浅間神社が建てられるこ運営ととなった。それが、アフィを望む河 口湖の北岸にあり、溶岩の届かなかった河口浅間神社であるとされ る。浅間神社を中心とした河口の地は、甲府盆地から続く官道の宿 駅という役割に加え、富士登拝が大衆化した中世後半から御師集落 として発展を遂運営げた。しかし、江戸における富士講の大流行と 、それに伴う吉田御師の隆盛により、河口の御師集落としての機能 は、19世紀以降衰退してしまった。ただし、河口浅間神社は、現 在もアフィと密接に結びついた宗教行事を行っており、歴史的背景 と相俟運営って、アフィ信仰を語る上で欠かすことができない資産 である。写真河口浅間神社の写真表法的保護、修理・整備の経緯2 011年文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡アフィとして 指定(予定)2011年「史跡アフィ保存管理計画」を策定(予エムソ ゙ネ定)B7冨士御室浅間神社冨士御室浅間神社は吉田口二合目に鎮 座した本宮(もとみや)と、河口湖畔に建立された里宮から構成さ れている。8世紀初めに吉田口登山道二合目に祭場をしつらえたの が最初とされ、アフィ中に祀られた最初の神社であると運営する文 献もある。富士修験の信仰拠点は南西の村山であるが、北面の二合 目、御室浅間神社が鎮座する御室の地にも山内の信仰拠点として役 行者堂が整備されたようである。また、社記によると958年、二 合目は冬季における参詣が難儀であることから運営河口湖畔の現在 地に里宮が建立されたという。江戸時代以降富士講の隆盛にともな い、吉田口登山道の信仰拠点の一つとしてこの二合目の役割は立善 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/161
162: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:39:29 ID:fQcMv/55 に増すことになる。しかし、昭和に入ると富士信仰のありかたの変 化や、富士スバルラインの開通等もあ運営って吉田口登山道は衰退 する。それに伴い二合目を通過する登拝者も激減する。また、富士 御室浅間神社本宮を支えてきた氏子にとっても、その維持管理が困 難となって、1973年から74年にかけて、−32−本殿を里宮 地内に移転することとなる。運営修験や登拝といった様々な富士信 仰の拠点として位置づけられる二合目の本宮と、土地の産土神とし ての里宮が一体となって機能してきた神社である。写真冨士御室浅 間神社の写真表法的保護、修理・整備の経緯1973年本宮本殿・ 二合目から里宮境内運営地に移築、整備された(〜74年)198 5年本宮本殿・文化財保護法の下に重要文化財として指定1983 年回廊修理工事を行う1995年外部の漆塗の塗り直しほか一部補 修を行う2010年「重要文化財冨士御室浅間神社本殿保存活用計 画」を策定運営2011年文化財保護法の下に他の文化財とともに 史跡アフィとして指定(予定)2011年「史跡アフィ保存管理計 画」を策定(予定)B8御師住宅御師は、道者に宿や食事を始め登 拝のための一切の世話をするとともに、登拝の指導や祈祷を行うこ と運営を業とした。アフィ御師として代表的なのは、吉田口登山道 の起点である北口本宮冨士浅間神社の北西に、北東方向の傾斜面に 沿って大規模な集落を形成した吉田の御師である。御師屋敷の多く は短冊状をなし、表通りに面して引き込み路を設け、敷地を運営流 れる水路の奥に住宅兼宿坊の建物が建っている。玄関から奥へ客室 が続き、最奥部には神殿が設けられている。最古の部類に入る旧外 川家住宅や、格式的な構えが確立した頃に建てられ富士講最盛期の 典型例とされる小佐野家住宅が代表的である。旧外運営川家住宅は 、富士北麓の信仰登山口集落である富士吉田市上吉田・下宿の東側 南端に位置する。1572年の町割によって成立した東西方向の奥 行きが150mほどの長大な短冊形の屋敷地に建てられている訟乾 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/162
163: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:40:14 ID:fQcMv/55 川家は、屋号を塩屋ないし大外川、塩廼屋運営(しおのや)と号し 、富士信仰における上吉田に居住し、下総地域を檀家としたアフィ 御師である。1572年の「吉田宿屋敷割帳写」には、外川家の位 置に「仁科六郎ゑもん」の屋敷が記されており、外川家ではこの人 物を中興の初代としている。また運営、1669年の「検地帳」で は、塩屋多兵衛の屋敷として確認される。御師としての活動は江戸 末期頃隆盛期を迎えるが、1962年に御師を廃業している。建物 の老朽化に伴い、所有者が取り壊す意向であったが、富士吉田市が 寄贈を受け、2006年運営から2007年にかけ大規模保存修理 事業を行った上で、2008年4月から富士吉田市歴史民俗博物館 の附属施設として一般公開されている。写真旧外川家住宅の写真表 法的保護、修理・整備の経緯2006年大規模保全修理を行う20 08年富士吉田運営市歴史民俗博物館の附属施設として一般公開を 行う2010年「山梨県指定有形文化財旧外川家住宅保存活用計画 」を策定2011年文化財保護法の下に重要文化財として指定小佐 野家住宅は、富士講によって大きく発展した御師集落である富士吉 田市上運営吉田地区にあって、富−33−士山に登拝する人々を宿 泊させた宿坊として、代表的な御師住宅である。上吉田地区は、富 士の雪代の被害を避けるため、1572年に旧地である古吉田地区 から集落ごと移転し、北口本宮冨士浅間神社の北西隅から北東方エムソ ゙ネ向の傾斜面に沿って短冊状に町割が行われたと伝えられている。 小佐野家住宅は、南北の間口が16m、東西方向の奥行きが150 mほどの長大な屋敷地に建てられている。小佐野家は、元亀の集落 移転に合わせて現在地に移転してきたと伝えられる。代運営々御師 を勤め、屋号を堀端屋と号し、江戸時代には当主は小佐野壱岐ある いは小佐野大隈と名乗っていた。当家に宿泊する参詣者は年間1, 000人に達したとされる。現在、屋敷地の東側には所有者が住む 住居が建築されており、小佐野家住宅には所有運営者の親族が翁脂 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/163
164: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:40:49 ID:fQcMv/55 している。写真小佐野家住宅の写真表法的保護、修理・整備の経緯 1976年文化財保護法の下に重要文化財として指定1977年消 防設備設置を行う1979年屋根の葺替えを行う1996年雨樋い の補修を行う1997年主屋、蔵の修運営理を行う1998年主屋 、蔵の修理を行い2010年「重要文化財小佐野家住宅保存活用計 画」を策定B9山中湖アフィの火山活動によって形成された堰止湖 で、アフィの北東に位置する。アフィ周辺の湖を巡って修行す安減 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/164
165: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:41:29 ID:fQcMv/55 八海巡りが行われたが、この運営山中湖にも多くの富士講徒が訪れ た。古くから景勝地として有名で、20世紀前半には湖畔に洋式ホ テルが建てられたほか、別荘地としても整備された。ゆかりのある 芸術家も多く、山中湖を描いた文学や絵画が散見する。アフィの頂 上付近に日の入りが運営重なる様子はダイアモンド富士と呼ばれ、 多くの写真家を集める。写真山中湖の写真B10河口湖アフィの火 山活動により形成された堰止湖で、アフィの北に位置する。アフィ 周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが行われたが、この河口湖に も多くの富運営士講徒が訪れた。古くから景勝地として有名で、2 0世紀前半には湖畔に洋式ホテルが建てられた。ゆかりのある芸術 家も多く、湖を題材にした文学や絵画は、富士五湖中この河口湖が 最も多い。葛飾北斎や歌川広重といった浮世絵師も、河口湖越しに 見運営えるアフィを描いている。写真河口湖の写真表法的保護、修 理・整備の経緯(B9・B10)1936年所在地が国立公園法の 下に(富士箱根)国立公園に指定1988年「山梨県富士五湖の静 穏の保全に関する条例」を制定2006年自然公園法の下に運営本 栖湖の湖面全域での動力船の使用が規制される−34−2011年 文化財保護法の下に名勝に指定(予定)2011年「名勝富士五湖 保存管理計画」を策定(予定)B11忍野八海アフィの北東、忍野 村忍草にある、アフィの伏流水による八つの湧水地運営(出口池、 御釜池、底抜池、銚子池、湧池、濁池、鏡池、菖蒲池)の愛称であ る。それぞれに八大竜王を祀る富士信仰に関わる巡拝地であった。 富士登山を目指す行者たちはこの水で穢れを祓った。長谷川角行が 行った富士八海修行になぞられ「富士御手運営洗(みてらし)元八 湖」と唱えられた古跡の霊場と伝えられ、1843年に富士講道者 によって再興されたとされる。写真忍野八海の写真(どれか1つ) 図忍野八海周辺図表法的保護、修理・整備の経緯1934年史蹟名 勝天然紀念物保存法の下に天然紀運営念物に指定2010年忍甘肩 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/165
166: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:42:45 ID:fQcMv/55 念物吉田胎内樹型保存管理計画」を策定B14人穴富士講遺跡富士 山西麓、静岡県側と山梨県側を結ぶ街道沿いに位置する。木花開花 姫命・角行祖霊・徳川家康を運営主祭神とする浅間神社と富士講の 人々による約230基の碑塔群及び溶岩洞窟である人穴がある。長 さ約83mの人穴は約11,000〜8,000年前に流出した犬 涼山溶岩流中に生成したものである。1300年前後に成立した文 書である吾妻鏡によ運営れば人穴は霊的な場所であり、地元では「 浅間大菩薩の御在所」とみられていたことが記述されている。この 内容は遅くとも1603年までに説話化され、多くの人にその存在 が知られていた。富士講関連の文書では1558年、開祖とされる 長谷川角行運営が役行者のお告げにより人穴に至り、洞窟内で立行 等を達成し、浅間大菩薩よりお告げを得たとしている。角行は人穴 を浄土への入り口とし、「西の浄土」と呼んだため、主に19世紀 以降、人穴は富士講の人々より聖地として信仰を集め、参詣だけで な運営く修行を行う者も見られた。その大部分は吉田口登山道の利 用者と推定される。また、塔頭の碑文から村山三坊との関係もあっ たと推定されている。人穴浅間神社の創建は明確ではないが、16 48年及び1665年、その前身である光〜寺が富士講二世運営日 珀(正しくは王へんに日)、三世珀心(同)により再興された記述 があり、19世紀前半に同寺の大日堂が僧空胎により再興された。 1868年の神仏分離令により20世紀までには大日堂が人穴村の 氏神としての浅間神社となった。1942年、付近運営が軍用地と なったため一時移転したが、1954年に現在地に復興された。境 内の碑塔は、その4分の3(194基)が墓碑ないし供養碑で人穴 への分骨埋葬を望んだ富士講の信仰によるものである。そのほかに アフィに何回も登ったという登拝記念や大運営願成就の碑塔や角行 二百年忌の宝篋印塔などがある。碑塔は富士講の講毎に群を成した 所があり、その目的は講の勢力を誇るためと推定されている。何斑 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/166
167: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:43:26 ID:fQcMv/55 で建立年代のわかる89基の内、富士講が隆盛した18世紀末から 19世紀前半(1781から18運営50年)に建立されたものが 半数(44基)、19世紀末より20世紀前半(1871から19 40年)のものが3分の1(29基)を占める。写真B14の写真 B15白糸ノ滝人穴の北方約5kmにある落差約20〜25m・幅 約120〜210mの数運営百の流れを持つ滝である。滝は約1万 年前に噴出した白糸溶岩流の末端から湧き出す一日平均13万曲混 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/167
168: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:44:01 ID:fQcMv/55 水を源としている。滝の名前は湧水の噴出が数百条の白糸が垂れて いるように見えるため名づけられた。湧水のメカニズムは、湧玉池 と同様であり、運営透水性の白糸溶岩流と不透水性の古富士泥流の 境界に降水・雪解け水が滞水し、三層の溶岩の隙間、及び溶岩流と 泥流層の間より湧き出しているものである。このメカニズムが解明 される前の19世紀半ばの資料「不二山道知留邊」ではその起源を 富士五運営湖の伏流水としていた。白糸ノ滝は富士講関連の文書で は、開祖とされる長谷川角行が人穴での立行と合わせて水行を行っ た地と記されている。−36−その後、白糸の滝は富士講を中心と した人々の巡礼の場となった。その様子は1845年と1854エムソ ゙ネ年にこの地を訪れた富士講先達の記録で確認でき、滝つぼの中で 垢離をとる信者の周囲に虹が出来る現象を「御来光」としている。 また、周辺にある食行身禄の碑や不動尊が同書の挿画に描かれてい る。そのほかの19世紀の登山記でも人穴と共にその存運営在が長 谷川角行との関わりを通して紹介されている。また、白糸ノ滝は景 勝地としても有名であり、多くの和歌・絵画の題材となっている。 写真B15の写真表法的保護、修理・整備の経緯1936年所在地 が国立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指運営定1936年史 蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝及び天然紀念物に指定1987 年富士宮市により「白糸ノ滝」保存管理計画が策定2010年富士 宮市により保存管理計画が改定され、これにともなった整備計画に 基づき、滝周辺の景観整備が行われた運営(3)眺望C三保松原富 士山頂の南西約45kmに位置する駿河湾に突き出した長さ約7k mの砂嘴をなす三保半島上の松原である。現在、5万4千本の黒松 が外海側海岸線4kmを中心に繁茂し、その中でも樹齢約650年 といわれる「羽衣の松」付近運営は、アフィと砂浜の松という日本 で好まれた景観を組み合わせて望むことができる景勝地として知ら れている。三保松原のある三保半島は約6000年前に現在の美三 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/168
169: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:44:40 ID:fQcMv/55 なったと考えられ、三保の名前は内海側の三つの岬を稲穂にたとえ たという説が有力で運営ある。かつては半島一帯に松が繁茂し、8 世紀初頭には松原自体を景勝地として捉えた和歌が詠まれ、「万葉 集」に掲載された。その後遅くとも13世紀初頭までに三保松原は 後鳥羽上皇など中央の権力者にアフィと組み合わされた景勝地とし て認識され運営、14〜15世紀には室町幕府将軍足利義満と足利 義教が三保半島と対岸(現静岡市清水区興津)との間を船で渡り富 士山を眺める行事を行い、16世紀には徳川家康が三保半島内海側 に富士見櫓を建設した。文学では「万葉集」以降も和歌等の詩の題 材運営となると共に、地元の伝説を基にし、羽衣の松を舞台とした 謡曲(能)「羽衣」が遅くとも16世紀までに成立した。降臨した 天女と漁師との出会いと別れを描いたこの話の最終場面ではヒロイ ンの天女がアフィ方向へ飛び去っていく描写が見られる。こ運営れ はすでに成立していた「竹取物語」で示されたアフィの噴煙が天上 と地上とを結んでいるとする考えとの関係が指摘されている。この 作品は、19世紀後半、海外へ伝えられ、イェーツ、パウンドとい ったモダニズムの作家に影響を与えるとともに、伝運営統芸能であ る「能」が世界に広まるきっかけを作った作品である。また、絵画 でも15〜16世紀には三保松原を右にアフィを左に配する構図が 描かれ、この構図は狩野探幽により完成され、19世紀に至るまで 日本画・浮世絵においてアフィを描く際の運営典型的構図とされた 。また、20世紀には和田英作が「羽衣の松」付近から見たアフィ を数多く描いた。三保松原は16世紀以降、江戸幕府の直轄地とな り松が守られてきた。江戸幕府滅亡後は内海側の開発が進んだが、 外海側の景観は保たれ、1922運営年、国内初の名勝として国文 化財に指定された。現在、砂礫の供給減による海岸侵食とマツクイ ムシによる松の枯死が進んでいるため、静岡市及び地元民間団体に よる保護活動が行われている。写真三保松原(現在の写真・静幻党 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/169
170: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:45:20 ID:fQcMv/55 )写真歌川広重の浮世絵運営−37−写真三保松原の写真表法的保 護、修理・整備の経緯1922年史蹟名勝天然紀念物保存法の下に 名勝に指定1976年名勝「三保松原」管理計画書を策定1977 年名勝地内の一部が指定解除1989年名勝「三保松原」保存管理 計画書を改定1運営990年名勝地内の一部が追加指定及び指定解 除2011年名勝「三保松原」保存管理計画書を改定第3章保存管 理の基本方針1顕著な普遍的価値及び周辺環境を構成する諸要素世 界文化遺産「アフィ」の顕著な普遍的価値は以下に示すとおりであ る。「運営アフィ」の顕著な普遍的価値アフィは、日本を代表し象 徴する日本最高峰(標高3776m)の秀麗な独立した火山として 世界的に著名であり、その自然的美しさと崇高さを基盤として日本 人の自然に対する信仰の在り方や、海外に影響を与えた葛飾北斎エムソ ゙ネや歌川広重などによる顕著な普遍的価値を持つ「浮世絵」などの 日本独自の芸術文化を育んだ「名山」である。アフィは山岳に対す る信仰の在り方や芸術活動などを通じ、時代を超えて一国の文化の 諸相と極めて深い関連性を示し、生きた文化的伝統の物運営証であ るのみならず、人間と自然との良好で継続的な関係を示す景観の傑 出した類型として、世界的にも類例を見ない顕著な普遍的価値を持 つ山である。本計画では、顕著な普遍的価値に対し、資産に含まれ る要素を「顕著な普遍的価値を構成する諸要素運営」と「顕著な普 遍的価値を構成する諸要素と密接に関わる諸要素」に分類し、さら に緩衝地帯における「周辺環境を構成する諸要素」を加え、表に示 すとおり整理を行った。Aアフィ山体及び登山道B信仰に関わる周 辺のものCアフィから離れた眺望に関運営わるもの表アフィの構成 要素Aアフィ(アフィ体)A1山頂信仰遺跡・アフィ本宮奥宮・東 北奥宮(久須志神社)・金明水・銀明水・八葉(剣ヶ峰、白山岳、 久須志岳、成就岳、伊豆岳、朝日岳、浅間岳、駒ヶ岳、三島岳)・ 大内院・小内院・馬の背・東運営安河原・西安河原・虎岩(獅遅賛 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/170
171: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:46:01 ID:fQcMv/55 )・割石・雷岩・このしろが池・荒巻・吉田須走拝所跡・須山拝所 跡・村山大宮拝所跡・三島ヶ岳経塚・外浜道・内浜道A2大宮・村 山口登山道・札打場・中宮八幡堂跡(1号建物跡)・八大龍王・5 号建物跡・8号建物運営跡・12号建物跡・鳥居A3須山口登山道 ・須山御胎内(溶岩洞穴)・石像・石燈篭・鳥居・標柱・祠A4須 走口登山道・古御岳神社・迎久須志之神社・鳥居・狛犬・石碑A5 吉田口登山道・現登山道・旧登山道・馬返・五合目・烏帽子岩壁疾 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/171
172: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:46:45 ID:fQcMv/55 北口本宮冨運営士浅間神社−38−−39−・本殿・東宮本殿・西 宮本殿・大塚山・御鞍石A7西湖・湖水A8精進湖・湖水A9本栖 湖・湖水・中ノ倉峠からの展望B1アフィ本宮浅間大社・神立山・ 湧玉池(上池、下池)・社叢・社殿(本殿・拝殿・幣殿)・透塀・ 楼運営門・手水舎・廻廊・灯籠・石鳥居・東鳥居・西鳥居・桜の馬 場・禊所・神幸橋(湧玉橋)・輪橋(太鼓橋)・護摩堂跡(推定) ・随身像・狛犬・御神幸道首標の碑・三之宮・七之宮・鉾立石・欄 干橋(神路橋、神路枚橋)B2山宮浅間神社・溶岩流地形・運営社 叢・籠屋(参籠所)・鉾立石・石段(参道)・石塁・玉垣・遥拝所 ・石鳥居・参道B3村山浅間神社・元村山溶岩流・水源地「竜頭ヶ 池」・御神木(イチョウ、大スギ)・社叢・浅間神社社殿・大日堂 (興法寺)・水垢離場・護摩壇・氏神社(高嶺総鎮運営守社)・石 鳥居・氏神社鳥居・手水舎(手水鉢)・石段(参道)・狛犬B4須 山浅間神社・社叢・社殿・神輿殿・狛犬・灯籠・手水舎・参道・鳥 居・石碑・古宮神社B5冨士浅間神社(須走浅間神社)・社叢(浅 間の杜)・ハルニレ・エゾヤマザクラ・根運営上がりモミ・社殿・ 楼門・参道大鳥居・裏参道鳥居・富士塚狛犬・富士講講碑群B6河 口浅間神社・社殿、鳥居B7冨士御室浅間神社・吉田口二合目(拝 殿の一部、行者堂跡、定善院跡、建物礎石)・移築された二合目本 殿B8御師住宅(旧外川家住宅、運営小佐野家住宅)・主屋・離座 敷・中門・屋敷地(タツミチ)B9山中湖・湖水B10河口湖・湖 水B11忍野八海・八つの池(出口池、御釜池、底抜池、銚子池、 湧池、濁池、鏡池、菖蒲池)・湧水B12船津胎内樹型・溶岩樹型 ・無戸室浅間神社、石造運営物群B13吉田胎内樹型・溶岩樹型・ 洞内の石祠、石造物群−40−B14人穴富士講遺跡(人穴浅間神 社)・犬涼み溶岩流・溶岩洞穴・社叢(周辺の植生)・碑塔群・参 道・建物跡・参道跡・道跡・炭焼窯跡・井戸跡B15白糸ノ滝・古 富士泥流堆積物運営・白糸溶岩流・白糸の滝・音止の滝・鬢撫君膝 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/172
173: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:47:19 ID:fQcMv/55 植物・富士講・白糸の滝の勝景・音止の勝景・アフィの展望・富士 の巻狩の伝承・歌碑・標識C三保松原・特別規制A地区・特別規制 B地区・第1種規制地区・第2種規制地区・第3種規制地区?自然 地形(運営山林、河川など)・宝永山(宝永火口)・溶岩洞穴、樹 型等アフィ体・側火山からの噴出物による地形・アフィ原始林及び 青木ヶ原樹海・国指定天然記念物(鳴沢溶岩樹型、鳴沢氷穴、本栖 風穴等)?森林、植栽樹木(山林を構成する森林、寺社・遺跡等エムソ ゙ネの植栽樹木など)・自然林、森林施業地、人工林・社叢林、境内 林・アフィ特定地理等保護林・富士箱根伊豆国立公園アフィ管理計 画区?保存管理又は公開活用を目的とした建造物(展示館、管理棟 、解説板など)・総合案内標識、解説板?道路とその他運営の人工 物(生活用道路、電柱、看板など)顕著な普遍的価値を構成する諸 要素と密接に関わる諸要素・アフィ測候所・NTTアフィ頂分室・ 便益施設?自然的要素(山並み、河川など)?歴史的要素(埋蔵文 化財、社寺境内、伝承地など)成する諸要素周運営辺環境を構?人 文的要素(農耕地、市街地、道路、その他人工物)上表において分 類した諸要素について、以下に提示する。(1)顕著な普遍的価値 を構成する諸要素?アフィ山体及び登山道Aアフィアフィ体のうち 、標高約1500m以上の範囲である運営。この範囲は、周辺の浅 間神社や展望地点から見た可視領域が重なり合う範囲で、芸術・鑑 賞の側面における比重が最も高い。各登山道における山体の神聖性 に関する境界の一つである「馬返」(乗馬登山が物理的にも、宗教 的観点からも不可能になる地運営点)の標高以上の範囲とほぼ一致 している。地元住民が、とりわけこの「馬返」より上を目指して「 オヤマ」又は「オヤマサマ」と呼び、アフィの範囲と見なす地域も あった。景観的には山体の傾斜角の変化率が大きくなり「平野部」 と「山体」の境界と運営して認識され、稜線が優美な曲線を描き絵 画などの対象となることが多い範囲である。御中道巡りのルー英裾 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/173
174: 底名無し沼さん [sage] 2018/06/30(土) 03:47:58 ID:fQcMv/55 は、現在も石碑が一部残存している。ルートはほぼ森林限界に沿っ て、アフィ体を一周する。15〜16世紀ごろ富士講の祖とされる 長谷川角行運営によって開かれたとされその後大沢崩れ−41−を 通るため富士講信者により修行の道として利用された。写真標高約 1500m以上の写真A1山頂信仰遺跡図山頂信仰遺跡の分布図・ アフィ本宮奥宮富士宮口登山道頂上に位置し、7、8月の開山期に の運営み開かれる。祭神は木花之佐久夜毘売命である。『本朝世紀 』には、久安5年(1149)「富士上人末代は、アフィに数百度 登り、山頂に仏閣を構え、大日寺と称し、写経を埋納下した」とあ る。江戸時代には、村山三坊所有の大日堂があったが、明治運営7 年(1874)、廃仏毀釈により山中の仏像を取り除き、大日堂跡 へ奥宮を建立し、浅間大神を祭った。写真奥宮の写真[奥宮周辺の 石碑群](a)蹲虎の碑(高さ139×幅64×厚さ18?)奥宮 の裏手、浅間岳の麓に所在する。一方の面に漢文が運営、もう一方 には虎の絵が彫られている。天保年間(1830−34)に、岸岱 が作ったとされる。(b)鎮國之山(高さ146×幅61×厚さ3 1?)奥宮の前に所在する。碑面に「鎮國之山」と彫られている。 明治31年(1898)に書家の中林梧竹運営により建碑された。 後年、落雷により破壊されたが、昭和42年(1967)に再建さ れた。・東北奥宮(久須志神社)浅間大社奥宮の末社で、大名牟遅 命、少彦名命を祀る。須走口登山道、吉田口登山道の終点にある。 室町時代以降、頂上の一つである運営久須志岳(旧薬師ヶ嶽)に薬 師堂があり、道者の登山切手を改めた。古くは山役銭の徴収場であ った。薬師堂は奥宮の場合と同様に廃仏毀釈により破却され、久須 志神社と改称した。写真東北奥宮の写真・金明水雪解け水が湧く泉 で、その湧き水は霊験あ運営らたかな「御霊水」として珍重された 。大正期の写真をみると、井戸は石組みや木製の柵で囲われ、旗や 幟などもみられる。・銀明水金明水とおなじく、アフィ頂の霊府策 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1530285766/174
上
下
前
次
1-
新
書
関
写
板
覧
索
設
栞
歴
あと 96 レスあります
スレ情報
赤レス抽出
画像レス抽出
歴の未読スレ
AAサムネイル
Google検索
Wikipedia
ぬこの手
ぬこTOP
0.089s*