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130: 2022/10/26(水)23:21 ID:??? AAS
 擦文文化の一部を継承し、オホーツク系を征服し交雑し
さらに様々な文化が交わり、民族として様々に違っていったアイヌ系諸民族
 *北海道南西部にいる、日本文化寄りのアイヌ(渡党≒松前藩)
 *清に朝貢するもの
 *清勢力下の民族と同居するもの
 *ロシアの進出後、カムチャッカのロシア・カムチャダール等に鉄など必需品を依存
※そこら交易の債務で、清・ロシア側に連れ去られるアイヌ多数※
日本国内の差どころでなく、
政治・経済・社会・文化、また民族意識が異なっている諸民族の総称がアイヌ

 武田信広は「若狭国の守護、武田信賢の子。
相続争いに敗れて蝦夷地に渡った」と称していますが、芸州の武田家にも、若狭の武田家にも信広の名はないそうです。
福井県立若狭歴史民俗資料館に 小浜市龍泉寺の古文書が残されており、松前家が祖先信広の出自を明確にするため、 家臣を調査に派遣したときの記録が残されているそうですが、
その結果はネガティブだったようです。

新羅之記録には、信広は若狭国の守護・武田信賢(のぶかた、1420〜71年)の三男で、一族の内紛を避けて若狭を出奔し、蝦夷地にやってきたと書かれている。
若狭武田家は清和源氏につながる名門だが、信広という人物の存在は、信頼できる系図(尊卑分脈=そんぴぶんみゃく)からも確認できない。
 ●下北出身の土豪だった?
 「新羅之記録によれば、信広は1431年の生まれです。
父の信賢が11歳のときの子供になるわけで、ちょっと考えにくい。名門の出にするため、松前氏が創り出した系図だと私は考えています」
 「北海道戦国史と松前氏」(洋泉社)の著者、新藤透・山形県立米沢女子短大准教授(日本近世史)は言う。
新藤准教授が唱えるのは、下北半島にある蠣崎(かきざき)の土豪出身という説だ。

トパットゥミ(夜襲)
外部リンク[pdf]:www.town.shiraoi.hokkaido.jp
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