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485: 2018/02/26(月)19:37 ID:0(485/1000) AAS
2代続けて持明院統が天皇となったため、勢力を巻き返した大覚寺統や幕府の圧力を受け、正安3年(1301年)、大覚寺統の後宇多上皇の第一皇子・後二条天皇に譲位した。
この際、新たに上皇となった後伏見はまだ14歳で皇子がなく、次の皇太子には異母弟の富仁親王(後の花園天皇)がなった
486: 2018/02/26(月)19:37 ID:0(486/1000) AAS
徳治3年(1308年)、後二条天皇が急死し、弟の花園天皇が即位。しばらく後、伏見上皇が出家して院政を停止したので、これを引き継いで正和2年(1313年)から文保2年(1318年)の間、院政を敷いた。
花園天皇の在位の間、幕府と折衝し持明院統と大覚寺統から交互に天皇を出すと言う取り決めを行おうとした(文保の御和談)が失敗に終わった(両統迭立を参照)。
487: 2018/02/26(月)19:38 ID:0(487/1000) AAS
文保2年(1318年)、在位10年で花園天皇は大覚寺統の後醍醐天皇に譲位した。
その皇太子には大覚寺統の邦良親王(後二条天皇皇子)がなり、後伏見上皇の皇子
・量仁親王(光厳天皇)はその次の皇太子となることが決められた。
嘉暦元年(1326年)に邦良親王が病死し、幕府の裁定で量仁親王がようやく皇太子に
立った。しかし、後醍醐天皇は譲位に応じず、元弘元年(1331年)幕府に反旗を翻し、捕らえられた。
幕府により皇太子量仁が即位して光厳天皇となり、後伏見上皇はしばらく院政を行った。
488: 2018/02/26(月)19:39 ID:0(488/1000) AAS
元弘3年(1333年)、足利尊氏が後醍醐天皇に呼応して京都の六波羅探題を襲撃すると、北条仲時らに擁され、光厳天皇・花園上皇とともに東国に逃れようとした。
しかし道中で仲時らは討ち死にし、両上皇と天皇は捕らえられて京都に連れ戻された。光厳天皇は廃位され、後伏見上皇は出家剃髪した。
489: 2018/02/26(月)19:40 ID:0(489/1000) AAS
元弘3年(1333年)、足利尊氏が後醍醐天皇に呼応して京都の六波羅探題を襲撃すると、北条仲時らに擁され、光厳天皇・花園上皇とともに東国に逃れようとした
。しかし道中で仲時らは討ち死にし、両上皇と天皇は捕らえられて京都に連れ戻された。光厳天皇は廃位され、後伏見上皇は出家剃髪した。
490: 2018/02/26(月)19:40 ID:0(490/1000) AAS
明正天皇(めいしょうてんのう、元和9年11月19日(1624年1月9日) - 元禄9年11月10日(1696年12月4日))は、
第109代天皇(在位:寛永6年11月8日(1629年12月22日) - 寛永20年10月3日(1643年11月14日))。女帝(女性天皇)。
幼名は女一宮、諱は興子(おきこ)。母方の祖父に徳川秀忠、伯父に徳川家光がいる。
491: 2018/02/26(月)19:41 ID:0(491/1000) AAS
後水尾天皇の第二皇女。母は太政大臣征夷大将軍徳川秀忠の娘・東福門院源和子(かずこ、入内の際に濁音発音を嫌う宮廷風習にならい「まさこ」と読みを変える)。
492: 2018/02/26(月)19:42 ID:0(492/1000) AAS
寛永6年(1629年)の紫衣事件や将軍・徳川家光の乳母春日局が無官のまま参内した事件に関して、江戸幕府への憤りを覚えた父・後水尾天皇から突然の内親王宣下と譲位を受け[1]、興子内親王として7歳で践祚した。これにより称徳天皇以来859年ぶりに女帝(女性天皇)が誕生した。
493: 2018/02/26(月)19:42 ID:0(493/1000) AAS
後水尾天皇から譲位の相談を受けた中和門院は、主要な公家10人余に覚書を配布した。その二条目は次のようなものであった。
494: 2018/02/26(月)19:42 ID:0(494/1000) AAS
女帝の儀は苦しかるまじき、左様にも候わば、女一宮に御位預けられ、若宮御誕生の上、御譲位あるべき事
495: 2018/02/26(月)19:43 ID:0(495/1000) AAS
女性天皇は不都合なものではないから、一時的に女一宮(明正天皇)に皇位を預け、皇子誕生の後に譲位するというものである。
明正天皇の治世中は後水尾上皇による院政が敷かれ、明正天皇が朝廷における実権を持つことはなかったとされる。
寛永20年(1643年)21歳で異母弟・紹仁親王(後光明天皇)に譲位して太上天皇となった。
のちに出家して、太上法皇となる。元禄9年(1696年)に崩御した。享年74。
496: 2018/02/26(月)19:43 ID:0(496/1000) AAS
明正の名は、女帝の元明天皇とその娘の元正天皇から取ったとされる。
497: 2018/02/26(月)19:44 ID:0(497/1000) AAS
明正天皇は徳川将軍家を外戚とする唯一の天皇である。これを機に『禁中並公家諸法度』に基づいて江戸幕府の朝廷に対する介入が本格化したことを意味する。しかし朝廷内においては、院政を敷いた後水尾上皇が依然として実権を握っていた。
院政は本来、朝廷の法体系の枠外の仕組みであり、『禁中並公家諸法度』ではそれを統制できなかった(この件については霊元天皇の項も参照)。
498: 2018/02/26(月)19:45 ID:0(498/1000) AAS
徳川家は当初、かつての摂関家のように天皇の外戚になることを意図して東福門院の入内を図ったが、実際に明正天皇が即位することで反対に、公家や諸大名が彼女に口入させて幕府に影響を与えることが警戒されるようになった。
譲位直前の寛永20年9月1日、伯父である将軍徳川家光は4か条からなる黒印状を新院となる明正天皇に送付し、
官位など朝廷に関する一切の関与の禁止および新院御所での見物催物の独自開催の禁止(第1条)、血族は年始の挨拶のみ対面を許し他の者は摂関・皇族とも言えども対面は不可(第2条)、
行事のために公家が新院御所に参上する必要がある場合には新院の伝奏に届け出て表口より退出すること(第3条)、
両親の下への行幸は可・新帝(後光明天皇)と実妹の女二宮の在所への行幸は両親いずれかの同行で可・新院のみの行幸は不可とし行幸の際には必ず院付の公家が2名同行する事(第4条)などが命じられ、厳しく外部と隔離されることとなった。
こうした徳川家を外戚とする明正天皇を取り巻いた事実は、東福門院より後に徳川家からの入内が行われなかったことと深く関わっていると考えられている。
499: 2018/02/26(月)19:46 ID:0(499/1000) AAS
後光明天皇(ごこうみょうてんのう、寛永10年3月12日(1633年4月20日) - 承応3年9月20日(1654年10月30日))は、江戸時代前期の第110代天皇。
幼名を素鵞宮(すがのみや)、諱を紹仁(つぐひと)という。
儒学に傾倒して典礼を重んじ、朝儀再興を目指した。
500: 2018/02/26(月)19:47 ID:0(500/1000) AAS
天皇は武芸を学ぶなど激烈で直情径行的な性格の持ち主であり、反幕府的な態度をとっていたともいわれるが、その反面で幼少から学問を好み、特に儒学や漢学を尊重して、これを奨励した。
初め明経家の伏原賢忠から『周易』の伝授を受け、後に程朱学派に傾倒すると、二条康道の推薦で民間から朝山素心を招き入れて進講を受けている。
慶安4年(1651年)9月には、儒者藤原惺窩の功績を称えてその文集に勅序を与えた。
天皇が庶民の書に序文を賜うことは、これが最初という。また、漢詩文の詩作を好み、御集に『鳳啼集』がある。
このような経学への傾倒に対し、和歌や『伊勢物語』・『源氏物語』などの古典を柔弱として斥ける風もあったが、在位中は朝儀再興に心を砕いており、正保3年(1646年)に神宮例幣の儀を再興した。
釈奠や大学寮の復興、服制の改革をも意図していたというが、これらは崩御のために実現しなかった。
501: 2018/02/26(月)19:48 ID:0(501/1000) AAS
天皇は剣術を好んだが、京都所司代の板倉重宗が「関東へ聞こえましてはよろしくございません。
もしお止めなさらぬ時は、この重宗、切腹せねばなりませぬ」と諌めた。すると、天皇は「未だ武士の切腹を見たことがない。南殿(なでん)に壇を築いて切腹せよ」とのこと。これに対して、重宗は大いに閉口し、幕府も畏服したという[1]。
502: 2018/02/26(月)19:49 ID:0(502/1000) AAS
天皇は常々「朝廷が衰微したのは、和歌と源氏物語が原因」と論じて、源氏物語を淫乱の書と決め付け、その類のものを一切読まず、また和歌も詠まなかったという[2]。
しかし、禁中に臨幸した後水尾院から詠歌を促されると、天皇は供御の来る間にたちまち10首の歌を詠み上げ、これを見た院が深く感じ入ったという所伝もある[3]。
503: 2018/02/26(月)19:49 ID:0(503/1000) AAS
父の後水尾院が病に罹ったので天皇は見舞いを思い立ったが、所司代の重宗から「朝覲行幸には幕府への伺いが必要である」と横槍が入った。
天皇は行幸を中止し、禁中の南東隅の築地から院御所の北西隅までの高廊下を急ぎ造らせた。
そして「禁裏の内の行幸は常のこと」と言い、廊を渡って遂に見舞いを決行したという[4]。
504: 2018/02/26(月)19:50 ID:0(504/1000) AAS
平生酒を嗜んだが、ある酒宴の席で徳大寺公信より酒の飲み過ぎについて諫言された。天皇は顔色を変え、剣を取って切り捨てようとすると、
公信も「諫言さえお容れになるのなら、身命は惜しみません」と言って御前を去らず、侍臣らが執り成してその場を治めた。
自らの態度を悔いた天皇は心安まらず、翌朝公信を召して、
諫言のとおり今後は大酒を止める決意を述べ、「昨夜の有様こそ返す返す恥ずかしく思う」と、剣を手ずから下賜した。
公信は何も言わず、ただ涙を抑えていたという[5]。
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