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817
: 2018/03/02(金)22:41
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817: [sage] 2018/03/02(金) 22:41:21.30 ID:0 バートランド・ラッセルは「西洋哲学史」の中で、「ヘーゲルの諸学説が殆どすべて誤りであるとしても(そしてわたしはそう信じているのだが)、なお彼はある種の哲学のもっともすぐれた代表者として、 ただ単に歴史的なものではない重要性を、保持しているのである(市井三郎訳)」と言っているが、これはヘーゲルに限らず、一流と言われる哲学思想家には、多かれ少なかれ当てはまることである。 というのも、西洋の精神的な伝統を支えてきた哲学というものは、一方では体系へのやみがたき情熱に駆り立てられながら、他方では体系を築き上げるための礎を必要とするものだが、 多くの場合打ち立てられた体系が荒唐無稽の代物になりやすいのに対して、礎の方は別の体系のための土台(方法といってもよい)にもなりうるからである。体系という点に関していえば、ヘーゲルほど 体系にこだわった哲学者はいないだろう。ヘーゲルによれば、世界とは一つの単純な原理に従って成立している壮大な構築物なのだ。その単純な原理とは精神のことである。世界の究極的な原理としての 精神が、自ら展開することによって世界が生成する。ヘーゲルはそう考えるのだ。何故そうなるのか、それは世界の実体としての精神が主体であるからである。主体である実体は自ら運動することができる。 その運動が世界を生成させる。ヘーゲルはそうも考えるのだ。ヘーゲルによれば、自然的な世界も精神的な世界も同一の原理によって動いている。その原理の内実をなすものは絶対精神である。 絶対精神が物の形をとると自然的な世界としての相貌を呈し、意識の形をとると精神的な世界の相貌を呈する。だから意識とその対象としての自然的な世界とは、無媒介に対立しあうのではなく。 同じものが違う形を取って現れているに過ぎない。二つとも同じ原理によって動いている。その原理をそれとして取り出せば、それは論理学の内容と同じものになる。ヘーゲルは更に進んでそう考えるのだ。 こんなふうに整理すると、ヘーゲルの体系がスピノザのそれに似ていることに気づく。スピノザの場合においては、神が世界の究極の原理である。実体としての神が展開したもの、それが世界である。 だからそれは神の別名なのだ。あるいは神とはこの世界を別の言葉で置き換えたものなのだ。しかしスピノザの神は、ヘーゲルによれば、静止したものである。それは動かない。どこまでも止まったままである。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1505231180/817
バートランドラッセルは西洋哲学史の中でヘーゲルの諸学説が殆どすべて誤りであるとしてもそしてわたしはそう信じているのだがなお彼はある種の哲学のもっともすぐれた代表者として ただ単に歴史的なものではない重要性を保持しているのである市井三郎訳と言っているがこれはヘーゲルに限らず一流と言われる哲学思想家には多かれ少なかれ当てはまることである というのも西洋の精神的な伝統を支えてきた哲学というものは一方では体系へのやみがたき情熱に駆り立てられながら他方では体系を築き上げるための礎を必要とするものだが 多くの場合打ち立てられた体系が荒唐無稽の代物になりやすいのに対して礎の方は別の体系のための土台方法といってもよいにもなりうるからである体系という点に関していえばヘーゲルほど 体系にこだわった哲学者はいないだろうヘーゲルによれば世界とは一つの単純な原理に従って成立している壮大な構築物なのだその単純な原理とは精神のことである世界の究極的な原理としての 精神が自ら展開することによって世界が生成するヘーゲルはそう考えるのだ何故そうなるのかそれは世界の実体としての精神が主体であるからである主体である実体は自ら運動することができる その運動が世界を生成させるヘーゲルはそうも考えるのだヘーゲルによれば自然的な世界も精神的な世界も同一の原理によって動いているその原理の内実をなすものは絶対精神である 絶対精神が物の形をとると自然的な世界としての相貌を呈し意識の形をとると精神的な世界の相貌を呈するだから意識とその対象としての自然的な世界とは無媒介に対立しあうのではなく 同じものが違う形を取って現れているに過ぎない二つとも同じ原理によって動いているその原理をそれとして取り出せばそれは論理学の内容と同じものになるヘーゲルは更に進んでそう考えるのだ こんなふうに整理するとヘーゲルの体系がスピノザのそれに似ていることに気づくスピノザの場合においては神が世界の究極の原理である実体としての神が展開したものそれが世界である だからそれは神の別名なのだあるいは神とはこの世界を別の言葉で置き換えたものなのだしかしスピノザの神はヘーゲルによれば静止したものであるそれは動かないどこまでも止まったままである
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