[過去ログ] 【無限小】柄谷行人を解体する80【偏微分∂】 (1002レス)
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690: [age] 2024/11/13(水)22:49 ID:0(690/1000) AAS
英語を母国語としない116の国・地域における「英語能力指数」の2024年世界ランキングで、日本は前年の87位を下回り、過去最低の92位となった。留学事業を展開する「EFエデュケーション・ファースト」(スイス)の日本法人が13日に公表した。他の国・地域と比べて若年層の英語能力が低迷しているという。
691: [age] 2024/11/13(水)22:51 ID:0(691/1000) AAS
年齢別の分析では、仕事で英語を使うことが多いとみられる26歳以上と比べ、18~25歳の指数が全体の平均を大幅に下回った。新型コロナウイルス禍によってコミュニケーションや学習の意欲が下がったことなどが影響しているとみられる。
ランキングの首位は6年連続でオランダ。3位に食い込んだシンガポールを除き、上位10位までは欧州勢が占めた。アジアでは他にフィリピンが22位、マレーシアが26位と続いた。
EF社日本法人の担当者は「日本の英語能力が下がっているわけではなく、他の国・地域の伸びについていけていないのではないか」と推測した。
692: [age] 2024/11/13(水)22:55 ID:0(692/1000) AAS
哲学板で、数学とか論理学とかプログラミング言語とか英文とかファイル作れてるの俺一人しかいないんだけど、さすがに人材不足というか、無能過ぎないか?それだと、無能で名高いZ世代と大して変わらないことだろう
693: 2024/11/13(水)22:56 ID:0(693/1000) AAS
隠喩哲学wwwwwwwwwwwwwwwwwwww
694: [age] 2024/11/13(水)23:15 ID:0(694/1000) AAS
>ベネターの快苦の非対称性の問題点は他にも様々な視点から色んな説明の仕方が可能なように思える。
だからと言ってベネターの素晴らしさが減殺されるわけではないんだよ。ベネターの功績はそのような比較という視点から直接的に不存在にスポットライトをあてることができるのではないか、ということを指摘したところにあるのだと思う。
そして、さらに言うなら、反出生主義の功績というのは不存在という視点から存在にスポットライトをあてるという斬新なその視点にあるのだと私は思うよ。
反出生主義スレにあったものだが、こうした不存在や非在を仮想的に上手く扱えるのが哲学だと言える。落合陽一の言うヌルの神も、そうした空を指示したものであり、カントの物自体に相当する。背理法ならば、棄却したい仮説を予め作り、その矛盾を導くことで、仮説が否定された側の命題を真とする証明方法となる
695: 2024/11/14(木)13:34 ID:0(695/1000) AAS
学歴レンダ
僕は1人でロス、シカゴ、ニューヨークに旅行したよ
696: 2024/11/14(木)13:43 ID:0(696/1000) AAS
ドイツ語、フランス語の哲学書に比べて
英語は解説という感じがする
JPOPで日本語が流通している
697: 2024/11/14(木)13:49 ID:0(697/1000) AAS
学歴ロンダか
修士の近代経済、哲学受けた。
柄谷の影響で
698: 2024/11/17(日)06:15 ID:0(698/1000) AAS
デリダ「絵画における真理」に、ソシュールの名前が出てきて、当然「一般言語学講義」のソシュール(20世紀)かと思ったが、18世紀のカントがソシュールを読んでいたという。デリダ的なフィクションか。いや、言及されているソシュールは、フェルディナンの曾祖父であるという。
オラス=ベネディクト・ド・ソシュール「アルプス紀行」
人里離れたその茅屋の上方の森のなかで、私はその野生のチューリップを見つけた。そのときまで、私は一度も野生のチューリップを見たことがなかったのである
カント「判断力批判」での花の議論は、小林秀雄の「当麻」(美しい花がある)に影響を与えたのではないかと思う。
カント「判断力批判」
或る花は、zum Beispiel eine Tulpe〔例えばチューリップは〕、美しいと見なされる。そのわけは、その花を知覚するとき、人は次のような目的性に出くわすからである。すなわち、われわれが実際上そのように判断しているように、いかなる目的とも関連をもたないような、そういう目的性がそれである
デリダによれば、カントはソシュール「アルプス紀行」に示唆されて、チューリップについて議論しているという。ケーニヒスベルクからほとんど出る事がなかったというカントには、ソシュールのアルプスに関する記述が刺激的だったのかもしれない。もしくは、モン・ブラン初登頂のソシュールが有名だったのだろうか。
ジャック・デリダ
カントはそのチューリップを多分オランダで摘み取ったのではなくて、彼が当時さかんに読んでいたソシュール某の書物のなかで摘んだのであろう。
第三『批判』のなかで、ソシュール某という人物がカントによってしばしば引合いに出されていることにわれわれが気づくまでは、この事例は恣意的であるように思われる。ところでこのド・ソシュール氏なる人物は、長大な「美感的な反省的諸判断の論究に関する一般的注解」でカントが述べているところによると、「学識深く才気煥発な人間」で、『アルプス紀行』の著者であった(74)。
省2
699: 2024/11/17(日)18:44 ID:0(699/1000) AAS
エドガー・アラン・ポー 「盗まれた柄谷スレ」
700: 2024/11/21(木)00:31 ID:0(700/1000) AAS
フランシス・フクヤマが教育テレビに出てる。
再放送か
701: [age] 2024/11/21(木)03:28 ID:0(701/1000) AAS
可塑性隠喩哲学の場合は、レトリックやアナロジーを駆使して、幾らでも逃走線を自由に引ける、すなわち言説を誤魔化せるのに対して、数学はそうした誤魔化しが通用しない厳密さがある。
702: [age] 2024/11/21(木)03:29 ID:0(702/1000) AAS
たとえば、「ロルの定理」や、それを応用した「平均値の定理」では関数f(x)が閉区間[a,b]で連続、かつ、開区間(a,b)で微分可能であることが、その条件として必要である。なぜ、どちらとも閉区間では拙いのだろうか。
それは、開区間にしないと、端点での微分が片側微分しか出来なくなり、微分の本来の定義である両側微分が出来なくなるからである。よって、滑らかな関数f(x)が全ての点において微分可能となるためには端点が生じる閉区間[a,b]では駄目で、開区間(a,b)とする必要がある
703: [age] 2024/11/21(木)03:29 ID:0(703/1000) AAS
このように、ミクロな操作的扱いにおいても厳密さが要請される数学的なアプローチに対して、なんとなく同じように感じられればいいんじゃんね、みたいなテキトーさで誤魔化せるのが可塑性隠喩哲学の特徴というか、欠陥であると言えるであろう
704: 2024/11/21(木)03:38 ID:0(704/1000) AAS
勝共連合wwwwwwwwwwwwwwwww
705: [age] 2024/11/21(木)03:44 ID:0(705/1000) AAS
たとえばa=0となる点aのように、閉区間での端点となる場合と、それに対し、lim x→aとすれば、これは開区間での限りなく0に近い無限小の表現になることであろう。
このように、数学であれば0と無限小の間の超ミクロな差異を式で厳密に表せるのである。何となく同じだろうの可塑性隠喩哲学とは、この辺りが違うのである。つまり、数学的な記述は知的に、あるいは論理的に安全なのに対して、可塑性隠喩哲学はいつ壊れてもおかしくない危うい橋を渡るがの如しとなるのである
706: 2024/11/21(木)03:48 ID:0(706/1000) AAS
1968wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
707: [age] 2024/11/21(木)04:23 ID:0(707/1000) AAS
安全な認識とは、信頼性の高い認識のことであり、そこには当然、数学的、もしくは論理学的な厳密さが要請される。
宗教の認識は、そのニーズこそ世界中に尚あるが、信頼性や確実性の面では危ういのではないだろうか。宗教戦争などもそうした危うさの一つである。宗教体系によって教義がまちまちであり、たとえば密教であれば大日如来などが自明な存在として表れたり、真言のような呪文が重要とされる
708: [age] 2024/11/21(木)04:31 ID:0(708/1000) AAS
デカルトは「我思う故に我あり」とし、あらゆるものの存在を疑い得るが、そうした疑いを抱けるコギトについては疑い得ぬ確実なものであるとした。果たして、そうだろうか。
たとえば、昨日、私は就寝中の夢で、可塑性隠喩哲学の欠陥について考えている自身の姿を認識していたのだが、目が覚めるまでは、それが夢の中の出来事だとは全く気づけなかったのてある。成仏できぬ浮遊霊なども自己意識はあるらしいので、コギトの感覚や意識だけでは、本当に自分がこの世の現実世界に存在しているのか否かは判断不可能なのである
709: [age] 2024/11/21(木)04:36 ID:0(709/1000) AAS
このように、我の存在含めて、認識的な正しさや真の客観性を得るのは困難であるのだが、そうした中で格段に安全性が高く信頼するに足る認識が、数学的な認識なのである。
よって、ある哲学や言明が真に近いものであれば、それは必然的に数学的な原理に基礎づけられたものとなることが想像される
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