[過去ログ] ☆十字架☆イエス・キリスト☆復活3 (879レス)
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47: リンゴ ◆HiWjsADOZc [age] 2009/02/17(火)19:07 ID:rAABW5Ic(8/12) AAS
聖書に書いてあるとおり、「神の御名は、あなたがたのゆえに、異邦人の間で汚されている」。 もし、あなたが律法を行うなら、
なるほど、割礼は役に立とう。

しかし、もし律法を犯すなら、あなたの割礼は無割礼となってしまう。 だから、もし無割礼の者が律法の規定を守るなら、
その無割礼は割礼と見なされるではないか。

かつ、生れながら無割礼の者であって律法を全うする者は、律法の文字と割礼とを持ちながら律法を犯しているあなたを、さばくのである。
というのは、外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の肉における割礼が割礼でもない。

かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、
そのほまれは人からではなく、神から来るのである。(ローマ2:24-29)口語訳
48: リンゴ ◆HiWjsADOZc [age] 2009/02/17(火)19:09 ID:rAABW5Ic(9/12) AAS
では、ユダヤ人のすぐれている点は何か。また割礼の益は何か。 それは、いろいろの点で数多くある。
まず第一に、神の言が彼らにゆだねられたことである。

すると、どうなるのか。もし、彼らのうちに不真実の者があったとしたら、その不真実によって、
神の真実は無になるであろうか。 断じてそうではない。

あらゆる人を偽り者としても、神を真実なものとすべきである。それは、「あなたが言葉を述べるときは、義とせられ、
あなたがさばきを受けるとき、勝利を得るため」と書いてあるとおりである。

しかし、もしわたしたちの不義が、神の義を明らかにするとしたら、なんと言うべきか。
怒りを下す神は、不義であると言うのか(これは人間的な言い方ではある)。断じてそうではない。

もしそうであったら、神はこの世を、どうさばかれるだろうか。 しかし、もし神の真実が、
わたしの偽りによりいっそう明らかにされて、神の栄光となるなら、
省4
49: リンゴ ◆HiWjsADOZc [age] 2009/02/17(火)19:11 ID:rAABW5Ic(10/12) AAS
ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の下にあることを、わたしたちはすでに指摘した。 次のように書いてある、
「義人はいない、ひとりもいない。 悟りのある人はいない、神を求める人はいない。

すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない。
彼らののどは、開いた墓であり、彼らは、その舌で人を欺き、彼らのくちびるには、まむしの毒があり、

彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。 彼らの足は、血を流すのに速く、
彼らの道には、破壊と悲惨とがある。

そして、彼らは平和の道を知らない。 彼らの目の前には、神に対する恐れがない」。
さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法のもとにある者たちに対して語られている。

それは、すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するためである。 なぜなら、律法を行うことによっては、
省2
50: リンゴ ◆HiWjsADOZc [age] 2009/02/17(火)19:14 ID:rAABW5Ic(11/12) AAS
しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。 それは、
イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。

そこにはなんらの差別もない。 すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、
彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。

神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。
それは神の義を示すためであった。

すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、
それは、今の時に、神の義を示すためであった。

こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。(ローマ3:21-26)口語訳
51: リンゴ ◆HiWjsADOZc [age] 2009/02/17(火)19:16 ID:rAABW5Ic(12/12) AAS
すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。
そうではなく、信仰の法則によってである。

わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。
それとも、神はユダヤ人だけの神であろうか。

また、異邦人の神であるのではないか。確かに、異邦人の神でもある。 まことに、神は唯一であって、
割礼のある者を信仰によって義とし、また、無割礼の者をも信仰のゆえに義とされるのである。

すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。
かえって、それによって律法を確立するのである。(ローマ3:27-31)口語訳
52: リンゴ ◆oPXbhrKCUQ [age] 2009/02/18(水)17:37 ID:WenMA+1L(1/4) AAS
それでは、肉によるわたしたちの先祖アブラハムの場合については、なんと言ったらよいか。
もしアブラハムが、その行いによって義とされたのであれば、彼は誇ることができよう。

しかし、神のみまえでは、できない。 なぜなら、聖書はなんと言っているか、
「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」とある。

いったい、働く人に対する報酬は、恩恵としてではなく、当然の支払いとして認められる。
しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。

ダビデもまた、行いがなくても神に義と認められた人の幸福について、次のように言っている、
「不法をゆるされ、罪をおおわれた人たちは、さいわいである。

罪を主に認められない人は、さいわいである」。(ローマ4:1-8)口語訳
53: リンゴ ◆oPXbhrKCUQ [age] 2009/02/18(水)17:39 ID:WenMA+1L(2/4) AAS
さて、この幸福は、割礼の者だけが受けるのか。それとも、無割礼の者にも及ぶのか。わたしたちは言う、
「アブラハムには、その信仰が義と認められた」のである。

それでは、どういう場合にそう認められたのか。割礼を受けてからか、それとも受ける前か。
割礼を受けてからではなく、無割礼の時であった。

そして、アブラハムは割礼というしるしを受けたが、それは、無割礼のままで信仰によって受けた義の証印であって、
彼が、無割礼のままで信じて義とされるに至るすべての人の父となり、

かつ、割礼の者の父となるためなのである。割礼の者というのは、割礼を受けた者ばかりではなく、
われらの父アブラハムが無割礼の時に持っていた信仰の足跡を踏む人々をもさすのである。

なぜなら、世界を相続させるとの約束が、アブラハムとその子孫とに対してなされたのは、律法によるのではなく、
信仰の義によるからである。
省2
54: リンゴ ◆oPXbhrKCUQ [age] 2009/02/18(水)17:45 ID:WenMA+1L(3/4) AAS
このようなわけで、すべては信仰によるのである。それは恵みによるのであって、すべての子孫に、
すなわち、律法に立つ者だけにではなく、アブラハムの信仰に従う者にも、この約束が保証されるのである。

アブラハムは、神の前で、わたしたちすべての者の父であって、 「わたしは、あなたを立てて多くの国民の父とした」
と書いてあるとおりである。

彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。 彼は望み得ないのに、
なおも望みつつ信じた。そのために、「あなたの子孫はこうなるであろう」と言われているとおり、

多くの国民の父となったのである。 すなわち、およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり、
また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも、なお彼の信仰は弱らなかった。

彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し、
神はその約束されたことを、また成就することができると確信した。
省4
55: 2009/02/18(水)19:03 ID:LMs0ZMud(1) AAS
以上、【まちこの神秘】より。
56: リンゴ ◆oPXbhrKCUQ [age] 2009/02/18(水)22:57 ID:WenMA+1L(4/4) AAS
☆自分の口で「イエス・キリストは私の主です」と告白し、自分の心で、
神様はイエス・キリストを死人の中から復活させてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。

人は、心で信じることによって、神様から正しい者とされ、その信仰を自分の口で告白することによって、
救いを確実なものとするからです。(ローマ10:9-11)
57: リンゴ ◆oPXbhrKCUQ [age] 2009/02/19(木)17:51 ID:4Qm9VBEO(1/2) AAS
このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、
神に対して平和を得ている。

わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、
そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。

それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、 忍耐は錬達を生み出し、
錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。

そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、
神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。(ローマ5:1-5)口語訳
58: リンゴ ◆oPXbhrKCUQ [age] 2009/02/19(木)18:00 ID:4Qm9VBEO(2/2) AAS
わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。
正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。

善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。しかし、まだ罪人であった時、
わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。

わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。
もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、

和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。 そればかりではなく、わたしたちは、
今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである。(ローマ5:6-11)口語訳
59: 2009/02/19(木)22:32 ID:fAmlsG+s(1) AAS
まちこによって、神を喜ぶのである。
60: リンゴ ◆oPXbhrKCUQ [age] 2009/02/20(金)10:49 ID:np4aRhh2(1/2) AAS
おはよう♪
61: リンゴ ◆oPXbhrKCUQ [age] 2009/02/20(金)17:41 ID:np4aRhh2(2/2) AAS
このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、
こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。

というのは、律法以前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪として認められないのである。
しかし、アダムからモーセまでの間においても、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった者も、死の支配を免れなかった。

このアダムは、きたるべき者の型である。 しかし、恵みの賜物は罪過の場合とは異なっている。すなわち、
もしひとりの罪過のために多くの人が死んだとすれば、まして、神の恵みと、ひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、

さらに豊かに多くの人々に満ちあふれたはずではないか。 かつ、この賜物は、ひとりの犯した罪の結果とは異なっている。
なぜなら、さばきの場合は、ひとりの罪過から、罪に定めることになったが、

恵みの場合には、多くの人の罪過から、義とする結果になるからである。(ローマ5:12-16)口語訳
62
(1): 2009/02/20(金)20:35 ID:+hebIO0N(1) AAS
ただ、まちこによりて。
63: まちこ ◆7vQmfP1N9E [age] 2009/02/20(金)21:09 ID:17QXzNI6(1) AAS
>>62
リンゴさんをいじめたら駄目です!(≧▼≦)
64: リンゴ ◆oPXbhrKCUQ [age] 2009/02/21(土)09:18 ID:7VH9iKtq(1/10) AAS
もし、ひとりの罪過によって、そのひとりをとおして死が支配するに至ったとすれば、まして、あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている者たちは、
ひとりのイエス・キリストをとおし、いのちにあって、さらに力強く支配するはずではないか。

このようなわけで、ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、
いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである。

すなわち、ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人とされたと同じように、ひとりの従順によって、
多くの人が義人とされるのである。

律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。しかし、罪の増し加わったところには、
恵みもますます満ちあふれた。

それは、罪が死によって支配するに至ったように、恵みもまた義によって支配し、
わたしたちの主イエス・キリストにより、永遠のいのちを得させるためである。(ローマ5:17-21)口語訳
65: リンゴ ◆oPXbhrKCUQ [age] 2009/02/21(土)09:24 ID:7VH9iKtq(2/10) AAS
では、わたしたちは、なんと言おうか。恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。
断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。

それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、
彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。

すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。
それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、

わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。もしわたしたちが、
彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。

(ローマ6:1-5)口語訳
66
(1): 2009/02/21(土)13:23 ID:P1Bj+BoX(1/2) AAS
主よ、罪を犯してしまいました。
哀れなわたしを救い、清め、あなたの道を歩ませてください。
わたしは主を信じると告白しながら、悪を行う、罪人です。
行き着くところは死です。
あなたが裁き、わたしの命をお取りください。
キリエ、エレーソン。
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