[過去ログ] キリスト教@質問箱272 (983レス)
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919: ダニエル ◆o31oshrvYE 2014/04/11(金)21:35 ID:hRagc0+9(2/3) AAS
>批判に耐え抜いた説こそが、真に正しい説であると言えますし、
>それを避けて、自分の考えを否定されるのを恐れ耳を塞ぐのではカルトでしかありませんから。
ここであなたが書いているやり方は「科学における事実の検証」において有効だと思います。
しかし、そのような考え方でイエスを受け入れることはかなり難しいと思います。
少なくとも人生について真剣に悩むことがなければ、イエスを信じるに至らないのではないかと思うのです。
聖書を読み、そこでイエスの言葉に触れて、それが真実であるとご自身で思わない限り、このような議論は
あまり意味を持たないと思います。
920(1): ダニエル ◆o31oshrvYE 2014/04/11(金)21:40 ID:hRagc0+9(3/3) AAS
>>914
>キリスト教の神は「キリスト教の教えをよく知らないのに聖書を一通り読む、極めて限られた変わった人」
>だけを救う、という結論に至った次第です
それは残念ながら、日本においてのことに過ぎないのです。
カトリック教国であれば、多くの人は幼児洗礼ですので、聖書を読まなくとも
物心つく前から洗礼を受けているのです。
そういう意味では、日本人は不幸です。
921(2): 848 2014/04/11(金)22:56 ID:yiWSOykB(2/5) AAS
>>843
Q.なぜ神様は、「神様の愛に応える事は、天国行きというとてつもなく大きな見返りが与えられるほど尊い行為であり、
神様もそれを望んでいる」ということを、人間に広く教えないのですか?
神様自身が直接、そのことを人間に述べ伝えられないのは、霊的な存在であり、物質的な肉体を持たないからです。
ですが、現在、神様の教えに触れた人たちが神様に代わって、いろいろな地域を巡り、いろいろな人たちにそのこと(福音)を
述べ伝えています。
福音を広く述べ伝えても、信じる人と信じない人が存在するのは、神様が人間に「自由意志」を与えられた時から、
「信じる自由」と「信じない自由」の選択を、人間自身に許し、委ねておられるからです。
神様があなたを選ばれ、神様からの救いの手(愛)は、すでにあなたに対して伸ばされています。
ですから、その手を握り返すか否かは、すべて「あなた次第」なのです。
省1
922(1): 848 2014/04/11(金)22:57 ID:yiWSOykB(3/5) AAS
>>843
Q.人間の前に姿を現して、「私は実在する。そしてあなた達を愛している」と表明すべきではないですか?
まず、私たちの肉眼は、あなたの霊魂のように、形のない物を確認(ロック・オン)できるようには造られていないのです。
この世の物質的な物は見えますが、神様が仮に姿を現して下さったとしても、肉眼では確認できないでしょう。
また、神様の御霊は太陽以上にまぶしい意識体なので、仮に私たちの肉眼でその御姿を捉えることができたとしても、
十中八九、失明しますが、それでもあなたは肉眼で、神様の御姿を御覧になりたいですか?
神様が無暗に人間の前に姿を現さないのは、神様が霊的な存在で、私たちの肉眼では見えない、ということの他にも
「重要な意味」があるからです。
イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
(新共同訳 ヨハネによる福音書 20章29節)
省11
923: 2014/04/11(金)23:04 ID:i3+xzenZ(3/3) AAS
>>921
同意です。
924(1): 848 1/2 2014/04/11(金)23:40 ID:yiWSOykB(4/5) AAS
>>843
Q.すべての人間を愛していて、すべての人間に天国に行って欲しいと思うなら、神を信じない、神の愛に応えない人間も
その全知全能の力をもって天国に行かせるべきではないでしょうか?
「他力本願」および「責任転嫁」は、「原罪」から来る「人間の罪」の一つです。
神様が人間に「自由意志」をお与えになられた時、同時に「選択の自由」もお与えになりました。
神様がその御力で、私たちを天国に行かせないのには、それなりの理由があります。
まず、天国に存在できる霊魂には、「神様と両思いの、よく磨かれた霊魂のみ」という条件が存在します。
つまり、穢れた状態の霊魂では、天国には入れません。
仮に、天国に入れたとしても、天国の光があまりに強いため、穢れた霊魂では耐え切れずに、
溶けるように消えてしまいます。
省10
925(2): 848 2/2 2014/04/11(金)23:42 ID:yiWSOykB(5/5) AAS
「子供が転んだら、すぐに駆け寄って行って、急いで助け起こしてやりたいけど、子供の成長のために、
敢えて手出しをせずに、子供が自力で起き上がることを信じて待ちつつ、じっと陰から忍耐強く見守る父親」
‥‥を想像して頂くと、神様のスタンスがどういうものか、感覚的につかめると思いますよ。
それと、天国に行くためには「天国に行きたいと強く望む霊魂」でなければ、受け容れてはもらえませんよ。
「天国を強く望む」ということは、「神様に会いたいと熱望する気持ち」が必要不可欠です。
それは言い換えるなら、「神様を愛する気持ち」のことです。
これがなければ、「天国の門」は開きません。
「天国の門」は内側から開く仕組みではありません、門の外側から叩いて、開く仕組みなのです。
ですから、神様の一存だけでは、「天国の門」は開かないのです。
私たちの霊魂の持つ力次第で、「天国の門」は開くのです。
省13
926(1): 848 2014/04/12(土)00:59 ID:1+JPqLdf(1) AAS
>>844
少なくとも神様は、「神様の愛に応えないから」と言って、人間を非難したことはありませんよ。
人間のことを、とてもよく愛しておられますからね。
ただ‥‥人間が「神様から非難されている」と感じたり、ネガティヴ・シンキングに陥ることは、よくあります。
神様は、「神様のことだけを愛せば、それだけで良い」と考えているわけではありません。
御自身のこともそうですが、あなたの周りにいる人間のことにも気を配り、同じように愛してほしい、
というのが、神様の御望みです。
これは、神様にとって、人間を操ることでもなく、虚しいことでもありません。
なぜなら、神様が人間に与えたのは、「愛」と、人間が自らの意志で考え、行動するための「自由意志」だからです。
神様は、私たちの肉の器のこともお忘れではありませんよ。
省10
927: 桜 ◆Pq7Hgpn13TKA 2014/04/12(土)14:27 ID:XO15+um9(1) AAS
†しかし、私たちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛が現れたときに、
神は、私たちが行った義の業によってではなく、ご自分の憐れみによって、私たちを救ってくださいました。
この救いは聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。
神は、私たちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を私たちに豊かに注いでくださいました。
こうして私たちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。
テトス3:4
928: 2014/04/16(水)01:22 ID:pzMktc2K(1) AAS
砂漠の三大宗教に関して、
前設定として善悪二元論と言うものが長々と語られる事が、この話は嘘だと言う明らかな証拠ではあるまいか?
嘘をつくときは、人間の心理として、前設定を長々と述べて、最後にちらっと嘘を言って逃げる(この場合はハルマゲドン)。
構成は、本当の事を伝えようとする時の行動と全く正反対なのだ。
本当に物事は2種類しかないのだろうか ? wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
普通に考えれば解る。
929: 横レス 2014/04/17(木)21:04 ID:QMpM3UNG(1/7) AAS
ダニエルさん、848さん、遅くなって申し訳ありません。
答えていただく立場なのに、申し訳なく思っています。
ただ、元々多忙な上に先週末から特に忙しくなっていまして。
さらに、複数の方相手のやりとりである事や、濃厚な回答をいただいている事、それに対して私の方もしっかりとお返事したい事等を
ご考慮いただけると助かります。
930(5): 横レス 2014/04/17(木)21:06 ID:QMpM3UNG(2/7) AAS
>>917
私は救いを求めたのではなく、キリスト教の初歩的な教えを知りたかっただけなのです。
それともやはり、理詰めで考える人間は初歩的な教えを知るにも聖書を一通り読む必要が有るという事でしょうか?
しかしそれでは、少なくとも理詰めで考える人間に関しては「キリスト教の教えをよく知らないのに聖書を一通り読む
極めて限られた変わった人」しか救われないという事になりますし、やはり「機会の平等」にも程遠い事になります。
それともキリスト教においては、一般的な物事を、あるいはその人にとって海の物とも山の物とも分からない一宗教の教えを、
理詰めで考える事は罪悪なのでしょうか?
そもそも聖書を読むにしても結局は文字を読むわけですが、それは人による説得とどう異なるのでしょうか?
いずれも言葉を読解する作業であり、正しく理解するためにも、矛盾が無いか確認するためにも理詰めで考える事が必要になりますよ。
例えば漫画の設定に矛盾が無いかというのはよく取り沙汰される事ですが、読者が非日常的な作り話に対しても矛盾を嫌うのは、
省8
931: 横レス 2014/04/17(木)21:07 ID:QMpM3UNG(3/7) AAS
>>920
非カトリック教国という事であれば、日本に限らず世界のほとんどの国が該当するでしょう。
であれば、その私の一文に「世界のほとんどの国の」という前提条件を加えて下さい。
そうする事で論旨に影響が出る事は無いと思いますので、論旨に対してご回答をお願いします。
ちなみに幼児洗礼などといった行為が本当に許されるとお思いでしょうか?
成長して客観的な判断力を身に付けた時に他の宗教を選ぶかもしれない子供が、まだ的確な判断力を持たない内に
「キリスト教の教えは正しい」という考えを刷り込み、客観的に判断する機会を奪うのは、洗脳とどこが違うのでしょうか?
他の宗教、特にカルトの信者が同じ事をやった場合、あなたはどう思われますか?
「キリスト教こそが正しいからいいんだ」とおっしゃるのでしょうか?
カルト信者も同じ事を言うと思いますし、第三者から見たら両者は何の違いも無いのですが。
932: 横レス 2014/04/17(木)21:18 ID:QMpM3UNG(4/7) AAS
>>921
神を「信じる自由」「信じない自由」とおっしゃいますが、補足するとそれは「ろくな信憑性を提示されずに
信じる自由と信じない自由」です。
人に聞いたり教典を読むだけでは、その教訓が素晴らしいとは思えても、その教えの主とされる神が実在するか否かは判断できません。
教訓が素晴らしい事と神が実在する事はまったくの別問題であり、それらを混同するのは希望的観測、ひいてはカルト的発想です。
キリスト教の神が、救われる人間と救われない人間とを選別するにあたり、「ろくな信憑性を提示されずに神を信じるか信じないか」
を基準としているのなら、神の考え方は恐ろしくずれていると言わざるを得ませんし、そんなの事で天国行きか地獄行きかを決められたのでは
たまったものではありません。
神は人間の希望的観測を試し、カルト的な発想をする人間のみを救うために、あえて人間の前に姿を現さないのでしょうか?
>>922
省7
933(1): 横レス 2014/04/17(木)21:21 ID:QMpM3UNG(5/7) AAS
>>924
霊魂を自ら磨くのが最善だとして、磨けなかった霊魂を、神はどうすべきでしょうか?
神が「強制」的に磨いて天国に行かせるのと、地獄に落ちるのを見過ごすのとでは、どちらが本当の愛でしょうか?
そもそも、まず天国に行くという至上の目的が有り、自ら霊魂を磨くのは、その目的のための手段でしかないはずです。
それなのに、その手段では目的を達成できなかった場合、他に目的を達成する方法が有るのに、それを捨ててまで
単なる一手段に執着するのは本末転倒でしょう。
神が人間の前に姿を現さない事についても同じ事が言えます。
また、人間を操って愛されるのは虚しいとの事でしたが、もしも自分が虚しい思いをするだけで、自分の愛する人を地獄から救えるとしたら、
あなたならどうしますか?
私なら、虚しい思いぐらい安いものだと喜んで応じますし、ほとんどの人もそうするでしょう。
省2
934(1): 横レス 2014/04/17(木)21:28 ID:QMpM3UNG(6/7) AAS
>>925
あなたは子供の頃、両親にお腹いっぱいご飯を食べさせてもらった事、色々な物を与えてもらった事を幸せだったと思いませんか?
もしもあなたが子を持つ親なら、それらを子供にしてあげる事で、子供を幸せにしてあげたと思いませんか?
にもかかわらず多くの親が、子供が転んでも助けない等、真逆の辛い目にあわせるのはなぜでしょうか?
それは、いつまでも親が守ってやれないため、自分の力で生きていく強さを身に付けさせる必要が有るからです。
あくまで「自分の力で生きていく」という目的ありきであり、その必要に迫られての事です。
そして神が本当に全知全能なら、人間の親と違い、いつになっても目的のものを簡単に与える事ができます。
つまり、神にとっては人間に試練を与えて自ら成長させる必要などなく、自らの全知全能の力をもって成長させれば済む事です。
そもそも神は最初に人間を作った際には、穢れた霊魂を与えて自ら磨くよう命じたのではなく、既に磨かれた霊魂を与えたのでしょう?
自ら磨くという自助努力を課さずに磨かれた霊魂という成果を与えておきながら、なぜ今更自助努力にこだわるのでしょうか?
省4
935: 横レス 2014/04/17(木)21:31 ID:QMpM3UNG(7/7) AAS
>>925
キリスト教では、善人になるための努力を神が人間に求める理由を、人間の脳内で処理できる理屈だけで説明できないのでしょうか?
ではどうやって人間に対して「神の名において」善人になるための努力をすべきだと説くのですか?
「善人になるための努力をすべき」と説くだけでは、神を関連付ける事はできませんし、「とにかく神の名において」
と言われただけで納得する人間は、カルトの教義もあっさり受け入れてしまいます。
キリスト教徒とは、もしも先にカルトに出会っていたらカルト信者になっていた、という人ばかりなのでしょうか?
キリスト教の神はそんな無思慮な人間しか救わないのでしょうか?
さらに言うと、「神様の一存だけではどうにもできない理由があるのです。」という一文ですが、あなたはご自分がその一文により
「神は全知全能ではない」と言っている事にお気付きでしょうか?
>>926
省6
936(1): ダニエル ◆o31oshrvYE 2014/04/17(木)21:37 ID:nBCAwkh3(1/4) AAS
>>930
>私は救いを求めたのではなく、キリスト教の初歩的な教えを知りたかっただけなのです。
そうなんですね。それなら『心のともしび(カトリック要理の友)』というサイトがありますので、
そこを読めばキリスト教のおおまかなことはわかると思います。
937(1): ダニエル ◆o31oshrvYE 2014/04/17(木)21:41 ID:nBCAwkh3(2/4) AAS
>>930
>やはり「機会の平等」にも程遠い事になります。
横レスさん、冷静に考えてみてください。
この世に、機会の平等なんてあるわけないじゃないですか。
幸運があったり、不幸があったりするのがこの世ですよ。
イスラム教国に生まれたなら、クリスチャンにはまずなれないし、
ユダヤ人に生まれてクリスチャンになるのも大変困難です。
938: アヤシスト 2014/04/17(木)21:50 ID:r0fwh+D/(1/3) AAS
ダニエル氏は何派?
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