[過去ログ] Osho,クリシュナムルティ,グルジェフetc. (1002レス)
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35(1): 473 2012/08/11(土)00:12 ID:l911R1Q7(1/67) AAS
>>27
禅の方便がこれは悪いように働くと見て、彼の成長に役に立つ環境にゆくよう促したのでしょうか。
その人にとって良く働くもの、よく目覚め、感情が浄化されるような環境。それは正しい。
宗教組織は必要な時機ではないかもしれないし、場合によっては必要ないものかもしれない。
世間で基本的な意識や、また良心、を見出さなければ宗教は機能しない。
宗教は世間より、より多くのものを修行者に要求するところだから。
その用意がなければ宗教に為しうることは何もない。
動物に宗教が適用できないのと同じである。
また、その宗教組織が助けられる限界を超えた修行者だった場合も、また自然と離れるか、別の形で追い出されることになる。
人はしがみつかなければ今時分に必要なところに流れ着くのでしょう。
37(3): 473 2012/08/11(土)01:54 ID:l911R1Q7(2/67) AAS
既に、いることと、いないことを区別している。
cにとって、またAにとってBがいることといないことは同じではない。
そこに区別がある。
それが認知を作る。
2分しないということは在と不在を2分しないということ。
2分しています。
2分していると、bが存在するかしないかに執着があります。
2分していなくば、bに対して全く執着がありません。ただ戯れとして個と個という夢を楽しんでいるのでしょう。
心ひとつで世界を作る。
そうブッダは言いましたが473が思考、というときもそのような意味で述べます。
省6
38(2): 473 2012/08/11(土)02:01 ID:l911R1Q7(3/67) AAS
精神は全て2元性の働きをする。
それに完全に目覚めていれば自由に夢に戯れることができるかもしれない。
しかし、完全な目覚めがなければ、あらゆる2元性に巻き込まれ深刻になる。
生死、美醜、効率非効率の無数の2元性とその内部葛藤。
そして、それらが作る認知は無意識的なものだ。
人は無意識の2元性が作る認知の世界に既に住んでいる。
思考というのはその後でどうこう考えるものだと人は思うのは自然なこと・
しかし瞑想者にとって思考は、無意識の2元性が作る認知そのものである。
39(6): 473 2012/08/11(土)02:05 ID:l911R1Q7(4/67) AAS
完全に精神が静寂しない限り、普段私達が意思だと思っているもの、決定だと思っているものは、
「条件付けられた欲望の中で一番強いもの」でしかない。
基本的なことはわれわれは何一つ、何一つなすことはできず、無意識の欲望、外界の状況に左右されて
行為や思考や感情が起こるだけだということです。
何一つ自分の意思では行っておらず、行うこともできない。
できることは、起こることを見守ることだけです。
そして、起こすその主体の起源を理解する、それに目覚める、それを静めることによってのみ(悟り)為すことができるようになります。
それまで起こることを見守ることしかできません。
そして見守ることによって起こることそのものが変化してゆくでしょう。
何かしようとすることは起こることのメカニズムを抑圧したり分断したりしてより混乱を強めること意なるだけです。
省8
44(1): 473 2012/08/11(土)02:38 ID:l911R1Q7(5/67) AAS
>>40
やりたいのだけど、苦しみにつながると自分でも分かっているようなどこかばかげたこと。
後は、仏教やキリスト教、ヒンドウのなになになかれ、の諸事を指しました。
45: 473 2012/08/11(土)02:40 ID:l911R1Q7(6/67) AAS
自分は光明を得ているだろうか、得るまでは瞑想しよう、得るまでは何々できない。
などと監視していることに気づく。
しかしその監視者に光明の何が分かるというのだろう。
監視者はひとつの夢を見ているに過ぎない。
この監視者がいないということは、祝祭の生をただ生きるということなのでしょう。
48: 473 2012/08/11(土)02:56 ID:l911R1Q7(7/67) AAS
そういわれると39はあまり良い表現をしていませんね。
「そして、見守られていない心は宗教において戒められているような行いを起こしますし、見守られている心は
そうそう愚かな振る舞いを起こしません。」
あまり私らしくない。
やりたいのだけど、苦しみにつながると自分でも分かっているようなどこかばかげたこと。
見守られていなければ種種の欲望や怒りや恐怖が生まれる。
見守られていれば、自分の中で反発があるような欲望ではない行為が起こっている。
快活さと愛が花開く。
≫本
自分が何かを見出したらそこに既に書かれていたが気がついていなかった。
省4
51: 473 2012/08/11(土)03:04 ID:l911R1Q7(8/67) AAS
悟りが分かったら、それを示唆する内容が本に書いてある。
もしくは分かっていないのだということを教えてくれる本。
48はそんな内容。
49の一行目は誰に対する言葉か。
基本的に人が述べていないことに対して返答する。
自身の妄想を他人に投げかけてそれに反論している一人芝居。
ありもしないものがあると思い込んでいる。
あなたが何度も体現していること。
52: 473 2012/08/11(土)03:05 ID:l911R1Q7(9/67) AAS
いや37、38、39のように私が日々引っかかっていることでもある。
濡れ衣は要らないけど、自分のやってることは自分もち。
57: 473 2012/08/11(土)03:24 ID:l911R1Q7(10/67) AAS
>>55
完全には精神が静まっていないという自らの境地を表明することに
いったいどんな恥ずかしさがあるでしょう。
あなたがやっても大丈夫ですよ。
58(1): 473 2012/08/11(土)03:28 ID:l911R1Q7(11/67) AAS
執着があれば実体があるように感じられ、執着がなければそれらについては実体はない。
実体というのは実存的、認知的、意識的なものであり、言語的表明に意味はない。
実体はないという言葉を多用すると、実態があると思う主体=自我、は白昼夢を見ることになる。
実体があるように感じているというのはわれわれの出発点であるから、白昼夢ではなく、実存的に執着からの解放、実体という認識からの解放を促す。
それは昔から同じでした。
白昼夢として働き始めた方便は昔働いていたとしても捨てられた。
言葉は言葉に過ぎない。
実存的なものはただ在る。(ただ生きる)
59: 473 2012/08/11(土)03:32 ID:l911R1Q7(12/67) AAS
>>55
静まったら多分物事は変わるのでしょう、というのは予測ですが、
その予測は予測としてとっておきましょう。
重点は精神の静寂という境地を目指すことではなく、見守ることしかできない。
が文脈の趣旨ですので特に問題ないとは思います。
めったに文脈をとったレスはこない。関係ないところをつつくだけ。
63(3): 473 2012/08/11(土)03:53 ID:l911R1Q7(13/67) AAS
執着がなければ区別そのものがない。
執着があってようやく実体が生まれる。
宇宙全体を区別せず執着すれば宇宙だけがあるし、それにすら執着しなければひとつである宇宙も認知できないのだから。
あると認識することが執着である。執着はあると認識すること。
同じ事を2つの角度で述べている。
金剛で(という思いがある)(執着がある)
と並べて連呼されていたでしょう。
ぜんぜん違うのはあなたの理解のしかた。
物事には文脈が在るのに単語で反応する。
64(1): 473 2012/08/11(土)03:56 ID:l911R1Q7(14/67) AAS
真実は、人の最善の部分か最悪の部分を呼び起こす。
普通、最悪のものを呼び起こす。
(細部にこだわって自身が悪いと思うものを当てはめてそれを批判するというののその人なりの
精一杯露骨なもの)
だから、基本的に独り何も言わずに生きるというのが基底になければいけない。
基底にあれば自由に語るリスクも終えよう。基底になければ、振り回されるばかり。
67(1): 473 2012/08/11(土)03:58 ID:l911R1Q7(15/67) AAS
執着ではなく、意図的にあると思えるのなら戯れなのでけど、
形態に、体に執着しているからこそ、そのあるという思い、実体という認識は
意図的なものではなくやすやすやめることもできない。
あるという認識は静的なものではない。これは全くの執着です。
70(1): 473 2012/08/11(土)04:06 ID:l911R1Q7(16/67) AAS
>>69
@瞑想のうちに見出すでしょう。
個人的な認識です。
A金剛経にそのような記述があります。
それがあるというのなら、かの思いがあり、かの執着がある
というような。
執着がなかったら、体と外界の区別はない。
認識は変わるでしょう。
認識者と認識の区分がなくなり純粋な認識になると聞きます。
体に執着はしませんが、覚醒と認識は今まで以上なのでしょう。執着せずに大切に体を扱ったようです。
省4
72(1): 473 2012/08/11(土)04:12 ID:l911R1Q7(17/67) AAS
私には他者のことは分かりかねます。
自身のことすら分かりません。
一つ一つの心の考察をするのがやっとです。
私のことが分かるという人は自身のこともお分かりでそれは平安な境地にいるのでしょう。
その境地を祝福いたします。
私が何をしなくてもしなくても幸せなのでしょう。
もし不快なのでしたら自身を知らねばなりません。
そういう時は自身を知っているであろう人に、生きている人でも死んだ人でもいいから、
心から神戸をたれてみてください。
73(2): 473 2012/08/11(土)04:20 ID:l911R1Q7(18/67) AAS
≫Aも、執着と関係く、実体視とも関係ない記述。
6 スブーティよ、これら求道者・すぐれた人々には、 <ものという思い>もおこらないし、
同じく、<ものでないものという思い> もおこらないからだ。
また、スブーティよ、かれらは、思うということも、思わない ということもおこらないからだ。
それはなぜかというと。 もしも、かれら求道者・すぐれた人々に、<ものという思い> がおこるならば、
かれらには、かの自我に対する執着がある だろうし、生きているものに対する執着、固体に対する執着、
個人に対する執着があるだろうから。
もしも、<ものでないものという思い> がおこるならば、かれらには、かの自我に対する執着がある だろうし、
生きているものに対する執着、固体に対する執着、 個人に対する執着があるだろうからだ。
77(3): 2012/08/11(土)04:41 ID:l911R1Q7(19/67) AAS
≪ものという思い≫、これを実体視として取りました。
既に
「ものという思い=執着」
なら
「ものに「実体がある」という思い=執着」
なのは避けがたい。
後先?
これは同じものの異なる側面なのでしょうね。
執着は実体視で実体視は執着。呼び方と、見方の違いぐらいかと。
執着しないと実体視は起きないともいえるし、実体視がないと執着もないといえる。
省13
78(5): 2012/08/11(土)04:45 ID:l911R1Q7(20/67) AAS
止めるべきといったというのがあなたの断定です。
相手が断定している、というのが断定する人の良く使う語法です。
相手が断定しているならこちらは被害者面して断定できます。
静まらない限り、、であると述べただけです。
静めるのが務めとブッダもダンマパダで述べています。
止める人も静める人もなく、心が静まることを説きます。
止めるべきというより、止めないと苦しみがやまないとそんな風に述べています。
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