[過去ログ] 仏教議論スレッド51 (574レス)
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(2): 2012/12/16(日)01:16 ID:7jDeVt56(1/5) AAS
(ネタ的に浮かんできてしまったんで、忘れないうちにチラ裏w)

2chスレ:psy
その譬えはまだしもだけど、最もポピュラーな言い方考え方は、
「駅伝・リレーするという概念なきマラソン選手に襷の渡し方受け取り方ができてない!」
或いは
「蕎麦屋にスパゲッティの味について説教、レクチャーする」ようなもの
って感じだからなぁ・・w 無いものの整備を要求されてるというか・・。
パーリ(≒上座部)には、《【所謂】菩薩》の概念”がないからね・・*1。
俯瞰して、
「これが菩薩(の境地)にあたる」「これが菩提心に該当する」「これ(この行為・考え方)が菩薩道にあたる」
と、(外部の者或いは俯瞰する視線・知識を学んだ者は)評することはできるとしても、
それは所詮「見做し」でしかない。
もし、パーリに於いて「発心し、道を志せば」(→その為の身口意を伴わせれば)、
それはもはや「比丘(或いは沙弥)」だよ。
そこまでの実践と実行、或いはそこまでの深く深刻な決意が無ければ、
それは優婆塞だよ。
そこに「菩薩」は居ない*2。
 ≪“大乗的スピリットを有する”比丘或いは優婆塞≫ が居るだけだ。

そしてこれは、単なる言葉の問題にとどまらない。
なぜなら、比丘と優婆塞の間に『菩薩という立場、名札』を設けたのだから。
その意味でいけば、日本の僧侶は
「比丘(僧侶、出家者)」でもなければ「優婆塞(凡夫、在家者)」でもない、
その中間の『(“繋ぐ者”としての菩薩』に違いない!w 少なくとも、そう見做すことは可能だ。
尤も、素敵なアイデア、落とし所のようにも見えるが、
これもまた現状肯定に利用することが可能な考え方ではあるけれど・・w

*1(そこんとこ、一代は卓見かもしれんw)
*2(使用例を精査してないが、圧倒的にジャータカに集中するんじゃないかな。
  他は、釈尊の成道前の履歴を叙述する際とか・・。)
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