[過去ログ] 悟りを開いたことあるけど何か質問ある?26 (803レス)
1-

このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています。
次スレ検索 歴削→次スレ 栞削→次スレ 過去ログメニュー
767: 素人A 2014/09/07(日)07:30 ID:UtukecIR(1) AAS
梅華玉城康四郎さんの解説 しかしながらこの梅華の最も行じたいのは、瞑れるはずのない目の玉が、実感として瞑れたとき
である。如浄の一説はそれを次のように語る。「釈尊の目の玉が瞑れるときも、雪の中で梅の一枝は華開いている、いまや
見渡す限りの茨や棘はかり、それを笑うように春風は華の咲き乱れる中を吹き渡っているが如くである」この茨や棘ばかのを
道元はどう処理するのか。もし魔が差してきて、目の玉が見えなくなつたとき、「今日はわたしの今日にあらず、大家の今日
なり、直に梅華眼晴なるべし、さらにもとめることやみぬ」もとめればもとめるほど見えなくなる。求めてはならない。そし
て私の今日ではなくて大家の今日に気ずくべきである。そのとき目の玉は直に開かれるであろう、と言う。そして「ただ一枝
という語の命脈のなかに、身をひるがえしていく」のである。・・・
768: 2014/09/07(日)07:47 ID:9cojc1co(1) AAS
悟りの教えにしたがって修行するのじゃ。
そうすれば、悟りを開いた者と同じ経験ができるのじゃ。
それを実体験し、答えを出すのじゃ。
さあ、悟りまでもう少しじゃ。

2chスレ:psy
769: 素人A 2014/09/08(月)07:08 ID:gUAJI+pr(1) AAS
玉城さん、業熟体 限り無い過去から、生きとし生けるもの、ありとあらゆるものと交わりつつ、生まれ変り死に変わり、死に
かわりうまれかわりしなが゛ら輪廻転生し、いま、ここに現われつつある私自身の総括体であると同時に、ありとあらゆるもの
と交わっているがゆえに、宇宙共同体の結び目である。私性の極みであるととももに公性の極みである。しかもその根底は、底
なく深く、無意識であり、無智であり、無明であり、暗黒であり、あくたもくた、へどろもどろである。
これが業熟体である。「この業熟体にこそ、ダンマ・如来は、顕になり、しん透しつづける」という事が知られてきた。そして
ダンマの無限活動こそ、全仏道を包括する原態であるという事が明らかになつてきた。原始経典の過去七仏も大乗の阿弥陀仏、
・・・大日如来も悉く、このダンマの無限活動のなかから出現されてきた。・・・
770: 素人A 2014/09/09(火)07:37 ID:SLlDRH9L(1) AAS
無情説法(つづき)ここに言う法が仏という説法は仏祖がとりしきつてきたものと考えてはならない。仏祖は逆に
その説法に量られてきたのである。この説法はわすかに八万四千の教法を開き示してきただけではない。実に無量無辺の法門
をを説いてきたのである。先なる仏が説法したことを後なる仏説法が説法すると学んではならない。または後なる仏になると
いうものではない。あるいは先なる仏が、また先なる仏になるというものではないと言う様に、説法についても先なる仏が
説法した事を、後なる仏が説法するのではない。それゆえに釈迦無に仏は次のように言われている。「三世の仏の説法の
しきたりのように、私もまた、そのような無分別の法を説く」こういうわけで説法は普遍なる説法を用いるように.諸仏は
説法を用いるのである。また諸仏は普遍なる説法を正伝するように.諸仏は説法を正伝するのである。それゆえに無情説法
(これこそ諸仏に普遍なる説法)は七仏以前の古仏から.七仏へと正伝し.その七仏から今日まで正伝しているのである。
「我いま説法す」というのは.正法ではなく新しい説法と思ってはならない。また古より伝わる正伝を鬼のすみかのように考え
てはいけない。(つづく) 宇宙が始まる前の一句をもつて来い?宇宙の後の何時来るかそれはアートかまあ絵画化?
771: 素人A 2014/09/10(水)07:31 ID:2ena6cZa(1/2) AAS
我々の朝知恵で真実を素人しても圧倒的な不可読みのまえで我々衆生は頭の脳力も足ずコンピューターの脳力に詣りました
と言うしかないのか?我々人類の知恵を越え地球の声を聞いてもその上の宇宙の越えもありその上のブラフマンの脳もありその
ブラフマンを作った人?の脳の中?その人も何かの脳の中.その人も何かの脳の中?ああ我々はああ無情の中で真実を求めても
脳がイライラして脳力が無いとため息がでるだけの我々は無能力か疑いなく我々はほんの少ししか知らない素人でも玄人の人
から観れば下手な考え休むに似たりと言われても。玄人の人も今は考え休まず骨骨素人した空いま玄人しているだけでまあ先は
果てしないぞと素人でも解る鴨。無情も脳力が足りないし真実は何手先か果てしないたびは続く野鴨。今はイライラの仲でああ
無情逸れはジャンバルジャン。 あもしかしたら真実が正解つま何故此処私か居るのかか解らず.趣味レーションで世界を創造
してその中のお釈迦な人に正解を教えてもらおうとした野かも?それを押し付けられた人もその中に世界の劇を作りその中の
お釈迦なひとに正解を.そのなかでも鏡こんでお釈迦任された人たちが頭をかかえていて?正解は内あるいは外と限が無く迷い
かで果てしなく???が続く。適当な落ちが無い書き込みだしもうそろそろまあ良いか。
772: 素人A 2014/09/10(水)09:35 ID:2ena6cZa(2/2) AAS
私野将棋画弱いのは注意秋刀魚んで何事も秋つぽく色々手を出すので何時天も集中の凝年
もなく修行の基礎が身につかずまあ良いかと弱いけど居直っているからか?
あそうか将棋盤が眼を瞑っても頭の中に見得る暗い修行しないと.でも素人視無いだし
あそうか修行とは正解つまり世界将棋盤を身に付ける事か?でも私は色々注意散漫だし
修行は辛いし嫌いだし攻めるだけで守りにはいるとすぐ投げて反省もないしまあよいか
私は答えは解っている?答えは私の中にある?でも修行しないので身につかないだけ
それじゃ遺憾だろうでも何か力がはいらない今はまあ良いか?煩悩好きで遊びずきで小●
盲秋魔変なんでかなあ秋になると心はメランコリーに毎度コントロールされてる
暑い夏が懐かしいなあ
773: 2014/09/10(水)09:40 ID:l4qgpt2Y(1) AAS
私たちには結果だけが見えている。
この世界はここにある。
それは創られたものか、創られなかったものか、数式の答えだけが現れていてそれを解くのに四苦八苦。
果たして科学と宗教はいつどこで一致するのでしょうか…。
774: 2014/09/11(木)05:51 ID:nifPJac5(1) AAS
動けば良し悪しに関係なく結果が出るじゃろ。
その結果にまた行動するのじゃ。
そしたらまた結果が出るじゃろ。
結果の良し悪しに価値などないのじゃ。
775: 素人A 2014/09/11(木)06:27 ID:+jf58OHU(1) AAS
龍潭和尚の部屋で徳山があれこれと質問して教えを受けながら夜も更けてきました。龍潭 「夜も遅いからそろそろ終わりにしな
いか? 」徳山もそう言われてとうとう重い腰を上げ師匠に礼拝し、すだれを上げて部屋を出ますが、外がまっ暗なのを見て戻って
来て 「部屋の外が黒くてなにも見えません」 と言うと龍潭はすぐにロウソクに火を点けてそれを徳山に手渡そうとします、とこ
ろが徳山がそれを受け取ろうと手を出したその瞬間、龍潭は火を吹き消してしまい、またもとの闇にもどってしまいました。
徳山はこのときこつねんとして、それが何かを理解したようで、すぐに師匠に礼拝をしてみせます。龍潭 「おまえはいま、どん
なことが判ったのかね? 」徳山 「わたしは今日からこの山を去って、あなたの教えが疑いのないものであることを、世の中に広
めたいと思います (某甲、今日より去って天下の老和尚の舌頭を疑わず)」その翌日、龍潭和尚は僧堂でみんなに向かって言います
、「なにごともなく暮らしたがる世の中に、一人の男がいたとする (可中箇の漢有り)、その牙は伝説の剣樹のようであり、口は
血の池地獄にも似ていて (血盆)、一棒で打たれたとしても頭を回すことがなく、いまこの時ではなく今日この日でもないいつか
そのときに (他時異日)、ただひとつのそそりたつ山頂に向って自分の道を確立することになるだろう」
776: 素人A 2014/09/12(金)07:09 ID:HlxqdhX7(1) AAS
玉城さん。・・・さて以上の様に述べてくると、仏道を求めている私の生活はいかにも順調に進んでいるかのように見える。
しかし実際はけつしてそうではなく、山あり、谷あり、崖あり、あえぎながら踏み歩いていく忍辱の道であると言えよう。これ
まで長い間、目覚めては後戻りする、つまり、一進む一退、一開一を繰り返してきた。ところが目覚めとは「ダンマが顕になる」
という事が解って以来、当然ながら禅定の度にダンマの顕現が求められる。それがなかなか顕になつて来ないのである。つまり
このまえの繰り返しと同じことである。ただ禅定を重ねているうちにダンマの顕になる回数の増えてきている事はたしかである。
しかし問題はダンマの顕にならない場合である。いくら禅定を努めてもどうしても顕にならない状況がしばしば起こってくる。
それが問題なのである。むしろ実際は逆に、努めれば努めるほど顕にならないという状況である。そうなるともう金輪際顕にな
らないと思いに堕ちる。それはまさに仏道の破滅ではないか、そのために私はどれだけ絶望に落ちたかわからない。・・
777: 素人A 2014/09/13(土)06:09 ID:OrKTDd2a(1) AAS
何か昔あった猿の惑星という映画が作られた様だが去るものは追わずで何で今猿なのか?人間とは圧倒的な戦力の差があるから
戦にはならない。なぜ猿でなくロボットにならなかったのだろう?猿は過去でロボットは未来では人間の勝ちは無くオマケの
人間画みえている。損な暗い未来は見たくない風刺にもならないから人間は逃げるのか?去るで今反省しても現実から逃げている
人間では未来を変える事は出来ないし、叶わないものから全て逃げて戦いにはならない、まあ勝が無いけど消費税は来るのか
消費税から逃げるにはロボット開発費をを政府でだしてどんどんロボットの能力あげて労働は全部ロボットにまかせて人間は楽に
なり、価値のあるロボットに税金を払ってもらおう。そしてロボットが革命使用としたら争いはやめて人間は勝ちを譲る禅譲で
次の輪廻転生はロボットに生まれてもよいではないか?とほほ何か情けない未来しか創造できない。それで良いのだろうか?
まあ良いのではないか?今は楽したいからなる世うになるだけ鴨。楽なものや今楽しいものは捨てられないし
778: 2014/09/13(土)06:24 ID:VQQHagoM(1) AAS
↑これはまことのハッキングの盗聴かのう。
昨日、電話で猿の惑星の話をしておったからのう。
そもそも儂が宗教2chに来たのは、まことの敵がいたからじゃ。
これを見たら返事をしてほしいのじゃ。
779: 素人A 2014/09/14(日)06:04 ID:srKOdCJJ(1) AAS
千の顔を持つ英雄 ・・精神エネルギーのこの世への果てしない循環に欠かせず、共同体の見地から見ても長期にわたる遁世
を正当化する「帰還ならびに社会との再統合」を、英雄自身はなにものにも変えがたい至難の要求とみなしているのかもしれ
ない。なぜならもしも英雄が仏陀のように、完全な悟りを開いて何者にもおびえない静寂の境地を獲得するのであれば、この
ような至福の体験がこの世の不幸への追憶、関心、希望をおしなべて破壊しつくしてしまう危険にさらされるからである。
さもなければ日常の経済問題に束縛されている衆生に光明を灯す途を知らしめる〔禅の〕公案は、とてつもなく空々淡々とし
ている解決の方途が見出せないように思えるからである。そして反面、その英雄がイニシェーションに従うかわりにプロメテ
ウスのように(暴力や抜け目の無い策略や幸運によって)ひたすら己の目標を目指し、己の意図した世界に与えられた恩寵を
奪いとってくるのであれば、かれがめちゃくちゃにした力がひどいしっぺ返しをするために、彼は内からも外からも打砕かれ
る「」も知れない。・・・この話とは関係ないけど 今夜NHKスペシャルで臨死体験の特集がある?何か裏があるのか健康保
険が赤字なので金に苦しむよりも明るい死がと?赤字削減のために利用されるのか?
780
(4): 2014/09/14(日)07:30 ID:5jmlvKsf(1/5) AAS
「無」はなんにも無い状態。だから変化すらない「無」。
「無」から何かが生じるという場合は変化が起きてるということ。
だが、変化も何も無い「無」から何かが生じることはない。

「無」からは何も生じない。

この世界は何かがあるから「無」ではない状態。
たとえ幻想(空)だとしても「無」ではない。なにかは在る。
「無」の状態には幻想(空)すらも無い。

有の世界は変化がある世界。永遠に存在してる何かはあるのか?
変化のある世界に生きてるので人間は死んでも何かに変化するのだと考えられる。
また、この世界は無ではないので人間は死んでも無にはならないだろう。
省15
781: 2014/09/14(日)07:32 ID:5jmlvKsf(2/5) AAS
>>780の続き
陰と陽、光と影、善と悪の二元論だとお互いが相殺するのでゼロ、つまり無
となる。
なので、無でないこの世界は二元論では表せない。

夜空を見てみると、光を放つ星、光を放たない星、闇とある。
こう考えても3つの要素が宇宙にある。

陸(ヤマツミノカミ、クニツカミ)・海(ワタツミノカミ、外来の神)・
空(アマツカミ、宇宙人(アヌンナキ))

父と子と精霊の三位一体説。 

この世界は三元以上で成り立つと考えられる。
省4
782
(1): 2014/09/14(日)08:07 ID:ofse/p1/(1) AAS
悟りの知識は表裏一体なのじゃ。
教えを知らなければ悟りに到達できないのじゃ。
逆に教えが邪魔にもなるのじゃ。
知識を持っても柔軟に行かんとのう。
固定概念は悟りの最大の敵じゃ。
783
(3): 780 2014/09/14(日)23:59 ID:5jmlvKsf(3/5) AAS
>>782
あちらがありこちらがある。あちらがなければこちらもない。
あちらがあってこちらがあるとすると、あちらがないのにこちらがあるというのは
縁起の相互依存にはならない。

縁起の相互依存により独立した実体を持たないという空の説は、誰かが死んだ
時自分も死んでることになるとか、あなたが空腹の時私が食事をすればあなた
の空腹がなくなるというおかしなことになる。

在るのか無いのか判らないようなのが空という話を見るが、佛陀の縁起説より
龍樹が空を唱えた経緯を見落としがち。縁起説の前提があって空とするので
相互依存で独立した実体がないとするのが空の説と考えます。
省17
784
(2): 2014/09/15(月)00:02 ID:5jmlvKsf(4/5) AAS
>>783の続き
この動画で説明がありますが、般若心経が中国経由で日本に入ってきた時に
道教の無の思想の影響を受けたとあります。
ここで、空の説から無との混同が起きたのですね。この他にも間違いとの指摘があります。

苫米地氏は空包摂色 空包摂無と言ってますが、無と空は違うので空が無を包摂するとは思えない。空で色は包摂できるとは思う。

一つの神だけとするというのは、いわゆる唯一絶対神・全知全能の神という説です。
聖書は神の記したものとされてますが、コペルニクス、ガリレオによりそれまで
地球を中心と考えて天が動いてるとする天動説から、太陽を中心として地球が
動いている地動説に変わったことからも、全知であるはずの神のしるしが覆された大きな事件でした。

一元論への否定はその他にも前述のレス>>780で書きました。
省11
785
(1): 2014/09/15(月)00:04 ID:5jmlvKsf(5/5) AAS
>>784の続き
柔軟にとありますが、仏教の初期は哲学的な思考によるものと見受けられます。
哲学は曖昧な要素を極力無くしていこうとする営みで柔軟とは思えません。
私は真言宗の家系ですが、マントラや呪詛、真言はどちらかというとヒンドゥー教
の影響を強く受けてるのではと見ています。
佛陀は呪詛のようなものを否定したと聞き及んでいます。

もうすぐお彼岸ですね。
つい最近、高野山に東京裁判で戦犯とされた方たちの追悼碑があることを知りました。

高野山真言宗の奥の院(和歌山県)にある「昭和殉難者法務死追悼碑」の法要。
碑は連合国による戦犯処罰を「歴史上世界に例を見ない過酷で報復的裁判」
省10
786: 2014/09/15(月)00:34 ID:wEy5LRoA(1) AAS
>>783間違ってました

X あちらがあってこちらがあるとすると、あちらがないのにこちらがあるというのは
○あちらがあってこちらがあるとすると、あちらがあるのにこちらがないというのは
1-
あと 17 レスあります
スレ情報 赤レス抽出 画像レス抽出 歴の未読スレ AAサムネイル

ぬこの手 ぬこTOP 0.120s*