[過去ログ] 坐禅と見性第114章馬が田に入り、牛が田に入り、早乙女が田植えする [無断転載禁止]©2ch.net (1002レス)
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111: Ann 2017/01/08(日)02:32 ID:Igrq1HLI(20/28) AAS
確かにもっともなことだが、前にも述べたが、

大悟見性は、悟ろうとしても悟れない。悟りを求めないようにしても悟らないことを得ない。

ただ境に対して忽焉豁如心底に徹するものなのだ。

まずは釈尊の所言をよく考えてみなければならない。

我と大地と有情と同時に成道す、と。釈尊が太陽を見て悟ったなら、

悟るところを相反するところがある。太陽は星界の主だが、明星は星界の賓である。

つまり太陽は仏界に比されるもので、明星は凡夫に比されるのである。

まあこんなことはいつまで言っていてもきりがない。

参禅の士が、只管打坐し、図らずも心性を徹見し、大悟の奥裡を極めたといっても、

なるほどそれは究竟の理致、終極の玄路ではあるが、それだけではだめである。

そのみちにはいろいろの関門があって、その大悟が超関脱落底であったにしても、更に窮める底の関門があり、一路があるのだ。

参禅の士は従来通り過ぎた関門を、再び大手を振って通らなくてはならない。

これを出身の活路とも、祖師不伝の一著とも、あるいは向上の一路千聖不伝ともいうのだ。

このことは参禅の士が、大悟を識得した人の実感する必然的昄結である。

つまりこの大悟ということは無念無想にならなくては得られないところから、

催眠術の混沌無差別の状態と同一であると誤解する人がいるが、そんな状態ではない。
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