[過去ログ] 坐禅と見性第114章馬が田に入り、牛が田に入り、早乙女が田植えする [無断転載禁止]©2ch.net (1002レス)
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99: Ann 2017/01/08(日)02:25 ID:Igrq1HLI(8/28) AAS
要するに坐禅は究竟事実を得るために、いまだ実験していない自己の本性を徹見し、

それに冥合融成するのである。

言い換えれば、真如に融成するのである。

そこで参禅の士は、それを達するためには坐禅実習法、

つまり禅の要術によらなければ他の方法では決して得られない。

禅は身心脱落にあるので脱落とは心身一如で、いわゆる修証一如の状態が大悟の状態である。

この正当において、今自分が大悟したなどとの観念は全くないので、

むしろ大悟とは他から悟った人に与えていうのである。大覚禅師が示している。

「妄見皆尽くれば、大夢俄かに覚め、仏性を知見す。是れを大悟大徹と名づく。」と。

けれども今、参禅の士が一切の善悪正邪を取り尽くし、一切の妄見、一切の煩悩の雲を払って大悟したからといって、

別にそこに、新問題に触れたとか接したというわけではない。

本来ありのままの状態に入ったので、強いて迷っていた上から比較していえば、新しい生命を得たと言えるものの、

畢竟、本来本法性天然自在心に立ち帰ったので、帰家穏坐の面目となったということである。

だから煩悩を捨てるといっても全然取り去ったというのではない。

いうなれば、転迷開悟といっても、迷いの家を出て悟りの家に宿替えをするという意味ではない。

迷いの中にあって迷いに迷わされず、迷いの真相についてよく心得のできたのが大悟の面目である。

「田の草をとりて押しこむ肥やしかな」と。
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