[過去ログ] ローマカトリック教会20170328 [無断転載禁止]©2ch.net (874レス)
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646(1): 老クリスチャン 2017/09/09(土)13:26 ID:HUowIbMQ(1/2) AAS
2014年(主日A年) 9月7日 年間第23主日
エゼ 33:7〜9 ロマ 13:8〜10 マタ 18:15〜20
「二人または三人がわたしの名によって集まるところに、わたしもその中にいるのである。」(マタ v.20)
聖書というものが、“これに何一つ加えたり、減らすことがあってはならない”(申 13:1、黙 22:18-19)という閉じられた文書であることの意味(神の啓示に関する教義憲章 4,10 参照)を、現代の司祭も信徒も真面目に考える必要があります。
と言うのは、一般には非常に主観的で勝手な読み方がまかり通っているからです。
新約聖書は元来使徒たちの宣教を伝えるために編集されたのだということ、そして神は聖書全体を用いて今もキリストの福音を語り続けておられるということを、正しく理解しましょう。
聖書を生み出した当時の教会は、4世紀にローマ皇帝によってキリスト教が公認されるまでの間、一般社会から孤立した “閉じた共同体” でありました。
新約聖書は、そのような教会が自治責任を持っていることを強調しています(マタ v.17、Iコリ 5:12-13,6:1-6)。
主日だけ、祭や行事のある日にだけ集まって来て、普段は信者がこの世の市民として生活している現代の教会とは、背景が全く違うのです。
この違いを無視すると、聖書の中のいろいろな言葉が、本来の背景とは全然関係なく一人歩きし始めます。
647(1): 老クリスチャン 2017/09/09(土)13:27 ID:HUowIbMQ(2/2) AAS
(つづき)
福音書が編集された時代には、キリストの名によって集まっている二人または三人とは、たとえどんなに少数であっても信者が “共にミサをささげている” ところには ・・・ 、という意味で語られたのであって、
“どんな願い事であれ ・・・ 心を一つにして求める”(マタ v.19)という言葉を “教会を造り上げるため”(Iコリ 14:26)という本来の目的から切り離して解釈してはならないのです。
「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、 ・・・・・ 教会に申し出なさい。」(マタ vv.15,17)
これも多くの人が誤解しているように、教会はこの世の悪や罪を糾弾する検察官であるという意味ではありません。
実はほとんどの現代の読者が “あなたに対して” という部分を見落として読んで、そう理解しているのです。
しかも現代の教会で私たちは、信者が他人の陰口を叩くのを聞くことはあっても、実際に信者間の争いを教会が仲裁する(Iコリ 6:5)というような場面を経験することは皆無に等しいのです。
どうして、その血によって贖われ(エフェ 1:7)、キリストに結ばれてその体の部分となる者として(ロマ 12:4-5)、“兄弟を得たことになる”(マタ v.15)などと言えるでしょうか。
“互いに愛し合いなさい” という聖書の呼びかけは、ほとんどの場合各地の具体的な信者の共同体を念頭に置いて書かれました。
お互いがキリストに結ばれて一つの体を形づくっている(ロマ 12:5)、そのような “隣人”(ロマ vv.9-10)たちの間では、“互いに愛し合う” ことが “教会を造り上げる” ことと本質的に結びついているからです。
省3
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