[過去ログ] ローマカトリック教会20170328 [無断転載禁止]©2ch.net (874レス)
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(1): 老クリスチャン 2017/08/19(土)15:47 ID:WJfdqhIE(1/3) AAS
2002年(主日A年) 8月18日 年間第20主日
イザ 56:1〜7  ロマ 11:13〜32  マタ 15:21〜28

「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。」(ロマ v.32)

私たちのミサの開祭の部分にある “あわれみの賛歌” は、元来のラテン語のミサでもこの部分だけが、より古い時代の用語であったギリシア語のままで保たれています。
それ程にその由来の古い “あわれみの賛歌” がミサの中で占めている決定的重要性を、私たちは今朝思い起こしたいのです。

会衆一人一人の救いも、主の民である教会の救いも、その拠り所は私たちの救主イエス・キリストの憐れみにあることを、この “あわれみの賛歌” は表明しています。
この賛歌を初めに歌うことなしには、私たちのミサが成り立ち得ないほどに、それは決定的に重要な役割りを担っているのです。
異邦人であって、「生まれながら神の怒りを受けるべき者で」(エフェ 2:3)あった私たちを、「神は御子の血によって」(使 20:28)贖って、神の国の相続人(ロマ 8:17)としてくださいました。
ですから代々にわたって教会は、そのミサの冒頭の開祭から “あわれみの賛歌” を省略することはありませんでした。

“主人の食卓から落ちるパン屑” の恩典に与かる小犬のように、私たちもミサの中で主の御からだ(と御血)を拝領します。
省3
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(1): 老クリスチャン 2017/08/19(土)15:47 ID:WJfdqhIE(2/3) AAS
2008年(主日A年) 8月17日 年間第20主日
イザ 56:1,6〜7  ロマ 11:13〜32  マタ 15:21〜28

「主はこう言われる。 正義(mishpat)を守り、恵みの業(tsedaqah)を行え。 わたしの救いが実現し、わたしの恵みの業(tsedeq)が現れるのは間近い。」(イザ v.1)

先ず、mishpat はこの世の人間的な正義ではなくて、神の行われる正義のことです。
そしてその次に、tsedeq と tsedaqah は同じ意味で(男性形と女性形)、新共同訳聖書では文脈に応じて “正義” “正しさ” そして “恵みの業” などと訳し分けています。
“正義” “正しさ” という場合には、それは律法の教えに聞き従う歩みのことであり(イザ v.6)、“恵みの業” という場合には、近づき来たりつつある神の救いの確かさ(イザ v.7)を指しています。
第三イザヤはここで第二イザヤの預言(イザ 46:13)を再び取り上げました。

このような ts-d-q の訳し分けの微妙さは、イザ 51:1,5-7 を見るとよく分かります。
51:1 の “正しさ”、51:5 の “正義”、51:6 の “恵みの業”、51:7 の “正しさ” は、すべて同じ ts-d-q なのです。
このような予備知識を持つと、イザ 56:1 の “恵みの業を行え” というやや強引な新共同訳聖書の翻訳の意図が見えてくるのではないでしょうか。
省5
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(1): 老クリスチャン 2017/08/19(土)15:48 ID:WJfdqhIE(3/3) AAS
2011年(主日A年) 8月14日 年間第20主日
イザ 56:1〜7  ロマ 11:13〜32  マタ 15:21〜28

「主よ、ごもっともです。 しかし、子犬も食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」(マタ v.27)

私は以前、キリスト教のある教派では、このテキストをローマ典文の マタ 8:8 に合わせて “私たちはあなたの食卓の下でパン屑を拾うにも値しない者ですが ・・・” と読み替えて、拝領前の信仰告白に用いているということを、別のところで書きました。
この読み替えはたいへん示唆に富んでいて、今朝の朗読聖書から私たちが聞き取らなければならない大切な点を教えてくれるのです。

おそらくマタイ福音書の背景には、教会の内外におけるユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の葛藤がありました。
「まず、彼ら(ユダヤ人)は神の言葉を委ねられたのです」(ロマ 3:2)、「この救いの言葉はわたしたち(ユダヤ人)に送られました」(使 13:26)、「わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません」(ガラ 2:15)などと併せて、
イエスの 「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」(マタ 10:6 参照)という言葉の重みを理解しなければなりません。
そのような背景を十分に理解して始めて、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ」 というイエスのお褒めの言葉の意味が分かって来るのです。

・・・・・ 以下、本文参照。
省1
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