[過去ログ] 【仏教】 悟りを開いた人のスレ319【天空寺】 (1002レス)
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38: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/08/30(木)22:56 ID:5YZtu/t0(1/4) AAS
みんなまたせたのう。

姿勢が大事じゃ。

 腰を据えて背筋を伸ばし、上中下の三つの丹田が垂直になっていたら、人は自然に無念無想になれるものじゃ。
 道元禅師も禅とは只管打座、ただ真っ直ぐに座ることが肝心と言うておる。

 足の組み方は、日本人には完全な結跏趺坐は、向かないものが多い。
 片足を片腿に乗せる半跏座や、あぐらなどでも背骨が真っ直ぐになれば良いのじゃ。

 そして、尻を据えて腰は伸ばす。胸を開き、肩の力を抜く。首で頭のバランスを取るようにするのじゃ。
 全体が整ったら、頭のてっぺんから糸が出て吊られているようにイメージして伸び上がり、力を抜いてもとの姿勢に戻るのじゃ。
省3
39: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/08/30(木)22:57 ID:5YZtu/t0(2/4) AAS
姿勢が大事じゃ2

快とは丹田が真っ直ぐに揃った時に、上丹田より生じるこころよい感覚じゃ。
 それは例えば、良い景色などを見た時の感激にも似ておる。
 背骨を伸ばし、上下の丹田が完全に重なれば、体の中心を気が自然に上昇し、上丹田に達する。
 すると背中に電気が走ったように感じ、全身に心地よさが広がる。
 鳥肌が立ち、髪の毛が逆立つような者もおる。

 この感覚と快を得るための上中下の丹田の統一は、言葉で伝えるのは難しい。
 身体の微妙な感覚であり、それを真に身に付けるには、自ら研究する他は無い物じゃ。
  初心の者は取り合えず背中を真っ直ぐにして、頭の中心と下丹田にゴルフボールくらいのボールがあり、それを上から垂直に合わせるようにイメージするのじゃ。
 ボールが重なれば自然に快が生じる故に、そこが正しい姿勢の位置であると判るであろう。
40: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/08/30(木)22:59 ID:5YZtu/t0(3/4) AAS
 観察の行の本行じゃ。

 花などの外部の物を観察して、観察が出来るようになったら、自分自身を観察するのじゃ。
 観察は肉体から始り、心の中の微妙な領域に順々に深く入っていく。
 人の自我は多様であり、どこに自我を投影しているかは、本人も観照が起こるまでは判らないからじゃ。

 まず手の平を観察してみるのじゃ。
 花を観察した時と同じように、皺があるとか、節があるとか、詳細に観察していくのじゃ。
 何度もしつこく繰り返し観察していくと、手に奇妙な感覚が生じるであろう。
 自分の手が自分のものではないような感覚。

 それは厭離という感覚じゃ。
 厭離とは観察によって物の本性が表れ、阿頼耶識によって分別された偽りの名前と形態が剥がれ落ちる事じゃ。
省3
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(1): 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/08/30(木)23:00 ID:5YZtu/t0(4/4) AAS
 この観察による厭離の感覚を、肉体の他の部分を観察する事で広げていくのじゃ。
 肉体に自我を投射している者は、これだけでも悟りを得られるじゃろう。

 未だ自我のある者は、更に感覚、感情、思考、分別知、認識などに観察を広げていくのじゃ。
 前にも書いたが、感覚から先の観察は鐘の音などを利用すると、簡単なのじゃ。

 感覚を観察するには鐘の音が鳴ったら、「今、鐘の音が鳴った、聞こえている、だんだん音が小さくなるのが判る、今消えた」などと、今、感じている感覚を観察するのじゃ。

 その鐘の音によって生じる感情も「耳が痛くてうざいと思っている・・・」などと観察する。
 思考も「あの鐘は仏壇屋で買ったもっといいのが欲しかったと、考えている・・」などと巻き込まれないように注意しながら観察するのじゃ。

 物事を認識し、分別する心の働きは殆ど一つの動きになっている故に、鐘の音を聞いて「これは鐘の音・・・今、鐘の音と分別し認識した」などと、観察するのじゃ。
省4
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