[過去ログ] 【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践16 (1002レス)
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439: 2019/04/16(火)16:25 ID:2G2RosR7(6/7) AAS
三昧体験がある人は結構いるはず。
再現性があるかどうか、正定に至っているかどうかは別。
440: 2019/04/16(火)16:28 ID:2G2RosR7(7/7) AAS
修行生活に切り替えれば入れるけど、
山を下りて日常生活に戻ると段々入れなくなってくるとか、人それぞれでは。
441
(1): 2019/04/16(火)16:42 ID:JqcyHbsh(1) AAS
>>434
痛みを喜べない元世界チャンピオンもいるみたいだな
外部リンク:www.oricon.co.jp

自分はボクサーでもがん患者でもないのに想像でものを言わないほうがいいな
442
(1): 2019/04/16(火)17:09 ID:dyTcs2TF(1/3) AAS
大般涅槃経の記述をどう見るか。
激痛に見舞われた世尊は、
念を具え正知を具え、悩まされることなく、それを耐え忍ばれた。
入滅の際は、初禅に入り、それから順に想受滅定に入り、
また逆に、想受滅定から順に初禅に降りて来、再び第四禅まで入って、
第四禅を出て入滅された、と。
443
(1): 2019/04/16(火)17:10 ID:2K+plDeX(2/6) AAS
テーラワーダではなく、チベット仏教の僧侶や、ベトナムの臨済宗僧侶ティック・クアン・ドックは中国やアメリカの弾圧に抗議して焼身自殺をするという悲しい歴史がありましたね。

ティック・クアン・ドックは、法華経薬王菩薩品で薬王菩薩が世尊供養のために身を燃やしたという説話にも深く影響されているようです。
444: 2019/04/16(火)17:21 ID:2K+plDeX(3/6) AAS
>>442
>激痛に見舞われた世尊は、
>念を具え正知を具え、悩まされることなく、それを耐え忍ばれた。

この時は、だから自灯明と法灯明がこれからは大切になるとアーナンダに伝えて、自灯明法灯明とは四念処であるようなことを言われているので観行をするように説いています。
ただ、四念処によって苦しみに耐えれていたかどうかは不明ですし、
直接的には無念無想の心三昧によって苦しみの中でも安らぎを得られるとしているので、苦を制御したのは観行よりも止行の方がだと思いますね。
理論的には想受滅定で苦からは解放されると思いますが、どうなんでしょうね?

入滅の時は九次まで色々な止行をしてから入滅したとアーナンダと共に最後を見届けた阿那律が解説してましたね。
445
(1): 2019/04/16(火)19:05 ID:dMDnsA+Y(5/5) AAS
>>441
自分はキックボクシングを齧ってたけど、あれは相当楽しいよ。
ボディに入ると息が止まって死にそうになるけど、それでも楽しい。
顔面にパンチもらうのも気持ちいい。

竹原さんはボクシングの痛み、苦しみは何てことないし、平気だろうけども、
ガンによって死ぬことの不安、恐怖に苦しんでるんだよ。ガンの痛み自体もおそらく耐えられるだろう。
要するに肉体的苦痛はたいした苦しみじゃない(普通に立派な大人なら)。精神的苦痛は自殺をも引き起こす大変な苦しみ。

三国志の関羽は麻酔無しで肘の手術をしたって話もあるね。
446
(1): 2019/04/16(火)20:29 ID:mCZpjwdB(1) AAS
すごいなあ
肉体的苦痛は大したこと無いと
言えるのが普通に立派な大人
って感じなんですね
私には無理だな・・・

喘息発作や腹膜炎やったことあるけど
とてもじゃないけど私には無理だな
大したこと無いとは言えない苦しさだった
447
(1): 2019/04/16(火)20:49 ID:tS/WYlRa(1) AAS
生老病死の苦を超えるのが仏教だということだから
悟った人がそうなるというのは理屈通りではある
448: 2019/04/16(火)20:57 ID:2K+plDeX(4/6) AAS
>>446
私も去年腹膜炎で入院しましたが、絶食の上抗生剤点滴で治療していた最初の一週間はとにかく痛くて一日に2〜3時間しか眠れなかったですね。
一日2回だけ使用を許されたオピオイド系鎮痛剤のペンタジンが効いている、かつ静かな夜にしか練れなかったです。
スマホアプリで睡眠時間を測っていたので間違いはないですw

入院する前までは一日30〜40分の瞑想を暫くしていたのと、大般涅槃経を既に読んでいたこともあり、
ブッダのように瞑想で少しでも痛みが取れないかと坐禅、伏禅?で試みましたが、それどころではなかったですw

結局、一日2回のペンタジンと一日3回のアセトアミノフェン点滴が効いてる間だけ、いくらかの安らぎを覚えることが出来ました。
これらの薬の効果はすぐに消えてしまうのが残念でしたが。

まあ私は独学で修行も全然進んでないので、本当の修行僧やヨガ行者なら話は違うんだとは思いますが。
449
(3): 2019/04/16(火)21:03 ID:2K+plDeX(5/6) AAS
>>447
ブッダにしても全く苦しまなかったわけではもちろんなかったようですよ。
画像リンク[jpg]:i.imgur.com
450
(2): 2019/04/16(火)21:05 ID:2K+plDeX(6/6) AAS
>>449の他にもう一つ
画像リンク[jpg]:i.imgur.com
451: 2019/04/16(火)21:32 ID:bHvTZUUh(2/4) AAS
396です

>>426  検索してみました。外部リンク:j-theravada.net
今まで聞いた仏教らしからぬ、キリスト教の愛と許しと喜捨に近い内容ですね。
実乗の菩薩行と言っていることが同じで、テーラワーダの方がきちんと言語化している点は日本仏教より勝れているのではないでしょうか。
好感が持てます。
今まで私が接した方々は「キリスト教は仏教に劣後するものだから、愛は慈悲に劣る。仏教でなければ人格は完成しない。人権などはキリスト教由来の概念であるから認めない」とキリスト教を毛嫌いしながら、
平気で嘘をつく、騙す、差別をする人が多かったもので、少し希望が持てました。感謝いたします。
引用:「まず最初に、自分自身に対して慈悲の心を作ります。どんな生命にとっても、いちばん大事で最優先されるのは自分であるというのは、ごく当たり前のことですから」
これまでの仏教は自分を無くせとばかり言われていたので驚きました。
452: 桃太郎 2019/04/16(火)21:38 ID:4a6EtvPH(3/7) AAS
法華経「法師品」から
「是の人は、自ら清浄の業報を捨てて、我が滅度の後に於いて、衆生を愍むが故に、悪世に生まれて、広く此の経を演ぶるなり。
若し是の善男子、善女人、我が滅度の後、能く竊かに一人の為にも、法華経の、乃至一句を説かん。当に知るべし。是の人は則ち如来の使なり。
如来の所遣として如来の事を行ずるなり」
−−−−−−−−−−
この人は、行いによって得た、清浄な仏国土に生まれるべき果報を自ら捨てて、私の滅後に、衆生をあわれみ、利益するために、悪世に生まれて、広くこの経を演説するのである。
もしも、この善男子、善女人が、私の滅後に、ひそかに一人のためであっても、たとえ一句であっても、法華経を説くならば、まさに知るべきである。
この人は、如来の使いであり、如来から遣わされたものとして、如来の仕事をなすのであると。
−−−−−−−−−−

昨日の続きです。
省15
453: 桃太郎 2019/04/16(火)21:40 ID:4a6EtvPH(4/7) AAS
これを聞いたミリンダ王はナーガセーナの答えに大いに驚愕し、矢つぎ早に質問をします。

たとえば、もし人格的個体が認められないならば、修行にはげむのは誰か、殺生をなすのは誰か、
酒を飲むのは誰かなどと、行為の主体およびその行為の責任をとる者についての鋭い質問をぶつけています。

さらに、いったいナーガセーナと呼ばれる当のものは何ものなのか、と問い、
こんどは具体的に、ナーガセーナを構成している心身の各要素を一つ一つとらえて、それがナーガセーナなのかと細かく問うていく。
髪、身毛、爪、歯、肉、骨、心臓などを初めとして、仏法の五蘊である色(物質的なかたち)、受(感受作用)、想(表象作用)、行(形成作用)、
識(識別作用)の一つ一つがナーガセーナなのかと聞き、最後に五蘊の合したものがナーガセーナなめか、
また五蘊以外の何かがナーガセーナなのかと問い詰めていくけれども、結局、すべてそうではないと否定される。

ついに、ミリンダ王は業を煮やして、「ナーガセーナあなたは虚言を語った」といって立腹してしまいます。

ところがその後、ナーガセーナはただちにミリンダ王の用いた同じ論法でもって、ミリンダの車について反論していきます。
省8
454: 桃太郎 2019/04/16(火)21:41 ID:4a6EtvPH(5/7) AAS
ここまでの対論によってナーガセーナは西洋哲学にはない仏法の基本的概念である「縁起」による「無我」の概念をミリンダ王に理解させる事に成功しています。

「それぞれの生命体の個性は、それぞれの業エネルギーによって、五陰仮和合の在り方が異なるからである」
刻々と変化してやまない、その生命流以外に自分というものはないのです。しかも、その流れは常に他の生命流と「縁起」の関係によって、互いに互いを生じさせている。
だから「無我」です。固定的な実体というものではない。しかし、にもかかわらず厳然として、自分自身という生命流は存在するのです。

この事は、後に「輪廻の主体をめぐって」というミリンダ王とナーガセーナの対話の中で語られる事になります。

つづく。
455
(1): 2019/04/16(火)21:57 ID:4a6EtvPH(6/7) AAS
>>433

涅槃経は大乗仏教だよね。

釈尊の教えは、自分が悟った「永遠の法(ダルマ)」を万人に悟らせることに目的があったのだね。釈尊の死後も、その「法」を師とせよと教えた。

師である釈尊に常随給仕していた阿難(アーナンダ)は「仏が亡くなられた後、私たちは何を頼りにして修行していけばいいのでしょうか」と、釈尊に尋ねています。
釈尊は、こう答えています。“アーナンダよ、自らを島とし、自らをたよりとせよ。他人をたよりとせず、法を島とし、法を依りどころとせよ”と。

いわゆる「自帰依・法帰依」とか「自灯明・法灯明」と言われる言葉です。
省11
456
(1): 桃太郎 2019/04/16(火)21:57 ID:4a6EtvPH(7/7) AAS
釈尊の説法に「法を見る者は我を見る、我を見る者は法を見る」という言葉がある。
法を体得すれば釈尊に会うことができ、釈尊に会えば法を悟れるという意味です。

「我を見る」の「我」とは、根本的には「永遠の法」と一体となった「永遠の仏」です。
法華経寿量品では、永遠なる「常住此説法(常に此に住して法を説く)」の仏身を説く。

文上の法華経では、五百塵点劫以来の「久遠実成の釈尊」のことだが、その指向しているのは無始無終の「久遠元初の仏」です。
釈尊が悟った「永遠の法」即「永遠の仏」は、あらゆる仏が悟った「永遠の大生命」であった。

過去・現在・未来のあらゆる仏は、ことごとく釈尊と同じく「久遠元初の仏」を師として悟ったのです。
それが久遠元初の自受用身であり、南無妙法蓮華経如来です。

無始無終で慈悲の活動を続ける、その大生命体を「師」として、「人間・釈尊」は人間のまま仏となったのです。
そして、悟ったとたん、三世十方の諸仏は皆、この人法一箇の「永遠の仏」を師として仏になったのだとわかったのです。
457: 2019/04/16(火)21:58 ID:THLMS4Zo(2/2) AAS
ナラワタナ
458
(1): 2019/04/16(火)22:16 ID:bHvTZUUh(3/4) AAS
>>456 さんは身延ですか、興門ですか?
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