[過去ログ] 【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践16 (1002レス)
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961: 2019/06/05(水)17:33 ID:3RlqvbJq(2/4) AAS
 
sensation と realization の意味がわからなかったので
とりあえず

パオ・セヤドー realization で検索すると
外部リンク:yamaneko.hatenablog.jp
…パオ・セヤドーは
パーリ三蔵全体とその義註及び複注における
相互の関連性を引用しつつ
《涅槃証悟の唯一の道》
(The Only Way for the → Realization ← of Nibbāna)という
省15
962
(2): 2019/06/05(水)18:35 ID:oPIMiffn(1) AAS
諸法が縁起する中、

 ≪縁起しない「わたくし」≫

なんぞ、どうして認めることができようか・・。
963: 桃太郎 2019/06/05(水)18:37 ID:sLqarIKF(1/3) AAS
ビルの頂上から飛び降りてみた。

眼下にコンクリートの地面が見える。

しかし、その地面は視覚に取らえられた情報でしかない
地面は実は頭の中にしかない。

そして、それが最後に見た光景となる。...と言ってもね。(笑

映画マトリックスの見過ぎだよ。
映画の中じゃ、本当に死んじゃうんだけどね。
964: 桃太郎 2019/06/05(水)18:40 ID:sLqarIKF(2/3) AAS
>>962

その通りだ!グッジョブ!
965: 桃太郎 2019/06/05(水)18:56 ID:sLqarIKF(3/3) AAS
諸法実相だよ。唯識でも唯物でもない。

「諸法は縁より生ず」とあるように、霊魂とか個我などの実体を想定せず、一切の事象は互いに他との関係性によって生じている。
 人間の認識についても、六つの感覚器官と六つの対象との対応関係から識別が生じ、
それによって、接触と感受と表象と意思と統一作用と生命力と注意などの諸法が生起する。
したがって、そこには、主観が先か、あるいは客観が先かといった論が起きるはずがなく、
また、認識の恒常的な主体を立てるという論もありません。
 私たちは通常、まず自分(恒常的な主体)があり、その自分が対象を認識するというように考えがちですが、
仏教本来の立場からいえば、それは迷妄にすぎない。
本当はそうではなく、自分という考えが浮かぶのも、じつは六根と六境と触れあった後に起こっているのです。
966
(1): 2019/06/05(水)20:17 ID:xqbGoRBU(1/2) AAS
それを智慧で体験的に知るのか、哲学的・論理的に概念として理解しているのか
そこの差はでかいと思う。
967: 2019/06/05(水)21:48 ID:3RlqvbJq(3/4) AAS
 
>>962
(たぶん宝珠タソには
  仮設・空性・相互依存とかは無理だと思うけど)
了解で おじゃります m(_ _)m
  _  _  _

>>951
sensation と realization の説明が
>>966ということで良いのかしらん?
968
(1): 2019/06/05(水)23:29 ID:xqbGoRBU(2/2) AAS
感覚という物理現象に実感を感じているのは、感覚とは別の精神現象だということです。
仏教用語で厳密に何というのかはよく知りません。

sensation と realization の違いとは、名と色が別物だということで、
知識と体験の違いとは、名と色が別物だということを知識として知っているのか
洞察(体験)によって知っているのかの違い、ということだと思います。
969: 2019/06/05(水)23:40 ID:3RlqvbJq(4/4) AAS
 
>>968
ご教示ありがとうございます m(_ _)m
970
(4): 2019/06/06(木)00:03 ID:a7hL1GzH(1) AAS
 
外部リンク[html]:pao.hamazo.tv

無常・苦・無我を観る

生じては滅し、生じては滅しを繰り返しています
そういう「現れては滅して」を観て「無常」を知ります

縁によって変化だけを続けていることがわかり

省9
971: 2019/06/06(木)00:05 ID:8zaAkiKu(1/2) AAS
色即是空だから仏教は物質を一元とする唯物論ではないよ。

色即是空は大乗仏教の言葉だが、中部か長文経典に仏弟子の阿羅漢と六師外道の唯物論者の問答もあったはず。
そこで仏弟子は唯物論を否定している。
972
(1): 2019/06/06(木)00:15 ID:dRnuAnrs(1/3) AAS
>>970
その議論のソースを確かめてみないと判断できないけど、
両者が使っている「認識」という言葉の定義が違ってる可能性はないですか?

あるいは別の角度から言うと、お釈迦さまや阿羅漢の涅槃証悟は、果たして
「認識がない」という体験だったのかどうか。

お釈迦さまの感興の言葉なんかには、みたというニュアンスの表現で溢れて
いたような気がするのだけど。
認識というのは言葉としては、主体(主語)を想定する言葉だけど、悟りは無我
らしいから、言語として表現した時に、真逆の表現で同じことを言ってるという
事態はあり得るのかも知れない。
973: 2019/06/06(木)00:18 ID:dRnuAnrs(2/3) AAS
真逆の表現で同じことを言っている例としては、例えば
涅槃寂静と一切行苦なんかもそうじゃないかと思うんですね。
これ、コインの裏表で同じことのはずなので。
974: 2019/06/06(木)02:25 ID:f+eHTTEs(1/4) AAS
>>970
認識できる、認識できない、と言うときに
はたして「誰」にとってのことなのか、というところでつまずく
両者とも、「涅槃がある」ということについては異論はないとは思うが
心に起こる現象を言語で表現しようとするときに難しさが発生する

せっかく「わたし」を手放したのに、言葉にするときには「『わたし』を手放していない世界」に戻ってこなければならない難儀さ
おまけに話しても伝わらないし
975
(2): 2019/06/06(木)05:06 ID:SmNxvyjE(1) AAS
なんで話して誰かに伝えなきゃいけない
と思うのか
976: 2019/06/06(木)06:18 ID:H8pa4Cqh(1) AAS
そこに、梵天勧請の裏の意味がある。 >>975

なぜ、お釈迦さんは菩提樹の下から立ち上がったのか?
(→立ち上がらざるを得なかったのか?立ち上がりたくなったのか?)
977: 桃太郎 2019/06/06(木)09:50 ID:YJ3miZfi(1) AAS
本来、原始仏教では、あくまで自己の体験的覚証を得ることが最第一の関心事ですから、
理論的に論証しようとしたり、誰かと論争したりすることは頭から否定したでしょう。
究極の生命を体得するという修行だけに心を集中することが第一義ですから、それから逸脱する行為は邪道としてしりぞけられたであろうと思う。

「...は、こうである」「〜のようなものだ」と言うこと自体が、聞き手に固定観念を植え付けるようなものであり、
初期の原始仏教では沈黙が最大の雄弁とされて、対話にすらならなかった。

ところが時代が変遷し、滅後約100年して前3世紀半ばアショーカ王の時代、
教団が多くの部派に別れ次第にアビダルマに傾斜して論争が頻繁に行われた。
仏法の理論化、テラワダもこの流れを踏襲しているように思われる。

逆に大乗仏教では天台の一念三千の法門にあるように仏教の完全なる理論と体系化が行われた。
仏は文字によって衆生を教導救済するゆえんである。
省2
978: 2019/06/06(木)10:02 ID:f+eHTTEs(2/4) AAS
>>975
話す必要がある人が居るからさ
悟りを求むる人が居るならば、可能な限り手助けしたい
全く心動かされないロボットではないので

心は動くんだよ
それに執着しないというだけで
慈悲の心には執着するのかといわれると、答えは難しいけど
979
(1): 2019/06/06(木)10:07 ID:dRnuAnrs(3/3) AAS
うん。
まぁ、お釈迦さまのご遺言は、「怠ることなく勤め励みなさい」なのだが。
980: 2019/06/06(木)13:43 ID:f+eHTTEs(3/4) AAS
>>979
ありがたい言葉だよね
ブッダはいまわの際まで弟子たちに対する慈悲に溢れていた
悟りはある、と信じて常に気づきを保ち、瞑想を毎日行う、これに尽きると思うよ
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